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2007年1月31日 (水)

安藤広重・雨と松の大木

301_18  広重の版画は体系化すると、絶景斜景雨景・夜景・水景艶景活景吹景雪景富士見花見に区分けできるとは、赤瀬川原平さんの持論であります。この各体系のタイトルの呼称も見事でありますが、これを導き出したのは勿論、卓越した表現者・安藤広重のなせる技のたわものでしょう。

 近江の唐崎に降る夜の雨を表現した「近江八景之内 唐崎夜雨」と題されるこの版画は、一日中降りっぱなしのような強い雨を吸い込んで、大きく膨らんでしまったような松の木の表現が卓越しています。広重には雨を描いた傑作がたいへん多いのですが、これはその中でも一番と勝手に私が思い込んでいる一枚です。人物が描かれていないことも、静寂感を増幅してますし、夜景の暗さを広重ならではの飛躍力を以って、暗さを無視した暗さとして表現しています。

 もうここまでくると、一つの現代アートですし、人間の極限の想像力・創造力を駆使して辿りついた独創力に、凄みさえ潜んでいます。

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2007年1月30日 (火)

1957年・夏の学校

1024195704jpg まだ寒いこの時期にいきなり夏姿の写真など・・・お許しくだされば幸いであります。

これは今から51年前、小学校4年生の夏の学校で波佐間海岸に行った時の写真です。私はこの頃、もう野球一筋の腕白小僧でしたが、水泳だけは大の苦手でこの写真の一番奥で左手で箸を持っている私の顔にも、何となく不安の影が忍び寄っています。野球では早い球を投げていましたから、「他のスポーツもさぞ得意なんだろう」と思われてはいないかと、他のクラスメートの視線が気になってしようがありませんでした。又、毎朝の食卓にでる生卵を食べるのがたいへん苦手でしたから、まわりの生徒がご飯の上に手馴れた手つきで醤油を混ぜた生卵をかけてさっさと食べるのを羨ましく見ていたものです。勇気をだして、涙が出そうなほど辛い覚悟を以って私も同じ作法で食べましたが、その目眩を起こしそうなほどの辛さは、此れまでの人生でも筆頭格の出来事でありました。

朝食が済むと間もなく水泳訓練が始まりましたが、私は一番水泳の苦手な班でしたから、懇切丁寧に指導してくれる水泳師範の大学生には、たいそう手こずらせた生徒に違いなかったのでは・・・と今でも思っています。

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2007年1月28日 (日)

春が来てます!

Img_5636 Img_5631

年明けから、まともに自転車にも乗れず、辛抱していましたが、さすがに作日(27日)の晴天には我慢出来ず、久しぶりに玉川堤に向かいました。朝から4月頃の陽気の気配がしてましたから、この時期には少し早いかと思いましたが、軽装の用意をし、防風のインナーを一枚着て、飛び出しました。等々力を抜け出す頃にはもう体も暑く、一枚余計に着込んだことを後悔しましたが、それでも日陰はまだひんやりとしてましたから、まあ、正解のようでした。

例年より暖冬だという噂ですし、実感としてもそれは間違いないのでしょうが、もう立派に咲いている梅の花などを目の前にしますと、そうとうな暖冬状態ということなのでしょう。この梅の花は、世田谷区深沢の旧家とおぼしき大庭園から首を出している立派な梅の古木から咲いていましたが、この近辺の梅も同様に咲き誇っていました。

玉川堤の芝も芽が出てきて、やんわりとした日差しは春霞とともに、ひねもすのたりのたりかな・・・といった気分ですが、川向の溝口再開発の光景が、これからの玉川景観の行く末を暗示しているようであります。これまでのパノラマの水平線が途切れない事をひたすら祈るばかりであるのですが・・・。

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2007年1月27日 (土)

1907年・ロンドン・ピカデリーサーカス

1907_london_piccadilly_circus  1907年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1907.html )、後にT型フォードと呼ばれる量産自動車の開発が始まった年のロンドン・ピカデリーサーカスの渋滞の模様です。この時代はまだ馬車も走っていますし、自動車が馬車の延長上のデザインであったことが比較できる珍しいなかにも、微笑ましい雰囲気の写真ですね・・・。

信号も全く無いようですし、歩行者・馬車・自動車が混然一体となっていますが、それぞれが自然に自分のリズムをもって、動いているようです。なぜか、自転車が全くといってよいほど見られないのが不可解なのですが、確かにこの時代よりもずっと後、イギリスの自転車は実用車よりもスポーツ用の乗物として郊外を中心に発展していったのですから、この写真のような中に写っていないのも納得であります・・・。

写真ですからこの場の匂いや埃の実感が湧きませんが、相当なものだった感じは見てとれますね・・・。

日本は明治40年で、日露戦争の余韻をたのしんでいた頃なのでしょう。イギリスがまだビクトリア時代の華やかな残像を残していてくれた最後の時代の写真であります。

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2007年1月26日 (金)

1865年・麻布三の橋

201_36Chi01_1 フライフィッシングのお好きな方々であれば、嬉しくなるような光景ですが、この写真、古川橋方面から麻布三の橋を奥に臨む絶景です。今の景色は全く情けないものとなっていますが、この写真を撮った1865年頃は各藩の別荘として利用される下屋敷が並んでいて、その美しさといったらなかったようで、月夜の夕涼みなどには大勢の人がこの辺りを散策していたようです。この景観、今となっては取り戻すことは出来ないのですから、明治以降の近代化によって得 たものと失ったものが見えてきますね・・・。更に昭和39年、東京オリンピックで川の上を首都高速が被さってさらに追い討ちをかけ、すっかり江戸風情が抹消されてしまいましたから、せいぜい、室内の設えと小間物あたりで江戸を遊び楽しむしか、なさそうです。

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2007年1月25日 (木)

BAHCOのモンキー・レンチ

Img_2652 スエーデンが誇るBAHCO社のモンキーレンチを初めて眼にしたのは、吉祥寺の東京サイクリング・センターに殆ど毎日学校が終わると寄って、当時の自転車に関する製品・新情報を見聞していた頃です。今から40年以上も前の話であります。今の競技用自転車などはその殆どが六角レンチを使わなければなりませんが、この頃すでにランドナーに乗っていた私にはこのモンキーレンチが一番強い味方でありました。先代社長の板倉修さんがこの工具を輸入し、その優れた精度に惚れこむ様子は今でも興奮した表情とともに鮮烈に記憶しています。

長さ10センチほどの小さな工具ですが一度ボルトをグリップすれば最後まで緩むことなく完全に締め付けることが出来、さすがに現在は往時の性能を発揮するわけには行きませんが、それでもちょっとした作業には今でも出番があります。当時の日本製の工具が鋼自体に問題があり、消耗品のごとくすぐ使い物にならなくなってましたから、このことに板倉さんはひどく憤慨しており、私にこの道具を持つことを薦めた意味が、単に工具としての優れた銘柄や性能のみならず、ものを作る良心・心意気までも含んでいたと思います。ランドナーのドロップハンドルに付いていた大き目の帆布製のフロント・バッグのポケットにこれを入れてますと、他の工具とぶつかり合うスエーデン鋼独特の高い金属音が、妙に軽快な音に聞こえていました。

Mafax01 そういえば、MAFAXのゴムケースに入った自転車専用の携帯工具キットなどもこの頃購入しましたが、こちらはあっという間に何処かに消え去ってしまいました。生ゴム製のケースの中からぞろぞろと出てくる工具の可愛い姿にもう一度、会ってみたいと思っています、

MAFAX撮影:秋山東一氏

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2007年1月24日 (水)

ジオ・ポンティの展示物!

301_14イタリアを代表するデザイン界の大棟梁・ジオ・ポンティさんの仕事には他の方々にありがちな、その人らしい型というものがなく、まさに守・破・離楷・行・草序・破・急のようにそのプロジェクトごとの特性にあわせた最適な答えを大僧正のように瞬時に見抜き、そこからは、じっくりとイタリア人らしからぬ、執着心を以って考えに考えて、普遍的なマスターピースを我々に多く遺してくれました。ジオ・ポンティさんはプロダクトデザインにもテーブルウェア・家具を中心に、過去の歴史的背景を習得した者のみが到達できるコンテンポラリーな傑作が目白押しでありますが、この写真のような展示作品にもたいへん優れたものを遺されています。101_37「壊すことのできない歴史的建造物の中で住まう楽しさ」をコンセプトとしたこの展示作品は建築家としての哲学と生活者としての遊び心がうまい具合に折り合いがついていて、まさにコンテンポラリーな状況を表現しています。写真でしか分かりませんが、素材感としての重厚感と軽量感 が本を通して伝わってきますし、何といっても展示そのもから上等な品格というものが垣間見ることが出来ます。生まれた時から何百年も変わらない空間の中で暮らしながら、自分たちの同時代感性を表現することは簡単なようで難しく、流行の品物を置けば済むという俄か勉強で生息しているスタイリストのように、お気軽なわけにはまいりません。私も最近はお気軽に手離れできる仕事が多い中、このような写真を見るたびにジオ・ポンティさんからお叱りを受けている気がして、身の引き締まる思いです・・・。

ジオ・ポンティ 1891年 イタリアに生まれる。ミラノ工科大学卒業後、1923年に陶磁器メーカー リチャードジノリ社に勤務。その後、自身の建築事務所を設立し、公共施設の設計等を手掛け始める。1928年にデザイン誌「ドムス」を創刊し、国内外のデザイン界に大きな影響を与えた。01_18 1951年に発表の椅子「スーパーレジェーナ」は、伝統的なフォルムと超軽量を実現したアイディアにより絶賛される。また、1958年にはミラノに超高層ビル「ピレリ・ビル」を完成。今日でも古さを感じさせないスリムなビルは、ポンティの時代を超越したデザイン性と美意識が具現化したものである。多岐に渡って重要なデザインシーンに関わり、戦後のイタリアデザイン界を牽引した偉業から、1979年の没後も「イタリア建築・デザインの父」と称される。

Copyrights : DOMES July/August 1997 No795

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2007年1月21日 (日)

エミール・アレのフランス・スキー術

Ea2 Ea スキーの世界からすっかり遠ざかってしまいましたが、たまにこんな写真を見てはニンマリとしています。今のスキーはその長さも短いようですし、加速感などはどうなんだろう・・・などと思います。

 さて、この写真のお方こそフランス・スキーの開祖、エミール・アレさんの滑る姿であります。1937年に教則本として出版された「フランス・スキー術」の中からピックアップしたものですが、ずいぶんと優雅なフォームです。私が本格的にスキーを始めた頃は1964年あたりでしたから、その頃、国内はオーストリア・スキーの全盛期で、不思議なアンギュレーションのフォームと三角のとんがり帽子が大流行していて、そのユーモラスな格好が笑えるほどの面白さでありました。その後、グルノーブル・冬季オリンピックでキリーが登場して又、フランス・スキーが脚光を浴びて、先駆者だったエミール・アレさんの再評価が為されました。スキー板もロシニョール・ミッシェールR17を代表するフランスのブランドがオーストリアのクナイスル・ブリザードに替わって王座につき、その後しばらくはフランス・スキーの黄金時代が続きました。この時代、私などは2メートルを優に超える長さの板がトレンドで欲しくてしようがありませんでしたが、当時、スキー板はたいへん高価で、ちょっとの短期バイトでは到底買うことさえ出来ない金額でありました。

  話はかわりますが、フレンチ・メソッドの無駄が無く・自然体の姿勢から展開するパラレル・スキーはそのおとなしいフォームの故、一般的な人気は無かったようですが、私たちが逗留していた志賀高原・石の湯パラレル・スキー学校の先生たちが、デモンストレーションで行うその美しさには、いつも唖然としていました。丸池・熊の湯といった大勢の人の集まる混雑したゲレンデでは優雅なフランス・スキーは不釣合いでしたが、朝の深雪・処女雪の中で泳ぐように滑る快感こそが、フレンチメソッドの真骨頂でありました。

05_1辻まことさんも日本の中では早くからのフランス・スキーの信奉者でありましたから、ご覧のような石の湯ゲレンデの花道と呼ばれる急斜面を滑降する辻さんらしい自然体の滑りっぷりが、見ている方も力まず気持ちよいのでありました。

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2007年1月20日 (土)

芝高輪南町・島津家下屋敷

101_46  ベアト撮影による、芝高輪南町・島津家下屋敷外周の長屋の様子です。左手は久留米藩・有馬屋敷で左奥には高山稲荷神社と思われる森が見えます(現存していません)。撮影しているベアトはきっと東海道の真ん中辺りで周囲を野次馬かなんぞに囲まれて、あるいは往来を行きかう人に怒鳴られながら、苦労して撮ったのでしょうか・・・。

この坂、今は品川駅の向かい、ホテルパシフィックと品川プリンスホテルに挟まれ柘榴坂(ざくろざか)と呼ばれている、なかなかの勾配をもつ坂です。天気の良い日曜日の早朝、自転車で池上通りから旧東海道を経て八ツ山橋に向い、第一京浜に出て品川駅向かいを左折するとこの急坂が目の前に立ちふさがります。見た感じではそれほどではないのですが、自転車ですと案外厳しい登りとなりまして、慣れない頃は頂上の高輪教会にたどり着く前に息が上がりました。

Gvj  当時,第一京浜の品川駅から海側は埋め立てなどありませんからいきなり海なわけで、島津藩・久留米藩ともに別の揚場を持ち、海からの荷揚げ料金を取っていて,なかなか潤っていたようです。

DkGoogle Earthで覗き見したところで、悲しい姿ばかりですが、この柘榴坂を登りきって右折してそのまままっすぐ、伊皿子を渡り三田の慶応義塾方面に下っていくルートは東京都心の中でも快適な馬の背台地で、景色もちょっと脇に入るとなかなかの見晴らしであります。寺も多く、晩秋の頃、落ち葉の薫りも程よい空気の中を自転車で駆け抜ける爽快な気分は、車でも徒歩でも味わえない独自のものです。

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2007年1月19日 (金)

渋すぎる!親父のコート

Ranch_coat01 私世代が、今年は大量に定年を迎え、元気でアクティブな還暦世代のライフスタイルは今後・・・などと巷ではあおり、騒いでおりますが、当人たちはどんな気分でいるのでしょう。確かに人数の多さは半端ではありませんが、かといって、ジャーナリズムで騒がれるほど、決まったパターンで生きてきたわけでもなく、ましてや、ビートルズ世代などと呼ばれるのも如何なものか・・・などと思ってしまいます。高校時代、ひとクラス45人もいて、それが9クラスもありましたから、割を食ったクラスなどはまともな教室もなく、散々な眼にあってきましたし、ビートルズに現を抜かしていたのはひとクラスの中でもせいぜい3~4人程度でありましたから、殆どの人は静かで守旧派の生徒でありました。

さて、急に話の展開が変わりますが、最近のメンズ・ショップはやたらと絞り上げた細めのスーツばかりが席捲していて、洒落たすこしゆとりのある高質素材のコートやジャケットなど探しても、なかなか見当たらないのが私は不満であります。かといって、Free&Easy誌に見られるようなアメリカン・ヘビーデューティーなティストにも懐かしさはあるものの、それを着こなす体力・根性も薄れていますから、ここはとりあえず、ローズ・ドーレに近い赤系のメルトン生地で出来たランチ・コートでも作ってみようか・・・などと考えています。なにしろ、既成の中高年のコートやジャケットなどは、アースカラーに代表されるような暗く汚い色のものが主流ですから、中高年がぞろぞろ散歩している町などは、その環境までもが暗く憂鬱な空気に覆われてしまいます。ファッションも集団となると、環境の一部となりますから、せめて自分だけは、町を明るくしようなどと思い、この現状に納得できないのが本音であります。

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2007年1月18日 (木)

セザンヌの目線!

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01_19セザンヌ(1839~1906)が生涯のほとんどをすごしたプロバンス地方には、いつか行きたいと思いながら、実現せずにそのまま過ぎてしまっています。その輝く光と美味しい料理、そして素晴らしい町の佇まい、素朴な人々など、血気盛んな若い頃には興味さえ持たなかったところでありますが、昨今の気ぜわしい毎日を振り返りつつ考えると、ふと、のんびりと、こんなところで過してみたいと考えるのであります。

セザンヌが数多く描いたサント・ヴィクトワール山の絵は晩年になればなるほど、抽象化の方向に進み、最後の頃はもう山という概念ではなくなっていますが、この写真の一枚は具象と抽象の真ん中辺りの表現となっています。なんといっても他の追従を許さない数学的構成力と化学的色相感により、情緒の微塵も感じさせないところが絵画愛好家以外の人気が高い要因かも知れません。 ある方の話ですと、セザンヌの使う油絵具の材料はこのプロバンスで採集された鉱物・植物が原料となっているため、絵具そのものがプロバンスの風土と同一であるそうです。

さて、太陽のたっぷり浴びた地勢の場所には人を惹きつける魔力というものがあって、それがプロバンスにおいては極めて明るく、健康的であるがために、この私でさえいつでも自転車片手に旅をしたくなりそうです。

昨年8月より、毎週3日ほど朝6時過ぎから梶原建二さんたちと多摩川堤を疾走するのも、早朝の気持ちよさを実感したからで、風・光から受ける爽快感・眺望の素晴らしさは全くの別世界であり、これまで早朝とお付き合いしていなかったことに後悔しています。散歩・ジョギング・ロードバイクなど多摩川堤の早朝人口は、以前より確実に増えているように思いますし、今の季節は少し厳しいのですが先端技術を駆使した防寒・防風衣料の進化で気にもならず、ますます今後もこの健康志向に歯止めは掛からないでしょう。

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2007年1月16日 (火)

横浜・不動坂上から根岸湾の眺望

401_6 Sdt ベアトが幕末に撮影した絶景の一枚です。

当時、この景色は外国人にはペリー提督の命名による「ミシシッピ・ベイ」の名称で呼ばれ、世界無比の眺めと称えられました。地蔵坂上から現在の山元町を抜け、根岸競馬場(現在は根岸森林公園)を巡った遊歩新道はここで一気に海岸線まで下る。坂下には根岸村の家並み、遠景は本牧岬、左より一の谷・二の谷・三の谷。(参考文献:朝日新聞社・甦る幕末)

あのユーミンの歌「海を見ていた午後」にも登場したおかげで、その味、サービスはさほどでは無いのに30年以上も営業しているレストラン「ドルフィン」の先を左に大きく曲がった辺りから撮影された140年ほど前の写真です。広重の東海道五拾三次にもよく見られる茅葺の家並みがなんとも穏やかな印象を与えてくれます。こんな景色など外国人にとっては夢のような世界だったのでしょう。すべての生活環境材料が地に戻る日本人の知恵は今やスローライフ・サスティナビリティー・エコロジーなどの生活志向の教典のようなものですが、後世にも朽ちることの無い材料で囲まれた生活をしていた外国人にとっては、どのように映ったのでしょうか・・・。

いまさら、Google Earthでこの近辺を遊泳してみても変化の推移があまりにも違いすぎて、比較のしようもなさそうです。それにしてもこれだけ山を削ったり、湾を埋めたりすれば天罰の一つや二つ覚悟しなければならないのは当然のようでありますが・・・。

さて、私世代にはドルフィンはひとつの通過儀礼のようなレストランで、ずいぶんとお世話になったご同輩も多かろうかと思いますが、今やまわりはビルだらけとなってしまい、あのヘアピンカーブを曲がる時の開放感など望むべくもありません。40年ほど前にはモナコのような景観がありましたが、今はなんともはや、トホホ・・・の有様です。

ベアト (1834-1904?) BEATO, Felice
 イギリス領コルフ島(イオニア海の島、現在はギリシャ領)出身の写真家。クリミア戦争、インドのセポイの反乱、中国のアロー号戦争など、報道写真家としてアジアを転々とする。文久3年(1863年)頃来日。下関戦争にも従軍し、開国の様子を記録する。ワーグマンと組み横浜にスタジオを開設、写真を販売。その傍ら、日本各地の風景、日本人の風景・習慣を精力的に撮影し、多くの日本人撮影技師を育成。明治10年(1877年)、原板を含めた写真館の一切をスティルフリードに譲渡、明治17年(1884年)離日。

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2007年1月14日 (日)

絶景!愛宕山

501_3 芝・愛宕山といえばその昔江戸でもいちにを争う景色の良さを売り物としていた眺望絶佳の場所ですが、今や周辺には高層ビルが建ち、見る影もありません。

この写真、ベアトが1875年頃に撮At 影された愛宕山の上からの絶景です。左上の森が赤坂日枝神社、その右に続く台地が現在国会議事堂などのある辺りです。今や、息も詰まるような高層ビルばかりの東京ですが、こんなにも美しい景観の時代もあったわけですね。江戸は世界でも群を抜いた大都市であったにも関わらず、自然循環の生態系システムも整っていましたし、なにしろ生活者としての町人が毎日羨ましいほどの楽しい日々を過していたようで、今それが見直されているようであります。

Google Earth( http://earth.google.co.jp/  )で近辺を遊泳してもその過密さに改めて閉塞感をもちましたが、未だに国会議事堂が3D立体にならないのも情けない話であります。

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2007年1月12日 (金)

Kodak Starmite Camera

Img_3905 1960年代のアメリカを代表するプロダクト・デザインの王者、Kodak社の可愛いStarmite Cameraは35ミリフィルム全盛期を迎えた頃にあって、ちょっと時代の波に出遅れた感がありますが、それでもアメリカの田舎の観光客には人気のあったカジュアルなカメラです。その頃の田舎の雑貨屋(General Store)にはたいてい置かれていたようで、このカメラの横には食品や家庭雑貨などが並んでいたと勝手に想像すると、日本では考えられない流通経路が存在していたのですね。このカメラは127フィルムという特殊サイズを使用するため、その入れ替えが面倒でしたし、販売しているところも限られていましたけれど、全体のプロポーションとアルミ・プラスティックのコンビネーションがいかにも1960年代のアメリカを彷彿します。1960年代からアメリカの音楽に惹かれていったのと併行してアメリカのファッションや道具などに興味を持ち、その後1970年代のMade in U.S.Aカタログが発売された頃をピークに、あれやこれやと買い求めましたが、結果、衝動買いをした殆どのものを此処10年ほどで、処分しました。今、手元に残っているものを見ると、やはりその時代の空気感と自分の過ぎてきた思い出が何処かに宿っているものばかりであります。

このカメラも、ドイツのライカと比較すればその重厚感・存在感・職人技には太刀打ちできませんが、コカコーラと同様、記号としての大衆消費文化の象徴としては、アメリカのコダックに軍配が上がりそうです。

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2007年1月10日 (水)

吉村順三ギャラリー

Img_5409_1Img_5411_2 Img_5405_2

吉村順三氏の名作、『南台の家』展が、目白の吉村順三記念ギャラリー( http://www.sepia.dti.ne.jp/jymg/index.htm ) で開かれています。2005年の11月10日から12月25日まで東京芸術大学美術館で開かれた『吉村順三建築展』の素晴らしい環境での総合展覧会と打って変わって、ひとつのテーマに絞って凝縮した展示でありましたが、これはなかなか見ものでありました。吉村さんといえば、その人柄・生活観から滲み出た居心地のよい環境・建築を手がけられ、建築家のみならず、他分野のデザイナーに限りない影響を与えた方ですから、展示も質素で作為のひとつもなく、潔い美意識が充満していました。ほどよい空間の中には図面・模型・等身大の写真・スライドなどが展示され、学生時代に戻ったような空間の中でしばし、吉村ワールドを堪能いたしました。昨今の新しいライフスタイルとしてスローライフ・ロハスなどが時代の追い風に乗った潮流となっていますが、まさに吉村さんの思想・志向はこの魁となるものです。

それにしても、日本の気候・風土を熟知したうえで、さりげない表現と設備技術に対する革新性を盛り込むなど、建築家という枠では収まりきれない、吉村さんの世界に改めて感動させられました。

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2007年1月 8日 (月)

1967年・モナコのすご悪じいさん!

251967 1967年、初めてのヨーロッパ自動車レース取材旅行では、様々な国に行きましたが、どこの国よりも豊かさと楽しさいう意味で、群を抜いていたのがモナコ王国でした。カジノ・切手・グランプリレースが売りの国ですが、当時はグレースケリーというハリウッド女優が王妃になった国として有名でした。261967 カジノの周りにはそれこそ楽しそうな施設がクラシックな佇まいの建物のなかにひしめき合っていました。この昼間から気持ちよさそうに居眠りをしているお爺さんの後ろには手動でピンを並べるボーリング場があって、この頃、日本で大流行していたアメリカンスタイルの大掛かりなボーリング場とは全くかけ離れた長閑な施設でありました。外からも丸見えでしたが、ピンを倒す時のスカッとした快音もなく、此処で見たボーリングの印象は高齢者向きのそれであった気がします。このお爺さん以外にもリタイアした裕福な人たちが多く住んでいて、その独特の優雅な光景は今でも忘れません。湾には数多くのヨットが並んで、観光客も、自由に覗き込

この時代に豊かなヨーロッパの一面を見てしまったが故に、その後まもなく、日本の余暇産業やリゾート産業が華々しくなってきた時も、却って底の浅さが目立ち、自分だけは醒めた眼で、浮かれた日本の余暇時代到来の動向を観ていました。

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2007年1月 6日 (土)

植草甚一さんの洒落っ気!

04_1

写真:高梨豊

植草甚一さん(1908~1979)は私の世代にとっては、ちょっと肩の力を抜いた生き方を自ら提示してくれた、有難いお方でした。高度成長を駆け抜ける1960年代から1970年代までを、映画・JAZZ・雑誌を通しながら、特にNEW YORKの生活全般の雑学をたっぷりと、その洒脱な文体を通して教えてくれましたし、日記・自ら作るコラージュ・街を歩いて買い求めた独特Jj102 の趣きの品々は、誰でもない独特の薫りがあって、まさに何処にもない植草甚一さんの「Wonder Land」でありました。

植草甚一さんのライフスタイルはカウンター・カルチャーそのもので、今で云うストリート系の旬な情報ばかりでしたが、その語りっぷりにどっぷりと浸かってしまったご 同輩Jj202も多く、その影響は未だに残っているように思えます。私はどちらかといえば植草さんの散歩・街・買物に関する世界が大好きで、特に住んでおられた経堂の町を書かれた一文には町の持つ魅力が凝縮していて、今でも時々書棚から出しては読んでいます。人一倍物欲旺盛な方でしたから、「欲しい物のない町は死んだも同然!」といった一刀両断の論法が、日本橋の木綿問屋に生まれた気風のよさを証明しています。

生涯に多くの著作を残され、古本市場でも相変わらず人気のようですし、私も森田和義氏がすべて買い取ったと云われる、マニア垂涎のJAZZのレコードを聴く機会を願っているひとりであります。

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2007年1月 5日 (金)

修学旅行・1959年

1316195903 小学校の修学旅行は東北地方巡りでした。当時の東京の子供たちにとって、東北地方は遥か彼方のところにある別世界のような地域でしたから、毎日見聞するものが新鮮な驚きばかりでした。日立鉱山・常磐炭鉱・会津若松・新潟を巡る四泊五日の旅行でしたが、私にとってなによりの楽しみは温泉でした。東北の温泉独特の成分が子供の身体にはすぐ滲みこんで、この写真を見ても、皆いっぱしのおやじ気分に成りきっています。

初めての修学旅行は、普段の学校生活では分からなかった学友の性格や、違う面を発見したりなど、名所・旧跡以外にも新鮮な出合いと発見の毎日でありました。

この写真、いわき湯本温泉・山形屋で撮影したものですが、皆、ごきげんに和んでいます。担任の谷川澄夫先生の、子供一人ひとりの特性を引き伸ばす才が優れていたおかげで、このクラスの生徒は勉学に向いた人・スポーツに向いた人・文化芸術に向いた人、それぞれが自分の好きなことを十二分に発揮した素晴らしい仲間でありました。この顔つきをみていてもまさに、夫々が夫々らしくとしか云いようの無い集合写真となっています。

修学旅行から戻りクラスでまとめた文集に載った私の文は[山形屋]というタイトルで次のような内容を書いています。げんかんでくつをぬぎ、女中さんに「よろしくおねがいします」と言って、部屋に入った。ぼく達は、二階の二十二号室でとても広くて気持ちがいい。夜ごはんがすんでから、山形屋のウィンドーで、三春ごまを買った。栄田君も、顔をほころばせて三春駒を・・・。いよいよ、おふろの番だ。ぼくは、てぬぐいを頭に乗っけたので、小原庄助さんの様だった。

Tu はじめの頃は比較的おとなしかった男子生徒も、少しずつ元気が戻って、最後の会津若松市では白虎隊の焼印を押した刀をわれ先と買って、意気揚々と東京に戻ったのです。

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2007年1月 2日 (火)

広重・蒲原の雪!

201_34 広重の「東海道五拾三次」の絵の構成と飛躍とも云える省略には、日本のグラフィック・デザイナーはもちろん海外のアーティストにも多大な影響を与えたのは、今更云うまでもありません。この絵の場所、蒲原(現在の静岡県・蒲原町)は今では温暖な気候に恵まれた場所といわれ、めったに雪も降らないと聞いています。以前偶然にも新幹線でその雪景色を見た時はあまりの静寂感に覆われた一面にしばし見とれていました。

この絵にはヨーロッパの絵画には見られない温度・湿度・風、そして深さまでもがこちらに飛び込んできます。しーんとした物音ひとつしない雪道を心細そうに歩く旅人の気持ちさえもが、このシンプルな版画という手法から伝わってくるようで、更に各家は雨戸を閉め切って深々と冷え込む中で耐え忍んでいるのでしょうが、その気配を一切見せず、徹底した静けさの絞込みによる、なんともいえない冷え込む絵です。その上、重い雪で覆われた屋根の柔らかな曲線とそっくりさんが奥の山にまで飛び火してしまい、このあたりの解釈はもう、完璧なアート・ディレクターであります。

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2007年1月 1日 (月)

大入り袋の潔さ!

401_7  新年 明けましておめでとうございます。今年もこのブログを引き続きご覧頂き、ありがとうございます。

 元旦に相応しいブログのイメージを決めかねてましたが、紅白歌合戦も終わりに差し掛かった頃、突然閃いたのが、この『大入り袋』であります。

 この世の中、何といっても多くの人に見てもらい、感動していただき、その上、誰しもがハッピーになれば・・・、こんな素晴らしいことはないわけですから、それにはこの『大入り袋』ほどうってつけのキャラクターはありません。

日本を代表するデザインの模範例として登場する頻度の高い『大入り袋』のみごとさは、紅白という縁起物の色彩・ふくよかな書体・完璧な左右対称による普遍的な構成によって、誰しもが認める日本デザインの大横綱であります。

 今年は快活で豊かな日本となりますよう・・・、皆さんのご活躍とご多幸を願っております。

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