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2007年2月28日 (水)

1906・スコットランド自動車レース

1906_devils_elbow_scotland_1 1906年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1906.html )ですから明治39年の写真です。もうこの頃からスコットランドでは自動車レースが盛んなようでして、観客の姿もなかなかのトラッドの薫りが蔓延しています。Devil's Elbowと地元で呼ばれているその名のとおりの難所のカーブを曲がっている瞬間の一枚ですが、何故このように、絵のような構成美の被写体として収まるのでしょう。

 私などは、自動車を操る人よりもそれを取り巻く群衆の風俗に目が行ってしまいます。その昔、VAN JACKETが流行の発信企業であった頃に、ブリティッシュ・トラッドに心酔していた社員のくろす・としゆき氏が立ち上げたKENTブランドの基本アイテムがこの写真には一杯あふれています。その筆頭、ノーフォーク・ジャケットの着こなしも流石といったところでしょうか。自動車そのものが良い趣味の筆頭であった頃ですから、人生を楽しめるゆとりのある方ばかりが此処には写っているのでしょう。ですから、被写体の中には、間抜けな輩が誰一人として登場していません・・・。当時の最先端の科学とエンターティメントが合体したこのレースを真剣な眼差しで見つめる人の風貌には、間違いなく次世代は自動車の時代であるとの確信が、見てとれます。

 風俗写真に陥らない、歴史の証人としての写真には、偶然のなせる何かが瞬間的に凝縮しているからこそ、人それぞれの写真の読み方を愉しむことが出来るのであります。

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2007年2月26日 (月)

リチャード・サッパーの置時計

Img_3904 最近はネット上でも世界の優れたデザインの商品を購入することが出来ますが、20年ほど前ともなると、東京でも一部のデパートかデザインを売りにしている専門店しか、扱っていませんでした。この写真のものはイタリアのデザイナーの中でも、あのポストモダンという間抜けな思想にも踊らされず、じつに一貫してオーセンティックなデザインを展開した、リチャード・サッパーの手による置時計です。20年以上前にAXISで買い求めたものだと記憶しています。高さ8センチ、幅6,5センチほどの小ぶりなデザインですが、そのシンプリシティーに満ちた顔つきは、イタリア的であり、ドイツ的でもあり、構築されたプロポーションの中に微妙なエレガンスの影を秘めていて、この20年近く毎日、私の机の脇に居てくれました。

しかしながら、ご覧のように真ん中の丸い鉄板が錆びてしまい、おまけに、ずり落ちてしまうという情けない状態となりましたから、もう現役を引退させることにしました。時計の心臓部は日本製ですからびくともしておりませんが、すっかり風化してしまった中央部分を修理するにも厄介そうですから、今後は飾りものとして本棚にでも置こうかと思っています。一時はデザインの雑誌にはよく登場したものなのですが、本体が鉄板の上から塗装されているとは錆び出した時までは考えてもいませんでした。顔付きはインダストリアル・デザインの傑作ですが、実態はほとんど手加工品であります。

リチャード・サッパー 

http://www.io.tudelft.nl/public/vdm/fda/sapper/index.htm

http://shopping.yamagiwa.co.jp/contents/designer/RichardSapper.html

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2007年2月25日 (日)

西麻布・1935年

193514 撮影:師岡宏次

今は西麻布と呼ばれている都心の一角は、1980年代より、お洒落な隠れ処の店が密かに話題を呼んでいました。所謂、業界人が夜な夜な集まっては、新しいビジネスチャンスの新鮮な話を聞き漏らすまいと、明け方まで賑わっていましたが、今もそのDNAは衰えず、健在のようであります。

さて、この写真を撮影した師岡宏次氏(1911-1991)は、貴重な東京の写真を多く遺され、風俗や時代考証を検証する仕事に携わっている人にとって、必ず、その写真を通してお世話になる方なのであります。昭和10年( http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1935.html )に撮影された霞町(現在の西麻布)の写真にも戦前の昭和の薫りが満載であります。人気テレビ番組「時間ですよ」のセットのような場面ですが、このアングルから撮影している状況からおそらく笄小学校近辺の崖地から撮影したものではないでしょうか。この近辺、今でもよく自転車で駆け抜けますが、少し奥に入りますと日銀総裁・一万田邸なども遺っていて、それは素晴らしい自然環境にも恵まれ、夏の蝉の鳴き声の大きさにはしばし聞きほれる程です。テレ朝通りに抜ける手前にはこの近辺で最大の邸宅・三井本家の堂々たる日本家屋が在りましたが、十年ほど前にマンションに建て替えられました。01_28 この写真の場所もその殆どがマンションとなってしまったのでしょうが、この貴重な写真を見ると72年前の東京の庶民の生活の雰囲気が良く表れているように思います。

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2007年2月23日 (金)

辻まこと・ムササビ射ちの夜!

201_37 1971年に東京新聞出版局から刊行された、辻まことさん(1914-1975)の『画文集・山の声』は、辻まことさんの魅力が凝縮された一冊で、春夏秋冬の日本の里山を含め見事な景観表現と、人間観察の鋭い文体がみごとで、私の愛読書の頂点であります。

 辻まことさんは「ヒマラヤ」よりむしろ「ウラヤマ」を愛した方で、その独特のエスプリとユーモア・そして厳しい文明批評・社会風刺をソフトに、しかもモダンボーイのスタンスを保ちながら、さらっと表現され、今日も多くの熱狂的なファン( http://www.ricecurry.jp/ が信奉者として増殖しています。

ホルベインの不透明水彩を使って描かれたこの一枚も『画文集・山の声』の中のエッセイ「ムササビ射ちの夜」に登場する絵ですが、思い切ったライト・ブルーとイエロー・オーカーの補色の対比が鮮やかで、外の寒さと炉辺の焔に囲まれた暖かさを象徴的に表現しています。こういう、思い切った表現というものは、実学に基づいた経験がたっぷりと脳内に蓄積されていたからこそ、表せるのでしょう。ところで、この山小屋はどう見ても志賀高原・石の湯山荘をベースに描かれたとしか思えないのですが、未だにはっきりとしたことは、分かっておりません。私がスキーの虜となって以来、さんざん押しかけてご迷惑をお掛けした石の湯ロッジの川下にあったこの山荘は、まさにこのような入口でした。時々遊びに行っては、パラレルスキー学校の平沢校長と与太話などさせて貰っていたことなど、外の吹雪を見ながら、隙間風の入り込む部屋で温かいスープを戴きながらの至福の時を、青春時代に味わえただけでも、私は幸せであります・・・。

『この絵の印象に近い辻まことの一文として』

・・炉辺というのは不思議なものだ。炉を囲んで焔を見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。反対にまた乾いた喉に渋茶がそそがれ、あるいは盆代わりの茶碗が回り、誰かが賑やかにしゃべりはじめても、そう邪魔にならないだろう。相槌を打っても打たなくてもいいのだ。語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を濾してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。
(『山の声』あとがきより)

『辻まこと自身による略歴』

一九一四年東京に生れ、父系は三代以上の江戸ッ子だったが、母系は九州福岡在で、小生で半分熊襲の血が混った感じになる。

 中学に入った頃から画描きになりたくなり、中途退学してヨーロッパに連れていってもらったが、ルーヴル美術館を一カ月拝観するに及んで、すっかり絶望して、画描きをやめるつもりになり、毎日フラフラと暮す。どういうものかドラクロワから受けた打撃をいちばんひどく感じた。日本へ帰る気もなかったが、ある日詩人の竹中郁、小磯良平などの先輩から、モンパルナスのクーポールで一時間も意見されたのがこたえて日本へ帰ったが、これで他人の意見などきくものでないという教訓を得た。

 帰国以来、ペンキ屋、図案屋、化粧品屋、喫茶店など転々として、最後に竹久不二彦(夢二画伯の次男)、福田了三(徳三博士の息子)両君の驥尾に附して金鉱探しに夢中となって東北信越の山山を駆けめぐったが、あまり成績はあがらなかった。結婚したりして少し熱がさめた頃から戦争がひどくなり、配給と隣組がいやで新聞記者になって一家をあげて天津に逃げだした。

 十八年の未に陸軍報道班員を失職して青島へ行き、当時製鉄所の副所長だった赤堀英三博士の食客となって、考古学の澄田氏という人と三人で山東省の発掘でもやろうといって計画をたてているうちに兵隊にとられ、冀東の山中で終戦となり、二十三年なんとか引揚げ、以来なんとなく画描きに近い職業で暮して現在に到った次第である。

 スポーツは山登りとスキーをやる。音楽はなんでも好きだが、楽器としてはフルートとギターがいい。酒もなんでも飲むが、ウィスキーがいちばんうまい。ギャムブルは全く興味がない。

 家庭は妻と一年半の娘との三人碁しである。(1956年・美術批評)

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2007年2月22日 (木)

日比谷濠は美しい!

Img_5808 馬場先門までの濠を日比谷濠と呼ぶことなど、地図を見ても全く気ずかず、今に至っていました。快晴の早朝、ここから眺める丸の内と江戸城の堀の対比はかなり自分の中でもゴールデン・スポットで気持ちよい風を感じることが出来る都心のオアシスであります。水位にも雨量によって高低の差は出ますが、それでも一年中比較的高い水位を保っていて、それが独特の豊かな景観を演じているのでしょうか。この日も水位が高く、なんとなく丸の内と皇居が一体観となった錯覚さえ覚えます。日比谷通りに面した柳の芽が新緑色になる頃、さらに美しい景観に拍車がかかって、軽快な自転車に乗ったロードレーサーもどきの親父も、大勢出没し始めるのであります・・・。

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2007年2月21日 (水)

ニューヨーク・TENDER BUTTONにびっくり!

Img_5106_2Img_5115_2Img_5113_3 1985年、これまで日の目に当たらなかった某百貨店・趣味雑貨フロアーを活性化するために、T山部長と一緒に水面下で、コンセプト・新規業者選定の下地を作りながら秋に立ち上げたプロジェクトは、ファッションのフロアー以外では最も画期的というべきもので、その後のS百貨店の戦略にも影響がでるほどでした。商品計画(マーチャンダイジング)以前の方向付け・仕入れ商品にも百貨店の意志を熱心に伝え、ほぼ毎日が午前様という強烈なハードスケジュールの中にもモチベーションの高揚をもたらし、画期的な業務のあり方をも見直すこととなりました。とくに、くすぶっていた若手で、センスが良く勢いのある社員のやりたいようにやらせましたから、自然とパワーもつき始めました。その後、当初醒めた眼で見ていた既存の取引先も自分の牙城が危うくなるとみて、こちらににじり寄ってきたものでしたが、既得権にどっぷり浸かった体質を無視し続け、日本国内から海外まで鮮度のある情報ネットワークを張り巡らしたのです。

その年、海外展示会での買い付けに出向き、ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ニューヨークというハード・スケジュールで翌年の秋冬商品の買い付けに駆け巡りました。

この写真、当時世界の百貨店業界での話題を一手に握っていたニューヨーク・ブルーミング・デールの店舗・商品調査を終えて解散したあと、独りでパーク・アベニューを北上して見つけたボタンの店『TENDER BUTTONhttp://www.urbanstyle.com/localScene/chicBoutique/2001/tender/があまりにも可愛いのに感動してその勢いで高価にも拘らず、買ってしまったものです。今のお店はすっかり綺麗にシンプルになってしまいましたが、この当時はまるでウッディー・アレン好みのようなレンガの佇まいで、何ともいえぬトラッド感に溢れていました。これらのボタンは今も健在で、斉藤久夫さんに作って貰うベストの前面を飾っています。

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2007年2月18日 (日)

スウェットといえばスティーブ・マックイーン!

Sw  眼を皿のようにして、アメリカン・カジュアルライフの世界をMEN'S CLUBという男性雑誌を通し、隅から隅まで一字一句見逃すまいと、読み漁っていた高校生の頃、まだ見たこともないスウェット・シャツというアイテムが話題になりました。

1963年頃の話ですから、巷ではまだVAN JACKETの商品はそれほど氾濫しておらず、日本橋・高島屋の2階・特選街に置かれていたほどの高額品でしたし、当時の専門店(今で云うセレクト・ショップ)の中でも他のブランドとは格の違いがありありとしていた頃です。

クラスメートの中に、いち早く話題の音楽・ファッション情報を運んでくれた神宮前の星君が、このスウェット・シャツを目の前で披露してくれました。確か横浜・元町のフクゾーかどこかのものだったように、記憶しています。ダーク・ブルーの色でタツノオトシゴの刺繍が可愛らしいものでした。

その翌年、東京オリンピックが開かれて、毎日テレビに釘付けとなってましたが、私はスポーツ競技そのものより、アメリカ・フランスなどのチームが着ている服があまりの新鮮さもあって、ブラウン管を通して、感激しっぱなし・・・でありました。特にアメリカの陸上選手が寛いでいるときに着ている、グレーの霜降りのアイビー・リーグのマークが入ったスウェット・シャツが美しく、早く何とかして手に入れたいと思っていました。その留めは、あのスティーブ・マックイーンが映画『大脱走』で着こなしていた、スウェット・シャツでした。何のデザインもないすっぴんのグレーのものでしたが、彼の風貌とぴったりのテーストに、同世代の男性のみならず、センスの良い女性をも虜としてしまいました。

時代はすっかり1970年代の楽しい時代に入り、若いカップルはペアー・ルックなどと称して、このスウェットを着て、その下にはやはり同じポロシャツを着て、襟を覗かせるスタイルが札幌・仙台から広島・福岡にいたるまで全国に高速伝播しました。元来、汗臭い男の道具であった代物が街の可愛い風物にまで浸透していったのには、日本独特の風俗現象であったようで、その下地は銀座が銀座を右往左往していた1964年にあったのかも知れません。

今では、ヴィンテージ・クロージングのジャンルでも不動の人気を誇るスウェット・シャツでありますが、中にはとんでもない高額のものもあり、コレクターの数も半端な数ではないと聞いています。永遠不滅の「マスターピース」としての衣料品の価値には、どうやら上限がなさそうであります・・・。

60年代ファッション 族 

1964年、戦後初の大イベントである東京オリンピックが開催されます。この年、一シーズンだけの突発的な流行が起こりました。「みゆき族」です。64年の5月頃から銀座のみゆき通りや並木通りに大勢の若者がたむろするようになりました。「みゆき族」はこれら若者達の総称で、「みゆき通り」から名づけられた一種の社会現象です。ファッションの特徴は、男性は流行中のアイビー・ルックを少し崩したスタイル。女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶる。そして男女ともに、大きな紙袋か麻袋をかばん代わりに抱えていました。紙袋はVANが大人気で、こうした袋類以外ではショルダーバッグを持つパターンもありました。
しかし、「みゆき族」は一夏を境に一斉に姿を消しました。9月から始まる東京オリンピックに向けての風紀取締りとして、築地警察が「みゆき族」を一斉に補導したからでした。

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2007年2月15日 (木)

木のある町は気持ちよい!

Pro401 木に囲まれた気持ちよさは都心でこそ味わいたいと思っているのですが、なかなか、これは!と思えるロケーションに出会えずにいます。今年の6月に又始まるツールドフランスのライブ中継を見ていても、私などはひねくれ者ですからロードレースよりも通過する街並みの素晴らしさに驚嘆すること、これまで何度かありました。何といっても、連綿と培われた風土に根ざした建物と、きれいに飾られた街並みの美観に対する住民の意識の高さまでもが、映像を通して読み取れそうであります。

この写真はフランス・アビニョンの町のメインストリートですが、この地方の強い日差しを避けるように大きく葉ぶりのよい樹木が整然と並んでいます。楽しみながらの食事の様子も、カジュアルでのんびりしたリズムを感じとれます。私などは、東京生活を通してすっかりせっかちな性分となってしまい、人様と食事をしても、いつも一番早く済ませてしまうので、家内からいつも怒られている始末ですから、こんな場所でしたら私もゆっくりと戴けるかも知れません。写真からは、こぼれんばかりに溢れている町のもつ魅力が、うかがえます。

 Img_5685_3 さて、私の好きな世田谷区・成城の町もこの数年で街並みに変貌の兆しが見え始め、あっという間に、景観の美しさを保っていた地区が所々、綻び始めています。私の好きなこの一角も、どうやら変わるような気配があり、願わくば、美しいかけがえのない伝統を継承していってもらいたいと、願っています。

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2007年2月14日 (水)

荏原神社の寒緋桜

Img_5781Img_5797_1 Img_5794_1 2月12日はいつになく早く眼が覚め、犬の散歩も終えて、お決まりの葡萄パンと珈琲で軽く済ませて新聞をめくると、品川の荏原神社の寒緋桜が今見ごろであるという記事が眼に入りました。天気も好天が期待できそうな気配でしたから、ハイテクインナーに防風インナーそれと長袖のチームジャージ、下もショーツにフットウォーマーというこの時期としては軽装で自転車で出かけました。この神社は、旧東海道北品川宿の傍、目黒川に沿ってありますから、駒沢通り・山手通りを経由して目黒川沿いに沿って向かいました。10時頃には日差しも強く、風もなしという絶好調の陽気に恵まれ、駒沢公園から20分ほどで到着しました。意外な事に新聞に出ていたものですから、もう少し混んでいるのかと思いきや、ちらほらといった程度でしたから、混雑嫌いの私にとってはラッキーでありました。

着いてみるとごらんの通り!鮮やかな寒緋桜が満開でした。Img_5787 「恵比須様と桜」というコンビのNIPPON STYLEに、この上ないありがたい感じさえして、この地に千年以上も天皇家・武家・町人などから信仰され、今日にいたるまで永く親しまれている理由も分かるというものです。この桜、風にも強く散りにくいそうですから、今月一杯は愉しめるそうです。

神社境内でお祈りを済ませ、ふと上を見ますと、只者ではないこの神社の背景が伝わってくるようで、彫物ひとつとっても、相当な出来具合のものでした。

歴史ある神社の風格と、勇壮なる海中渡御を伝える「荏原神社」

 街歩きの楽しみのひとつに、趣きのある古社寺などを思いがけず見つけるというものがある。新馬場駅から歩くことほんの数分、目黒川に沿うように緑に囲まれてたたずむ荏原神社は、その創建が和銅2年(709)という、神社仏閣の数では都内有数の品川区でも、ひときわ古い歴史と格式をもつ神社だ。
 創建当時は奈良吉野にある丹生川上神社より高おかみの神(龍神)を勧請され、長元2年(1929)には京都八坂神社より疫病退散の守護神・牛頭天王を勧請。
品川の総鎮守として古くは源氏、徳川家、上杉家等の武家の信仰をうけた神社としても知られる。また、東海七福神の”恵比須様の神社“として親しまれ、地元の人ばかりでなく、商売繁盛や海上・漁業の安全を願う参拝者が全国から訪れる。
 さらにこの神社の名をひときわ有名にしているのが、毎年6月初旬(今年は5月31日~6月2日)に行われる御神面神輿海中渡御、「天王祭」だ。3日間のうち最終日に行われるのが、神輿が海を渡るダイナミックな海中渡御。都内では唯一ここだけで行われているという。氏子さんたちが担ぐ神輿には、牛頭天王のご神面とともに鳳凰が稲穂をくわえた姿があり、五穀豊穣・無病息災・天下泰平の願いが込められている。海中渡御が始まったといわれる約250年前には海岸にも近く浅瀬であったが、今は埋め立てられたため神輿は船に乗って対岸にあるお台場海浜公園前の海を練る。形は変わってもその勇壮な姿と祭りの意気は、時代を超えて受け継がれている。(歴史で知る縁起物語より)

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2007年2月13日 (火)

1956年の日記より

201_42 小学校3年生になる年の春に書いた日記です。観察の視点が自分で言うのも何ですが、面白い捉え方をしています。

この小学校では、今も毎年一年生の入学式には桜並木を高学年生が拍手で迎える中を行進します。私の時は桜吹雪もみごとな中での入学式とはいかず、寒い雨の中でしたから、翌年の一年生の時の日本晴れの中での入学式には、ちょっぴり羨ましい気持ちになりました。

しかし、又、文章だけでよいものを、枠外にカットを書いています。どうやらこの小学校の一年からの絵日記の癖が,

抜け切れなかったようです。

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2007年2月10日 (土)

中村外二・数奇屋大工

202_3                                             

写真:高橋曻102_4 

数多く居る職人の中でも、この中村外二さん(1906-1997)ほどの磨かれた風貌には、なかなか、お目にかかれません。大正10年に大工職・水田常次郎に弟子入りして木造建築のいろはを叩き込まれますが、ここで止まっていたら普通の大工で終わっていたのでしょうが、昭和28年に裏千家出入りの大工になって以来、家元・千宗室にお茶のいろはから始まり、茶室の設えまでこと細かな作法から家元独特の素材に対する感性に至るまで、直伝で叩き込まれました。業界用語でいえば、ハードとソフトの最高レベルのノウハウとこつを実学で習得したのです。以前、中村外二さんの座談を本で読んだことがありますが、木の話から人の器量の話まで、機微に満ちたその内容には、マーケティングと機械を通して出来上がる量産を前提としたデザインには無い、実学と自然の叡智の裏打ちの深さと強さがありありでした。

私は中村さんを知った30年ほど前から、西欧建築にはない日本建築のもつ意匠の感性的部分と、気候に適した合理性の部分を勉強し始めました。たまたま、私の曽祖父が木曾の御料林を管理していて、小学校の頃、父から「木曾の檜と云う材料は日光と風により南斜面と北斜面では全くその年輪の姿も異なり、南斜面の檜は安定していて年輪もみごとな同心円を描くから、南斜面のものが伊勢神宮や徳川家の普請に使われるのだ」ということを聞かされたことが妙に頭の中に焼きついてましたから、まず始めに日本の木から勉強し始めました。

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2007年2月 9日 (金)

元箱根・幕末

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01_27小学校の夏の学校で箱根に行って以来、東京から至近距離にもかかわらず、地形の複雑さと山谷の多さが独特の景観をみせてくれるこの観光地には毎年といってよいほど足を伸ばします。東名高速道路で一時間ほどで着いてしまいますから、気軽に行ける最高の場所と思っています。勿論、温泉やゴルフなどの楽しみをおもちの方にも最短・最高の場所なのでしょうが、明治時代までは、近くても遠い所だったようです。何といっても、厳しい峠を越えなければなり ませんし、怪しげな駕籠かきも多く、よく時代劇に見られるように、ずいぶん高い篭賃を要求された旅のお方も多かったそうです。

さて、この写真、ベアトの撮影による幕末の元箱根の旅籠風景です。箱根関所をカメラの背にして箱根峠を奥に見た位置の撮影だそうですが、ずいぶんと見事なパノラマであります。この辺り、今では車でサッと通り抜けてしまう場所ですが、この時代ですと夕方に到着した旅人を各旅籠のお姐さんが客引きで黄色い声を奏でながら、なかなか艶っぽい風景が此処彼処で見られたのでしょう。茅葺の屋根が連なる光景にはどきっとさせられる美しさがあって、以前行った白川郷の葺き替えで新しく葺いた黄金色に輝く大屋根には感動したものです。そういえば、町田市にある白州次郎・正子が住んでいた『武相荘』 ( http://www.buaiso.com/ ) も昨年12月6日から屋根の葺き替えが始まり、Bis45921 今は黄金色の大屋根がまばゆいばかりですから、興味のある方は出かけられたらいかがでしょうか・・・。

 モータリゼーションと一億総旅おたくのおかげで、同じ国内観光地の中でも経済的な勝ち組・負け組ははっきりと勝負ありの感がありますが、相対的に優雅な旅の時間を愉しむ・もてなす気持ちも失せてきたように感じます。だからこそ、中高年を対象とした滞在型の優雅な旅の企画に各旅行会社がしのぎをけずっているのでしょう。聞くところによれば、希少価値のある場所に限定されたお客さんだけしか体験できない、富裕層対象の旅は、どこの旅行代理店もすぐ予約で一杯になるそうですから、皆さん、過ぎてきた時間を振りかえつつ、ゆっくりと寛ぎたいのでしょうね・・。

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2007年2月 8日 (木)

陽だまりの犬・鳥

Img_5719 朝の日差しが入り始めるのは南側にある大木のおかげでやや遅れ気味なのが悩みの種であります。我家のケアンテリアと文鳥もそこのところは心得ていて、一番先に犬が温かい場所を陣取り、後から私が文鳥の籠を置きます。犬も馴れない内は鳥に向かい吠えることもありましたが、最近はほぼ、このような仲良し状態であります。このまま、余程のことがない限り、30分近くじーっとして温かいありがたさを享受していますが、お互い、何を考えているのか、この雰囲気を見ているのも、面白いものです。たまに、猫が庭を通りかけても、この犬は泰然自若としていて、小柄ながら堂々とした目線で、追っているだけです。

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2007年2月 7日 (水)

1956年の日記より

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3年前の引越しの際、行方不明になっていた小学校時代の日記が全く予期せぬ場所から出てきましたので、ようやく一安心です。何しろ、小学校二年生から四年生までのほぼ毎日、日記をつけることが義務でしたから、それは子供にとってなかなかたいへんなプレッシャーでありました。それだからこそ、毎日、日記をつけるためのネタ探しにも苦労しましたし、この頃近くの家にテレビを買った方が居て、食事を終えて見に行くことが重要なことでしたから、さっさと日記を書かねばなりませんでした。無理せずに平凡な日々の状景を記録し続けているだけでも、後から読み返せば楽しい思い出の詰まった個人史となっているのですから、むりやりネタを作って創作も入り込んでいる日記は出てきてくれただけでも、ありがたい訳です。

この日記、51年前の1956年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1956.html )の東京の初雪の様子です。この前の年の春、父がどういうわけか秋田犬とスコッチテリアという全く相性の悪そうな犬種を買い求め、初めのうちはなかなかお互いに馴れるわけも無く、しょっちゅう喧嘩ばかりしていましたが、夏頃にはすっかり仲良しとなっていました。そんな頃の様子ですが、犬の感じを良く捉えているように思います。元々、日記だけを書けば良いものを、画家であった父の影響なのか、絵にも気合を入れていたその頃の様子が浮かばれます。舗装など全くなかった杉並区・久我山の町は、雪が降ると樹木の茂った所が多いので、陽の当たらない箇所が大半を占め、一月経っても雪の消えることは無く、ぐちゃぐちゃの道を通うのは、たいへん、しんどかったのです。  

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2007年2月 6日 (火)

幕末の三田・中の橋

01_26 1865年頃の、中の橋を望む絶景であります(現・港区三田一丁目、中の橋信号付近)。左手に長く続く大名屋敷は久留米藩有馬家・上屋敷で邸内には水天宮があり、現在の水天宮はここから移転されたものだそうです。真ん中を走る新堀川Chui01(現・古川)は今やこのような気品のひとかけらもなく、一日中、首都高速道路の下でお天道様を見るわけでもなく、まったく悲しいばかりの様相を呈しています。この写真は赤羽橋の方から撮影されたもので一番奥には小さく中の橋が写っています。有馬屋敷の左奥の森は、仙台坂方面と思われ、この辺り、自転車でヒルクライムを楽しむには絶好の場所で、そうとうのアップダゥンを堪能できます。

東京の今を風俗を通して楽しむのも結構ですが、こんな古い写真を自分の脳裏に焼き付けながら、自転車で走り抜けるのも、歴史と風俗が頭に飛び交って、三次元の風俗・歴史探訪となりますから、自転車徘徊は奥深いものとなって、止められないのであります・・・。

Xkop 今、このような美しい場所は皇居周辺以外には見当たりませんが、願わくば、今後の世代の皆さんには、すっかり過密化してしまった東京ですが、是非、美しい景観のあった時代の素晴らしさを見直して頂きたいものです・・・。

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2007年2月 5日 (月)

駒沢公園・梅の開花

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Img_57074日の日曜日、此処、駒沢公園界隈は朝から北風が強く、寒い一日なのかと思ってましたら、10時過ぎから暖かくなって来ました。久しぶりに犬を連れて散歩に向かいましたが、昨今の雑誌で採り上げられるように、犬好きのメッカとなっていますから、車のナンバーを見ても東京以外からもたいそう押しかけている様子がうかがえます。

春を待ちきれないアスリートも公園周回コースを走っていますし、散歩集団も、相変わらずのんびりと公園の散策を楽しんでいるようです。

人だかりの多いところに向かいますと、このような紅白の梅が丁度良い按配の開花をしていました。来週の週末はこの下で、例年通り、お花見の宴会をはじめ、昼間から混雑することは確かなようです。

戻って、庭の梅を眺めますと、こちらもつぼみが膨らみ午後には開花すること間違いなしであります。今年の暖冬は、例年以上に功罪併せ持っているようですが、それでも春はそこまで・・・の様子であります。

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2007年2月 2日 (金)

1967年・ニース

30a1967  1967年の初めてのヨーロッパ旅行はブランズハッチ・自動車レース・トリノ自動車ショー・ミラノ・スポーツフェアーなど雑誌の取材が主で、私はそのスタッフに潜り込んでのお邪魔虫・旅行でした。すべての取材が終わり、あとはお楽しみの自由旅行となり、モナコのカジノで大勝した同行者のおかげで、バルセロナまで足を延ばすこととなりました。この写真は、バルセロナに出発する前日、あのネグレスコ・ホテルをバックに撮影した一枚です。2月の半ばでしたからまだ海風も冷たかったのですが、日本では見たこともない大人の女性の日光浴にしばし、男の愉しみを見出しているところです。この頃、高校時代の仲間とよく湘南にヨットなどに乗っては遊んでいましたが、このニースをはじめとするコートダジュールの太陽の光が、湘南とは比べ物にならないほどの明るさでしたから、先ず、それにびっくりしました。

 この撮影の日、カジノで勝った同行者の大盤振る舞いで、海岸に面した小奇麗なホテルで一泊しましたが、翌朝、差し込んでくる朝陽の、強烈な閃光のようなパワーには目眩がしましたし、やはりこういう光と一緒に生活してるからこそ、人の暮らしも明るく快活で、笑いが絶えないのに違いない・・・などと、勝手に解釈していました。

このあと、ニースからバルセロナまで、夢のような絶景を眺めながらのドライブが続くのです・・・。

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2007年2月 1日 (木)

陶器の動物なのですが!

Img_4388 すっかり埃をかぶった茶箱の中には、父ががらくたと思ったものがImg_4390たくさん出てまいりました。父が旅行先で見つけてきたものや、人からの貰い物などがごった煮状態ででてきましたが、私の目に最初に飛び込んだのがこの陶器製の猫・梟の置物です。猫の置物はLISA LARSONさんと云う人の作品のようで、たいへん可愛らしい表情とボリューム豊かな体つきが、ほっとできる造形です。猫なのに体の色が虎のように感じるのもなかなかのユーモアなのでしょうか。もうひとつの梟の置物は底に作者の署名があるのですが解読不可の状態です。全体の雰囲気が梟の孤高の風貌をよく捉えています。両方ともに多分、父がドイツに出かけた1970年頃に購入したと思えますが、アトリエで生前見た記憶もなく、ドイツ語の新聞に包まれたままで、ようやく日の目を見たところです。割れ物ですから丁寧に扱いませんと、人並み以上にそそっかしい私のことですから、何時、過失を犯すか分かりません。インターネットで調べますと猫の作者・LISA LARSONさんは今も健在でこの動物シリーズも最近の北欧ブームの追い風を受けて復刻版が発売されているようですが、父が購入した頃とはその風合いにだいぶ差があるようです。

Lisa Larson
[リサ・ラーソン]
Lisa Larsonはスウェーデン
陶芸学校卒業後、1954年Gustavsberg社へ入社。1979年までの約20年間にわたりGustavsberg社の専属デザイナーとして活躍する。やさしくかわいいコケティッシュな動物や家族の愛情、素朴で温かみのある表現豊かな表情のフィギュアを製作する。Gustavsberg社では同時期にStig Lindbergも在籍している。Stig LindbergやKarin Bjorquistらと並びGustavsbergを代表する作家となる。1979年に同社を退社しフリーランスとして活躍する。60-70年代は積極的に個展や展覧会を催し海外でも作品の展示を行う。一部コレクターの間ではライオンやブルドッグなど大変な人気を得ていましたが最近手頃な価格でフィギュアが復刻されたこともあり若い人達の間で人気が復活する。Lisa LarsonはスウェーデンだけでなくStig Lindbergの影響もありアメリカや日本でもコレクターが急増中している。90年代に再びGustavsberg社に工房を持ち現在も現役で活躍中

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