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2007年2月23日 (金)

辻まこと・ムササビ射ちの夜!

201_37 1971年に東京新聞出版局から刊行された、辻まことさん(1914-1975)の『画文集・山の声』は、辻まことさんの魅力が凝縮された一冊で、春夏秋冬の日本の里山を含め見事な景観表現と、人間観察の鋭い文体がみごとで、私の愛読書の頂点であります。

 辻まことさんは「ヒマラヤ」よりむしろ「ウラヤマ」を愛した方で、その独特のエスプリとユーモア・そして厳しい文明批評・社会風刺をソフトに、しかもモダンボーイのスタンスを保ちながら、さらっと表現され、今日も多くの熱狂的なファン( http://www.ricecurry.jp/ が信奉者として増殖しています。

ホルベインの不透明水彩を使って描かれたこの一枚も『画文集・山の声』の中のエッセイ「ムササビ射ちの夜」に登場する絵ですが、思い切ったライト・ブルーとイエロー・オーカーの補色の対比が鮮やかで、外の寒さと炉辺の焔に囲まれた暖かさを象徴的に表現しています。こういう、思い切った表現というものは、実学に基づいた経験がたっぷりと脳内に蓄積されていたからこそ、表せるのでしょう。ところで、この山小屋はどう見ても志賀高原・石の湯山荘をベースに描かれたとしか思えないのですが、未だにはっきりとしたことは、分かっておりません。私がスキーの虜となって以来、さんざん押しかけてご迷惑をお掛けした石の湯ロッジの川下にあったこの山荘は、まさにこのような入口でした。時々遊びに行っては、パラレルスキー学校の平沢校長と与太話などさせて貰っていたことなど、外の吹雪を見ながら、隙間風の入り込む部屋で温かいスープを戴きながらの至福の時を、青春時代に味わえただけでも、私は幸せであります・・・。

『この絵の印象に近い辻まことの一文として』

・・炉辺というのは不思議なものだ。炉を囲んで焔を見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。反対にまた乾いた喉に渋茶がそそがれ、あるいは盆代わりの茶碗が回り、誰かが賑やかにしゃべりはじめても、そう邪魔にならないだろう。相槌を打っても打たなくてもいいのだ。語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を濾してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。
(『山の声』あとがきより)

『辻まこと自身による略歴』

一九一四年東京に生れ、父系は三代以上の江戸ッ子だったが、母系は九州福岡在で、小生で半分熊襲の血が混った感じになる。

 中学に入った頃から画描きになりたくなり、中途退学してヨーロッパに連れていってもらったが、ルーヴル美術館を一カ月拝観するに及んで、すっかり絶望して、画描きをやめるつもりになり、毎日フラフラと暮す。どういうものかドラクロワから受けた打撃をいちばんひどく感じた。日本へ帰る気もなかったが、ある日詩人の竹中郁、小磯良平などの先輩から、モンパルナスのクーポールで一時間も意見されたのがこたえて日本へ帰ったが、これで他人の意見などきくものでないという教訓を得た。

 帰国以来、ペンキ屋、図案屋、化粧品屋、喫茶店など転々として、最後に竹久不二彦(夢二画伯の次男)、福田了三(徳三博士の息子)両君の驥尾に附して金鉱探しに夢中となって東北信越の山山を駆けめぐったが、あまり成績はあがらなかった。結婚したりして少し熱がさめた頃から戦争がひどくなり、配給と隣組がいやで新聞記者になって一家をあげて天津に逃げだした。

 十八年の未に陸軍報道班員を失職して青島へ行き、当時製鉄所の副所長だった赤堀英三博士の食客となって、考古学の澄田氏という人と三人で山東省の発掘でもやろうといって計画をたてているうちに兵隊にとられ、冀東の山中で終戦となり、二十三年なんとか引揚げ、以来なんとなく画描きに近い職業で暮して現在に到った次第である。

 スポーツは山登りとスキーをやる。音楽はなんでも好きだが、楽器としてはフルートとギターがいい。酒もなんでも飲むが、ウィスキーがいちばんうまい。ギャムブルは全く興味がない。

 家庭は妻と一年半の娘との三人碁しである。(1956年・美術批評)

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