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2007年6月16日 (土)

1956年・私の日記

306_04 51年前は、まだバナナが高級な果物の時代でしたから、家にバナナがあると、たいへんありがたい感じを子供なりにもったものでした。この頃、父も自分の人生の中で最も充実した時代を迎え、仕事に没頭していた頃で、それなりの収入もあったのでしょう。渋谷の何処かで買ったバナナのようですから、きっと駅前の林フルーツかも知れません。当時作り変えたキッチンの脇に林フルーツの包装紙が重なっていたのを妙に覚えているのです。父は酒飲みでしたが、果物には目がなく、嫌いなものはなかったようです。今のような豊富な種類もなく、パイナップルが主役の座をバナナに明け渡した頃でもありました。

この日記にも欄外にバナナのカットを描いています。この画材は父の引出しから拝借したコンテのデッサン用のチョークを使って描いたようです。扱いの難しい画材ですから、うっかりすると真っ黒な画面となってしまいますから、この絵にもいつ描くのをやめようかとたじろいでいる気配が、ありありです・・・。

清水晴男先生のコメントが直球勝負で気持ちよい〆となっています。

バナナに関して』  戦時中に台湾のバナナ生産はコメの生産を優先するために減少し、日本の八百屋からも姿を消したことがあるが、1950(昭和25)年に、日本・台湾間で通商協定が結ばれ、バナナはふたたび輸入されるようになる。ただし、平均月収が約1万円の当時、バナナは卸値で1キロ約1000円という超高級品であり今のように誰にでも食べれるものではなかった。その後、1961(昭和36)年~62年(昭和37)年に輸入船の船員からコレラ菌が検出され、台湾バナナは一時的に輸入禁止となることなどもあったが、日本の高度経済成長の流れのなか、翌1963(昭和38)年に日本政府がバナナの輸入を自由化したことでバナナはブームとなる。そして、このときに新興勢力としてバナナ市場に南米のエクアドル産が登場したが、台湾バナナの甘みに慣れた日本人には、あまり受け入れられれず、1960年代後半までは台湾からのバナナの輸入量が急激に増加し、1967(昭和42)年のピーク時には40万トン近くに達していたという。日本のバナナ輸入先は1960年代まで台湾(1963年のみエクアドル)、1970年代前半にはエクアドルがトップになった。しかし、1963年に輸入が自由化されたのと前後して、日本のバナナ市場に目を付けていたユナイテッド・フルーツ社、キャッスル&クック社(Castle&Cooke)、デルモンテ社(Del Monte)の3社が、相次いでフィリピン、ミンダナオ島に進出。それらはそれぞれチキータ(Chiquita)、ドール(Dole)、デルモンテというブランドで知られるようになる。そののち住友商事(旧Banambo、現Gracioブランド)もフィリピンに進出し、1960年代末にはこれらアメリカ系3企業と日系1企業の4社がそれぞれ独自の栽培体制を確立する。そのため、日本のバナナ輸入先は1960年代まで台湾(1963年のみエクアドル)、1970年代前半にはエクアドルがトップであったが、それ以降は4大多国籍企業によりフィリピンが高いシェアを維持しているという。 これが日本をはじめ先進国の人々の食卓に見られる「ドル・バナナ」といわれるもの。日本に輸入されているバナナには必ずといっていいほどシールが付いている。このシールにはさまざまな横文字のブランド名が付いているが、その80%は、先ほど述べたアメリカの「ビッグ3」と呼ばれる、ドール、チキータ、デルモンテが世界各地に置いた農園から輸出したもの。(日本企業では住友ブランドのBanamboがその1割ほどのシェアを持っているだけ)

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