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2007年6月30日 (土)

湯町窯の深皿

Img_6113_1 湯町窯は、島根県 出雲玉湯町、玉造温泉街の程近くにあります。

玉湯町では江戸中期から布志名焼という焼き物が焼かれています。 現在はガレナ釉を使った洋食器で有名ですが、もとは茶器で知られた焼き物でした。(現在、布志名焼の窯元はわずか4軒で、yuyujinで扱っている舩木健児・伸児の舩木窯もその1つ)
湯町窯の開窯は大正11年。 洋食器をつくりはじめたのは先代の福間貴士が昭和初期に民芸運動に参加してからになります。 柳宗悦や河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチらの民芸運動によってもたらされた技術と物創りの姿勢は湯町窯の特色と言えます。 地元産出の粘土や釉薬を使い、美しい黄色のガレナ釉 と落ち着いた海鼠釉に特徴があり、 粘土と水を混合した泥漿釉で化粧掛を施したスリップウエアの食器は全国的にも有名です。
現在は三代目の福間秀士を中心に制作が行われています。

このお皿は、50年ほど前から使っている器ですが、民芸運動の指導者でもあったバーナード・リーチ氏の指導によって日本で生まれた、鮮やかなイエロー・オーカー色が朝の食卓を元気づけてくれました。子供の頃住んでいた久我山の庭には小さな畑があり、ちょっとした野菜を栽培してましたので、この皿に胡瓜や、トマトが盛られると、それだけで、一日を元気に過ごせる気分となりました。

父も母も、一時期、民芸調の家具・器に凝っていた時期があって、家具は松本民芸家具、器や小物は銀座や荻窪の民芸店で購入し、家中が重々しくなってしまいました。私は民芸調のもっている重厚感が余り好きではありませんでしたが、この湯町窯の深皿と、今は全て割ってしまったエッグ・ベーカーだけは、食卓が楽しくなるので、大のお気に入りでした。白州正子さんが営んでいた銀座の「たくみ」にもよく出入りしていた母が、気に入って、其処で買い求めたものです。

Asi1 18世紀のスリップウエアのオリジナルは何となく雑器の様相を呈していますが、日本で昇華したコピー商品は遥かに上等な品格があります。

どんな料理にも合わせやすく、今でも、現役として使われてますが、奇跡的に傷や欠片がひとつもないことが、自慢です。

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2007年6月29日 (金)

銀座松屋の愉しみ!

Img_7654 Img_7652 Img_7649 Img_7647 Img_7653 今年は、酷暑だ!などという予測がテレビの天気予報コーナを通して聞こえて来ますと、それだけで、がっかりしますね・・・。夏の早朝の自転車快走の楽しみもしんどそうな朝からの暑さには、ただ家の中で快適な室温と読書三昧が最高の贅沢なのでしょうが、そんなことも言っているわけにもいかず、汗をかきつつ、打合せに励むのであります。先日、築地2丁目にある編集企画のオフィス、LEFTYを訪ねる前に銀座・松屋に寄って『今の気分を掬い』ました。銀座・松屋は大規模な床面積があるわけではないので、其の分、知恵を使った細部の演出が手抜きなく展開されていて、私の好きな『東京のデパート』であります。地下鉄銀座線の先頭車両を降りて改札口を出ると、松屋の小さなウィンドーが並んでいて、毎月展開が変わり、季節ごとのシーズン・メッセージを高度な視覚伝達手法を通して、来店者にプレビューしてくれます。

今はご覧のような、きちんとしたNIPPON STYLEの展開が為され、その清清しいディスプレーには好感が持てます。野暮なデパートですとメーカーに経費負担させてお中元最適品などを、そのまんま出してしまうところでしょうが、さすがに松屋は今のギンザを発信するプライドを背景に、独自のスタイルでNIPPON・TOKYO・GINZAのちょっとモダンな趣きを表現しています。

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2007年6月27日 (水)

江戸城・石垣

プロダクトデザインを専攻していた1968年頃、Img_7523 近江の国・滋賀郡穴太(あのう・今の滋賀県大津市)には優秀な石工集団『穴太衆』が住み、安土城・名古屋城・江戸城などの石垣の築造に活躍した、という話を何かの文献を通して知ったのですが、先日いつも自転車で抜ける桜田門・一の門脇の石垣にもそのオーラが残っているな・・・と思い、スナップいたしました。

現在の江戸城の石垣は、何処が昔のもので何処が手直しをしたものか、全く分からずじまいでしたが、どうやら穴太衆の石積技術には花崗岩の相性のよさそうなものを見つけては合わせ、積み上げるという古代の感覚が残っているそうで、西欧のような石灰岩で可能な限りカットしてフラットにする文化と違う(荒俣宏)ようであります。ここから見る限りその説は間違いないようですし、その曲線は刀のようでもあり、なにしろ美しいこの一角を通り抜ける度に、気になっていたスポットなのです。このような斜面に適当とも思える感覚で石がはみ出ている様相を西欧の石工が「石が宙吊りになっている」と感嘆したそうです。たしかに石を平面に埋けることしか範疇にない彼らにとってはこの感性は理解できる範囲ではなかったのでしょう。

城の石垣や寺・茶室の石庭にせよ、非ユークリッド幾何学的な不規則な並べ方に共通しているものは優柔不断な人間界・自然界・霊界を知り尽くした、このニッポンのカルチャーの典型といえるのではないでしょうか。

(文脈引用・芸術新潮 1991年8月号 創刊500号記念大特集・世界に応える日本文化の特質)

穴太積みと言われる石垣に関してhttp://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/anou/anoutumi.html

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2007年6月25日 (月)

宝来公園の紫陽花

Img_7568 駒沢からほんの10分弱、自由通りを南下して環状8号線を渡ると、田園調布に着きます。いつもは、そのまま下りきって丸子橋に抜けて多摩川側道に合流しますが、この日は、わき見をした宝来公園 ( http://home.h03.itscom.net/abe0005/sannsaku/hourai/hourai.htm )の花が気になって、ふだんは止まらないのですが、なぜか降りてしまいました。この公園は国分寺崖線に沿った地勢にあり、周囲には古墳時代後期の遺跡も多く( http://inoues.net/ruins/tamagawadai.html )、近くの多摩川台公園にはその記念の施設もあります。程よい大きさの池の周りにはこの時期の花が咲いていましたが、この写真のように紫陽花が通常のボリュームではなく、ひっそりと咲いていて、ふだんこのような紫陽花の姿を見慣れていない私はちょっとびっくり・・・でありました。あの背丈ほどもある紫陽花の群生には少し食傷気味でしたから、このさっぱりとしたバランスの紫陽花を観て、日本的な感性を味わいました。

しかし、この球状の紫陽花は日本原種の額紫陽花ではありません。シーボルトが本国に持ち帰り、西洋で品種改良されたといわれるこのタイプの紫陽花が日本の花と思われている人が大部分ですし、私もそう思っていました。大阪の小島常男さんに指摘されて、初めて知ったのであります。

遠めには、紫陽花などとは思わず、単なる梅雨花かと思ってしまい勝ちですが、やはり気になった時にはためらわずに、面倒でも止まってみるものなのですね・・・。

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2007年6月24日 (日)

広重・京都鴨川の川床

2201 こういう絵を見てしまったら、今の京都の鴨川・川床など二度と行くものか!などと叫んでしまいたくなります・・・。

広重の冴え渡る遠近感、空気感、そして艶景といってもよいほどの男の世界までも刷り込んでいますし、間もなく暮れる夏の一番色っぽい場面がみごとです。

以前行った川床など、もう観光振興がありありで、予めセットされた適当な食事を、近過ぎる隣の席と一緒に戴くのも如何なものか・・・と言いたくなります。

夕闇迫る頃の提灯だけの灯りのもとで、艶やかなお姐さんと楽しいひと時を過ごせる有難さは、何方もご存知の世界なのでしょうが、それにしても、羨ましい艶景であります。

『京都の床』

京都市内を北から南へ流れる一級河川「鴨川」。
その流れは市内の繁華街を縦断し、特に二条から五条河原は市民の憩の場となっています。春は鴨堤の桜並木、夏は鮎を釣る人の姿と「床(ゆか)」秋は紅葉、冬にはシベリヤから飛来するユリカモメ、四季の移り変わりを鴨川は見事に演出してい
ます。
床の歴史は大変古く、江戸時代に裕福な商人が夏に遠来の客をもてなすのに五条河原付近の浅瀬に床几を置いたのがはじまりだと言われています。
それが明治時代には7・8月の納涼床がすっかり定着し、平成11年には「皐月床」として5月の昼床が、翌年には「名残の床」として9月の昼床が施され、おおらかで粋な町衆文化が育まれてきました。暑い京の夏に涼感を与えてくれる「納涼床」は、今もなお昔の面影を残し現代に生きる人の心に受け
継がれ発展しています。

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2007年6月22日 (金)

表参道・『おもて』

Img_7333 Img_7331 Img_7332 今や都心の飲食店舗の潮流は、昔のニッポンか、健康・環境志向にしか突破口がないのかと思わせるほど、此処彼処に和・自然をテーマにしたお店が急速に広がっています。

去年11月に開店したこの『おもて』 ( http://www.brown.co.jp/shop/index.html )もニールズヤードを経営し、自転車マニアとして日々精進されている梶原建二さんの着眼になるお店です。きめ細やかな店舗の配慮は、梶原さんを信奉し小売業のつぼを体得しているしっかり・パワフルな女性スタッフの為せる技でありますが、開店以降、店舗運営に益々磨きがかかり、安易・粗雑になりがちな陳列の隅々までも神経の糸が張り詰めています。

ニッポンの風土をだいじにしているしっかりした産地の食材が、この日も全国からダンボールに一杯納品されていました。この朴訥で正直な食材が、女性スタッフを中心に、まるで魔法のようにモダンに表参道のテーストに変身していく姿は、見ていて鮮やかなものです。

最先端の発信地域で日々鮮度のある働きを通して展開される店舗運営には、ためらいや僅かな陰りがあってもいけませんから、日々の緊張と緩和の自己管理能力に長けた人材(人財)を発掘し、沈滞せずに意識更新していく経営者の哲学と感性、そして算盤勘定次第で、その会社なりお店の軸と進む先が自ずから決まってしまうのです。

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2007年6月21日 (木)

鈴木信太郎のメルヘン

32 鈴木信太郎が1930年から1951年まで暮らした杉並区・荻窪の自宅の庭を描いた一枚ですが、紫陽花・朝顔とすっかり初夏の風情に溢れています。鈴木信太郎にしては珍しいほどの空想的な画面構成は、日常のありふれたものを集積していて、まるで谷内六郎の週間新潮の表紙を思い出してしまいます。

鈴木信太郎は緑の色に対する感性が鋭く、絶妙な調合によって鈴木緑と呼んでしまいたくなるような、独特な緑を生み出していますが、この絵にもその職人技がふんだんに散りばめられていますし、日常に使うものを上手く配置して、非日常的なイメージを喚起させてくれるこの絵には、鈴木信太郎のメルヘン的構成力が充分に発揮されています。

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2007年6月20日 (水)

銀座・奥村書店

Img_7266 Img_7267 銀座にこの店ありという店が、いつの間にか消えていくのもそう遠い話ではない・・・、という状況になっていることを、以前、銀座通の方から聞いてから時間を見つけては、銀座に出向いてそれらしき界隈を散策しています。

ルイ・ヴイトンを昭和通りに向かうと右手にあるこの奥村書店 http://www2.odn.ne.jp/~aai41020/ は、歌舞伎・邦楽をはじめ和の文化に関する品揃えではピカいちの古書店で、その気品ある陳列と分かりやすい表示文字が古書店の手本でもあります。

今や神田・神保町界隈もシャッターが閉まったり、突然店が跡形もなくなり、駐車場に変身していること、多々多いのですが、まさかこの奥村書店はそんなことなどないでしょうが、妙な勘が働いて足が向きました。暫くぶりに来ましたが、相変わらず『きちんとした大丈夫の店』の風格は変わらず、安心いたしました。

店の奥からおとな買いをして両手に持ちきれない本を抱えた嵐山光三郎さんと坂崎重盛さんが嬉しそうに出てきそうなほど、ここの品揃えには定評がありますが、店頭にある立派な本の値段の安さにはびっくりで、ここでも大型・豪華本の値崩れには歯止めがないようであります。立派な和の文化に趣味のおありの皆様には是非、足を運んでいただければ・・・と思います。イラストレーターの原田治さんのH.Pにも登場して、この店を称えています。( http://d.hatena.ne.jp/osamuharada/20050317

銀座にも、こんな古書店があることを知らない方も多いようですし、確かに昨今の銀座は最先端の商業発信ばかり焦点を当てているようでありますから、このような傾向のお店もやがて無くなるかも知れません。それでも奥村書店のほっとする店構えが、殺伐とし始めた銀座では、いにしえからのオアシスのようなオーラを放っています。

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2007年6月19日 (火)

LESTER FLAT&EARL SCRUGGS

Img_7122  私世代にとってブルーグラスの伝道師の頂点にあった、Lester Flatt & Earl ScruggsとFoggy Mountain Boys (http://www.youtube.com/watch?v=u3Itz0rTiMU)のDVDが二枚登場しました。

それも1961年から1962年にかけての絶頂期のテレビ番組を収録したものですから、臨場感もたっぷりです。みごとな呼吸のもと、シンプルな楽曲の構成にも関わらず、人間のエモーションだけで組み立てられるブルーグラスミュージックを、片田舎の音楽から見事に都市のリベラル層にも浸透していったエキスが全て入っていますから、時代風俗史的にもお薦めいたします。それとコマーシャルに、パイレックスのキッチン用品なども登場し、1960年代初期の地方都市にも近代的生活の楽しさが浸透していくニュアンスが読み取れて、嬉しい気分がいっぱいあります。

都会ずれしていないメンバーそれぞれの風貌も微笑ましいですし、Earl Scruggsのフィンガー・ピッキングのギターソロも楽しめて、全くありがたいご時勢であります。それと、今やこの音楽ジャンルの長老となったカーリー・セックラーさんのマンドリン片手の絶頂期の歌声も聴けますから、良い事ずくめであります。

BEST OF THE FLAT & SCRUGGS TV SHOW  VOL1.VOL2( http://shanachie.com/ )

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2007年6月18日 (月)

1956年・私の日記

309a_04 309b_04

1956年の日記からです。この年の文化祭の模様ですが、この時代、私の通っていた学園では小学校から大学まで一緒に文化祭をしていましたから、この時期だけは普段の構内と一転して華やかな雰囲気に囲まれていました。正門を入ると正面に構える立派な講堂では、毎朝、朝礼と立礼式の座禅があって、小学生にはなかなか厳しい朝が続きましたから、同じ場所で演奏会という華やかな催しがあると嬉しくて始まる前からわくわくしていました。

特別招待の国立音楽大学によるコンサートが始まると、生まれて初めて聴くオーケストラの演奏の音の大きさと圧力にびっくりしたのと、バイオリンの奏でる繊細で豊かな音色に、子供ながら聴き入っていました。途中には、演奏家による楽器の解説なども入り、拍手が大きかった楽器はアンコールもしてくれたので、皆、各楽器の演奏が終わる度に、一生懸命、拍手をしました。

きっと、この頃ブームとなった漫画の真似でもしてみたくなったのでしょうか、絵にはト音記号のようなものが空中を飛び交っています・・・。

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2007年6月17日 (日)

花屋のある豊かな街

Pro201 PHOTOGRAPHY:ODEBUNEKOSAN

花屋さんが町の真中にある気分の良さというのは、計り知れない、豊かさを感じます。

昨今は、街づくりや大都市の再開発計画がある種の成功例をパターン化して、家賃収入の収支だけを金科玉条としているだけのような気がしてきて、何処にいっても、いつか来た街となってしまうのであります。

都心ではお洒落な花屋さんが増えてきているのは確かなようで、夕方頃には値段も安くなり始め、目ざといOL達が束ねて買い求めたりしているのをよく目にします。

このプロバンス地方の街の写真のように、魚屋さんを兼業しているような雰囲気がぴったりのおじさんがうろうろしているような花屋さんというのも、計算通りのミスマッチとでも云いましょうか・・・、なかなか都心ではお目にかかれない雰囲気であります。

美味しいパン屋、きれいな果物屋、威勢のよい花屋、清潔な床屋、きちんとした古本屋、そして渋い自転車屋などが並ぶと、もう何となく、あのジャック・タチの世界を彷彿としますが、私は年甲斐もなく可愛い町並みが好きなのであります。

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2007年6月16日 (土)

1956年・私の日記

306_04 51年前は、まだバナナが高級な果物の時代でしたから、家にバナナがあると、たいへんありがたい感じを子供なりにもったものでした。この頃、父も自分の人生の中で最も充実した時代を迎え、仕事に没頭していた頃で、それなりの収入もあったのでしょう。渋谷の何処かで買ったバナナのようですから、きっと駅前の林フルーツかも知れません。当時作り変えたキッチンの脇に林フルーツの包装紙が重なっていたのを妙に覚えているのです。父は酒飲みでしたが、果物には目がなく、嫌いなものはなかったようです。今のような豊富な種類もなく、パイナップルが主役の座をバナナに明け渡した頃でもありました。

この日記にも欄外にバナナのカットを描いています。この画材は父の引出しから拝借したコンテのデッサン用のチョークを使って描いたようです。扱いの難しい画材ですから、うっかりすると真っ黒な画面となってしまいますから、この絵にもいつ描くのをやめようかとたじろいでいる気配が、ありありです・・・。

清水晴男先生のコメントが直球勝負で気持ちよい〆となっています。

バナナに関して』  戦時中に台湾のバナナ生産はコメの生産を優先するために減少し、日本の八百屋からも姿を消したことがあるが、1950(昭和25)年に、日本・台湾間で通商協定が結ばれ、バナナはふたたび輸入されるようになる。ただし、平均月収が約1万円の当時、バナナは卸値で1キロ約1000円という超高級品であり今のように誰にでも食べれるものではなかった。その後、1961(昭和36)年~62年(昭和37)年に輸入船の船員からコレラ菌が検出され、台湾バナナは一時的に輸入禁止となることなどもあったが、日本の高度経済成長の流れのなか、翌1963(昭和38)年に日本政府がバナナの輸入を自由化したことでバナナはブームとなる。そして、このときに新興勢力としてバナナ市場に南米のエクアドル産が登場したが、台湾バナナの甘みに慣れた日本人には、あまり受け入れられれず、1960年代後半までは台湾からのバナナの輸入量が急激に増加し、1967(昭和42)年のピーク時には40万トン近くに達していたという。日本のバナナ輸入先は1960年代まで台湾(1963年のみエクアドル)、1970年代前半にはエクアドルがトップになった。しかし、1963年に輸入が自由化されたのと前後して、日本のバナナ市場に目を付けていたユナイテッド・フルーツ社、キャッスル&クック社(Castle&Cooke)、デルモンテ社(Del Monte)の3社が、相次いでフィリピン、ミンダナオ島に進出。それらはそれぞれチキータ(Chiquita)、ドール(Dole)、デルモンテというブランドで知られるようになる。そののち住友商事(旧Banambo、現Gracioブランド)もフィリピンに進出し、1960年代末にはこれらアメリカ系3企業と日系1企業の4社がそれぞれ独自の栽培体制を確立する。そのため、日本のバナナ輸入先は1960年代まで台湾(1963年のみエクアドル)、1970年代前半にはエクアドルがトップであったが、それ以降は4大多国籍企業によりフィリピンが高いシェアを維持しているという。 これが日本をはじめ先進国の人々の食卓に見られる「ドル・バナナ」といわれるもの。日本に輸入されているバナナには必ずといっていいほどシールが付いている。このシールにはさまざまな横文字のブランド名が付いているが、その80%は、先ほど述べたアメリカの「ビッグ3」と呼ばれる、ドール、チキータ、デルモンテが世界各地に置いた農園から輸出したもの。(日本企業では住友ブランドのBanamboがその1割ほどのシェアを持っているだけ)

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2007年6月15日 (金)

これが東叡社のランドナー!

1964 東京オリンピックが開催された1964年、私の自転車に明け暮れていた高校生の7月の夏姿であります。

この前年、ワンダーフォーゲル部の同好会であったサイクリング同好会も、一週間に及ぶ合宿のパフォーマンスの結果、なんとか監督の尽力で部に昇格したので、その後は週末ともなると東京郊外のサイクリングが定例化しました。この写真は五日市・奥多摩方面でのツーリングをしているときの様子で、秋川渓谷付近で一休みしているところです。

高校時代は、ほぼ毎日、雨の日以外は久我山から吉祥寺の高校まで自転車通学をしていて、帰りは水道道路沿いの東京サイクリングセンターに寄り道するといったお楽しみ付きの自転車三昧でしたから、自然と自転車に関する知識と技術が身についていきました。

1964219641 19643 19645 19644  3ヶ月あとに始まったオリンピックでは、当然、自転車ロードレース会場である高尾会場に朝早く先輩と出かけました。一般的にはまだ知られていない競技でしたから、せいぜい地元の人が駆りだされて応援する程度でしたが、初めて目にするフランス・イタリアチームの華やかなユニフォームと、コックピットの国際色豊かな雰囲気に圧倒されました。そして選手の通過したと同時に受ける、風の物凄い圧力にも感激したものです。

東京サイクリングセンターには、先輩も含め一家言をお持ちの方ばかりが日々集まってましたから、情報密度・精度ともに極めて高いものがあって、そこに創業者・板倉修さん、日本にフランス・イギリスの自転車とその楽しみ方を根付かせ、自転車のもつ人体への効能を医学・科学の両面から立証した鳥山新一先生が同席しているものなら、其処はもう店から学校へと急転直下、変貌してしまうのです。手取り足取り、基礎から実学を通して教えてもらった数々のノウハウは今も健在でありますし、「毎日、自転車を完璧に磨きながら、構造と部品同士の関係と、プロポーションをひたすら見つめることが大事なのだ!」などということも、この頃、鳥山新一氏に叩き込まれたコツであり、哲学でありました。

偶然出てきたこの写真をみても、サドルはBROOKSですし、フロント・バッグは厚手の幌布製で、たいへんタフなつくりのものでした。BROOKSのサドルにいたっては、日本人のお尻の形状に合わないので木槌で後ろの鉄製アームを叩き、曲面を更に曲げるという裏技も教わりました。こういう優れたものを備えるように薦められたのも板倉修氏のお陰でしたが、当時はたいそう高価でしたから父を説得するのが大難関でした。結局、このサドルはその後20年以上私に付き合ってくれました。

この写真を撮ってくれた、当時写真部の佐々山厚さんは、現在高崎を中心に半端ではない自転車三昧の生活をされ、最近ではネパールのMTBレース参加・アメリカ大陸横断など、海外の自転車ツーリングを楽しまれています。( http://www.geocities.jp/aysasayama/ )

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2007年6月13日 (水)

鈴木信太郎の飄々さが!

30_1 鈴木信太郎(1895~1989)の絵には、日本の洋画につきもののアカデミズムや日本の独自性を誇張した形跡など一切見当たらず、ひたすら美しい色調と長閑で穏やかな画趣に終始しています。

八王子の裕福な生糸商家に生まれた信太郎は、幼少に身体が不自由になったにも関わらず、車椅子や座った目線からの構図が多く、これも信太郎の絵に独特の風景画の構図を生みました。

私が鈴木信太郎を知ったのは、母がよく買ってきてくれた久我山の北にあった西荻窪のこけし屋というお店のケーキの包装紙を通してでしたが、その包装紙の可愛い中にも品のある表現が頭に焼き付いていてました。その絵が鈴木信太郎という画家によるものだったことを知り、妙な親近感もあり、父のアトリエにあった薄い画集を眺めていました。又、小学校高学年の頃に鈴木信太郎が二科会の画家たちと同様、久我山にも住んでいた事を知り、ますます近い存在となっていきました。

この絵は戦争の終わる1945年(昭和20年)に疎開先の奥多摩・五日市の村で描いた桐の花でありますが、時代背景から察してもその暗さを感じさせない、気持ちの良い絵であります。構図もさることながら、鈴木信太郎の真骨頂である色彩の調和は日本洋画壇のなかでも私にとって梅原龍三郎以上のセンスの持ち主であると思っています。

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2007年6月 7日 (木)

Doyle Lawsonのバンドは見事!

Img_7125 気持ちいいテリー・バウカムのソリッドなバンジョー・イントロではじまるドイル・ローソンとク イックシルバー、お待ちかねのセキュラー(非宗教)作品。ジェイミー・デイリーの力強くかげりの ないすばらしいテナー・ボイスを軸に、ユーモラスでキャッチーなソリッド・ブルーグラス曲からカ ントリー/フォーク・バラッド、2曲で味のあるボーカルを聴かせ、そしてご存知のようにすばら しいテクとメロディーをつむぎ出すドイルのマンドリン(オリジナル・インスト含む)、サード・タ イム・アウトから移った正統派(威しフレーズに走らない!)ブルーグラス・フィドルのマイク・ハー トグローヴ(f)、このアルバムを最後に脱退するテリー・バウカム(bj)…、圧倒的なボーカル・ハーモ ニーと鉄壁のソリッド・リズムでもっとも安定した現在ブルーグラスの王道を聴かせるドイル、最 後のディキシーとトム・T.ホール作の曲"Can You Hear Me Now"では自身の出身地近くのカーター・ファミリーのA.P.カーターを意識してか、同じ曲 を78回転SP盤音質で聴かせる。現在IBMA最優秀ボーカル・グループ受賞の連続記録を更新する彼 ら、悠々の最新作である。(BOMサービス)

久々の爽快感たっぷりのブルーグラスアルバムです。

よくもここまでの高音がでて、脳の血管にでも支障がおきないのだろうか・・・などと思うほどのハイテナー・ヴォーカルからコンテンポラリー感覚充満のバンジョー・ヴァイオリン・マンドリンの演奏、そして完璧で熱いコーラスと、ブルーグラスミュージック界において別格といってよいほどのプロ魂の集団を率いるDoyle Lawson & Quick Silver (http://www.youtube.com/watch?v=lLrHv9Nch1A )による正統でありながら、アスリートパワー全開のすっきり・さっぱり出来るブルーグラスであります。

決して安定を求めることなく、常に進化し続けるその姿勢には、保守的な感性の多いブルーグラス界においては飛びっきりのメリハリの効いたサウンドを聴かせてくれますし、何といってもそのスピードとスリルに酔いしれるのであります。おまけにハイスピードでありながら、微妙な表現もきちんと聴こえるところがこのバンドの超絶たる所以でありましょう。

偏屈な観念や小ざかしいテクニック理論などは、とうの昔に過ぎ去ったのでしょうが、彼らの音楽は理論とテクニックが充分な上に、自由奔放に暴れますから、これ以上云うことなしの全曲直球勝負の完全試合のようなアルバムであります。

今年も空梅雨になりそうな気配ですが、この時期には、うってつけと申し上げましょう。

More Behind the Picture Than the Wall Music More Behind the Picture Than the Wall

アーティスト:Doyle Lawson,Quicksilver
販売元:Rounder
発売日:2007/03/27
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年6月 5日 (火)

サツキ夫々!

Img_7181 Img_7247 Img_7189 駒込・六義園のサツキはみごとでしたが、この日(6月3日の日曜日)、自転車で都心を徘徊していると、サツキ自慢の邸宅が周囲を圧倒する美しさを競っていました。

この画像は世田谷区瀬田行善寺坂・渋谷区上原2丁目・目黒区青葉台上村坂付近でありますが、夫々建物環境とのバランスもよく考えているようです。伝統的和風・コロニアル調・インターナショナルモダンと呼んでもよさそうな各建物の風貌にうまく調和した植栽計画ですし、新緑との按配も夫々工夫していますね。

サツキはその色の艶やかさから、新緑との量的バランスが高度な色彩センスを要求されるのですが、どれも甲乙つけがたいセンスが輝いています。

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2007年6月 3日 (日)

松坂牛・大和煮の缶詰

Img_5651 最近は、自転車の徘徊もすっかりご無沙汰となってしまい、やや、お腹周りが気になりだしました。普通でしたら、ダイエットなどを意識するのでしょうが、どうしても、美味しいものには眼のないタイプですから、この写真のような絵柄を見てしまいますと、我慢できないのであります。

この缶詰は、もうずいぶんと永い間製造されている松坂牛の大和煮の缶詰で、その味は、程よい甘さに被われて、こしひかりをやや硬めに炊いて一緒に食しますとなかなかご機嫌な風味であります。

小ぶりの缶に反比例して、中にはぎっしりと牛肉が詰まっていますから、これひとつで、お腹いっぱいとなります。味も保証つきならば、その外装の紙ラベルも何ともいえない「日本柄」であります。微笑んでいるように見える松坂牛の顔がなんとも微笑ましくもあり、哀しくもあり、微妙なニュアンスでありますが、全体の明度の高い色相がカジュアルな感覚を併せ持っていて、駒沢公園通りでいつも繁盛しているショップで購入したハワイのTシャツとも相性が良さそうであります。

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2007年6月 2日 (土)

六義園のサツキ

Img_7156 Img_7144 Img_7159 車で神田から御徒町へ用事を済ませ、ふと思い立ったので駒込方面に向かい、六義園のサツキを観に行きました。今日は午後から快晴となりサツキ見物には少々陽射しが強い感じでありましたが、人出も少ないだろうという読みもあり、行ってみたのです。和菓子にもよく登場するモチーフの原型が其処彼処に点在して、新緑の頃より幾分落ち着いた葉の緑とサツキの色合いが絶妙でありました。土曜・日曜はさつき祭りというイベントが組まれ、名だたる大名庭園も歌舞音曲で賑わいそうですから、この日(金曜日)に静寂な環境の中で暫しの時間を満喫できて、大当たりでありました。

柳沢吉保の庭園として名高い六義園は名物・枝垂桜も結構でありますが、このサツキも緑との按配が補色という下品に成り勝ちな関係にも関わらず、大名の品の良さを以ってすっきりと高雅に転換いたします。

【六義園の概略】
六義園は、五代将軍綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702年)に築園した和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水庭園」で、池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しむ繊細で温和な日本庭園です。当園は江戸時代の大名が作った庭園の中でも代表的なもので、明治時代に入って、一時、三菱の創業者岩崎弥太郎氏の別邸となりましたが、その後、昭和13年に岩崎久弥氏により東京市(都)に寄付され、昭和28年には国の特別名勝にも指定されている大変貴重な文化財です。又、園内には豊富な緑と、広い池がいろいろな野鳥を呼び寄せ、ウグイス、メジロなどの留鳥や、マガモ、オシドリなどの渡り鳥も多く見られ訪れる人々の目を楽しませてくれます。

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2007年6月 1日 (金)

1956年・私の日記より

319a_04319b_04久我山の家は一般の住居よりかなり急斜面の瓦屋根でしたから、秋ともなれば枯葉が屋根のとよにあふれんばかりに詰まり、雨になれば、その枯葉のせいで、とよの機能をはたせず滝のように雨が地面にたたき落ちるのでした。

毎年、大晦日になると恒例の、とよのごみ取りが朝から始まります。思ったよりも重労働というか、神経を遣うというか、予想以上にとよからでてくる枯葉をはじめ枝、空中から飛んできた諸々のごみの多さにびっくりしたものです。

この家の北側は神田川の崖地ともなっていて、南側のとよ掃除は陽が当たって暖かく楽しみ半分でしたが、北側は陽も当たらず、更に、神田川から吹き上げる風も冷たく、厳しい寒さの中のごみ掃除でした。

それでも、早く大きくなって瓦屋根によじ登って周りの景色がどう見えるのかが、楽しみだった頃でもありました。

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