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2007年8月31日 (金)

自転車あれこれ

Tintin701 Photo_orange1_1 クロムモリブデン(クロモリ)鋼のフレームで出来た自転車の、人体への優しい振動吸収と独特の粘りを愛好する若い世代が増えているということを聞いて、「若い連中もまんざらではないな!」などと思ってしまいます。

昨今のレース至上主義がエスカレートして、休日の都心を走るロードレーサーにはプロ・レーサーでも遠慮しそうなハイエンドな部品を装着した、自動車でいえばフォーミュラーワンといったレベルの自転車が目白押しで眼も眩むばかりです。自転車界もアルミ・カーボン・チタンと素材に記録成績が左右される他スポーツと同様の道を辿っていて、今後どういう素材傾向に向かうのかさえ分からない様相であります。

そのようななかで、都心で効率よく小荷物・書類を運ぶメッセンジャーの連中が、一時のロードレーサーからクロモリパイプで変速機なしといった漕ぎまくりテーストに切り替えて、走りまくっている連中が増加してますが、きっと仲間内で事故をおこせば結局クロモリ鋼が断然丈夫ということが分かったのかも知れません。確かに事故が起きればカーボンなどは元来消耗素材である上に紙っぺらのごとき状態となりますが、クロモリ鋼でしたら多少のへこみはあっても、地球誕生時代から根付いた素材が元ですし、なにしろ普通に乗っていれば50年経ってもびくともしない素材ですから安心であります・・・。

しかしそんなことを言っていても、某自転車専門店で試乗したPINARELLO社 http://www.riogrande.co.jp/pinarello_opera/pinarello/index.html の最先端の素材で組まれた自転車の乗り心地に誘惑され、私もハイテク・ロードレーサーを購入することに決めました。

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2007年8月30日 (木)

浅間山・1957年

19571602 マジックインクが小学生に大ブレークしたのは、何といっても、それまでに無かった発色の鮮やかさと、人気者となった山下清さんがこの画材を使って多くの絵を遺したからともいえます。

父が私のために買って来たマジックインクを初めて使った時、その強烈な匂いに眼も眩むようでしたが、徐々に慣れて、この画材に相応しい技法を手探りで見つけていきました。最初は画面を塗りつぶしていたのですが、出来上がりがいまいちということもあって、線で表現していく方が重くなくて、自分に合っていることを見つけました。

この絵は、父の妹が住んでいた佐久・臼田町に夏休みに訪ねた帰り、小諸から軽井沢に行った時のものです。浅間山の手前の装飾的な田園風景は実際の景色というよりも、この頃、芽生えだした私の想像力を駆使して勝手にアドリブしたものです。何故、こんなことを覚えているかといえば、この時期の絵には殆ど写実的なものが残されてなく、勝手に想像力だけが増幅してしまったものを描いていた記憶が鮮明であるからです。

ク・ (http://www.geocities.jp/hasu58/longseller/magicink.html

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2007年8月29日 (水)

横須賀美術館・アルフレッド・ウォリス展

6 5 26 この夏、是非行きたかった横須賀美術館 (http://www.yokosuka-moa.jp/ )で開催中の『アルフレッド・ウォリス展』に先日、ようやく行ってまいりました。何しろこの暑さでしたからつい億劫となってましたが、最終日(9月17日)の近づいていることが気になり、うっかりすれば見逃すこと此れまでも何度かありましたので、意を決して家人と一緒に横浜横須賀道路を飛ばして来ました。

今年の春、2月3日から3月31日まで東京都庭園美術館 (http://www.teien-art-museum.ne.jp/index.html )で開催されてましたが、私は全く見逃しましたので、念願かなっての実現です。

アルフレッド・ウォリス(1855~1942)はイギリス、コーンウオールの港町、セント・アイヴスで漁夫・船乗り・を体験して船具商を営み、絵を描き出したのは70歳になってからという異色の経歴の持主です。

船に関する仕事の豊富な経験に裏打ちされた・帆船・汽船・海・港町などの表現は、それに携わる者にしか分からないある種の気配があり、所謂正規の美術教育を受けていない分、デッサン力・遠近法などとは無縁なだけに却って新鮮な感動を与えてくれます。又、ボール紙・便箋・封筒・板・木っ端などに船舶用ペンキや油絵で描かれたモチーフはアメリカのグランマ・モーゼスとは別の、強さに満ちた素朴なプリミティブ・アートでもあります。

ズバリ!、昨今のアート界の混迷・低迷をあざ笑うように、純粋に海に暮らす日常の中で絵を愉しんだ人間の軌跡がここにはあります。 そんなわけでRimg1224Rimg1237_2 Rimg1234 世俗にまみれた私はRimg1226_2 Rimg1219_2 相当な刺激を受けた一日でありましたが、舞台となる横須賀美術館は素晴らしい立地環境にあるものの、何故か港区にありがちなシンプリシティー建築に少々違和感を感じざるを得なかったと言うのが、私の本音であります。それでもスカーッと抜けるような海と空に囲まれれば、そんなことは些細でどうでもよい・・・などと思ってしまうのです。

Rimg1278 さて、お楽しみのお土産は横須賀・海関連にズバリ、直球勝負の二点を購入!。いい年をして・・・などとお笑いでしょうが、小さな子供が遊びに来た時などにはこういった類のものの出番が、けっこうあるのです・・・。

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2007年8月28日 (火)

きちんとしたお店

                                                                         Photography:odebunekosan21

このところ、都心の商業環境の、マンネリ化にもすっかり馴れてしまい、再開発される商業施設に対しても、ひとつのテナント・コーディネートパターンの流れが定着したようでもあり、あまりドキドキする感動が無くなってきました。

最近、昔の町や過ぎ去った昭和の薫りに対する見直しが盛んなようで、本屋を覗いて見ても、このジャンルがコーナーを作っていたりと、所謂、団塊世代を狙い撃ちしている意図さえ垣間見えてしまいますが、次々と展開される企画がぴんからきりまで千差万別ですから、欲しい商品ひとつとってもネットで購入するのではなく、しっかりと実物を確かめませんと失敗もありという状況であります。

さて、この画像などは、東京都心の商業施設とは一線を画し、地元に根ざした長い信頼感さえ漂う趣きと風格を感じとることが出来、改めて、人に奉仕するお店の役割を再認識させられるようであります。

どうやらこの地で永く続くハーブ系の化粧品のお店のようですが、古い町並みにこれ以上ないというほど、溶け込んでいます。旬の流行を採り入れないとあっという間に取り残される都市の店舗が抱える宿命とは無縁の、堂々たる平凡を連綿として続ける真の保守性の店には潔ささえ感じ、このような店が並んでいるチェコの中世古都・チェスキークルムロフには、いつか行ってみたいと、思っています。

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2007年8月27日 (月)

1907・パリ北京間自動車レース凱旋

1907_1 1907年 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1907.html(明治40年)、パリと北京間の自動車レースで優勝したイタリアのボルゲーゼ公爵がパリを凱旋している様子であります。

今では世界最高峰の自転車レース、Tour de France位しかフランスとスポーツとの関連を思いつきませんが、この時代はやたらとパリを起点としたレースが頻繁に行われていたようであります。この自動車レースは後にエポック・メーキングな事象が多く含まれていて、あのルイ・ヴィトンが初めて参加したスポーツレースでいわゆる「ルイヴイトン・クラシック」の原点でもありましたし、大手タイヤメーカーのPIRELLI社もこのレースで優勝した車にタイヤを供給し、その後の不動の位置を築く礎となったのであります。

いまだ車のレースは大変なコストが掛かり、生半可では出来ない世界でありますし、今でも大手自動車メーカー以外は、宣伝媒体としてのステータスもあるものの、一部優雅な人たちのお遊びの要素も残されていますが、この写真はその優雅さという点においては、魁の記録であります。

この時代の自動車レースに関わるサイト

http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/200605/01.html 

http://rosepink.milkcafe.to/story.html

ピレリ社の歴史  1872年の創業以来、100年以上にわたるピレリタイヤの歴史は自動車そのものの歴史でもあります。ピレリは、1890年に自転車用タイヤ"ティポ・ミラノ"を発表、そして1901年には初期の乗用車のいくつかのモデルに装着されていた"エルコーレ"を発表しています。 ピレリの自動車レースでの初勝利は1907年の北京―パリでした。この勝利がピレリの二輪、四輪のレースにおける長い伝統の始まりとなりました。そしてその伝統は、ヌボラーリ、アスカリやファンジオなどによって築かれて行きました。優れた技術と革新的な製品を世に送り出し続けた1世紀の間に、製品は戦前におけるワイドシリーズのステラビアンカから超扁平タイヤのチンチュラートラジアルへと変遷して行きます。そしてその間、ピレリの国際化は、ヨーロッパから南アメリカ、そしてアメリカ、中国、東ヨーロッパへと拡大して行きました。1872年の創業以来、100年以上にわたるピレリタイヤの歴史は自動車そのものの歴史でもあります。ピレリは、1890年に自転車用タイヤ"ティポ・ミラノ"を発表、そして1901年には初期の乗用車のいくつかのモデルに装着されていた"エルコーレ"を発表しています。 ピレリの自動車レースでの初勝利は1907年の北京―パリでした。この勝利がピレリの二輪、四輪のレースにおける長い伝統の始まりとなりました。そしてその伝統は、ヌボラーリ、アスカリやファンジオなどによって築かれて行きました。優れた技術と革新的な製品を世に送り出し続けた1世紀の間に、製品は戦前におけるワイドシリーズのステラビアンカから超扁平タイヤのチンチュラートラジアルへと変遷して行きます。そしてその間、ピレリの国際化は、ヨーロッパから南アメリカ、そしてアメリカ、中国、東ヨーロッパへと拡大して行きました。

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2007年8月25日 (土)

銀座交差点・1962

1962

写真:田沼武能

銀座の中央通りに路面電車が走っていたなどという事を知らない世代が私の周りにも多くなってしまいましたが、この通り、実際に走っていたのです。

路面電車を懐かしむ輩はことの他多く、特に私世代から上の世代に顕著なようであり、噂ですと、年に何回かお好きな方々が都心で集結して同好の士の集いを催されているようですから、たいした組織力のようでもあります。

この写真を見ても、右のオート三輪車がまだ現役でしたし、左のタクシーはトヨタの車と思いますが、アメリカの大型セダン車のスタイリングを無理やり小さな国産車に採り入れたりと、懐かしさがたっぷりであります。私が車の免許を取ったのは1967年で、初めて銀座に乗り込んだのはよかったのですが、生憎の雨でこの路面電車の軌道の上を走るとよく滑り、ハンドルさばきが難しかったことを思い出します。

それにしても、路面電車のプラットホームと一般車道との位置関係はこんなにもスリリングな距離であったとは、いやはや、冷や汗ものであります・・・。

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2007年8月23日 (木)

軽井沢・ブルーグラスフェスティバル 1971年

1971karuizawabluegrass11 写真提供:小森谷信治

この画像、私が会社に入社したのは1970年ですから、その翌年の1971年・第一回・軽井沢ブルーグラスフェスティバルの記念写真です。この頃、私は新入社員として修業の身でしたから、音楽で疲れを癒すなどということには程遠く、研修レポート・先輩とのほぼ連日の飲み会などに埋没して、今から思えば滅茶苦茶な生活でありました。

私がこの写真に写っている佐々木仁さん・小森谷信治さんに出会うのは翌年の1972年・軽井沢フェスの会場でした。というのも、立山での夏スキー合宿を終え、八方尾根方面で一泊したペンションに置いてあった信濃毎日新聞の夕刊を偶然めくると、そこに軽井沢ブルーグラス・フェスティバルの紹介記事が小さく掲載され、タイミングもピッタリでしたので、そのまま軽井沢に向かったのでした。レークニュータウンで開催された1972年のフェスは、その後数回開催され、何年か後には北軽井沢の森の中で雷と雨にまみれながらの感動的なフェスもありました。

その後、夫々の人生を背負って分離・収斂しながらも、ここに写っている多くの皆さん(還暦を越した人も間もなくの人も)は、すっかり体形も見違えるような貫禄となり、今も人生の大切な潤滑剤としてブルーグラスミュージックを楽しんでいます。

今週・金曜日から日曜日まで開かれる箱根・ブルーグラス・フェスティバルにも皆さんが顔を揃え、音楽以外の酒盛り・お喋り・健康病気・孫などの話題などで盛り上がるのです。

あと数年も経ちますと、この音楽と出合って50年という輩がいっぱい生まれ、そうなると薀蓄のバトルロイヤルのようなフェスティバルとなって、明け方まで元気な親爺の雄たけびがこだましていること、間違いありません・・・。

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2007年8月22日 (水)

外堀通り・1880年

Photo_11 こういう写真を見せ付けられると、外堀通りは確かに、いにしえは堀だったと実感できるのです。

明治10年前後にベアトによって撮影された、現・新橋二丁目交差点から虎ノ門・溜池方面を望んだ景観であり,左辺りには今、堀商店 ( http://www.hori-locks.co.jp/ )があります。今やビジネス街・飲み屋街でありますから全く面影のひとかけらもありません。皇居周辺だけでなく、せめて外堀通りまでは往年の姿を留めておいて欲しかったものです。

日本人が案外と過去に拘らないことは様々な分野でも顕著でありますが、せめて景観だけは過去に戻れることならば、戻りたいものです。日本橋復興計画も、現実のものとして見えてきたわけですから、いよいよ、江戸復興一大プロジェクトとして、東京都心の水辺の復興・再構築などを夢見るのも良い趣味でありましょうか・・・。102_6

Img_6635

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2007年8月21日 (火)

早朝の桜田門から!

2 びっくりすりほどの暑い東京で、少しでも涼しい時間を見計らって健康維持をしたいという皆さんが、一気に押し寄せるのが皇居周辺ですが、この暑さともなれば、さらに早い時間に集まる事態となっています。

お盆の時期は車も空いていたのですが、地方から車で来る人も年々増えている状況ですから、以前ほどがらがらという訳にもいかないようであります。

さてこの日、犬に起こされたこともあるのですが、未だ暗いうちから眼が覚めてしまい、こうなると、さっさと自転車を出して都心までの早朝ロードを味わうほか、暑気払いの策ががありません。早朝のフルスピードですと駒沢から桜田門まで概ね、30 分ほどで到着しますが、其処はもう早朝徒歩走行集団の巣窟となって、自転車の派閥はスポイルされそうであります。

朝陽の角度と櫻田濠の鏡面の輝きがぴったりと重なりますと、ご覧のようなコントラストの強い絵画性たっぷりの光景となりますが、あっという間に朝陽が昇れば平坦な光景となってしまい、平凡そのもののお土産写真に格落ちしてしまうのです。

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2007年8月19日 (日)

1935年・飯田橋

193513 1935年の飯田橋界隈の画像です。夏の厳しい日差しに照らされ、往く人の日傘の黒さが暑さを助長しています。今では夏の日傘は白よりも黒の方が紫外線を防ぐ効果があると実証済みですが、まだこの時代は、白が当たり前の話で、黒の日傘を持つなど、素人筋の家庭ではご法度だったようです。この女性も飯田橋付近を散策している、お向かいの神楽坂辺りのお姐さんかもしれませんね・・・。

1935年は元号では昭和10年( http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1935.html )ですから満州国設立・2.2.6事件・日中戦争・など軍部を中心として何か殺伐となってきた時代の真ん中であります。明治維新から67年しか経っていませんからこの頃の東京はまだまだ江戸の空気がたっぷりとあって、歴史の事実とは裏腹にまさに水の都に相応しい、美しい都市であったに相違ありませんね・・・。

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2007年8月18日 (土)

東郷青児邸・1957年

19571902 今から50年前、杉並区久我山でも、ひと際異彩を放っていた、画家・東郷青児 http://www.sompo-japan.co.jp/museum/togo/index.html邸を描いた一枚です。

小学校4年生の夏休みの宿題として、『自分の住んでいる周辺の絵』が出され、私は即座にこの家をモチーフとして採り上げました。まだこの時代は長閑な畑だらけの町で、駅から自宅まで雑木林を抜けて帰って来られた時代でしたが、この家だけは周囲の家の趣と全然違っていて、子供の眼には不思議な人の住まいという印象が強かったのです。

グレーとライトブルーで描かれた外壁の二階部分がアトリエと記憶しています。このアングルは実際よりも相当子供ならではのデフォルメを施していまして、もっと開放的な大きなスペースで東郷さんが、キャンバスを前にデッサンをしているところなども、垣根越しに見えたものです。

お嬢さんの東郷たまみさんは、ジャズ歌手として朝丘雪路さんらと一緒に芸能界デビューをされ、テレビの黎明期に活躍していました。子供の眼にもそのお嬢さんがこの町では異常なほど輝いていたのを、よく記憶しています。

この絵には描いてありませんが、広い芝生があってよく東郷さんが芝刈りをしていたのを、覚えています。今はすっかり周辺は住宅地として建物が密集していますが、周りは畑だらけのこの時代は、時代の先端を行く人と守旧の人が長閑な環境で同居していたのです。

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2007年8月17日 (金)

半蔵濠の風の道!

Img_8034 01 猛暑の日中に都心を自転車で走るほど、馬鹿げたことはないのですが、早朝の都心は案外と体に当たる風が涼しく心地よいのであります。

私の定番ルートである皇居周回も、朝7時前には自転車の同好の士が多く、けっこうな人数となっていて、夫々が集団走行していますが、私は単独走を自分の主義としてますから、がんがん飛ばすわけでもなく、風流を味わいつつ時速30キロ程で流します。

朝も7時を回ると一気に体感温度が上昇して、お好みのスポットで休憩する団体の様子が見えますが、この皇居周辺で私の大好きというよりも一番気持ちよい冷風を浴びることができるのが、この写真のスポットです。

通称・代官町通を北の丸から麹町に向かう交番の手前、半蔵濠を見下ろせる場所ですが、何故か最高に気持ちよい冷風を味わえるのは、たった一箇所でここよりほんの僅か横にずれても、そのありがたい涼感のご利益をいただけないのです。きっと、この写真に写る松の木と葉の按配が最高の冷却装置となっているのでしょう・・・。

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2007年8月16日 (木)

麻布永坂町の荘厳さ

Img_7293 Img_7291 Img_7289 軽井沢での僅かな休みを終え、六本木のAXISで展覧会を観た後、そのまま銀座に向かおうとしましたが、ここでも軽井沢の残像が頭を上げ、妙な勘がはたらいて、久しく行っていない麻布台・永坂町・狸穴町方面に出かけました。

麻布近辺でも聖域のよな自然樹木が鬱蒼としているこの界隈は、山と谷が狭い地域に密集していて、それだからこそ、人通りも少なく、うっかりきょろきょろしてますと警護の方に呼び止められてしまうこともありそうです。狸穴坂・植木坂・鼠坂と云う名前からも察しがつくように、その昔はずいぶんと凄い所だったのでしょうが、今や、港区の中でもそのグレードの高さは最頂点ですから、表札をみるだけでも何方かの住いか、すぐ分かってしまう方々ばかりがお住いであります。盛夏には蝉の鳴き声がこだまのようなボリュームで聴こえ、鬱蒼とした木々を通った風が天然クーラーとなって、極上の清涼感を味わうことができますが、自転車の選手のような恰好は避けていただき、くれぐれも身なりだけはきちんとしてお出かけください。Azabu

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2007年8月15日 (水)

軽井沢便り・その五

193208写真:土屋写真店

すっかり日帰り観光客を相手の、物販店舗の道となってしまった、軽井沢銀座も1932年(昭和7年)の頃はご覧のような大人の避暑地でありました。

往来する人も避暑地に相応しい、ゆとりのある外国人ばかりですし、自転車を押している方の姿などはまるで、この30年後に観られるフランス映画のワンシーンのようなスタイリッシュな瞬間です。

この時代は、まだ観光の大衆化など考えられず、庶民はただひたすら汗にまみれ、働くのみでありました。

ところで、天明三年(1783)、浅間山の大噴火によって軽井沢一帯は一部に森を残すのみで、軽石層(溶岩)によってその殆どを覆われてしまい、大半の植物が死滅した原野となってしまいました。この状態は大正時代まで続いたそうですが、明治8年に鳥居義処が官有地の払い下げを受け二十町歩ほどの落葉松の植林を行ったことが現在の軽井沢開拓のスタートのようです。しかしその後、半田善次郎・野沢源次郎・堤康次郎となぜか次郎絡みの開発者らにより、軽井沢の周辺では開発が既に大正期よりじわじわと進行し、戦後それはさらに加速し、軽井沢の別荘地が大衆分譲化するのと並行して道路整備・店舗誘致にとめどなく予算を組んだ結果、今ではそのグレードレベル・規約にも凸凹が起きてしまい、規制も後手後手となり、歯止めの利かない景観破壊も起き、優雅な時代の薫りと訣別してしまったのでしょう・・・。

それでも、夏から秋にかけては巷間、『東京が移動した』と云われるとおり、100年近くある種のクラスにおいては毎日・毎晩、東京ではワイドショー程度の軽薄な話題となってしまった社交の宴が、ワイドショーレベルとは全く異なる世界の連帯と閨閥を保つために、連綿として繋がっているのであります・・・。

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2007年8月14日 (火)

軽井沢便り・その四

Rimg0443 Rimg0456

軽井沢から志賀高原・石の湯ホテルhttp://www.shigakogen.jp/ishi-h/まで行こうと、朝起きて即座に決めて車を飛ばし、一時間と少しで到着しました。浅間山もこの日は透明感のある空に守られて、その柔らかい稜線をずーっと楽しむことが出来ました。草津・白根・万座経由の定番ルートですが、私は28年ぶりの夏ドライブですっかり浦島太郎状態で周りの景色を堪能しました。

横手山を過ぎ、のぞき小屋まで来れば、ここは私が青春の春休みを過ごしたゲレンデと景色が連なり、冬のモノトーンの世界と一変して、濃いグリーンの世界が展開します。熊の湯を見下ろす景観は気持ちよく、普段のせせこましい環境から開放されて、目の前が全面展開する感覚は嬉しい限りであります。Rimg0468

石の湯ホテルにも開業以来一度も伺うこともなく、この日、28年ぶりの石の湯に前原治さんをお訪ねしました。ここは辻まことさんのイラストから工作物まで『お好きな方々』には堪らない聖域のホテルです。すっかり忘れていたのですが、辻まことさんがデザインした石の湯ゲレンデのリフト会社のユニフォームに貼られたワッペンも、他のヨーロッパのワッペンと一緒に額装されていました。辻まことさんは、今のデサントというスポーツブランドの素晴らしいマークもデザインされてますが 、私はこの石の湯リフト会社のワッペンもその美しさと手刺繍の凝りようでは秀逸と思っています。現在、石の湯はスキーゲレンデを運営していませんが、その昔はスキーヤーにとって派手さはないものの、アフタースキーライフを楽しむという点ではダントツの桃源郷でありました。1974ksg4_2

たっぷりと、青春のDNAをリバースさせてもらい、かっ飛ばしで軽井沢まで戻ることにしました。

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2007年8月13日 (月)

軽井沢便り・その三

Rimg0517 Rimg0506 Rimg0509_3 連日35度以上の気温となっている東京のようですが、軽井沢はここ何日かの温室のような湿気まみれから脱却して少し、幾分涼しさが戻ってきたようです。この日も菊池仁志さんの個展会場・日動画廊に親戚一堂と押しかけ、中には学生時代の菊池さんを知っているお方もいてしばし談笑のひと時となりましたが、名うてのシティ・ボーイだった菊池さんも今や人並に記憶も定かでないことも多々あって、その会話の流れにも時々堰き止めがありました。

皆さんと別れ、私はいつものように軽井沢の奥に向かいまだ湿気に満ちた南国状態のアンリ・ルソーの画風のようなスポットでしばしオゾンをいただきました。この界隈はショー氏記念碑の先、二手橋を渡り左折して登っていくと、空気の切れ味が突然変わって、立っていても空気の流れに身を委ねている感覚があって、必ず立ち寄るスポットです。湿度の高さは石垣から伸びるしだの葉にも現われているようで、ずいぶんと南国的に育っている感じです。いわゆる軽井沢らしい小道と苔むした土手の場所も、植物の伐採が進むこの地域ではやがて、退化してしまうのでしょうか。

さらに少し登りますとご覧のような廃墟を発見!。Rimg0514 屋根からは植物が成長し始め、やがて、この物件は植物の中に埋もれてしまう運命かもしれません。

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2007年8月12日 (日)

軽井沢便り・その二

Rimg0531_2 Rimg0522 Rimg0524 Rimg0518_2今や、軽井沢でさえ、アウトレットの集客に味を占め、いよいよ軽井沢駅もビルにして品川駅のようなことを目論んでいるようですが、私はそんなことにもお構いなく、ひたすら懐かしの中仙道を峠に向かって散策しました。と言っても、つるや旅館 http://www.tsuruyaryokan.jp/topics/topics.cgi からほんの5分ほど車を使えば碓氷峠に行けるのですから、お気楽な話ではありますが・・・。

さて、この碓氷峠にもなかなか面白そうな商いの客引き合戦のような気配を感じ、ちょっと覗いてみることとしました。その昔、旅人は横川側から峠に向かいこの頂で力餅をいただくというのがお約束のようで、さしずめ現代でいえば「とりあえず・・・ビール!」といったところでしょうか。今では六軒ほどの店が伝統を背景にしのぎを削っていますが、ここは400年以上も続く旧峠側の『あづまや』と熊野神社前の『しげの屋』に的を絞ってリサーチしてしまいました。どちらもレシピは変わらず、あとは餅の触感とあんこ・おろし・きなこ・くるみ・ごま、それぞれの素材の違いということになってしまうのでしょうが、私はさらに店からの絶景の違いと女将さんの様子を比較してしまいました。峠からの眺めはどうみても『あづまや』からの妙義山の造形を堪能できる方に軍配を挙げますし、個人的には,あづまやの女将さんにその素朴ながらの品性の美しさに好感をもってしまいました。

包装の意匠も何故か酷似していて、この辺りの話も曰く因縁がありそうですし、本家と分家といった絡みもありそうですし、いやはや・・・ちょっと小説ネタとしても十二分に面白そうな背景がありそうです。

今や旧・碓氷峠から上ってくる人も少なく、圧倒的に軽井沢からの観光客を相手の時代となってしまいましたから、状況は昔と異なってしまったでしょうが、各店ともに美味しい味に精進されんことを願わんばかりでありました。

さて、あづまやは軽井沢旧道・つるや旅館の隣に分店を出していますが、ご時世なのか私にはカジュアル過ぎて馴染めず、もう少し小ざっぱりした正統な甘味屋にされ、以前、向かいにあった近藤長屋の雰囲気に差し戻されることを祈っております。それでないと、目の前には何故こんなところに!と訳の分からない無国籍モダンで固められた空虚で人の気配のしないブライダル会社の運営するスペースが出来、ウエディング・ドレスがガラス越しに陽射しを浴びて黄ばんでいそうで、笑って済まされないほどの恥ずかしい状態ですし・・・、それ以上に軽井沢の歴史・過去との繋がりが途絶え、間抜けな抜け殻のような観光地に転落することは、もう許されることではありませんから・・・。

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2007年8月11日 (土)

軽井沢便り・その一

Rimg0600 梶原さんがロンドンへ旅立って行かれた日、我家では突然、予定もしていなかった軽井沢・『つるや旅館』の当日キャンセルが出たので、急いで荷物をまとめて車に乗り込みました。関越自動車道は既に渋滞となって結局谷原から旧軽まで4時間以上もかかり、人間以上に犬もお疲れ状態となりました。

今年も湿度の高い気候の上、猿は出るわ、クマも出るわといったここ数年の生態系の軸ずれによって観光客も少なく、意外と静かな旧軽井沢でありました。古の避暑のイメージはもうとっくの昔に消し飛び、ジャム屋が多くなり様々な物販の気配がよりRimg0354濃くなって、まさに避暑地というよりも観光地の薫りがぷんぷんとしています。

私は、楽しみにしていたPIETROさんこと菊池仁志さんの個展を日動画廊・軽井沢店 http://www.nichido-garo.co.jp/exhibition/2007/07/choice_of_this_summer.htmlで観ることもできました。菊池さんは日本に鉄鍋(ダッチ・オーヴン)料理の楽しみを料理だけに留まらず、その文化的背景から野外余暇生活の楽しみまで広める伝道師をライフワークとされ、ジャパン・ダッチオーヴン・ソサエティhttp://www.jdos.com/index.html会長として自ら『鉄なべおじさん』を名乗り、広報・普及・イベント活動に邁進し、また、雑誌『料理王国』の連載・ヤンミー食堂で洒脱な文体と軽いタッチの水彩画を通し、多くのフアンをもつ文人でもあります。私は37年前に友人を通してご紹介いただき、その後、何度かご一緒に東京の夜を楽しみましたが、すっかり疎遠となってこの日個展にお邪魔して、お互いに昔の面影の微塵もない姿を通し、再会を笑ったのであります。今回の個展は12日まででありますが、菊池さんの好きな旅に絡むモノや思い出をモチーフにしたガラス絵・水彩画を中心に楽しい場を構成しています。

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2007年8月10日 (金)

ドンキホーテに風格が!

Img_6119_1                                                                      

毎日毎日、過酷な日程での自動車の旅を続けた、1967年のヨーロッパ旅行のサプライズは、予想外にもモナコのカジノで勝負を賭けたブラックジャックで大勝利したY田氏のおかげで、スペイン迄、地中海のパノラマ・ツーリングを楽しめたことでした。

なにしろ45日間で15,000kmという空恐ろしいほどの、過酷なスケジュールでしたが、その間、本場の自動車レースを見たり、ストックリーという銅の鍋を作っている工場が兼業している、当時最高級の手作りスキーを買付けしたり、挙句は、道に迷ってイタリアのドロミテ村の祭りの最中に、ど真ん中の会場に飛び込んでしまったなど、十二分に、貴重で面白い体験をさせてもらいました。

そして、最後に辿り着いたスペインのバルセロナで買い求めたのが、この、『ドンキホーテ』様であります。丁度、今年で40年となりましたが、当初は真っ白な生地で、いかにもお土産といった感は歪めませんでしたが、年を経る毎に、良い風合となって、今では立派な彫刻作品となってしまいました。Img_6117途中、棚から落としたり、子供が悪戯したりして、槍も剣も消失してしまったからこそ、ジャコメッティー風ともいえる風格が出たのかも知れません。

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2007年8月 9日 (木)

1955年・モダンリビング誌

Img_6353 Img_6354 Img_6352 父の古い資料の中から、1955年のモダン・リビング誌が出てきました。

1955年の頃といえば、一般にもそれまでの和式一辺倒の生活から、洋式を採り入れた生活に転換し始め、その時代背景の影響が日本にも新しい住宅デザインの流れが興き、この雑誌に登場する坂倉準三・清家清・アントニンレイモンド・広瀬鎌二など、大御所と呼ばれる建築家の皆さんも、若々しい気持ちで新しい流れを表現している時代です。

雑誌はもうぼろぼろでありますが、いつも食卓に置いてあり、私も小学校3年生でしたが、よく見ていました。『和風住宅80選』というタイトルですが、決してそのようなニュアンスの住宅でなく、むしろ新住宅傾向と呼んだほうが良さそうな作品ばかりであります。

最近の住宅では使われない素材の組合せが見られますし、当時の先端素材であったブロックなども新鮮に映ります。時代のせいでしょうが、平屋が多く、狭いながらも快適で開放感のある住まいが多く掲載されています。

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2007年8月 8日 (水)

広重風・多摩水道橋

Img_8010 早朝の多摩川堤は、程よい風がやさしく当たり、自転車で走るにはご機嫌な定番ルートです。自宅から10キロぴったりにある、この多摩水道橋はロードレーサーの皆さんが日曜日に待ち合わせなどで集合するスポットに近く、品の良いシンプルな姿をいつも見せてくれています。

この日は久しぶりの快晴となり、水面も穏やかな輝きを取り戻し、普段より一層、美しい橋の姿でありました。

デジカメを取り出し、アングルに試行錯誤しましたが、普段から頭に焼き付いている安藤広重の構図を拝借して、真似てみました。上に僅か覗いている樹木の葉をそっとあしらってみると、それなりの広重もどきとなって、平凡な撮影対象でも、時空を封じ込めることに成功しました。写真を撮り終えて、更に先に向かいますと、何とこの橋のたもとから独りでブルーグラスを唄っている若い方がいるではありませんか・・・!。しかも私世代にはブルーグラスミュージックの名曲として懐かしい「We'll Meet Again Sweetheart」 http://www.youtube.com/watch?v=uLFtgShtW9k を若い感性でリズムもメロディーもアップディトして、快適なサウンドでありました。今月の24日からは箱根ブルーグラス・フェスティバルが開催されますから、それに向けた練習でもされていたのかも知れません。

この画像の左側の橋のたもとで立って居る人が小さく写っていますが、この方が、そのブルーグラス・ボーカリストであります。

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2007年8月 6日 (月)

コートダジュールの輝き!

Src_118869491 Photography : odebunekosan

このような画像を見てしまうと、もう駄目なのであります。この光の輝きとテラコッタのラスティックな質感こそが、南フランス・ロクブリュヌの質素だが健康で豊かな生活を象徴していますね・・・。

都市の情報消費とは異なった、身の程を弁えた人々に支えられて形成されてきた街並みは容易に外様がかき乱すわけにもいかず、それはこの日本でもほんの少し前まで継がれてきたことでもありました。

今、日本では残念ながら人の命よりも土地の公示価格によって相続税が決まるという傑作な公平性という名の下での論理が長く定着していますが、他所の国では相続税にも、どんなバラエティーがあるのでしょうね・・・。

さて、ツールドフランスの自転車レースのヘリからの景色も素晴らしいものでしたが、この景色もたまりませんね。坂のある街の暮らしというものは三代揃って、夫々の家族が支えあっていませんと、日々の生活がたいへんといわれているだけに、これだけ考えても、この街・ロクブリュヌは家族の絆がサスティナブルであることを物語っていますね・・・。

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2007年8月 5日 (日)

安野光雅のアルプス

609_1 冷たく澄み切った空気が行き渡っているような空気感の水彩画です。スイス・マッターホルンの麓から眺めた光景ですが、雪のマッターホルンと日陰の麓の対比がこの絵に緊張感を与えています。遠近感も申し分なく、写真では表現出来ない手技の勝利であります。

この絵、実は安野光雅氏の手によるものであります。安野さんは比較的穏やかな景色をお好みとばかり思っていましたから、このような画趣のものをみつけたので、少し見直してしまいました。手前よりも奥の山並みに焦点を当てたセンスもなかなかですし、とりわけ、全体のトーンに冷たいながらも温かさを感じるのは、陽を浴びて反射する何も塗らない紙の効果とは、恐れ入りました。

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2007年8月 3日 (金)

あの頃、街はよしずだらけ!

1_13 2_14 この30年近くの間に、日本国内の大きな商店街の殆どは、アーケードで覆われてしまった感があります。たしかに商店側にとっては、雨の日も来客していただける長所もあり、商店街の一体感をアピールできる環境でもあったのでしょうが、ここにきてシャッターを閉じたままの街も少なくなく、それ(アーケード)がかえって閉塞感を助長しているようにも見えてきますから、分からないものです。

さて、この写真は終戦後にGHQのカメラマンが撮影した日本全国の風俗・記録写真から抜粋した銀座・晴海通りの様子です。この時代(1950年前後)ともなると、だいぶ余裕も見えてきた一般の銀ブラ族からサラリーマンにいたるまで、将来に向けた希望に満ちた明るい顔つきと立ち振る舞いをうかがうことができますから、日本人は立ち直りの速い民族なのであります・・・。

私は自分でいうのもなんですが、そうとうせっかちな性格で、速足で歩くタイプの人間ですから、今の銀座のゆっくりとした歩きをしている皆さんを追い越すのもなかなか勇気のいることでありますが、この写真からは、皆さん比較的速めに歩かれているリズムを感じます。時代が復興期でありますから、忙しなかったことでしょうからのんびりしている余裕などなかったのでしょうか・・・、今の街をゆっくりと歩かれる皆さんには恰好の良さを見出すことさえ出来ないと考える偏屈な性格でもあります。

さて、この写真に写っている歩道に映り込むよしずからこぼれた陽射しがゆらゆらと動いて、歩道にも光の動きが生まれて独特の夏の風情というものを生じていますが、このよしずを陽射しに利用していたのは、日本の商店街独特なのか、銀座以外にも神田・渋谷などでも見られ、小学生だった私は父と一緒にこの眼が回るようなきらきら輝く歩道を歩いたのを思い出します。見るからに涼しげですが、実際よしずを抜けてくる風は程よい清涼感を伴っていて、ローテクながら季節感を最高に演出してくれる、装置でもあったわけです・・・。

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2007年8月 1日 (水)

Bill Monroe

Bluegrass1401 写真:小森谷信治

ブルーグラス音楽にはまり出した10代の後半、ビルモンローの潔癖主義とある種の狭い南部感覚に馴染めづ、むしろレスターフラット&アールスクラッグスのポップスに近いブルーグラスの方に、時代の後押しもありましたし明るい未来を感じました。

それでも、歳を重ねる毎にあの独特としか云い様のないリードヴォーカルとアグレッシブなリズムのマンドリンが耳に焼き付いていて、離れません。最近では、むしろ偉大なミュージシャンとして評価されていますから、やはり大事なことはオリジナリティーなのでしょう。同じことはラルフ・スタンレーにも云えて、彼の枯淡の境地に満ちた歌いっぷりは、ビルモンローとは違った温かみがあります。ジャック・クックとの名唱ではラルフ・スタンレーの低音が渋く光ります。( http://www.youtube.com/watch?v=Ob8xo_RL_Jc&mode=related&search )

また、You Tubeから聴こえてくるビルモンローのハイロンサムサウンドは、有難い生き神様が歌っているようであります。( http://www.youtube.com/watch?v=3mYj_uI01u4&mode=related&search

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