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2007年8月15日 (水)

軽井沢便り・その五

193208写真:土屋写真店

すっかり日帰り観光客を相手の、物販店舗の道となってしまった、軽井沢銀座も1932年(昭和7年)の頃はご覧のような大人の避暑地でありました。

往来する人も避暑地に相応しい、ゆとりのある外国人ばかりですし、自転車を押している方の姿などはまるで、この30年後に観られるフランス映画のワンシーンのようなスタイリッシュな瞬間です。

この時代は、まだ観光の大衆化など考えられず、庶民はただひたすら汗にまみれ、働くのみでありました。

ところで、天明三年(1783)、浅間山の大噴火によって軽井沢一帯は一部に森を残すのみで、軽石層(溶岩)によってその殆どを覆われてしまい、大半の植物が死滅した原野となってしまいました。この状態は大正時代まで続いたそうですが、明治8年に鳥居義処が官有地の払い下げを受け二十町歩ほどの落葉松の植林を行ったことが現在の軽井沢開拓のスタートのようです。しかしその後、半田善次郎・野沢源次郎・堤康次郎となぜか次郎絡みの開発者らにより、軽井沢の周辺では開発が既に大正期よりじわじわと進行し、戦後それはさらに加速し、軽井沢の別荘地が大衆分譲化するのと並行して道路整備・店舗誘致にとめどなく予算を組んだ結果、今ではそのグレードレベル・規約にも凸凹が起きてしまい、規制も後手後手となり、歯止めの利かない景観破壊も起き、優雅な時代の薫りと訣別してしまったのでしょう・・・。

それでも、夏から秋にかけては巷間、『東京が移動した』と云われるとおり、100年近くある種のクラスにおいては毎日・毎晩、東京ではワイドショー程度の軽薄な話題となってしまった社交の宴が、ワイドショーレベルとは全く異なる世界の連帯と閨閥を保つために、連綿として繋がっているのであります・・・。

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