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2008年7月21日 (月)

久我山の景色・1933年

4 写真提供:高井戸第二小学校

Wer1933年(昭和8年)の久我山の写真です。手前に見える道は現在の人見街道で真中辺りに盛り上がっている土手が井の頭線の線路です。

さらにずーっと奥に見える崖の上に、ずいぶんと立派なお屋敷が見えますが、これこそ孫文の中国革命に支援参画して、その後、汪兆銘とも深い親交があった太田宇之助邸です。この崖の直下には、江戸時代と同じ風情の神田川が流れていました。

何故この太田さんのような立派な方が,辺鄙な久我山辺りに居を構えたか、訳は定かでありませんが、1986年に亡くなられた後、1989年には東京都・中国留学生会館として、林雅子さんの設計によるそれはモダンな中になぜか中華感覚あふれんばかりの不思議建築となりました。http://www.japan-architect.co.jp/japanese/4guide/tokyo/page/D160.html現在は東京都太田記念館 として、北京出身の留学生ならびにアジアからの留学生の寮として機能しています。http://www.iitown.net/ota/

私は小学生の頃、久我山駅から途中の雑木林を抜けて遊びながら家に帰る途中、この太田宇之助邸の英国式郊外住居の典型のように思えた素晴らしい環境を、ほぼ毎日観ていて、そこには、周りの慎ましい住宅から観ればあまりにも格の違いのある「外国」があるように思っていました。やがて、デザインや建築のことを学ぶようになり、この大田邸が『あめりか屋』 http://www11.ocn.ne.jp/~yas-arch/amerikaya.htm の設計による西洋の物真似でない、由緒正しいニッポンの風土を知り尽くした洋風住宅であることが分かりました。

返す返すも、この建物が壊される1987年頃に、失礼を承知で建物から庭までを撮影しておけばと、今でも思い出すと残念でありません。なにしろ、この大田邸の庭には中国産の薔薇が咲き誇っていて、それがオールド・ローズという薔薇の原種であったことすら、最近知り得たのですから・・・。

父は昭和19年頃、この太田邸のずっと左側の辺りに移転してきました。既に画家として著名だった兄の住いを故あって譲り受けたのですが、北側のアトリエ独特の開放感のある全面ガラスから見える当時の神田川や水田、長閑な井の頭線は贅沢なパノラマでありましたが、1970年代には台風で神田川が氾濫して、水田は用を成さず、結果、井の頭線の操車場となってしまい、早朝から深夜まで騒音と輝かんばかりの格納庫の照明に悩まされるのでした。

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