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2008年7月31日 (木)

久我山の坂道 昭和30年代前半

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写真提供:杉並区高井戸第二小学校

7月6日のブログと同じ本の中に登場する写真です。

生まれてから45年間お世話になった、井の頭線・久我山駅の南口を出て、人見街道を横断すると間もなく、狭く急な蛇行した登り坂道が現れます。

今では左右に多くの商店が立ち並んでいますが、昭和30年代前半はご覧のような田舎風の雰囲気でありました。只でさえ狭いのですから、此処を岩崎通信機のサラリーマン・国学院久我山高校の生徒が上ってくると、久我山駅に向かう下りの人とが混ざり合って、この辺りで渋滞したりしたものです。

この写真では既に簡易舗装化していますが、これは毎年、台風の大雨で右の土手から坂道に滝のように泥水が流れ、足元がすくわれ大変危険な状態になったからです。小学校低学年の頃はこの坂道が土でしたから、雪が降ればスキー場となって、この時代特有の竹スキーに乗ったお兄さんたちが遊んでいたことを思い出します。

電柱に表示されている「カメラの店 リヒト」は当時としてはたいへん洒落た建物の写真屋さんで、店主の林さんの腕も良かったものですから、この界隈には多くの得意先を持っていて大繁盛していました。

右手に見える赤土の土手のさらに右には広大な雑木林が広がっていて、延々と富士見が丘までつながっていました。この雑木林を下ると神田川に降りることが出来ましたが場所によっては雑木の根がからまっていたり、伐採した枝の鋭利な切り口が上を向いていたり・・・などと危険極まりないところもあって、よくこどもが怪我をしていた記憶があります。この雑木林を横断すると家まで早く帰ることが出来ましたし、春となれば自然の草花が咲き誇っていましたから、ほぼ毎日、この自然の宝庫を楽しめる場所を目指して、土手を登っては帰っていました。

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2008年7月30日 (水)

内房総・保田 1949

Photo 写真撮影:ディミトリー・ボリア

美しいニッポンそのもののような写真ですが、1947年、GHQ専属カメラマンとして来日、多くの今となっては貴重な日本全国の風俗を撮りまくった、ディミトリー・ボリア氏が内房総の保田漁港を撮影した1949年の一枚です。

美しい海岸線は今は全く残っておらず、あのテトラポットの醜い姿をさらけ出していますから、このような写真を観ているだけでも、考えさせられること多々あります・・・。

さて、この時代はまだ江戸時代から続く網元が漁業権を支配して、漁師から搾取していたらしいのですが、漁師の姿にはそんな暗い感じもなく、漁港らしい活気にみちています。

また、飛びぬけるような青空に、新しい時代がじわじわと来ている象徴のような気配が乗り移っているようでもあります。

江戸時代からの悪しき慣習が廃止、民主化による新漁業法がこの年1949 年12月に施行され、その後、組合が漁業権を掌握していくという、正にこの年の漁民にとっては大革命の、素晴らしき夏模様であります。

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2008年7月29日 (火)

夏の学校 1957・初めての褌だ!

195741 小学校4年生からの夏の学校という避暑を兼ねた勉強と水泳鍛錬が、この学校の連綿たる伝統行事でしたから、水泳を最も苦手とする私には最悪の学校でありました。この年頃ともなれば、早熟な仲間も多く、ずっと年の離れた兄貴からこっそり持ち出したであろう『その類』の雑誌を、夜の消灯時間になるとちらつかせる輩もいたり・・・と、それなりの社会勉強のチャンスでもあったりしたわけでありましたが・・・!。

それでもこの姿をご覧になっておわかりのように、男子は褌姿であります。褌の締め方は教室で何度となく練習していていましたが、実践の場ともなれば思うように締められない男子も多く、先生方もずいぶんと手こずっていたようです。褌のコツは最初の折り方と最後のお尻にまとめるときの絞り方なのですが、案外難しく、身体の硬い私も苦労したものです。しっかり締め付けませんと、『こんにちは』をしたりと思わぬハプニングで女子のひんしゅくをかってしまいますから、お座なりにはいかないのです。柔軟体操をしていても、いつ突然『こんにちは』になるか分からず、ましてや隣が女子という絶対絶命な男子ならば,隣が気がかりで、体操などには全然身が入らないのでありました。

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2008年7月28日 (月)

東宝スタジオ・砧

Rimg10914 Rimg10921 Rimg10917 この日、吉祥寺に仕事の打合せがあって、午後1時に終了したので、井の頭公園を抜け、東八通り経由で成城方面に向かいました。成城には増田屋という蕎麦の名店があって、ここの更科蕎麦は問答無用の絶品です。以前は玉川高島屋でも買えることが出来ましたが、職人さんの都合で、昔どおり、この店しか扱わなくなりました。

ところで、成城もご他聞にもれず、相続やら・・・やらで、往時の美しい町並はパノラマとして存在することが稀少となってきて、ごく僅かなところにのみ、戦前の重厚感溢れた家並・街並が残されていますが、時代の流れに逆らうことは難しそうで、やがてこの町も、普通の勝手気ままな建物だらけの町になってしまいそうです。

成城を世田谷通りに向かう手前、東宝大工センターに左折すると、知らなかったのですが・・・、砧・東宝スタジオがすっかり化粧直しをして、ずいぶんとモダンな様相を呈していました。ここを流れる仙川の桜は春ともなると昼夜問わず美しい景観を見せてくれ、私の春の嬉しい自転車おきまりコースです。

さて、撮影所の入口には、ここで生まれた『七人の侍』・『ゴジラ』が堂々と日本映画の代表たるべく、胸を張っていました。残念ながら、「関係者以外立ち入り禁止」でありますが、ここは、何か、人の集まりやすい要素がオーラとしてありますから、そんな杓子定規なことを云わず、オープンに映画撮影を見せてもらうことなど、難しい話なのでしょうか・・・。

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2008年7月27日 (日)

銀座十二章・池田弥三郎

Rimg5359 銀座で三代続いた天ぷらや『天金』に生まれた池田弥三郎さんが書かれた「銀座十二章」は、銀座の変遷を、街の姿から生活する人々の立振舞い、そして生活断面の詳細な描写にいたるまで一貫したストーリーがあざやかで、実に具体的で風俗史としても超特級です。

最近は、インターネットでクリック一発で探し求めていた一冊が簡単にモニター上に表れるご時世ですが、私はどうしてもこのようなジャンルの本を手に入れるには、スピードよりもプロセスを愉しむタイプですので、やはり神田界隈の徘徊・探索の出会いの結果・・・、ということに期待するわけであります。要は、著作本は単なる物品ではなく、ある一時代の普遍的、あるいは異端的な生活観でもあるわけですから、出来うるならばその余韻を体感しながら、偶然の出会いに期待するという面倒くさいロジックを、父親譲りの偏屈なDNAが正当化しようとしてしまうのです。

この本は、神田・中野書店にあった一冊ですが、此処は古書店の王道的品揃え展開が、よく整理・分類されてあり、その分類自体が一つの表現として成立していますから、最近とくに物忘れ頻度の高まった状態ですと、ふらっと訪れては、記憶の呼び戻しをするのに最適なところであります。

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2008年7月26日 (土)

夏の店!

Natural_landry_3 夏の定番といえば、マリンストライプ・ボーダー柄に代表される、横縞柄がすべてのブランドから登場し、その微細な違いをアピールするものの、買う側はストライプ・チェックなどの平凡な柄は安いモノという刷り込みがあって、自分たちの今シーズンの自慢をアピールするにも、難しいところがあります。

さて、商品のみならず、取り巻く周辺の空気感や素晴らしさを伝えるにはVMD(Visual Merchandising)という手法があって、これは単純なディスプレーとは違い、そのブランドのシーズンメッセージを視覚的に訴求する高度なセンスと、時代気分などジャーナリスティックなセンスをも、問われてしまいます。自由が丘の店がそれぞれ楽しいのは、このVMDのセンスが際立っているからかも知れません。

ここ、自由が丘・Natural Laundry   http://www.naturallaundry.com/ は南仏のリゾートに触発された、イメージのアイテム構成と、これまた、リラックス感たっぷりの店舗展開が人気の店です。飾りすぎず、ちょっと頭の良さそうな10代をイメージしたような、このさっぱりしたVMDも好感が持てましたし、自転車を降り店の前で撮影しても、店内から断られることなく、可愛いお嬢さんたちの嬉しそうな目線を浴びてしまいました。だらしなさ過ぎず、かしこばらない、ほどほどの上品さが加味された一連のストライプも、日中の陽射しを受けて、正にぴったりのはまり役を演じていました。

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2008年7月25日 (金)

ポールスミスも走っていた!。

02 201 私が高校生の頃といえば、1963年から1965年あたりですが、毎週末、天気に問題なければ東京郊外を自転車で走り回っていましたが、丁度同じ頃、ロンドン郊外をひとりの男が、やはり自転車の魔力に引き込まれて、走りまくっていました。後にファッションビジネスを成功に導いたサー・ポール・スミス http://www.paulsmith.co.jp/ です。

この写真を見ても、私の乗っていたロードレーサーと全くお揃い状態で、各ディテールの収まりなどは1960年代のテーストに溢れ懐かしさで嬉しい限りです。

今や、ハイテク化してしまった競技用自転車ですが、この頃はまだカスタムメードとしてフレームを技巧的に細工する職人技の蝋付け溶接に、グレードの全てがかかっていました。最近はハイテク化の反作用で、このようなクロモリ系の自転車を愛する方々が、特に若い方を中心に増えているそうですから、自転車の美しさが最もよく表れる細身のロードレーサーを愛して止まない私世代としては、喝采ものであります。

まあ、こんな写真一枚を眺めているだけでも、学校から帰ると先ずは自転車磨きに始まり、夕食時間まで一つ一つの部分を食い入るように見つめていた、45年前のワンシーンが蘇ってきます。

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2008年7月24日 (木)

芦ノ湖はネス湖のようでした。

22 23 1955年の箱根芦ノ湖の光景は、私の通っていた学園の箱根寮から撮影されたものです。

此処は広大な敷地があって、小学校2年生の私にとっては初めて体験するワイルドライフでした。夏の学校と称する避暑を兼ねた合宿は、勉強あり遊びあり遠足あり・・と子供にとってもわくわくする毎日の連続で、それこそ明日が待ち遠しい、と思わせるほどの魅力に溢れた毎日を堪能できました。

寮の北側には乗風台という名の小高い丘があって、其処を上ると視界が開けて、野趣に富んだ草原が360度パノラマのように展開していました。場所によっては背丈ほどある草原でしたから、駆けっこ・ゴジラごっこなど手当たり次第に遊びのネタを活用しまくり、午後の勉強は疲れきっていて、居眠りとの格闘ばかりしていました。

この草原をさらに奥に進むと、子供にはお化け屋敷のように思えた学園創設者の山荘が、朽ちていましたが立派な外観が佇んでいて、勇敢な生徒はどしどしと入って行き、まるで英国のカントリーハウスのような暖炉の周りには、古の優雅な時代が在ったことを示していました。

小学校時代はこのあと臨海学校ばかりとなりますが、私はこの箱根の体験が、ほぼ手付かずの自然環境とじかに触れ合ったという意味では、今も鮮明なできごとでありました。

この環境も、その後、諸般の事情により規模も縮小となったようですし、乗風台近辺には立派な施設も完成したそうですから、近々一度、この写真を持参して、現況を観察しに行こうかと思っています。

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2008年7月23日 (水)

園の賑い・鍵善良房の夏模様

Rimg11069Rimg11071 園の賑い

むかし祇園祭にあでやかな女人たちが、それぞれに装いをこらした行列の「園の賑い」がありました。

その、うつくしかりし面影をしのんで、ゆたかな四季の花ばなを映し出した京のお干菓子。

つくし、わらび、さくら、蝶、青楓、水、桔梗、すすき、菊、月、紅葉などなど。

香ばしいにぎりらくがん、

愛らしい おちよまのなかに散る繊細な造形に、いち早く季節が咲きます。

手のひらの上の園の賑いですぎをん・鍵善良房

気象の変化はともかく、陰暦を元とした日本伝統の歳時記を太陽暦にも移行してしまった絶対矛盾によって、今の私たちは、先人の季節を遊ぶ感性・微妙な季節感の機微などが折り合わず、、時季の感性がひと月以上、ずれてしまいました。それでも、茶道に関わるなど、伝統を重んじる世界では、連綿として、ひたすら、家訓を遵守しつつ、季節の趣向を凝らして、小さな世界に封じ込めます。京都・祇園の鍵善良房の『園の賑い』は冒頭のような由来通り、京都の夏・祇園祭にインスパイアされたものですが、いつの頃からか、というか、あまりの人気ゆえ、年間販売商品となり、そうなれば四季の移ろいを全てこの小さな世界に封じ込めざるを得なくなり、春夏秋冬がフルセットで楽しめる、正に『幕の内弁当文化』の代表のように変遷したものです。

じめっとした夏には濃い目のお薄とともにいただくと、甘さと苦味が口内で格闘し、きりりとして、よれきった精神までもが正されるのです。

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2008年7月22日 (火)

夏にはパナマ帽!

Rimg10148 Rimg10576 少なくとも、昭和30年代中頃まで、正しい男の正しい夏姿といえば、麻のスーツにパナマ帽、コンビの靴といったあたりが、銀座を闊歩する紳士の約束ごとであったと云われています。今も、たまに、このような老年紳士に銀座・王子製紙界隈や、築地あたりでひっそりと遭遇することがあり、その正しい男の夏姿に相応しいカタチを観ると、男の姿も環境なのだ!、と思わざるを得ないのです。一転、銀座の表通りは、アジアの元気な族(うから)に席捲されてしまい、その皆さんは、半ズボンに間抜けなスポーツキャップが決まりのカタチのようですから、銀座よりも海水浴場が相応しい、いでたちばかりです。

さて、最近の雑貨屋さんの品揃えは、なかなか洒落た逸脱感(意図した品揃えのフェイントをかけることによって、店舗にアクセントをつける)があって、このパナマ帽も自由が丘・IDEE www.idee.co.jp/shop/jiyugaoka/ で見つけました。銀座のトラヤあたりですと、ボルサリーノに代表されるクラシック・ブランドばかりで、価格も「ちょっと買ってしまった!」では許されない、ものばかりです。その点、IDEEですと高感度・低価格な品物に定評がありますから、安心して、ちょっと洒落た気分を味わえます。因みに、このパナマ帽は驚愕の¥3,000台ですから、早い者勝ちといったところでしょうか。値段が値段ですから、完璧なクオリティを求めてはいけませんが、適度な「よれっとした」感じは、今の時代を掴んだ気分であります。サイズはLとXLのみですが、一個一個のフィット感が異なるので、きっと何方にも適合するものと思います。

まあ、何処に行っても空調の効き過ぎといった感があって、気温が高いからと、うっかり麻のシャツを着て出かけ、店内に少しでも居れば、ぞくっとしてしまうことが多いので、重ね着準備を怠ることができず、そんな時だからこそ、せめて帽子くらいは、目一杯夏気分を満喫したいものです。

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2008年7月21日 (月)

久我山の景色・1933年

4 写真提供:高井戸第二小学校

Wer1933年(昭和8年)の久我山の写真です。手前に見える道は現在の人見街道で真中辺りに盛り上がっている土手が井の頭線の線路です。

さらにずーっと奥に見える崖の上に、ずいぶんと立派なお屋敷が見えますが、これこそ孫文の中国革命に支援参画して、その後、汪兆銘とも深い親交があった太田宇之助邸です。この崖の直下には、江戸時代と同じ風情の神田川が流れていました。

何故この太田さんのような立派な方が,辺鄙な久我山辺りに居を構えたか、訳は定かでありませんが、1986年に亡くなられた後、1989年には東京都・中国留学生会館として、林雅子さんの設計によるそれはモダンな中になぜか中華感覚あふれんばかりの不思議建築となりました。http://www.japan-architect.co.jp/japanese/4guide/tokyo/page/D160.html現在は東京都太田記念館 として、北京出身の留学生ならびにアジアからの留学生の寮として機能しています。http://www.iitown.net/ota/

私は小学生の頃、久我山駅から途中の雑木林を抜けて遊びながら家に帰る途中、この太田宇之助邸の英国式郊外住居の典型のように思えた素晴らしい環境を、ほぼ毎日観ていて、そこには、周りの慎ましい住宅から観ればあまりにも格の違いのある「外国」があるように思っていました。やがて、デザインや建築のことを学ぶようになり、この大田邸が『あめりか屋』 http://www11.ocn.ne.jp/~yas-arch/amerikaya.htm の設計による西洋の物真似でない、由緒正しいニッポンの風土を知り尽くした洋風住宅であることが分かりました。

返す返すも、この建物が壊される1987年頃に、失礼を承知で建物から庭までを撮影しておけばと、今でも思い出すと残念でありません。なにしろ、この大田邸の庭には中国産の薔薇が咲き誇っていて、それがオールド・ローズという薔薇の原種であったことすら、最近知り得たのですから・・・。

父は昭和19年頃、この太田邸のずっと左側の辺りに移転してきました。既に画家として著名だった兄の住いを故あって譲り受けたのですが、北側のアトリエ独特の開放感のある全面ガラスから見える当時の神田川や水田、長閑な井の頭線は贅沢なパノラマでありましたが、1970年代には台風で神田川が氾濫して、水田は用を成さず、結果、井の頭線の操車場となってしまい、早朝から深夜まで騒音と輝かんばかりの格納庫の照明に悩まされるのでした。

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2008年7月20日 (日)

南麻布・青木坂(富士見坂)

Img_8215 青木坂は港区南麻布4丁目にあり、フランス大使館前から南西方向へ下る全長100mほどの狭い急坂。新富士見坂のすぐ南隣にあります。江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったことが坂名の由来。当時、坂上から富士山が良く見えたので富士見坂とも呼ばれていました。現在の坂上部は高い塀と樹木に日差しが遮られ、昼間でも薄暗く「幽霊坂」のような雰囲気です。

この辺りは麻布台地の南西部に位置し、西麻布から南麻布にかけて都内で最も起伏に富む地形が続きます。付近一帯の旧町名だった富士見町は優れていた眺望から名づけられただけでなく、江戸時代初期にあった将軍家別荘「白銀御殿」の別名「富士見御殿」からとの由来もあります。江戸時代の富士山眺望に代わって、現在では恵比寿ガーデンプレイスタワーの超高層ビルが正面にそびえます。

夏ともなると、早朝でなければ、その暑さ故、自転車から遠ざかるのが自然の成り行きというものでしょうが、東京都心のなかでも山あり谷ありといった起伏に富んだ麻布界隈の地形であれば、涼む処も多く、蝉の声もさらに涼感を増長してくれますから、陽射しが強くとも、案外ヒルクライムの練習も兼ねて江戸の名残を踏みしめるのに最適なルートが、多々あります。

此処、青木坂は、南麻布フランス大使館裏にあり、厳しい勾配をもっていて、一本北側にある新富士見坂とともに、周辺も含め、居住環境グレードの高さもセットで愉しめます。上りきって、左方面に向かえば、いつの間にか、有栖川公園附近に出て、此処で深い緑の元、一服するのが定石です。この界隈は、江戸時代の道筋がそのまま残っていることが多く、ふと気が付くと、うっすらとした森の中といった情緒気分に浸ることができます。

しかし、あまりうろうろしていますと、ガードマン比率の高い環境ですから、不審に思われないよう、ご注意ください。

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2008年7月19日 (土)

神宮前5丁目・嬉しいお店

Rimg5088 デジタルカメラをポケットに差し込んで、早朝から自転車で街を徘徊するのは楽しいもので、10時を過ぎると陽射しの加減からフラットな画面となってしまいますから、そこはやはり8時頃がベストタイムでしょうか。

神宮前の早朝も私の好きなエリアで、まだこのような住宅街の中にも、洒落た昭和の残照が薫っています。

まったくの推測でありますが、ここのお嬢さんが今から30年以上前に堅実なご両親をむりやり説得して、強引に当時としてはモダンな店構えを、パリ・ヴォーグ誌かエル誌あたりを参考にして作ってしまったのでしょうか・・・。今も、可愛らしさがきちんとしているところから、地元のお客さんだけで生活も商売も充分な様子がうかがえます。

建築的には混構造というジャンルにはいるのでしょうか、それとも他に呼び方があるのでしょうか、分かりかねますが、二階に見える木造の凛としたご本家の佇まいにグッときてしまいます。この店のロゴといい、小さいながら奥の深い歴史をもっているお店なのかも知れませんね・・・。

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2008年7月18日 (金)

多摩川の夏の風物詩

Rimg10053_2 1979102 今はありませんが、昔、この店の向い一帯には多摩川園(1925~1979)という遊園地があって、郊外の比較的こじんまりしたアッパーミドル御用達のレジャーランドとして、賑わっていました。その上品ながら賑やかな気配はもう何もなく、今では、このお店の店先に子供用の釣竿・網などが並ぶと、みごとな、昭和の夏の姿が蘇ります。逆に、秋から早春までは、ひっそりと忍んでいるような姿から、過ぎ去った昭和の哀しさが、薫ってきます。

多くのサイクリスト以外にも、この時季、釣り人・川遊びの人にとって、この場所は涼を求めたり、アイスクリームを頂いたり、世間では見られなくなったレトロの世界を愉しむのです。不思議なことに、多摩川に遊びに来ている若い世代や外国人にもその姿が珍しいようで、記念写真のスポットとしても人気があるようです。

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2008年7月17日 (木)

涼しいうちに・・・深大寺

Rimg10907 Rimg10880 Rimg10887 高岡から戻り、一日ゆっくりと溜まった雑誌を切り抜いたりして、過ごしましたが、あまりの暑さに、「明日は早朝、涼しいうちに出かけよう!」と決め、夕方から自転車の手入れを始めました。最近はケミカル素材のメンテナンス用品が主流となって、細かいセグメントの用途別となってますから、例えば、チェーン周りの潤滑剤ひとつとっても、ドライ・ウェットなどありますし、さっぱり分からないのが実情です。一応、フレームからペダルまでしっかりと汚れを落とし磨きこんで、明日のサイクリングを楽しみにしてました。

この日は、朝から暑い陽射しが皮膚を突き刺し、日中の気温が気になりましたが、7時少し前に駒沢を出発して、とりあえず、多摩川・東京側を一回大田区方面に向かい、又戻って調布に向かいました。ここ2年ほどは多摩川の川崎側ばかり走ってましたから、東京側は慣れない砂利道にハンドル捌きで、もたつきっぱなしでした。身体の後方右からストレートな陽射しを受け、風も適度に爽やかですから、ぐいぐいと飛ばし、やって来たのは、懐かしの深大寺です。自転車少年時代は学校帰りに寄っては、蕎麦を食べ、城跡に上って武蔵野の自然を満喫してましたから、この界隈の地形ははお手の物です。ところが、今や深大寺の周囲も宅地化となって、どこを走っても住宅だらけで、自然の余韻は境内周辺ばかりとなって、ましてや、門前通りは七夕の装飾も色っぽく、近場の鬼太郎茶屋というキャラクターショップと相まって、賑やかな郊外エンタメゾーンとなってました。

それでも、開店前の水打ち、品物のきちんとした陳列など、各お店はここに住んでいる方が多いだけに、この場所を愛して止まない現象が其処彼処に見え隠れしてました。久しぶりに深大寺を訪れ、蕎麦をいただくなど、『しばし双輪士愉しむ』といったひとときを堪能しました。Rimg10889

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2008年7月16日 (水)

高岡出張便り・最終番外編

Rimg10821_2 Rimg10812_2 Photo 7月10日は、タカタレムノスの時計木枠を生産している郡上八幡の工場を見学 に、高田社長の運転で今月5日に開通したばかりの東海北陸自動車道を飛ばしました。全国から観光客の押し寄せる郡上八幡踊りhttp://www.basso-continuo.com/Gujo/Gujoindex-j.htmが12日から延々と始まることもあって、町中、そこはかとなく落ち着かない様子が感じ取られる中、木工所を訪ね、現在生産中の木枠のプロセスを案内してもらいました。今の木工所は、昔とは雲泥の差で、近代設備を採り入れた生産には、今後の拡大を見越した準備も進んでいるようです。役人の視察のようなスピードで観て回り、郡上八幡の自慢の鰻をいただき、慌ただしく、高岡に戻ることにしました。

しかし、高田社長の肝いりで、帰りに白川郷によることとなり、高速道路を使わずに、国道を走りました。途中には美幌ダム・荘川の桜などの観光スポットにも立ち寄り、普段は通らない野趣に富んだ山間ルートを満喫しました。

40年ぶりに訪れた白川郷は世界遺産になったものの、もはや観光地の様子がありありで、昔のイメージを抱いてましたから、全く、がっくりです。どうやら、観光バスからこぼれるように降りてくる人の群れが、この静かだった環境を一変させてしまったようで、日陰の少ない、照り返しの強い道路は、汗だくで手拭いを首に掛け、ぞろぞろと歩く人の塊でした。やはり観光地は、早朝、人気の少ない時間に爽やかな風と、朝陽を全身に感じる・・・に、限ります。

それでも、日本の夏姿を探して往ったり来たりし、ようやく、眩しい緑の水田と茅葺屋根という典型を、スナップすることができました。余談ですが、富山と岐阜にかけてのルートは自転車でも快適な箇所が数多くありそうで、これまで自分の未開拓ゾーンでもありましたから、少し、勉強せねば・・・と、感じた一日でもありました。

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2008年7月15日 (火)

高岡出張便り・その四

Rimg10749 Rimg10743 Rimg10750 Rimg10754 Rimg10756 高岡市は、美味に関して、なかなか鋭い店も多く、近海の魚を駆使した、小気味良い調理の腕前を誇る店も多いのですが、此処、『日和』は、その中でも秀でた美のバランスをもったご主人と、しっかりものの女将さんが切り盛りする料理屋さんです。

ご主人はどちらで修業されたかは、分からないものの、涼しげな敷物に出される料理は、その配色バランス・器と料理のコントラストなど調理以外の美の全体観がとてつもなく、シャープなのです。敢えて云うならば、京都よりも金沢のセンスとでも云ってしまいましょう。その思い切りの良い器内の空間処理は、華道にも通ずる垂直・水平・天地人・遠近法までもを、総動員したみごとな出来栄えで、こういうプレゼンテーションのことを、「箸をつけるのがもったいない・・・」と云うのでしょう。

このお店も『居酒』同様、高岡・桐の木通りにあります・・・としか、お伝えできません。

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2008年7月14日 (月)

高岡出張便り・その三

Rimg10709 ほぼ十年ぶりのタカタレムノスhttp://www.lemnos.jp/本社を訪れ、二階のショールームでこの十年間に開発した掛時計の全貌を見せてもらいました。

本邦初公開でありますが、右にいらっしゃる方こそ、この会社をデザイン先行・コンセプト先行型のソフト型カンパニーに仕向けていかれた社長の高田博氏です。後ろの壁に並んでいる商品は、ほんの一部ですが、自社オリジナルからOEM(取引先ブランドのプロダクト)まで、この十年に生まれた品々です。

高田社長は国内最大大手・時計会社の掛時計をOEMとして作りながらも、それに飽き足らず、ほぼ20年前から、デザインというものをしっかりとした考え・技量・生産を踏まえて、社内で完結すべく、試行錯誤しつつ、今日まで続けてこられ、生まれた商品に隠された地道な道程は、日本のプロダクトデザインの世界では傑出したものです。私とは15年前から、デザイン界に関する変革の同志として、永いお付き合いをいただいてます。

いよいよ、高田社長が次の布石を打つべく、新しい戦略とデザイン様式の確立に向けて、突き進むことを決断されたからには、私も相当なる覚悟を以って、パートナーとして、補佐せねばなりません。

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2008年7月13日 (日)

高岡出張便り・その二

Rimg10698 Rimg10696 Rimg10700_3 7月9日、お昼の11時33分に高岡着。タカタレムノス・高田博社長が迎えてくれ、先ずは、昼食に直行。行先は高岡の蕎麦の名店『居酒』です。以前は寿司屋として、地元をはじめ富山県下の食通を唸らせていましたが、この地球温暖化のあおりで、納得いける魚貝の確保に限界を感じ、まったく異分野の蕎麦屋を始めたのです。多くの学者や経済人がこの地球環境に関して、様々な分析や評論を唱えていますが、寿司屋を止めてしまったこの主人の決断こそ、今の最悪の環境状態を裏付けています。

蕎麦は、ごらんのような何の変哲もない姿ですが、お盆にまとめられた風景は地味高雅の境地であります。蕎麦は鋭い切れ味の食感ながら、へぎ蕎麦のようなデリケートな舌触りもあって、極上の美味であります。高田社長のお奨めにより、鰻の太巻きもいただきましたが、こちらも絶品状態でその旨さに絶句です。

店名の『居酒』以外は、高岡古城公園傍と云うしかありませんが、高岡で、蕎麦と酒といったら、此処だそうであります。

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2008年7月12日 (土)

高岡出張便り・その一

Rimg10687 Rimg10691普段の仕事は東京都心の車で移動できる範囲が多いのですが、9日・10日と富山県高岡にあるタカタ・レムノス http://www.lemnos.jp/ にほぼ十年ぶりの時計デザインの仕事と新規プロジェクト方向付けのため、マックス・ときを乗り継いで出かけました。

久しぶりの東京発・新幹線マックスは早朝からなかなかの混み様で、5号車二階席は一睡の余地なく、肩の狭い思いで一時間半ほど越後湯沢まで寝ていました。越後湯沢でときに乗り換え、高岡までは、一転して空いている快適なひとときを堪能しました。

がらがらの車内で、最近すっかりごぶさたの週間文春・7月10日号を捲っていると、佐藤卓さん http://www.tsdo.jp/ の連載が目に留まり、さらりと斜め読みすると、その内容が、これから高岡で話しすべきポイントと同じ方向が、正にドンピシャといったタイミングで載っていました。要は、個人の作為と自分を押し出した商品ばかりが溢れていいる状況下、元来、デザイナーの役割とは商品と顧客・時代性・社会性をつなぐ匿名性の役割である・・・、と言い切っていましたから、私の持論とみごとに一致し、気持ちも晴れ晴れとして、にわかに怪しくなってきた雲行きなど関係なく、独り合点をして安堵感に浸っていました。

さて、コンピューターコントロールにより多品種少量・イメージにほぼ忠実な製造もほぼ問題ない時代ですから、アートとデザインの境界など曖昧となり、もはやそこには何の躊躇いもない状況です。そんな時代だからこそ、自分の直感を自由奔放に操るアーティスティックな感性のプロダクトが席捲しているものの、商品寿命のはかなさ・市場の飽きっぽさも視野に入れておきませんと、誰しもハッピーにはならないのが、現状です。

時代の軸が、静かで安堵感を求める方向にシフトし出しても、まだまだ勝手気ままな未消化の商品に溢れかえっている市場に、どうくさびを打てるかが課題なのです。(続く)

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2008年7月11日 (金)

ブルーグラスミュージックの本領

851 音楽を含め全ての文化・芸術は、特定のクラシック畑を除いて、やはり時代とともに歩まなければ、取り残されてしまうのが現状でしょう。ビジネス用語で置き換えれば、プロダクトアウトよりも、マーケットイン(作り手の身勝手な発想よりも市場の動向を重視すること)・・・、といったことと同意です。

それでも、時代に合わせたマーケティング重視の商業音楽の多い中、ブルーグラス・ミュージックの世界は、ひたすら、(ショービジネスとしての要素もありますが)自分たちの風土・風景・家族の引き継いできた地域の独自文化を、きちんと伝承しているからこそ、伝統に胡坐をかくことなく、次代に継承していく何かを持っているのです。

この、デル・マッカリーバンドhttp://jp.youtube.com/watch?v=F3Is_C5KIVsのコンサートの写真を観ていても、祖父から孫まで一緒に同じステージで演奏することによって、その感性・技法を通し、身体の中に自分たちのバナキュラー性(その地域の独自性)を強く意識するでしょうし、お孫さんたちなどは、知らず知らずのうちに、家族の絆というものを、この舞台に立って、身体に浸み込んでいくことでしょう。これはもう、ノーマンロックウェルの世界でもあります。

さて、デルマッカリーの音楽は、相当ブルーグラスミュージックのお好きな方々でなければ理解しづらい高音域のボーカルと、強いリズムにのったビルモンロー直伝のハイロンサムサウンドの伝承者でもありますが、YouTubeの画像ではアイルランドの国宝バンド・The Chiftainsとのサウンドと上手くシンクロして、デル・マッカリーの強い個性が若干マイルドとはなっているものの、女性にはこのティストが全く理解されないのです。私も聴き始めの頃は、脳天直撃ボーカルに卒倒しましたが、今や、オリジナリティに敬意を評している日々です。

さて、一方、沖縄の音楽 http://rca.open.ed.jp/music/index.html も、生活に根ざしていて、何時でも何処でも、三線の音にのって、家族・地域の皆さんの踊りと歌が始まりますし、世界の何処に限らず、風土・暮らしに立脚した音楽こそが、全ての地域文化の根っこといえるかも知れません。

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2008年7月10日 (木)

1954年・パリ

1954_2 パリのアメリカ人という音楽があったように記憶していますが、これはずばり!パリのアメ車といったところでしょうか。

1950年代のアメ車は、よその国では思いもつかなかった発想・デザインを展開しましたが、その根っこはヨーロッパの車と異なり、その風俗性・通俗性が若い世代の気持ちを掴んだ点に格段の相違があったと思います。いい悪いは別として、車が若い感性の代表とされたのにも、この車のようなわくわくするような刺激が発散していたからでしょう。木目調などという、いい加減なものではなく、しっかりした厚板が貼りついていたこのような車を日比谷辺りで見た記憶がありますが、その巨大なボリュームには子供ながら圧倒されました。写真の奥に並んだ欧州車と比べてもその迫力たるや、圧倒的であります。

そrてにしても、このパリのお姐さんのの姿がたまりませんね。察するに、この年、1954年の映画『麗わしのサブリナ』 (http://www.geocities.co.jp/hollywood/5710/sabrina.html)のオードリー・ヘップバーンによって大流行したサブリナ・パンツがジーンズにも影響を与えた証でもあります。さらに右のお姐さんの頭など、もうヘップバーンそのままであります。

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2008年7月 9日 (水)

デジタルカメラ・広重風

Rimg4209 Rimg4201 Rimg4203 目の前に突然として美しい光景が展開した時、とっさに撮影できる即効性こそデジカメの最大長所でしょうが、対象を闇雲に連写するのは報道カメラマンに任すとして、ここではやはり安藤広重さんのスタイルに則って、このように撮影すると、大人の気分がたっぷりであります。

一日中、薄曇であったこの日、湘南・葉山の夕闇迫るほんの一瞬ですが、目の前がブルー一色に染まりました。微かな光の効果がこのような北野武の映画のようなブルーを生み出したのでしょうが、ひさしぶりの清祥な気持ちにさせられた一瞬でありました。

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2008年7月 8日 (火)

自由が丘 Cafe CABANON

Photo_3 カジュアルな生活志向が時代のトレンドの主流となって以来、最近ではさらにヘルシー・ビューティ・エコロジーと、様々な要素も取り付いてきて、飲食業界のみならず、殆どの小売業が、健全な生活嗜好性への研究にやぶさかでなくなっています。

自由が丘はもともと、アッパーミドルの客層のカジュアルな町として、1960年代中頃から人気が出て、慶應の学生の溜まり場になり、当時は珍しいブルーグラスのスポットもありました。以来、今日まで原宿ほどのエネルギーはないものの、町の持っている地勢の複雑さが幸いして、洒落たスポットが点在し、日々その内容を更新しながらマンネリに陥らないように、夫々の店が競い合い、自由が丘の趣きを崩さない範囲で刷新しています。

このCafe CABANON http://www.tomorrowland.jp/cafe/cafe_cavanon.html はアパレルのTOMORROW LANDが運営する飲食事業の一店舗で、28年ほど前に出来たMAPLE FARMという、自由が丘ではじめての複合商業施設の中にあります。

自転車で一番頭を悩ませるのは、何と言っても食事の場所ですが、ここは昼時の混みあう時間を少しずらすと、オープンテラスの席が確保でき、人の出入りの多さを見物するのも楽しいお店です。最初は、競技用自転車のいでたちで入るには、女性客が圧倒的ですから、それなりの度胸を要しましたが、一旦、入れば、店のスタッフもインパクトのある恰好ですから、直ぐ覚えてくれ、今ではすっかり馴染みの店となってしまいました。

その理由は、ここで出すガレット(蕎麦粉のクレープ)ランチがしっかりしたボリュームの割りには、ぺろっといけますし、お腹にもたれることもなく、終って、自転車に乗っても、しゃきっとするからです。クレープの中身は日によって替えていますから、毎日通っても飽きないくらいなのです。更に、どっさりと載ったサラダや生ハムも、付け合せにしては、しっかりしたボリュームです。又、独りの客をだいじにする訓練がスタッフに行き届き、テラスの真中にある大きな樹木の木漏れ日がきらきらして、ここが自由が丘の真ん中であることを、ふと忘れがちで寝入ってしまいそうになるのも、気に入っている理由ですが・・・。

但し、土日は界隈の犬連れのお客さんで混みますし、平日は子連れの小奇麗なお母さんばかりですから、必ず、目立たないところできちんと汗をタオルで拭いてから、お入りください。

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2008年7月 7日 (月)

広重・市中繁栄七夕祭 1857

075 大鋸町(現在の京橋あたり)にあった広重の自宅の二階から富士山を望んだと云われるこの版画は、七夕飾りが風に揺れて、何ともいえない優雅な江戸の町の趣きが伝わってきます。

さて、少なくとも昭和の30年代初期までは、このくらい長い竹竿が、日本全国津々浦々までたなびいていたようですが、いつの頃からか、竹竿も短くなって、ささやかな飾りものとなってしまいました。大胆な仮説としては、テレビが普及して日本中どこでもアンテナがトンボの異常発生のように立ちだした頃から、七夕飾りも屋根から庭に移転して、やがて無くなっていったのかも知れません。

七夕の飾りも東京都心では、ほとんど見られなくなってしまいましたから、江戸末期の季節ごとの歳時記に則ったお祭りというものは、想像以上に華やかであったのでしょう。それにしても、スイカ・瓢箪まで飾ってあるところを観れば、豊穣祈願も兼ねていたのでしょう。それに算盤あり、大福帳ありと・・・もう何でも願いが叶えば節操なしの状況が、ぶら下がり物からも推測できますから、ロマンチックな天空の出会いなど、全く関係ない様子が嬉しいですね・・・。

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2008年7月 6日 (日)

神田川・久我山付近 昭和初期

1 74b3195603 写真提供:杉並区立高井戸第二小学校

神田の古書店で、段ボールに投げ込まれていたお買い得コーナーの中に、生まれてから45年間もお世話になった井の頭線沿線の風俗をまとめた『井の頭線沿線の一世紀』という一冊を見つけました。渋谷駅から吉祥寺駅までを結び、今も郊外の長閑な雰囲気・景色を残す電車ですが残念ながら神田川周辺の野趣に富んだ景色は30年以上前に護岸工事のため、その優雅な流れとともに消滅してしまいました。

この本に掲載されている久我山は私の生まれ育った町ですが、上の写真はさらにずーっと昔の高井戸第二小学校の生徒の皆さんの記念写真です。おそらく、神田川を整備した江戸時代の話を実地教育を兼ねて現場で先生からお話を聞いた際の写真でしょうか。1920年代後半辺りの時代と想定されますが、皆さんずいぶんきちんとした良い子ばかりです。この写真の奥に臨むなだらかな丘辺りが私の住んでいた場所ではなかろうかと思います。

下の写真はほぼ30年後、1956年に父が撮影した神田川の脇にあった田圃で遊んでいる私です。家の北側の土手を下ると,、細い二本の丸太を荒縄で縛りつけたシンプルこの上ない神田川を跨ぐ丸木橋があって、怖いながらも此処を渡れば子供にとって面白くて、為になる自然の宝庫が待ち受けていました。神田川の北には田圃の治水の為に小さ支流が流れ、昆虫からザリガニ・フナ・亀などが棲息していて、いつもにわかファーブルになれたのです。初春には神田川沿いの北斜面の土手に片栗の花が群生していて、地元では有名なスポットでありましたが、1980年代に大蔵省印刷局グラウンドの管理地となり何かの記事となって以来、勝手に忍び込むことが出来なくなりましたが、それでも度胸の良い自然愛好家と称する輩がそっと押しかけては乱獲したものですから、すっかり荒れてしまいました。今はどうなっているのかは分かりませんが、再生していることを祈るのみです。

当時、小学校の同級生も此処で遊ぶことを楽しみとしていたらしく、一時期の週末は我家に集まっては、勇んで田圃に出かけましたが、神田川を渡る丸木橋はそう簡単に渡れるものではなかったのに、誰も落ちたことなくこれは奇跡のようでした。温かい陽射しの下で皆で田圃の傍で食べる弁当の味は学校のそれとはちがって、実に楽しいものでした。

この時代、生徒の父兄、とくに母親などはおおらかな方が多く、余程の心配性の母親でなければ、多少の冒険・怪我は男の成長の通過点として割り切り、子供を自由に送り出したようですから、いまだに私世代は、平気で何処にも飛び込んでいく性癖が残っているのかも知れません。

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2008年7月 5日 (土)

Cape Codの絵葉書

Capecode この絵葉書はアメリカを代表するリゾート地、Cape Cod http://www.capecodchamber.org/ の風景を写真の上から着彩したもので、さしずめ日本でいえば銭湯の名所パノラマ模様といったころでしょうか・・・。このような技法を使うのは大昔のはずですから、ひょっとすると1930年代まで遡るのかも知れません。

画家、エドワード・ホッパーが終生こよなく愛したこの美しい海岸の町は、至る所に絵になるスポットがあるようで、此処を訪ねた建築家は他愛無い石ころひとつとってもさすがケープコッドは違うなー、などと思った程だそうです。

この絵葉書は誰の手によるものか解りませんが、視覚に訴える正直な感性が、そのまま、1950年代後半からのアイビールック中心の正しい男の服装の在り方を模索したトラッド感覚とシンクロして、異国のニッポンで1960年代の傑作キャンペーンの横綱と今でも言われている伝説のVAN JACKETの『Cape Cod Spirits』に伝播していったのかも知れません。

当時、高校生だった私世代はこのキャンペーンで配られたノベルティーやチューリップ型のキャップを挙って求め、吉祥寺にあった春木屋というメンズショップに帰校途中で立ち寄るのですが、いつの世も、時代の趨勢に疎い生活科の担当教諭に見つかると大目玉を食らったものでした。この頃は、フォークソングバンド・エレキバンドが創立以来初めて校内に誕生し、ギターそのものが不良の象徴みたいなところがありましたから、市民権を得るにはもう少し時が掛かるのです。

The Song of 『Old Cape Cod』 http://www.youtube.com/watch?v=JdNcRuJ1vME

Cape_cod

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2008年7月 4日 (金)

45年ぶりの鳥居峠

20080628 196306jpg 196301 196302_3 先月末は、二週続けて、小布施行きということになり、慌ただしいこととなりました。後の週は、早めに東京をスタートして、長野自動車道を上田で降り、鳥居峠方面に向かい、45年前にさんざん辛い輪行となったサイクリング合宿のコースを一部ですが辿ってみました。当時の鳥居峠は砂利道で転倒するメンバーも居て、厳しい道でしたが、今や快適な舗装となっていて、ご機嫌なドライブとなりました。しかし、写真に残された峠らしい趣きは全く消え去って、地元の有志による味噌汁・山菜の無料サービスで、関係者だけが盛り上がっていました。当時は、この日とは逆コースで、吾妻川を横に観ながら、渋川方面から上田に向かい、上り坂をひたすら砂利と小石にタイヤを滑らしつつ、この鳥居峠を目指して頑張ったのでした。途中、パン屋で買ったコッペパンが、石のように硬く、水を付けながら、ふやかして食べた昼飯の記憶が今でも鮮明です。鳥居峠まで来れば、あとは快適な下りが待っていると嬉しがっていたのですが、思った以上の急な下り坂の連続で、ブレーキのかけっぱなしとタイヤが滑ったりで、菅平の宿に着いても振動の余韻は抜けず、へとへとな状態となりました。

さて、小布施から戻り、当時、一緒に走った佐々山厚さんhttp://www.geocities.jp/aysasayama/が合宿スケジュールを保管していたことを記憶していたので、電話したところ、早速、メールでこのデータが転送されました。毎日の出来事が簡潔ながら、今でも、あの時の汗と誇りまみれの毎日が鮮明に蘇ってきます。第三日に上州三原をスタートして、鳥居峠を越え菅平に到着する日のデータが出てますが、時速五キロ前後の速度でとろとろと上っていったことが記録され、この日のイメージは今も身体が覚えています。このデータの最後の日に出てくるのですが、甲府からセンター(何故か、東京サイクリングセンターに寄っている!)まで116キロを、佐々山さんと二人で重い荷物を載せ走ったとは・・・、元気な古の頃の記憶が、また、蘇ってしまいます。

こと左様に、些細なことでも、まめに記録に残すことは、面倒くさいことではありますが、あとからこんなにも鮮明に、時をリバースさせてくれますから、人生には、けっこう大切な技術であると確信してしまいます。とくに、手書きだからこそ、時の経過も一緒に戻れるわけですから、やはりここでも、アナログのもつ強さを実感する次第です。

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2008年7月 3日 (木)

町の溜まり場

Sdg しっかりと区画整理された後では、自然に出来上がっていった以前の町とは違った商業集積の街が出来てしまう昨今でありますが、ちょっとした息抜きの場がありきたりのベンチというだけでは、更に居心地が気持ち良くないのであります。

この写真などを見ると羨ましい限りなのは、町のランドマークとしても機能していますし、何よりも人が集まりやすい気持ちよさを発散しています。かなり有名な観光地と思われますが、妙な呼び込みも、お決まりのBGMもなさそうですし、私世代にはうってつけの溜まり場のようです。一日中、何もしないで居られるようなゆっくりした時間が流れる雰囲気ですし、あのジャックタチ監督の、『のんき大将』の郵便配達夫が向こうから猛スピードでこちらに向かって来そうなスポットでもあります。http://www.youtube.com/watch?v=ZSKzQGRYk0s

東京の再開発ですっかり忘れられた、人間のスケールをもった溜まり場が復活するのを期待している一人ですが、この家賃至上主義の状況では、なかなか実現しそうにもありませんね。

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2008年7月 2日 (水)

目白・KAZAMIDORI

Rimg9985 Rimg9982 Rimg9983 都心の自転車徘徊のコースも目ぼしいルートは、ほぼ走破して、残るは、未開拓のコースを発掘するしかありませんが、その一番のポイントは『大人の町』とでもいっておきましょうか・・・。

さて、私世代から上の皆さんにかけては、目白というと独特の趣きのある地域で、1960年代から、その優雅な町名の響きが、否が応でも、スノッブな皆さんのたまり場でもありました。

又、吉村順三氏・小池岩太郎氏・水野正夫氏をはじめ、多くの建築・デザインに関わる先達の皆さんもこの界隈に居を構えたこともあって、お洒落でありながら、ちょっと知的な薫りも漂っていました。

此処、KAZAMIDORI http://www.mejiro.net/S9795.html も,目白では比較的カジュアルな洋食屋さんとして、1970年代から今も人気のスポットです。私もこの向かいにパタゴニアの日本第一号店http://www.patagonia.com/web/jp/patagonia.go?assetid=6545&slc=jp_JP&sct=JP&src=rps_go000379が出来て以来、立ち寄る定番のお店で、オムライス・ピラフが私のお奨めですが、自転車の時はちょっとヘビー級のボリュームであります。店内もまったく当時と変わらず、1970年代の雰囲気を今に伝えていますから、どうしても私世代のお客さんが多いのかもしれませんが、場所柄、学習院の学生さんも相変わらず多いように見受けます。

パタゴニアの隣の地下に同じ頃出来た、ロッククライミングの専門店CARAFATE http://www.calafate.co.jp/ も、独自の品揃えで、日本の岩登りの普及・啓発に尽力されていて、このアウトドアスポーツの専門店二店舗が並んで、KAZAMIDORIの向いにあるからこそ、この一角が今でも錆びつかない光彩を放っているように思います。

どの店も、せかせかせずに、この町らしく、のんびりとしています。

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2008年7月 1日 (火)

二子玉川・粛々と進行中

Rimg10120 Rimg10123 自転車で徘徊してることが常態化してしまうと、以前に頻繁に出向いた場所のことなど、すっかり忘れてしまうことがあって、ここにひとつの落とし穴もあるのです。

自転車のレーシング・スタイルですと余程の度胸が無い限り、大型店舗やメガブランドショップなどには、おいそれと入れるものではありませんから、屋上にあがって俯瞰で展望することなど、すっかり忘れていました。この日、久しぶりに日中、玉川高島屋に出かけ、つい何となく、伊東屋から展望デッキに出てみると・・・、此処から現在進行中の二子玉川再開発の全貌が、一目瞭然でありました。都内でも空前絶後の大規模開発ですから、住民無視の行政と一企業とのタイトな連帯が良くも悪くも噂に尾ひれが付きだし、このあたりの熊さん・八っさんレベルのガセネタはネットにも数多く登場しています。

東急グループの商業ゾーンが完成になれば、上の写真の左奥に観える、瀬田・上野毛の国分寺崖線上の良好な住居環境も、おそらく、多摩川堤や環七から抜けてくる週末のナビ頼りの外様の車で、信号の極めて少ないことが災いとなり、事故も増え、居住者以外侵入禁止を願い、住民も動き出すことは妨げられないことが確実といえそうです。

時代の流れには従わざるを得ないことが、現実には多いのですが、このスケールとなってくると、将来のことを鑑み、環境重視の時代に逆行してないのかどうか、住民一人ひとりが見識をもって次世代に受け継いでいく良好な環境を、可能な限り遺していく、という志が問われてきています。

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