藤山一郎さん
正しいお父さんの在りかたを写真にすれば、このようになるのでしょうか・・・。
ずいぶん時代錯誤なことを言うな、などと思われているご同輩も、ずっと昔にはこのような立派なお父さんに教育を含め、みっちりと叩き込まれたに違いありません。
戦前から1980年代まで活躍した慶應ボーイの大歌手・藤山一郎さんは、NHKのお抱え歌手的存在でもありましたから、番組に登場しても、きちんとした身だしなみときちんとした日本語の発音がお見事で、小さい頃から一風変わった歌手だなー・・・などと思っていましたし、大晦日の最後に歌う『蛍の光』を指揮するその姿が妙に印象的でした。良い意味で日本のスタンダードを表現してくれた、歌手を超えた存在の人でありました。
まだテレビも無い子供の頃、よくラジオから聴こえていた藤山さんの『丘を越えて』『青い山脈』『東京ラプソディ』などの曲が妙に頭に染み付いていて、今でも何処かで聴きますと、当時住んでいた久我山の懐かしい光景と、自分の姿までが蘇ります。
この写真は昭和30年代の光景ですが、いかにも健全なNHK的なイメージですね。国民のあるべき姿を、政治とは別の世界でリードしていった藤山一郎さんは、戦後の高度成長時代とシンクロしながらも、私世代辺りまで何らかの記憶に鮮明な存在感を残しています。
藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町に生まれる。本名・増永丈夫。慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込む。幼少の頃から、日本の近代音楽の風景を体感した。昭和四年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハー・ペー二ッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。在校中に藤山一郎としてコロムビアからデビュー。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》が大ヒットして、これが音楽学校で問題となり停学処分となる。在校中、日比谷公会堂で外国人歌手と伍して《ロ-エングリーン》を独唱し好評を得る。昭和八年、首席で卒業。ビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴ、外国民謡、歌曲、独唱曲等を吹込む。また、ベートーヴェンの《第九》ヴェルディー・《レクイエム》等を独唱するなど声楽家増永丈夫でも活躍する。後にテイチク、コロムビアに移り、《東京ラプソディー》、《青い山脈》、《長崎の鐘》などのヒットに恵まれる。バリトン本来の美しさを持つテノールの音色をいかした豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手藤山一郎の声価を高め、メッツァヴォーチェからスピントの効いた張りのある美声は、人々に励ましと生きる勇気・希望を与え大衆音楽に格調と「陽」の世界を知らしめた。その功績は大きい。また、歌唱芸術のみならず、指揮、作曲においても活躍した。昭和三十三年放送文化賞、昭和四十八年紫綬褒章、昭和五十七年勲三等瑞宝章、平成四年、国民栄誉賞受賞。その功績は近代日本音楽史に燦然と輝く。.
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