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2008年12月15日 (月)

池田弥三郎・『ふるさと日本』より

034 池田弥三郎・『ふるさと日本』より「ふるさと東京・東京を返せ‐堀と地名」より・・・。

 江戸の下町は、一見、ベニスのように、水に恵まれていた。銀座八丁の町々でさえ、その外へ出るのには、どちらに行っても橋があった。江戸の下町の形成は、実は、水を整理することから始まったのである。

 この掘割が、ほとんど全部、完全に埋められてしまった。その埋めたあとに出来た土地の利権にからんでのいまわしい話には、今は耳をつぶり、口をつぐむとしても、戦災の瓦礫のてっとり早い捨て場所にしたことは、いかにも、はやかろう、わるかろうの政治だった。水のなくなった下町は、ただ、どこまでも、しまりなく続く町になってしまった。東京の町に、きりっとした、角帯をしめたような味をつけていた区切りというものを、うばい去ってしまった。

 下町が、戦後ひどくほこりっぽくなったのは、たしかに堀を埋めた影響だ。そのうえ、堀が道路になったところでは、屋並みの上にも下にも、砂ぼこりの供給源をもっていることになった。高速道路から舞い上がる砂ぼこりは、遠慮会釈なく、下町の家々におそいかかるのである。

 仏造って魂いれずという。仏だけでも造ったのならまだいいが、お役所しごとのバラバラ作業は、造ったのが仏どころか、悪鬼のたぐいで、しかもそれが、不ぞろいに立ったりころんだりしている。東京ほど、何の統一した気分もない町は少ないのではないか。

 しかも、町名ばかりが統一されていく。

 銀座がそれほどにいい名とも、ほこらしき町名とも思わないのに、町名としての銀座は、銀座・銀座西・銀座東とひろがった。銀座東より木挽町の方が、よっぽどいいではないか。それが、今度は新橋という町名の拡張で、港区の中のもとの芝区の下町よりの方は、新橋と、その東・西といった町名に統一されてしまう。上野でも浅草でもそうなっていくらしい。

 郵便配達の便利でやるなら、いっそ、町名は全部符ちょう化して、自動車式にしたらどうだろう。「銀・ぬ・8・57-63」としてしまうのだ。ホテルや旅館が気取って、日本趣味のつもりで、クラシックの知識をひねりまわして部屋の名をつけるのはいや味だが、どうも、地名が符ちょう化されるのを歓迎するまでには、わたし個人は、便宜主義になりきれない。かりに伝記を考えてみたまえ。彼は東京の、銀・ぬ・8で生まれ、世・は・6で没した、などと書かれるのはたまらないではないか。

 人間の文化は、ただ、便宜だけを目標としたものではない。堀を埋め、地名を統一し、交通を便利にし、訪問をわかりやすくしても、それは、人間の求める文化ではない。文化とはもっと複雑で、ぜいたくなものだ。

 今の東京がわざわいされているのは、このおあてがいの便宜主義のおかげである。しかもその立案者が、東京に愛着を持たない役人風情では、東京のめいわく、これにすぎるものはない。

池田弥三郎さんのみごとな文体であり、見識であります。今、東京に求められているエッセンスが凝縮されていて、しかも江戸文化を正統に引き継いでもいます。江戸っ子らしく文体の句読点も多く、オフビートのようなリズム感が心地いい響きが読む側に伝わりますし、やはり原稿用紙を机上に置いて推敲する文体から生まれる珠玉のメッセージからは、キーボード主流の時代の現在にはない、格別のぜいたくなひとときと、大人の批評を愉しむことができます。

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