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2009年1月19日 (月)

藤田嗣治・1947

Photo 戦前から日本の美とヨーロッパの美を融合して独自の世界を開花した藤田嗣治 http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm の1947年(昭和22年)の風貌です。右にいるカメラマンがGHQ専属のディミトリー・ボリアさんですが、この時代でも藤田の装いは時代を超越していたかのごとく、普通の人ならば、おそらくさっと引いてしまっても可笑しくない様な、アバンギャルドな気配です。それにしても誰もが知っている藤田の描く繊細な肌の色・線描が、この大きく、分厚い手から生まれたとは思いませんでした。もっと細い女性のような手ではないかと、思っていましたから・・・。

Photo_2 戦前は、パリにおいて薩摩治郎八氏(下の写真右)の惜しみない経済的、物資的支援を享受し、仕事でも、夜の社交界でも、ひと際日本国の広報・啓蒙に一役買って出ていたのですが、この写真よりもさらに過激な恰好でパリを闊歩していた様ですから、パリジャンは藤田(下の写真・右から四人目)の高感度・破天荒な姿を一般的日本人もしているのかなのかと、驚嘆した・・・などとも言われていたようです。

薩摩治郎八

パリ社交界の寵児
薩摩治郎八はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛が蓄えた財産を使い果たした。薩摩治兵衛は近江の貧農の出であったが、横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれた。治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていた。

治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から1万円(今の約1億円位か?)の仕送りを受けて車と女遊びに熱中した。大学など結局はどうでもよくなり、費用が要ればいくらでも追加の送金があった。当時のサラリーマンの月給は30円ぐらいである。(中略)

やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、底が抜けたように金を使って社交界の名士になった。画家の藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目された

彼は、10年余りで、現在のカネにして600億円ともいわれる巨額を使い切ったというのだから驚く。たとえば、伯爵令嬢の妻・千代に純銀製の自動車を買い与えたとか、それでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し特別大賞を獲得したとか、その蕩尽ぶりを物語るエピソードにはこと欠かない。もちろん、ただ浪費しただけでは展覧会にはならない。彼はそのうちの一部(といっても巨額だが)を文化芸術にもつぎ込む大パトロンでもあったのだ。そのパトロン活動を挙げてみると、
 1. 25年に一時帰国中、フランスからジル・マルシェックスを招いてのピアノ演奏会
 2. 27年、パリでの「修禅寺物語」公演
 3. 27-29年、パリ国際大学都市の日本館建設
 4. 29年、パリとブリュッセルでの「仏蘭西日本美術家協会展」開催
 5. 35-37年、チェコスロバキアへの薩摩コレクション寄贈

20年代には湯水のごとく浪費した治郎八だったが、29年に始まる世界恐慌の嵐は薩摩家をも襲い、35年に薩摩商店は閉業。第2次大戦中はフランスにとどまったものの、51年とうとう無一文で帰国。その後、再婚した妻の里帰りで徳島を訪れた際に脳卒中で倒れ、以後同地で療養生活を送り、76年に死去した。ありあまる財産を好き放題に使いまくった前半生の豪遊ぶりと、経済的にも身体的にも不自由を余儀なくされた後半生の落ちぶれた生活。その落差もまた、ケタ違いというほかない。

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