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2009年1月31日 (土)

洋食屋・親父さんの姿。

Rimg16133 風雨の荒れ狂う日ですと、なぜか無性に洋食屋に飛び込みたくなる性癖があって、この日も三軒茶屋の商店街の動向を散策したあと、『キッチン・アレックス』に入ってしまいました。

1975年開業のこの店、ずーっと変わらない大ボリュームの盛り付けに学生はもちろん、私世代の洋食屋マニアにもフアン多く、営業時間中はひっきりなしのお客さんを裁くにも大変な有様ですから、お客も心得たもので、終ればそそくさと席を立つという、店と顧客の連動型ホスピタリティの典型店であります。

一方、シェフの親父さんは店内の喧騒など知らん顔で、ひたすらフライパンを凝視しつつ、一人で6人前を5分足らずでまとめてしまう分裂型集中力の持主で、その後姿からは何か、ありがたいオーラをいただいているが如くであります。

程よい柔らかさのハンバーグ定食は、ずーっと変わらないトマト風味のデミグラスソースが絶品で、「ご飯は少な目でお願いします。」と言った私でもお替りしたくなる、美味であります。

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2009年1月30日 (金)

九段坂下・1952

1952 Img_8254自転車で都心を徘徊していて、気付く事の第一は、何といっても坂の多さとその趣きの幅の広さでしょうか・・・。朝のごきげんな時間帯ならば、少々の坂のアップダウンは、トレーニングも兼ねて、何の苦もありませんが、帰りは一転して、できることなら、坂を避けて、平坦なルートで帰りたいのが人情です。

此処、九段坂下から靖国神社に登る靖国通りも、自動車ではさほど気付きませんが、自転車ですとそこそこ勾配の厳しい坂で、おまけに都心の午後の吹き降ろす風をまともに受けることを経験すると、二度と通りたくないコースなのです。

1952年の写真ですと、神保町方面が開放感を以ってひろがってますから、このあたりで一服もあり・・・、といった気分にもなるのでしょうが、今や、ビュンビュンとスピードを加速する自動車ばかりの場所ですから、こんな処で自転車を止めるわけにもいきません。さらに、今は、車道と歩道の間にガードレールが出来ていて、この時代のような綺麗な風景の微塵もありません。

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2009年1月29日 (木)

梅三昧・春はそこまで

Rimg16208 Rimg16210 Rimg16220_2 先週より蕾を出した梅が一気にほころび出し、気分はすっかり春になってきましたが、まだまだうっかり出来ず、突然の雪にまみれることも多い、この頃であります。週末は溜まってしまった仕事の段取り・制作やらで、快晴の天気を横目に自転車にも乗れず、気分消沈といった日が続いています。

この日は、午後、銀座に出向き伊東屋で建築設計用の黄色いトレーシングペーパーの巻物を購入し、中央通りを新橋方面へと散策しましたが、「THE GINZA」が閉店となっていたのには驚きでした。ここのセンスは「出しゃばらないが控えめでもない」といういかにも銀座的な文化の薫りとスタイリングに満ちて1975年スタートし、当初は紳士物も、抜群のセレクトセンスで広告関係の諸氏をはじめ人気でしたが、いつの間にか、トレンド追従型となってその銀座らしさは何処かへと行ってしまいました。ここの地下にあったギャラリーも優れたキュレーションで、玄人好みの企てが続いてましたが、ネタが切れたのか・・・、だいぶ前に止めてしまったところでした。

ガックリしたついでに尾張町交差点方面に戻りましたが、「とらや」の季節羊羹のモダン・ニッポンな姿に吸い込まれ、『紅梅の橋』 http://www.toraya-group.co.jp/products/pro08/pro08_002.html という唸らせるネーミングとソフトなコントラストの姿に参り、一棹を購入。

銀座が何たるかなど全く理解していない、投資効率が本音の海外ブランドの跋扈する銀座で見てしまったからこそ、この攘夷志向を隠し味にした「とらや」のモダン・ニッポンの姿が一層、際立ったのかも知れません。

この羊羹にぴったりの俳句です。「白梅のあと紅梅の深空あり」・飯田龍太

さて、狭い日本の守旧派閥にとらわれない、とらやの、ますますのモダン化には首を傾げるお方も多いと聞きますが、高雅な老舗だからこそ先陣を切って、殻破りを試行錯誤する義務のようなものがあり、現状維持などは誰もが考えるこのご時勢、私は、とらやに、更なるノーブル・アグレッシブな感性の表現を期待しているのです。

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2009年1月28日 (水)

目黒の文鎮

Rimg16189 Rimg16149 自転車で都心の徘徊するにも、こう風が強いとなかなかその気になれず、こういったときはやはりバスが面白いのでは・・・、などと思いつき、三軒茶屋から目黒行きの06系統バスに乗り込みました。

二週間前、秋山東一さんhttp://landship.sub.jp/stocktaking/・石原信さんhttp://shinmemo04.exblog.jp/・中島健二さんhttp://www.profile-windows.com/という建築設計から・建築設計施工監理・木製サッシ製造にかかわるプロフェッショナルな皆さんと目黒・ 競馬場バス停そばの『鳥繁』で至福の時を過ごしたのですが、そのとき、三軒茶屋で乗ったのがこの目黒行06系統バスでした。三軒茶屋から明治薬科大学・学芸大付属高校・五本木一丁目・祐天寺駅・目黒水道局・自然園下などを抜け目黒通りに出るのですが、普段、自転車でも通らない曲がり道の連続で、町の生活も垣間見れる細い道を抜けるのがたいそう気に入ってしまい、又、乗ってしまいました。

元競馬場・バス停を降りた目の前に、目黒通りをインテリア関係の、それも新製品だけでなく、優れた古いものを使い繋げていくコンセプトで若い世代を中心にに人気のある、MEISTERがあります。この日も、すーっと入ってしまい、棚に並べられたオーナメントに見入ってましたが、牛の顔のペーパーウェイトの存在感に一目ぼれとなり購入。まだ出かける場所が何軒かあったものの、のっけから、目方の重いモノを買ってしまい失敗かと思いきや、そのあと、ここの店員さんとデザイン雑談三昧。ご機嫌気分で他の店を散策がてら見ながら碑文谷方面に向かい、東急バスを乗り継ぎ、駒沢に戻りました。

さて、この文鎮ですが、岩手の鋳物、いわゆる南部鉄器で、お洒落な自由が丘界隈ですとカジュアル感に相応しくなく、なかなか見つからず、さりとて、東北の民芸品店では周りの重厚な気配で購入する気にもならず、不思議なもので、目黒通りであれば、他のテースト商品との今風なコーディネートも楽しめますし、わざとらしくない店の展開にも好感がもてますから、ついつい買ってしまうのです。

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2009年1月27日 (火)

父のいたずら書き・1955

Rimg16121 Cjj 1952年頃、父は兄家族から譲渡された典型的な和風住宅を改装して、当時の新建築の典型である板張りのワンルームという開放的なモダン空間を愉しんでいました。

天井はリビングスペースとダイニングスペースを船底天井と漆喰天井で仕切り、丸太の柱がその中央に構えていましたから、座敷が生活空間の殆どであった一般の住居から観ると実に快適で合理的な回遊性があって、私もこの空間で育ったことを、有難く思っています。

父は出版編纂に関わる仕事が1943年から1980年代まで続くのですが、日中は北側の仕事部屋に籠もり、夕方以降は大好きな野球中継を見ながら、晩酌中心の夕食を時間を掛けていただくという、規則正しい繰り返しでありました。

時々、食卓に付いていた引き出しからコクヨのメモ用紙を出しては、思いついた事柄をメモしたり、ご覧のようなスケッチをしたりと忙しく、又、小まめな性格からか、その引き出しの中も紙の小箱でモンドリアンの描く格子のように仕切られ、整然と文房具・筆記具・眼鏡・喫煙具・ノート、葉書き・切手・庭バサミ・絆創膏・目薬などなどが整然と美しく分類されていました。

小さい頃は、この引き出しの中が不思議な世界に感じ、父の居ない食卓の引き出しを開け、宝物のように見えた品々を引っ張り出しては、悪戯していました。

このスケッチはおそらく1955年の正月、東北旅行をしたあとに、記憶の薄れないようにメモとして遺したものだと思いますが、多分毎晩欠かさずだったウイスキーも適度にしみていたのでしょう・・・、ほろ酔い加減で描いた様子が、凧を描いた筆勢に表れています。

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2009年1月26日 (月)

まっすぐ帰れない頃!。

322_04 1957年の寒い頃といえども、学校が終れば、良い子のようにまっすぐ帰ることなど頭になく、ほぼ毎日、道草をしながら社会生活の末端を垣間見ていたのです。

小学校3年の好奇心まんまんの頃、時代は活気付き出し、威勢の良い経済振興に関わるような音が何処からともなく聞こえていました。その中でも、日常生活を支える石炭は学校の暖房にも欠かせず、石炭をくべる担当も各クラス、名簿順になっていましたから、子供にも身近な燃料資材でもありました。

この炭屋さんは吉祥寺駅に向かう途中の住宅街にあって、周辺の住まいの皆さんがお得意さんだったのでしょう。毎日毎日、何処から運ばれて来るのか、大量の石炭が搬入されては大きな音とともに、大きなドラム缶のような中にシャベルで放り込まれていました。

週番の生徒に見つかるまでのひととき、このような社会生活の所業を観つつ見聞に励んでいたわけで、その癖は今も変わらず、キョロキョロしてしまう自分にきちんと伝播しています。

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2009年1月25日 (日)

箱根の絵葉書・1956

Rimg16125_2 54b22_2 1956年に両親と夏休みに箱根に行った記念に買った絵葉書が良好な保存状態で見つかりました。それも、父があまり重要視していなかった雑本の箱の片隅のちらしなどと一緒に固まっていました。

私は小学校一年生から学園が所有する箱根寮に『夏の学校』という集団生活に行き、広大な野趣に満ち溢れた草原で駆け巡るのが楽しみで、その様子を父に話してましたし、絵日記にも記録してあるのを、父も観ていたのでしょう。この年、急に、「箱根に行こう!」ということとなり、普段は外に出ることを苦手とする父にしては、珍しい行動でしたが、この箱根行きから13年間、父との旅行は途切れてしまいました。

さて、1947年に始まり1968年に協定和解する、所謂、箱根山戦争がこの頃頂点となり、箱根の旅館組合をも巻き込んだ小田急(背後に東急)・西武の観光をめぐる主導権争いとなり、バス。ケーブルカーの覇権争いは勿論、景観の縄張りをも取り込んだ商業戦争化していきます。

この絵葉書に見られるイギリスの湖水地方のような景観は箱根山戦争のあおりを受け、あっけなく終わりを告げてしまい、さらに、芦ノ湖という静かで美しい湖に相応しくない帆船やカワイイキャラの船が行きかうようになり、それまでの、ハイソな箱根のグレードは吹っ飛んで、観光の大衆化の象徴となっていき、その残念な姿は今日まで変わらず健在であります。

その全貌を題材とした獅子文六の小説『箱根山』はかなり面白いですし、映画にもなっていました。

箱根山戦争http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E5%B1%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

こちらは箱根山戦争とは呼ばす、箱根山強盗事件と呼んでいます。http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/page155.html

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2009年1月24日 (土)

定番の文房具便り

Rimg16118 古い抽斗から小学校時代のノートを出して見ていると、リバースして当時の模様が手に取るように目に浮んでくるものの、昨日のできごとなどはすっかり抜けてしまうことも多々あり・・・と、同世代の皆さんも同じような現象がおありかと、お察しいたします。

比較的筆まめな方に属しているのでは、などと勝手に思っていますが、メールなどの世話にもなるわけで、最近は、すっかり自分で絵葉書を出したり、その日の記録などを記述することが億劫になりかけています。ひとつには机上にきちんとしたノート・便箋の類を常時揃えることが無くなり、ついついデスクトップに向かってしまうと、自ずから、クリック&クリックで世界の森羅万象が瞬時に掴める便利至極な状態から逃れられないのかも知れません。

さて、このTSの大学ノートと日本橋丸善の便箋用紙は、両方とも、木曾の大工さんが1953年に父の家の新築祝に即興で作ってくれた頑丈な欅のテーブルにいつも置いてあり、その大人の机上空間を記憶していて、「はやく大人になって自分も揃えたい・・・」と思っていた品物です。

大学ノートは会社が代わったものの、今もTSという名前で売られ、丸善ですと確実に入手出来ます。方や、丸善オリジナルの便箋用紙はロングライフ商品の典型みたいなもので、その日本的クラシック模様の出来栄えに「よー!、日本橋!」などと声をかけてしまいたくなる表紙に魅かれる長年の熱狂的リピーターによって、今日も製造し続けられています。両方とも鉛筆から万年筆まで書き味抜群ですし、この大学ノートなどは20年以上前のさんざん使い切ったものでさえ、びくともしないほどのタフな仕立てとなっています。又、独特のクリーム色の中紙と表紙の渋いイエローオーカー色の枠が、この大学ノートを消耗品らしからぬ上品な収まりにしています。

今や、キャラキャラしたものばかりが市場を席捲する文具業界でありますが、このような上質なマスターピースが製造されていること自体、まだまだ、この国も捨てたものではない・・・、などと思いたくなってしまうのであります。

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2009年1月23日 (金)

1869年・二重橋の姿!

1869 ベアト撮影による1869年(明治2年)の皇居二重橋の姿です。明治20年に現在の石造となってしまいましたが、この写真のような木造を復活して頂きたいと願っている方が案外と多いと聞いてましたが、確かにうなづける姿であります。平河門にかかる木造の橋を見るたびに私もその美しさに感動しますから・・・。

維持管理費・安全性など、現実を考えれば、木造の姿に戻すことはなかなか困難を伴う話であることは充分分かっていますが、今の姿がどうみても不自然に見えてしまうことは、どうやら何方も認識されているようです。

明治の西欧化に便乗して石造の建築物が東京に台頭した頃、何の躊躇いもなく、木造を石造に変更することを決めてしまったようですから、日本橋復興に併せて二重橋を木造の姿に戻すことも、機会としては具合よろしいのでは・・・、などと思ってしまいます。

さて、二重橋復興よりも江戸城の復興を願うのが本当ではないかという意見を申している皆さんも多く、様々な団体が懇願活動をされているようであります。確かにそちらからの全体構想から詰めていくことも、東京の中心が高層ビルばかりが話題を呼び、皇居をいつまでも空洞化、あいまい化するわけにもいかず大切なのでしょうが、私のような単眼人間には、なんといっても二重橋の木造復興が願いなのであります。

ベアト (1834-1904?) BEATO, Felice
 イギリス領コルフ島(イオニア海の島、現在はギリシャ領)出身の写真家。クリミア戦争、インドのセポイの反乱、中国のアロー号戦争など、報道写真家としてアジアを転々とする。文久3年(1863年)頃来日。下関戦争にも従軍し、開国の様子を記録する。ワーグマンと組み横浜にスタジオを開設、写真を販売。その傍ら、日本各地の風景、日本人の風景・習慣を精力的に撮影し、多くの日本人撮影技師を育成。明治10年(1877年)、原板を含めた写真館の一切をスティルフリードに譲渡、明治17年(1884年)離日。

江戸城史跡めぐり http://homepage2.nifty.com/oohasi/edo.html

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2009年1月22日 (木)

広重・木場の白景

034 1970年代にはまだこのような光景を一部垣間見られた深川・木場の真っ白な景観ですが、元々は日本橋の中心地にあったものを寛永18年(1641)の大火事で材木・住居を焼失したことを契機に、幕府の命で深川に貯木場を移転したそうです。

木場界隈にはいわゆる美味しい洋食屋さんが軒を連ねていて、まだ20歳代であった私はオリジナルのガラスをデザインする関係で木場の会社に時折出かけていましたが、その帰り道に店の様子をメモしては休みの日に出かけては味比べをしていました。最近はこの界隈に出向くことも少なくなり、状況も把握していませんが、すっかり様変わりしてしまったことは間違いなさそうであります。

何処もビルに変わりつつある東京ですから、雪の美しい白景色を目の前で眺めることもありませんから。せいぜいこの版画などから150年ほど前の、静かな江戸の景観を想像するしかありませんね・・・。

ところで、この手前に観える蛇の目傘に描かれた魚という字に何らかの意味があるのか・・・と思ってましたら、この広重・名所江戸百景の版元魚屋栄吉を示しているそうであります。

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2009年1月21日 (水)

明治神宮・1960

1960 ほんの50年程前の写真ですが、こうやって観ると、風俗変化の速さが凄まじい、ということを感じますね。

この頃 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1960.html、 若い世代の先端洒落者は、VANブランドに押し寄せていましたし、音楽の世界もアメリカンポップスの絶頂期でもありましたから、日本の伝統文化を茶化すことが、若さの特権のように勘違いしていた輩が多かったのでしょう。しかし、この写真を観ると、そのような連中と対極をなす連綿とした日本独特の風俗がきちんと記録されています。今では、年始の神社参りは若い世代も、イベントののりで出かけるそうですが、この時代は、まだ神聖・日本の薫りに覆われているようです。

私が、初めて、明治神宮に参拝したのは、1957年で、年明けのお昼頃に家族で出向いたのですが、靴・下駄・草履に踏まれた玉砂利の音と、埃に霞んで見える本殿が印象的でした。

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2009年1月20日 (火)

松山猛趣味 という本

Rimg8585 Rimg8587 Rimg8588 Rimg8591 1999年にNHK出版から刊行された、松山猛さんの書かれた男の趣味的生活に関わるモノの薀蓄本は、マニアックなレベルの情報が満載なのですが、文体が紀行文のように、そのモノが登場する場面の展開がみごとで、男が拘りがちな世界を、開放的に表現してくれます。

人間の想像力・創造力から生まれた、モノを取り巻く文化というものは、一度その世界を垣間見てしまうと、余りにも奥深く、結局、生涯の友として、付かず離れず、寄り合っていくのがベストスタンスなのでしょうが、多くの男性は、そこまで踏み込まずに、外野から遠巻きに観察して、覚めた視線で、深みにはまった輩を冷静に観ているのでしょう。

この本はどっぷり浸かりそうで、浸からない、みごとな大人のスタンスが、その気持ちよい文体と共に、それほどモノマニアでない皆さんにも、納得尽くめの話しがぎっしりですから、独り、誰も居ない居間で、通り過ぎた青春の青臭い思い出を肴に、読書三昧・・・も、結構なのでは・・・。

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2009年1月19日 (月)

藤田嗣治・1947

Photo 戦前から日本の美とヨーロッパの美を融合して独自の世界を開花した藤田嗣治 http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm の1947年(昭和22年)の風貌です。右にいるカメラマンがGHQ専属のディミトリー・ボリアさんですが、この時代でも藤田の装いは時代を超越していたかのごとく、普通の人ならば、おそらくさっと引いてしまっても可笑しくない様な、アバンギャルドな気配です。それにしても誰もが知っている藤田の描く繊細な肌の色・線描が、この大きく、分厚い手から生まれたとは思いませんでした。もっと細い女性のような手ではないかと、思っていましたから・・・。

Photo_2 戦前は、パリにおいて薩摩治郎八氏(下の写真右)の惜しみない経済的、物資的支援を享受し、仕事でも、夜の社交界でも、ひと際日本国の広報・啓蒙に一役買って出ていたのですが、この写真よりもさらに過激な恰好でパリを闊歩していた様ですから、パリジャンは藤田(下の写真・右から四人目)の高感度・破天荒な姿を一般的日本人もしているのかなのかと、驚嘆した・・・などとも言われていたようです。

薩摩治郎八

パリ社交界の寵児
薩摩治郎八はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛が蓄えた財産を使い果たした。薩摩治兵衛は近江の貧農の出であったが、横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれた。治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていた。

治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から1万円(今の約1億円位か?)の仕送りを受けて車と女遊びに熱中した。大学など結局はどうでもよくなり、費用が要ればいくらでも追加の送金があった。当時のサラリーマンの月給は30円ぐらいである。(中略)

やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、底が抜けたように金を使って社交界の名士になった。画家の藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目された

彼は、10年余りで、現在のカネにして600億円ともいわれる巨額を使い切ったというのだから驚く。たとえば、伯爵令嬢の妻・千代に純銀製の自動車を買い与えたとか、それでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し特別大賞を獲得したとか、その蕩尽ぶりを物語るエピソードにはこと欠かない。もちろん、ただ浪費しただけでは展覧会にはならない。彼はそのうちの一部(といっても巨額だが)を文化芸術にもつぎ込む大パトロンでもあったのだ。そのパトロン活動を挙げてみると、
 1. 25年に一時帰国中、フランスからジル・マルシェックスを招いてのピアノ演奏会
 2. 27年、パリでの「修禅寺物語」公演
 3. 27-29年、パリ国際大学都市の日本館建設
 4. 29年、パリとブリュッセルでの「仏蘭西日本美術家協会展」開催
 5. 35-37年、チェコスロバキアへの薩摩コレクション寄贈

20年代には湯水のごとく浪費した治郎八だったが、29年に始まる世界恐慌の嵐は薩摩家をも襲い、35年に薩摩商店は閉業。第2次大戦中はフランスにとどまったものの、51年とうとう無一文で帰国。その後、再婚した妻の里帰りで徳島を訪れた際に脳卒中で倒れ、以後同地で療養生活を送り、76年に死去した。ありあまる財産を好き放題に使いまくった前半生の豪遊ぶりと、経済的にも身体的にも不自由を余儀なくされた後半生の落ちぶれた生活。その落差もまた、ケタ違いというほかない。

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2009年1月18日 (日)

京都の中勢以が田園調布に。

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 熟成肉専門店「中勢以(なかせい)」

 「牛と豚にこだわり、おいしいお肉を提供したい。たどりついたのが『熟成』だったんです」とは店長の加藤謙一さん。厳選した但馬の血統をもつ30カ月以上飼育された黒毛和牛を丸一頭買い付けて熟成。一頭ずつ、また部位によっても熟成の期間が異なる。それを見極めるのが最初のステップ。「肉には力があるんです。それをさらにおいしく引き出すのが職人です」。黒毛和牛は霜降りになりやすいが、加藤さんは赤身肉をぜひ味わってほしいという。「もともと味が濃い和牛。熟成することによって、和牛本来のおいしさが味わえる部位が赤身なんです」
 
 部位の説明はもちろんのこと、部位ごとにおいしい食べ方や調理方法も気軽に相談にのってくれる。カルパッチョで食べるなら、ウチモモはしょうゆで、ネクタイ(ランプとイチボの間の部位)はごま油で、トンビは塩などで。その味を引き立てる塩や味噌など調味料も厳選して販売している。また、熟成が不可能といわれている豚、「南の島豚」も熟成しているのもこの店ならでは。加工品としては、「パッソアパッソ」の有馬シェフが丹誠込めて作る、この店の肉を使ったリエットやテリーヌ、ソーセージも人気。肉の本来のおいしさに目覚めてしまった人にぜひ一度味わって欲しい逸品が揃っている。(雑誌 ELLE)

風の無い土曜日の昼頃、自転車で自由が丘経由で多摩川に向かいました。環状八号に出る手前にある、以前より気になっていたモダンなマンション・KEYAKI GARDENの一階に四軒、新しいショップが出来ていました。この地域のイメージにみごとにはまっている高質なリビング関係の店が、一家言をもったオーナーの拘りを真っ向勝負で、それぞれ競い合っています。

私は店長・加藤謙一さんの屈託の無い姿に吸い込まれるように、『中勢以』http://www.naka-sei.com/の店内に入ってしまいました。熟成肉を切り札にしたこのお店は、緊張感が張り詰めていて、おいそれと買えるレベルではないものの、一年に何回かは食してみたい欲求に駆られます。各部位の肉は絶品に違いありませんから、肉好きの皆さんには要チェックの店です。

場所柄、頻繁な人の往来があるわけではないのですが、隣のイギリスのチーズショップを始め、上野真理子さん・有元葉子さんの店も連なってますから、じっくりと散策がてら見聞されてはいかがですか。

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2009年1月17日 (土)

『スケート』 東山魁夷・1931

01 1911954 東山魁夷さんが1931年、東京美術学校・日本画科を卒業する年に描いた、信州・青木湖のスケート風景は、何故か、不思議な画趣を伴っています。

手前のスケートに興じる人々はまるで海外の絵本の挿絵のようですし、奥に展開する景観はまさに、日本画の教科書的画法であります。

風景画家として自立する1947年(昭和22年)以前は、『少年倶楽部』などの挿絵で家計を助けたり、1930年代の洋画家の留学先ならば当然パリを選択するのでしょうが、ヨーロッパ美術が系統だてて収集されているドイツ留学をあえて選ぶなど、混沌とした東山さんの、心情と当時の生活状況がこの一枚の中にも溢れているようです。

この作品などは、担当教授から「和と洋の組み合わせとは何だ!」などと厳しい辛辣な言葉を通して、罵倒されたに違いありませんし、逆にそのことが、後半の、東山流とでもいうべき、独自の画境に到達したのでしょう。

モノクロ写真は、この画の描かれた1931年から24年後の1955年、父の故郷・長野県に旅行した帰り、諏訪湖でのスケートの恰好ですが、東山さんの描いたスケート風俗とあまり変わっていないのに、びっくりです。きちんとした革靴を履いていますが、地元の子供たちの殆どが、下駄スケートだったことを、今でも鮮明に記憶しています。

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2009年1月16日 (金)

三田四丁目の不思議!。

Rimg15465 Rimg15471 Rimg15474 この時季、それも風がなければ、自転車で抜けたくなるのが、高輪から三田・慶応義塾近くを貫く尾根道・日本榎通りです。夏場もよく抜ける道ですが、陽射しをまともに受け、思ったより厳しい上り坂ということもあって、汗まみれになってこの上品な一角を通るのは失礼な気さえいたします。

というわけで、この日は、多少の風はあるものの、絶好の自転車日和と思い、暖かくなった11時前に駒沢をスタートし、目黒通り経由で五反田から品川に抜けました。乾燥しきったこの時期は水分補給を怠ると、突然パンチを受けたような衝撃疲労が舞い降りてくるので、こまめに水筒のお世話になります。尾根道の、遮るものがないご機嫌気分を堪能しつつ、眩しさでコントラストの過激な景色を流しながら、気ままに桜田通りに下ると出てきたのが三田四丁目の古い木造住宅です。塀の煉瓦もなかなかの風格ですし、この周囲の妙な空き具合も何となく曰くありげな様相であります。

二本榎通りと桜田通りの間には数多くの寺があり、自転車ですと独特のタイムスリップした環境に瞬時に身をおくことが出来ます。この変幻自在に行先をアドリブ出来る愉しみこそ自転車の真骨頂で、他の移動手段では味わいにくい利便性なのであります。

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2009年1月15日 (木)

山口瞳・銀座チロルのコートを着る

Photo 目の衰えとともに、以前ほど読書も、少なくなりましたが、それでも、時々無性に本を読みたくなる衝動に駆られます。このような気分の時、山口瞳さんの辛口・洒脱・艶文・・・など、バラ寿司のように様々な素材が散りばめられたアンソロジー本が気を休めてくれます。

河出書房から2003年に刊行された『総特集 山口瞳』を適当に捲っていると、何と偶然にも、山口さんが、銀座・チロルのトレンチコートを着ていることに気付きました。右手の方は、私世代には巨人軍の天敵、西鉄の監督・三原脩さんですから、寿屋(現・サントリー)の宣伝部に所属して、取材でもしている頃かと思われます。

銀座チロルのトレンチコートは観てもお分かりのように、両肩から覆うように、「雨よけ」、家でいうと「庇(ひさし)」が下がっています。元々、トレンチ・コート自体は塹壕で寒さと風から身を護る用途から生まれた高機能なものですが、銀座チロルの洒落者・高山次郎さんはそれを充分理解した上、都市生活に見合ったディテールのアイディアをこのような形にしたのです。通常のトレンチコートは後ろにこの雨よけがあるだけですが、この通り、前にもあることによって、余程の大雨で無い限り、帽子が揃ってさえいれば、『全くの傘いらず』なのです。山口瞳さんは、洒落者としても、なかなかの一家言をお持ちの方でしたが、この写真を観て、再度、納得したのであります。

このコートは銀座の洒落者の間では、人気アイテムで、私が銀座・秀山荘でスキー販売のアルバイトをした1967年頃、お客さんの何人かは、このチロルのコートを挙ってべた褒めでした。その後、会社に入り、10年ほど経ってから、私も念願のチロルのコートを購入しました。スイス・フィスバ社製の表・裏地も洒落てましたが、着てみてその快適なのにびっくり。50歳近くになるまでの20年の間、襟・袖、ともにぼろぼろ状態のまま着続けました。

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2009年1月14日 (水)

神田 ささま・豊年

Rimg15945 今年に入り晴天が続き、寒さも忘れるほどの気分よさが続きますが、さりとて風の冷たさからか、自転車で疾走したくなるような気分には、なれません。

土曜日は、ロンドンから一時戻られた梶原建二さんhttp://www.nealsyard.co.jp/と表参道でおちあい、しばしの雑談に盛り上がりました。ロンドンの治安の悪さ、軽犯罪が昨年のリーマンショック以来、急増しているとのことで、日本の治安のよさを再認識したとのことですし、後退したとはいえ、日本人の買物好きのパワーには驚くだけだそうです。

ロンドンでも日本のコミックは大人気のようですが、日本の4倍もする小売価格のため、息子さんに頼まれた漫画本を神田まで買いに行くということで、車でご一緒しました。

三省堂で別れ、私は『ささま』に寄って、渋い姿の『豊年』という一品に見入ってしまい、購入。シンプルな構成ながらエレガントなそのまとまりに、改めて、和菓子世界の深さに感心しました。この白い部分は「雪輪」という雪の結晶を文様化した日本伝統の柄を用いたもので、雪の多い年は豊年になるという言伝えを元にした名称も秀逸です。さらに、顕微鏡の無い時代から雪の結晶が六角形であったことを認識していた日本人の観察眼にもびっくりであります。和菓子に限らず、季節を表現する様々な分野の独創性は、他所の国では見られないものですね・・・。

雪輪文様

雪輪文は雪華文と同じく雪の結晶の形から生まれた文様です。不思議なことに顕微鏡のない時代から雪の結晶は「六花」と言われ認識されていました。雪輪文の形は六角形の雪の結晶の輪郭を曲線で繋いだものです。

雪輪文が登場するのは以外にも近世になってからです。情景を絵画的に表現した「雪景文」、そこから雪の積もった植物のみを描き出した「雪持ち文」と発展し、雪だけが独立して「雪輪文」となりました。

雪輪文は冬の情景を表すときに使われるにとどまらず、江戸時代の庶民の着物「小袖」には涼しさを演出されるために夏の着物に描かれたり、文の中に松・竹・梅・菊などの植物文様などを入れたり「雪輪どり」といって柄の構図の境界線にも使われたりしています。

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2009年1月13日 (火)

1960・マラソン大会

126619601113 1960年(昭和35年)、1月13日に開催された小学校最後のマラソン大会の様子です(先頭が私です)。

わたしはこのマラソンが大の苦手で毎年、この大会が近づくにつれ重い気分になっていきました。それと、中学に上れるかどうか、平均点が合否すれすれのところにいた私は、そのことも気がかりで走っていました。確かな記憶が無いのですが、学園構内を2周か3周させられたかと思います。この頃私は野球に専念していたので身体も比較的大きい方でしたし、走りこみもしっかりやっていましたから、走ることはさほど苦手ではなかったのですが、マラソンはどうしても瞬発力よりも持久・耐久力の勝負ですから、せっかちな私は(今もそうですが)、前半飛ばして後半ばてるというパターンを何年か繰り返しては反省するのみ・・・という状態でした。

とくに最後のマラソン大会ということで張り切っていましたから、後ろから首にタオルを巻いた俊足ランナー・山本昌彦君がひたひたと近づいてくるのを気にしながらも、何とか振り切って念願の一桁順位の7位となりました。

当時、成蹊学園構内は長閑な武蔵野の雑木林も点在していましたが、今や立派な校舎が林立しています。この桜並木は今も小学校一年生の入学式を高学年の生徒が拍手で出迎えるイベントの場でもありますが、晴れれば最高の花道となるものの、雨の場合はお気の毒な道に変わってしまいます。

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2009年1月12日 (月)

1956年の日記・『ほこり風』

320a_04 1956年の一月、小学校二年から三年生に上る年の日記です。『ほこり風』というネーミングが自分で考えたのか、あるいは53年前は、この呼称が小学生仲間では一般的であったかは、定かでありません。

現在、成蹊学園正門を入ると大講堂が堂々の姿を見せてますが、その裏手、大学の校舎が林立している処には、昔、グラウンドが複数あり、その脇にはタールで塗り手繰られていた大学ラグビー部や野球部の木造の部室がずらっと並びその独特のにおいは子供にはきつかったのであります。それでも、各部室には面倒見の良い大学生が小学生を可愛がってくれ、丁寧にボールや球技の道具の説明などをしてくれたのですから、子供にとってはなかなか学校の正門に辿りつくまで、ワンクッションおいてしまう面白魔界スポットでもありました。この頃は小学校から大学までこじんまりしたスケールの学園でしたから、逆に世代間交流も自然体になされていたのです。

各グラウンドはずっと昔、生徒・先生の手作りのものでスッピンの土のままでしたから、風が吹けば否応なしに、細かい粒子が目に飛び込み、渦巻く風とともに、子供にはスリル半分、怖さ半分といった按配でありました。学園自体が広大な敷地を所有し、原っぱ・林園など自然環境に恵まれてましたから、一旦、風が吹き出すと収まるところを知らず、大荒れ模様となって、あっという間にこの学園の近辺は赤茶色の世界となってしまうのでした。

まだ、色気づく前の年代ですから、鼻をたらしたまんま、あるいは汗をかいても拭かずに友だちと吉祥寺駅まで歩いて来ると、周囲の人が笑っているように見えたので、吉祥寺北口駅の脇にあったトイレの鏡を観ると、確かに、ほこりで汗のあとや鼻のあとがきっちりと薄汚れていて、たしかに笑いたくなるような形相でありました。

さて、1948年・1月18日の米軍による空中写真は、自然に恵まれた成蹊学園の環境を捉えています。上部の大きな400メートルトラックが、このほこり風を生む場所でありましたし、木造部室はその下の並木に沿ってありました。Rimg15958また、学園の周囲も自然環境に恵まれた、素晴らしい世界が広がっています。

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2009年1月11日 (日)

ハンティングジャケットの類型分類本

Rimg15190 Rimg15186 RESEARCHというメンズブランドのディレクションからデザインまでまとめている小林節正さんが、これまで、こつこつと収集してきたハンティングジャケットを公開したソリッドな冊子[Hunting Jacket Research]を観ていると、この類のジャケットがイギリスを源流にしつつも、アメリカに渡ってからは機能性・合理性を付加しながら、独自の道具として進化してきた軌跡が見渡せます。

世界は違いますが、建築や家具にも同様のことが言えて、こうしてみると、アメリカ人の自由な縛られない発想というものは、生活に近い衣食住分野においては著しく冴えていることが分かります。

何も解説なしの薄い一冊でありますが、それが却って、観る者に自由なイマジネーションをもたらしてくれますから、ここ最近では稀有な一冊でしょうか・・・。売るための本というよりは、各アパレルがシーズン毎に力を入れる広報誌のような感覚の仕上がりですから、これを買う人はあまりいないのでしょうが、観ようによっては、たいへんなネタ本でもあります。

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2009年1月10日 (土)

1969年・二子玉川!

1969102 Photo 今や、東京の郊外の中でも、ちょっとスノッブなライフスタイルの象徴的な場所として定着した二子玉川の40年前の写真です。

この頃、私は井の頭腺・久我山に住んでいましたから東急多摩川線の町は近くて遠い世界でした。今では自転車で30分も掛からずに着いてしまう距離であることが解ってますが、この頃は通学と週末に東京の西北部を中心に走っていた以外は全く世間知らずでした。

この写真をみると、渋谷発の路面電車が写っています。この電車は当時から電車おたくには人気の路線で、世田谷の起伏に富んだ変化を楽しめたそうです。確かに自転車で玉川通りを走ると自動車では感じることのなかった勾配のきつい坂が多いのに気づきます。

また、歩いている人の右手は以前ケンタッキー・フライドチキンがあった辺りかと思います。今や二子玉川再開発のため、この辺りは取壊されて、殺風景な状況になってますが、このあと、どのような世界が展開されるのか愉しみであります。

この写真からは玉川ショッピングセンターが出来る前の長閑な雰囲気がまだ読み取れますし、以前、右奥の瀬田方面に4年ほど住んでいたこともあり、この写真は私にとって知らなかった時代とちょっと懐かしい思い出が同居している一枚です。

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2009年1月 9日 (金)

とんかつの穴場?。

Rimg15359_2 浅草に行けば、昼飯は尾張屋のそばと決めかかっているのですが、この日は浅草・松屋に生まれて初めて入ってみて、あまりの懐かしい気配に嬉しくなり、この雰囲気はどこかの店に似ているな・・・、と思い出したのが、吉祥寺にあった名店会館という直球そのまんまの名前の店です。どちらも、通路にワゴンがでしゃばり、整合性のないというより勝手気ままな売場展開が、こちらの予想をはるかに裏切ってくれて、その落差さえ、面白いのです。例えば、松屋の一階の化粧品売場の低い天井を見ながら歩くといきなり東京の老舗菓子のお土産コーナーに出くわします。東武鉄道で駆け込みの土産客が上得意の売場でしょうから、慌ただしい客がひっきりなしの有様です。

そんな賑いを避けて、エスカレーターで昼ご飯をとりにレストランのフロアーに上がり、和洋中華などの各店舗を観ながら落ち着いたのが、『すみだ』という豚カツ屋さんです。いかにも働き者といった女将が自ら豚カツを揚げ、店内の客それぞれの状況を細かくチャックしながら、店員に指図するところなど、なかなかの光景で、静かに整然・黙々と働く目黒の『とんき』とは好対照であります。しかし、食べてびっくり!。柔らかい豚肉は絶品で甘く、シンプルなお膳の姿とともに好感が持てますし、しっかりとしたボリュームに比較した値段の安さにも、自分なりに、久しぶりのヒットでありました。

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2009年1月 8日 (木)

金子至先生・赤坂砂場の新年会

Rimg15845Rimg15888火曜日、 私の関わりある桑沢学園の新年会を終えたあと、恒例になっている金子至先生を囲んでの二次会を赤坂・砂場(室町砂場・赤坂店)にて4時半から開きました。

金子先生(左から二人目)は大正9年(1920年)生まれでありますが、その細身で機敏な動きは全然変わらずで、指導を受けた一同、感激でありました。

私は1966年から四年間、公私ともに、いろいろとご指導いただきましたが、デザインの枝葉末節なことよりも、日本のもっている優雅さの文化について、江戸っ子訛りで先生の語る幅広いレクチャーは知らぬことばかりで、アメリカ一辺倒であった私には影響が大きかったのです。

金子先生は波乱万丈な人生行路を経て、日本のデザイン界の先達として、とくに、インダストリアルデザインにおいて、ひとつの良識の道筋を創られました。1950年代に設立したKAKというデザイン事務所は秋岡芳男氏とのコンビによって、日本の産業デザインの礎を築かれ、ライラックオートバイ・セコニック露出計・ミノルタカメラなどの傑作を発表。その頃の話は昨年刊行された『工芸からインダストリアルデザインへ』に詳しく書かれています。

一番客としての礼儀、いや、蕎麦好きの流儀として長居も出来ず、「さっと盛り上がり、すーっと引く」という日本橋生まれの金子先生の生活流儀のかたちに合わせ、我々も、普段忘れがちな粋な振る舞いに追従したのです。続々と入ってくるお客さんに迷惑をかけぬよう、一時間ちょいとで、ひきあげましたが、此処の、菊正はどうして美味しいのでしょうか。

金子 至先生 大正9年3月8日、東京市日本橋生まれ。昭和6年、染織技術習得。昭和11年、東京府立工芸学校卒(木材工芸科)。同校助手。昭和12年、アントニン・レイモンド建築設計事務所勤務(家具・インテリア及び建築設計アシスタント)。昭和14年、商工省工芸指導所同通商産業省工業技術院産業工芸試験所(工業技術院製品科学研究所)及び工業技術院兼務。通商産業技官。昭和19年、中国武漢陸軍軍司令部勤務。重機関銃手。昭和24年商工省工芸指導所「工芸ニュース」誌編集係長。昭和28年、工業デザインKAK設立、代表取締役。昭和29年、学校法人「桑澤学園専門学校桑澤デザイン研究所」設立に参画、43年よりインダストリアルデザイン主任教授、同学園評議員、理事、教務部長を歴任。同学園東京造形大学兼任教授。昭和43年、株式会社共和電業デザイン顧問。昭和59年、株式会社グラフテックデザイン顧問。昭和62年、ぺんてる株式会社デザイン顧問。受賞多数。

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著者:金子 至
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2009年1月 7日 (水)

クレージー・キャッツ 1963年

1963写真提供:フジテレビ

1963年の春、通っていた中学の卒業式が終り、その後の謝恩会に、何と、『クレージーキャッツ』http://www.ld-dvd.2-d.jp/column/column_crazy.htmlが登場するということを知らされた時ほど興奮したことは、これまで、ありませんでした。

比較的静かな生徒の多い学校でしたが、時代の後押しもあって、私等のような、世俗の流行に目敏い輩もちらほらし出した頃ですから、その世俗の横綱であった、クレージーキャッツが目の前で、しかも、ジャズをはじめとする音楽コントの猛烈ラッシュには、普段静かな生徒も、ただびっくり・・・といった状態でした。

学園の中でも、最も格式のある大講堂で開催されたのですが、当時は板張りの床ですし、1963年の時でさえ、相当時代を経てきてましたから、そのジャンプしたり、転んだりするたびに、床のきしみ音が尋常でなく、万が一のことも想定して、学校関係者は気が気でなかったに、違いありません。

ご存知のように、以前からメンバーの夫々が、楽器演奏者としても一流でしたし、それを束ねるハナ肇氏の統率力たるや、並大抵のことではなかった筈ですから、観ている方も単なる芸人さんとしてではなく、プロのチームワークの素晴らしさというものが、どういうものか・・・ということを十二分に味わいました。

この1963年あたりから、クレージーキャッツは歌に映画にと、日本芸能史に遺る大ブレークをしていくのですが、中学生の私は、演奏する楽曲のセンスと、各自の演奏技術にひたすら感動しまくっていたのです。

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2009年1月 6日 (火)

イタロ・ルピのポスター

1 都市の生活にどっぷりとはまり込んでしまうと、自然の、それも手付かずの未開の世界などとは、縁遠くなってしまい、自ずから動物的感覚など、消し飛んでしまいますが、以外にも、身近な場所に、自然・天然のおこぼれが、そっと隠れていたりするのでしょう・・・。

イタリアのトータルデザイナー、イタロ・ルピさんのポスターには、海岸で採集した石が、美しく配列されて、建築家としての、絶対バランスへの執念なども、垣間見ることが、出来ます。

ところで、永い間この写真を気に入っていて、部屋に飾ってあったのですが・・・、先日、ついに大発見をしたのです。

この一つ一つの石の文様は、人間の作為によるものではなくなく、自然の力によるものですが、じっと見ているうちに、左上から横に順番にアルファベット順になっていたことに気付いたのです。これまで、何故、気付かなかったのか、これまでいい加減にしか観察していなかった、自分に情けない思いがします。

採集マニアの帝王・林丈二さんもびっくり、といったところでしょうが、よくも集めたものです。イタロ・ルピさんご自身のなせる業か、事務所のスタッフの持ち込みなのか、分かりませんが、この執念・熱意に頭のさがる思いです。石の採集など、マニアックな世界でありますが、このような表現に転移させられると、みごとな、Nature Artとなってしまいます。

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2009年1月 5日 (月)

OGO 酸素水のボトル

Rimg8614_2 OGO(オゴ)は現代人に不足している酸素をもっと手軽に補給できないかというコンセプトよりデザインされた酸素水です。
水はミネラルウォーターの水源として官報に記載されているオランダTilburg(ティルブルフ)の「Gilzerbaan(ヒルツェルバーン)」にて採水した水に、Westfalen社の高純度酸素を※通常の水の約35倍も封入した世界で最も酸素濃度の高い酸素水です。
また、この水源から採水されるミネラルウォーターは、 「Prise d'Eau(プリーズ・ドー)」というブランド名でエアラインにも供給される高品質なお水です。日本人にも飲みやすいくせのない中硬水で、すっきりとしたテイストの酸素水です。
また、スパークリングタイプは、微炭酸でやわらかい口当たりのシャンパンのような炭酸酸素水です。

ボトルのデザインは現在パリでもっとも波に乗っていると言われているORA-ITOに。「卓上でグラスを必要としない」というコンセプトのもとにOGOをデザインし、ペットボトル素材でグラスのように美しいボトルを開発しました。

スーパーマーケットで、陽射しを浴びて輝いていたこのボトルを見て、衝動買いしてしまいました。運搬時の配送効率も悪いでしょうし、何といっても商品管理上、不安定な形態は、よほどの洒落た感性の販売店でない限り、ご遠慮願いたい・・・などと、言われてしまいそうです。

それでも、この形態を決済したトップの感性は拍手ものですし、一般的な形態にすれば、より多くの売上が保証されるものの、よくぞ、やってくれました・・・、といいたくなるほどの、傑作形状であります。

デザインコンセプトにあるように、白いテーブルクロスの上に、このボトルが置かれただけで、その店のお洒落度がぐっと上ってしまいそうです。

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2009年1月 4日 (日)

東京駅・1953年

1953

写真:薗部 澄

1953年の東京駅のホームの写真を観ると、皆さん、ずいぶんと着込んでいるのに驚きます。遠くの時計の針はまもなく午前九時になろうとして、到着した列車の屋根の影になって、頭のあたりに陽射しが差し込んで来ましたが、まだ底冷えしている、サラリーマンの風貌には、将来が見えない1953年 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1953.html という顔が見てとれます。列車の様子からして、名古屋・関西方面に出張する皆さんでしょうから、夫々、会社の今後の社運を賭けた重責を負った証の風貌にも決意の風格があって、一人ひとりの顔相も立派のひとことであります。

皆さんが着ているウール製のコートも、やがて、バーバリー社製の防風コットンの軽いものに変わっていき、冬の重装備から解放されていきますが、何故か、この重装備の写真に、男のあるべき姿が象徴的に写りこんでいる・・・などと思い込むのは、私だけでしょうか。今では、愛煙家の行く場所さえなくなりつつある、プラットホームですが、当時は、まだ朝陽を浴びた逆光の紫煙の動きが、これから始まる都市の活力をも、暗示しているようにも、見えます。

話は飛びますが、成長しつつある1950年代の東京は、至る所から、煙があがっていましたし、さらに、活気のある街からは、クリーニングのにおい、印刷のにおい、金属加工のにおいなどがしていて、高度成長に繋がるこの時期は、私も小学校に上がる前後の歳でしたが、町のにおいの記憶は今も、鮮明なのです。

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2009年1月 3日 (土)

風貌・吉田秀雄

1953 電通の中興の祖と呼ばれる、第四代社長・吉田秀雄氏http://www.admt.jp/introduction/yoshida/about.html を木村伊兵衛が1953年(昭和28)年に撮影したものです。

父が戦争中、上海に報道班員として、従軍記者兼画家として従事していた頃、名取洋之介をヘッドとする軍のプロパガンダグループから吉田氏を紹介されたことを話していた記憶があり、その鋭い時代の捉え方に感心していたことを、よく話していました。

若干50歳にして、ご覧のような内に秘めた闘争心はさすがなもので、この眼力を観ても時代と戦った男の風貌としておみごとなものです。吉田秀雄氏の創案による有名な電通・鬼の十則は今も電通以外の企業でも心得として活用されてますが、まさかパロディ版・電通の裏十則もあるなどとは、今日まで知りませんでした。

蝶ネクタイに仕立ての良いダブルの麻スーツからして、夏の姿ですが、奥に見える扇風機は当時としてはずいぶんモダンなスタイルをしていますね・・・。

電通・鬼の十則

1)仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2)仕事とは、先手先手と働き掛け、受身でやるべきではない。3)大きい仕事」と取り組め。小さい仕事は己を小さくする。
4)難しい仕事をねらえ。それを成し遂げるところに進歩がある。
5)取り組んだら放すな。殺されても放すな。目的完遂までは
6)周囲を引きずり廻せ。引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に天地の差が出来る。
7)計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と正しい努力と希望が生まれる。
8)自信を持て。自信がないから君の仕事は迫力も粘りも厚みすらもない。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って一分の隙があってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、きみは卑屈未練になる。

パロディ版・電通の裏十則

1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。
2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。
3)大きな仕事と取り組むな。大きな仕事はおのれに責任ばかりふりかかる。
4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。
5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。
6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。
7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。
8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実を語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。


ちなみに、トヨタにも主査10ヶ条というものもあります。

第一条 主査は、常に広い知識、見識を学べ。
第二条 主査は、自分自身の方策を持て。
第三条 主査は、大きく、かつ良い調査の網を張れ。
第四条 主査は、良い結果を得るためには全知全能を傾注せよ。
第五条 主査は、物事を繰り返すことを面倒がってはならぬ。
第六条 主査は、自分に対して自信(信念)を持つべし。
第七条 主査は、物事の責任を他人のせいにしてはならぬ。
第八条 主査と主査付き(補佐役)は、同一人格であらねばならぬ。
第九条 主査は、要領よく立ちまわってはならない。
第十条 主査に必要な資質 - 
     ①知識(点在している)、
      技術力(それを組み立て進展さす力)、
      経験(上限、下限の経験により適正なレベルを設定する能力)、
     ②判断力、決断力、
     ③度量、スケールが大きいこと 
       - 経験、実績(成功と失敗共に)、自信より生まれる、
     ④感情的でないこと、冷静であること、
     ⑤活力、ねばり(トータル・エナジー)、
     ⑥集中力(パワー)、
     ⑦統率力 
     - 相手を自分の方向になびかせ、同じ気持ちで仕事をさせること、
     ⑧表現力、説得力 - 特に部外者、上司に対して、
     ⑨柔軟性 
      -最悪の場合にはメンツにこだわらず転身が必要なこともある。
       そのタイミングが問題、
     ⑩無欲という欲

これは、初代カローラを開発した長谷川龍雄氏のことばですが、電通と比較すればその現場発想が具体的であります。

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2009年1月 2日 (金)

京橋・1935年

1935 明るい青空が目の前に広がっていると、それだけで、気分は晴れやかとなりますが、最近の都心は、以前にも増して高層ラッシュで、青空の占める面積も減りだし、ますます、昼間から暗く冷たい街が増えだした・・・、といっても過言ではないでしょう。

晴天の下、自転車で街を抜けるとき、なるべくならば、温かい場所を通りたいですが、最近は、高層ビルのおかげで、その温かさが継続されず、いきなり、温度差が激しく低くなってしまうことも、多くなりました。

さて、この写真は、京橋の往時の姿です。遠くに見える第一生命相互館は、姿を変えて、現在も同じ場所に、そのモダンな威容を誇っていますが、私は、どちらかというと、こちらの煉瓦の風貌に、軍配を挙げてしまう感性に賛成です。1963年には首都高速道路が完成して、この橋も川も消え去り、ただの通過点に過ぎなくなりました。

江戸から続く掘割の都・東京は関東大震災で、ほとんど埋め立てられたりしましたが、銀座界隈には、まだ、その余韻が微かに残されていて、明治からの近代化・洋風化の過程が具体物を通して、検証できましたから、街に多少の問題はあったものの、格調の高さはみごとなものでありました。現在、この界隈はホテル・映画館・居酒屋などの雑居状態となっていて、日中の暗さも哀しい雰囲気に満ちています。

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2009年1月 1日 (木)

パレットの入替

Rimg8949 Rimg8956 色に関して多少なりとも、勉強された方であれば、色相環とか、三原色などを覚えていられるかと思います。

水彩のセットを購入して、開いてみると、基本的には、左上がイエローでオレンジ系・レッド系・パープル系・ブルー系・グリーン系・ブラウン系・ブラックの順に右下まで並んでいます。

初歩的なせいぜい24色程度であれば、この順番でも素早く好みの色を混色できますが、微妙な中間色を必要とすると、どうしても、色数が増えて、この順番ですと、混色に迷いが生じて、時間が掛かってしまいます。そこで、今、人気の色の置き方が、この写真の順番です。業界的には水彩画家・奥津国道さんが生み出した方法として、知られていますが、昨年からこの置き方を採りいれたところ、最初は、戸惑いましたが、すぐに慣れて、今では、たいへん重宝しています。似た色を、あえて離すところに、この置き方のポイントがあって、とくに、イエロー・レッド系の置き方は、試行錯誤しながら、この順番におさまりました。不思議なことに、慣れてしまうと、欲しい色の混色の組み合わせを即座に混ぜることができて、これまで考えなかったような混色にもトライしています。

すでに定位置の色以外、使い勝手を考えつつ位置を換えることは正月の段取り初めとしては、わるくないかな・・・などと。

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