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2009年2月 9日 (月)

1971年・慶應義塾

1971 GKインダストリアルデザイン研究所の初期の傑作、公衆電話ボックスが鎮座しているところは、港区三田・慶応義塾大学・旧正門跡であります。

1971年といえば大阪万博も前年に終わり、経済成長も右肩上がりで、銀座の夜の混みようといったら想像できないほどで、店に入るのに順番待ちで近所の珈琲店で待っているといった状況でありました。学生さんも今の連中から比較すればずいぶんと渋い様子でありますが、この身なりこそが当時のきちんとしていた諸君のスタンダードであったのです。

ところで、この木造の建物は何だったのでしょうか?。倉庫のようなスケールですね。以前、慶應の近くに造り酒屋のあったことを小耳にはさんだことがありましたから、ひょっとするとこの建物がそれかも知れません。

この場所も今や閉塞感そのものといった様子でありますから、時の流れは速いものです・・・。

慶應義塾・幻の門    

東館のアーケードのところには、それまで60数年来「幻の門」と呼ばれていたゴシック風の門(旧正門)がありましたが、東館の建設に伴い、坂道の上に移設しました。昭和34年に今の正門が新設されるまでは、東館の場所が正門でした。かつて義塾で学んだ堀口大学が、昭和初期に「幻の門」という詞を発表してその名が定着し、卒業した後も愛着のある門でした。坂道の端にある石は、かつて馬を繋いだといわれる馬留石(うまどめいし)です。
 ところで、慶應義塾大学の5つのキャンパス全てにおいて門札・看板は存在しません(ただし、病院には看板があります)。看板がない理由として、誰かが盗んでしまい、「まあそれでもいいか」とそのまま放置していたら、看板がない状態が当たり前になったとも言われています。また、「慶應義塾」と言う看板を掲げなければ「慶應義塾」と判別できないようなものは慶應義塾ではない、という精神から看板がない、という説明もされています。この説明は権力におもねらず、反権力を志向した福澤先生の教えが具体化されている象徴的な事例といえましょう。

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コメント

お久し振りでございます。実家が伊豆多賀の者です。本日、実家が芝松本町(現在は三田3丁目)の母が来ていましたのでこの慶應の写真を見せましたら「多分多田質屋の倉庫じゃないかしら?」と言ってました。『正門の右側には「豆屋」や「イソカワ靴屋」があったと思うわ』ということです。
私も1970年まで松本町にいましたので大変懐かしい写真です。
いつも様々な写真を楽しませて頂いてます。
お元気で。

投稿: gurimama | 2011年4月 7日 (木) 午後 10時19分

お母様にお礼を申し上げてください。

なお、http://alpensmile.cocolog-nifty.com もご覧ください。

投稿: gurimamaさん。 | 2011年4月 8日 (金) 午後 03時22分

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