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2009年2月28日 (土)

横浜 ・ホテルニューグランド

2  横浜・ホテルニューグランドhttp://waga.nikkei.co.jp/travel/hotel.aspx?i=MMWAc2000012122007に来ると、品格のある街並がここだけはキープされていることに、安堵します。この時季は暖かい春風など吹くと、柔らかいトーンがフィルターとなって、景色がソフトに優しく感じられます。ここは、マッカーサー・大佛次郎など歴史上の人物との関わりも多く、又、多くの映画のロケ舞台ともなりました。

 1967年、車の免許を取得して直ぐの夏に、独りで横浜までドライブしたのですが、三ツ沢公園から桜木町までの間に、東京では観たこともないクラシックな煉瓦の建物が多く見られ、海に近い落ち着いた街並のもつ優雅で正統な風景に、東京の繁華街のもつ猥雑感がいかにも軽すぎるなどと思っていました。その後、中華街の美味しい食べ歩きが横浜行きの目的となってしまいましたが、最近は、文芸・横浜風俗の調物をするのに(ご機嫌な雰囲気もあって)、神奈川近代文学館 http://www.kanabun.or.jp/ まで来ることが多くなり、そのまま戻ることが殆どとなりました。

 それでも、夕方の薄明かり気味の時間帯は、このニューグランドホテル界隈に、それまでの時間帯よりも、ぐっとノスタルジックな気配が充満し出し、独特な港町の妖しさが流れ出し、そうなると、ジャズの生音が恋しくなってきます。

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2009年2月27日 (金)

尾根道の眺望

809_3 隅から隅まで、すっかり平均化した街並みばかりとなってしまった日本では、尾根伝いの街道町でさえ、迂回したバイパス沿いの街だけがモータリゼーションの恩恵を受け、旧街道筋などは、昔の栄華など微塵も無く、ひたすら、虚無の嵐が通り抜けるようであります。

イギリスの美しさのひとつは何といってもそのハイランドのもつ柔らかな稜線に沿った中世からの街並みが良好に保たれているからこそ薫る、その自然な姿でしょう。

安野光雅さんの描いたイギリスの田舎の風景にも、その雰囲気が良く表れていて、日本人の好みにもぴったりです。これまで4回ほど訪れたイギリスですが、ゆっくりと自転車で散策したこともなければ、ゆっくりと田舎のコーヒーハウスで、アフタヌーンティを嗜むこともなく、ただひたすら決められた日程で展示会回りをしただけでしたから、次回は、イギリスの美しい眺望を一日中、ぼんやりとしていたい・・・というだけの旅を思考中なのであります・・・。

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2009年2月26日 (木)

生菓子の意匠・咲きがけ

Photo_2 茶巾絞りにした白生地と桃・緑の彩りが春のお告げを暗示しています。

極めて、明快な意匠ですから、彩りのバランスが生命線です。ちょっとした手加減でその桃・緑の色の比率が狂って、ダサイとも云われかねない姿となってしまうことになり、職人さんたちの悲鳴が聴こえてきそうですが、素晴らしい出来栄えのものには、優雅なほんわかした春の長閑さしか聴こえてきません。

山形市・佐藤屋の「咲きがけ」です。

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2009年2月25日 (水)

広重・湯島の雪景色

013 快晴の週末は、専ら都心の自転車徘徊がほぼ習慣となってしまいましたが、最近になってようやく夫々の土地の隆起の様子を頭で描けるようになりました。

季節を問わず魅力的なのは、何と言っても昔からの風光明媚なスポットですから、どうしても神田・小石川・本郷・上野界隈の山あり谷ありのゾーン、あるいは品川・白金・三田界隈でヒルクライムもどきを楽しむことが多くなりました。

湯島はほとんど通過点で、御徒町の自転車ショップで買物を済ませ、せいぜいカレーの店で昼食を済ませる程度ですが、湯島天神のあるてっぺんまでは今だに行ったことがありません。江戸時代からの出会茶屋の伝統を継承した天神周辺の業態は今も繁盛のようですから、これも避ける理由のひとつであるのかも知れません。

雪の湯島天神からの不忍池は、さぞ美しかったでしょうに・・・、今ではこの版画のような見晴らしも期待できないでしょうから、先ずは白梅の満開の時期にでも出かけるのが当然なのでしょうね・・・。

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2009年2月24日 (火)

1956年・今日の日記「先生のみやげばなし」

32504 小学校3年生になる年の日記です。

担任の清水晴男先生は、実直・熱血・誠実な、一生懸命、生徒と一緒に学び遊ぶ先生で、後に分かった事ですが、本当はご法度であった日記の枠外に描いてしまう挿絵もどきを、愉しみにしてくれていたそうです。

この日の日記は、清水先生が関西方面に旅行したときのことを、授業中に話しはじめたのでしょう。聞いていた私は、そのことを忘れないうちに、日記に書き込んでいます。授業中に先生の話をノートに記録することなど無かったでしょうから、やはりこの頃の記憶力というのは、凄いものであると思わざるを得ないのです。

今では、今日あった出来事でさえ、忘れかけること多々あり・・・、という私ですから、この日記を読み返すと、感慨深いものがあります。

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2009年2月23日 (月)

宮田重雄展・築地パレットクラブ

Rimg16754 Rimg16763 Rimg16761 Rimg16765_2 Rimg16769_2 イラストレーター原田治さんのブログ  

 http://d.hatena.ne.jp/osamuharada/ で知った宮田重雄さんの展覧会が、築地・パレットクラブ http://www.pale.tv/ で3月1日まで開催されています。(会期中は休みなしですが、オープンは午後1時から7時までですから、ご注意を!)。

宮田重雄さんは本業がお医者さんで、油絵や挿絵は余技でありますが、その余裕から編み出される品の良い線描は、会場の壁一面に展開される獅子文六のユーモア小説「青春階段」の一枚一枚を通して、優しく飛び込んできます。この小説は市川崑監督により映画化されているほどの人気でしたが、今や忘れられた感があります。

ユーモア小説という純文学の対極にあるサブカルチャーカテゴリーは、その時代の風俗や嗜好をたんまりと盛り込まれていて、今だからこそ、きちんと評価されるべきものであると思うのですが、日々起こる現実の方がユーモアを超越し滑稽であるという事実もあり、なかなか思うようにはいかないものです。

宮田重雄の挿絵には昭和20年代後半から30年代の風俗や光景を、その空気までが画紙に吸い込まれたごとく鮮やかに描かれています。この展覧会をプロデュースされた原田治さんによると、宮田さんは銀座・新橋・向島などに出向き、きちんと取材スケッチをされていたそうですから、やはり、そのリアリティが、こちら観る側にもストレートに届くのです。

この時代の風俗は写真・映像に数多く記録されているものの、シンプルこの上ない筆と墨で描かれた、宮田重雄の挿絵ほどの臨場感と時代のもつにおいが、感じられないのであります。銀座四丁目界隈を描いた源氏鶏太の小説「流れる雲」の挿絵に見られる夕闇の晴海通りなどは、もう哀愁たっぷりなのであります。

なお、会場には毎日、原田さんが中央の大テーブルで宮田重雄さんの遺されたデッサンやスケッチなどの整理をしながら、解説もしていただけるという、普通の美術館では在り得ないような贅沢感を味わうことができます。

さらに、会期中は毎日、概ね午後5時から映画「青春怪談」の放映もあるという、時代考証も愉しめる中身の濃い展覧会なのです。

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2009年2月22日 (日)

材木屋の潔さ

Rimg16562 ご機嫌な快晴の朝ほど気分良いものはなく、サボっていた自転車の整備をさっさと済ませ、駒沢から南下して池上方面に向かいました。

自由通りは世田谷区・大田区近辺を斜めカットするように走っていて、早朝ですと自転車には、車の往来も比較的少なく、ご機嫌な道です。

このルートの途中、奥沢を越え東玉川町との境にある材木屋さんが、朝陽を浴びて、銘木が反射していました。今や、材木屋そのものが少なくなってしまうご時勢ですが、それでも、自転車で都心を走っているとちらほらと目に留まることも多く、その殆どが、需要が安定していそうな古い屋敷町にあります。きっと、住まいの修繕・改修から、工務店を兼ねているなど時代に合わせて地域に密着対応してきたところが、このような凛としたすっぴんの美しさを周辺に振りまいていてくれるのでしょう。

しばらく眺め終え、一気に中原街道に下り、呑川側道を抜け、雪谷・久が原を通り、十中通りに左折すると、第二京浜にぶつかり、その先はもう池上本門寺です。此処は、美味しい葛餅とお茶、そして香り全開の梅が待っているのです。

このルートですと駒沢から池上まで30分程で到着することができ、大田区界隈の散策ルートとしては、何処に抜けるにも具合の良いショートカット・ルートであります。

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2009年2月21日 (土)

LAFUMAの宣伝ツール・昔々

Rimg16441Rimg16445  街中を歩いていると、一気にザックをぶら下げている皆さんが増えたように思えます。しかもここ数年のアウトドアブランドに加え、50年程前の帆布と革のコンビを思わせる洒落たルックスのものも出始めています。あるセレクトショップなどは、わざわざ昔のラベルを復刻させて、昨今のレトロ潮流に追い討ちをかけているかの如くです。

この日、茗荷谷界隈を調査した帰りに、表参道に向かい、車を駐車して、散策しました。街からは、いわゆるモード系の着飾った輩は消えてしまい、老いも若きも、アーバン・ナチュラリストのような、1970年代中頃を彷彿とさせる、ヘビーデューティな姿がやけに目立ちました。明治通り沿いにもアウトドアブランドが目立ち、ちょっと曲がり、フラり・・・と、フランスのLafumaショップhttp://www.lafuma.jp/about/に入ってみました。ここはその昔、フランスバカンスのものならば、何でもござれという数多くの品揃えを誇るブランドでしたが、今では商品グループを縮小しています。1970年代には、その優れた機構とフランスらしいセンスの布柄で人気だった折りたたみ椅子が、銀座の洒落たスポーツショップでは常連のアイテムでした。

レジ脇のガラスカウンターの中には1950年代から70年代と思しき、DMやPOPがいっぱいで、その一枚一枚からも優雅な一時代の風俗が読み取れます。まるで、あのジャックタチ監督の名作『僕の伯父さんの休暇』http://www.youtube.com/watch?v=8fR4wfW-rUA&feature=relatedが作られた時代の、何とも長閑で、スノッブな空気が、これらの印刷物から漂ってきそうであります。

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2009年2月20日 (金)

I can hear Kenucky calling me

Fnbjiw カントリーミュージック数ある名曲の中で、私のベスト10に入る一曲は「I Can Hear Kentucky Calling Me」です。多くの歌手がカバーしていますが、ありがたいことにYou Tubeではチェット・アトキンスとスティーブ・ワリナーという稀代のギタリストと歌手との競演が見られます。http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=VPQZTS5Rax8&feature=related チェットのもみあげの感じからして1970年代の映像ですが、ケンタッキーを賛美するスティーブの美声と流れるようなチェットの超絶ギターテクニックが秀逸です。

恥ずかしながら、一時はこの歌を持ち歌にしていた時期がありましたが、ハイスピードのリズムと息継ぎの難しいメロディラインに、今では歌うことさえ難しくなってしまいました。カントリーミュージックを田舎のダサイ音楽と思われている方々は多かろうと存知ますが、この曲は、まったくそういう観念一掃するようなモダンな感性に溢れています。

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2009年2月19日 (木)

下萌・和菓子の季節表現

Photo_3 「今よりは春になりぬとかげろふの下萌急ぐ野辺の若草」(続拾遺集)

和菓子の世界で春のお告げを象徴する大テーマのひとつが『下萌』で、全国の和菓子屋さんは競ってこの普遍的御題に挑戦しています。

土中から萌え出した草や芽などを象徴的・抽象的に表現するのですが、この一品などは珍しく土の地割れから覗く草が渋いながらも、彩りのコントラストによって、はっきりした造形として完成されています。

土の質感を主題に見立てたところなどは、この職人が、相当茶道を嗜んでいて、茶碗にも造詣が深く、特に、土物の素材がお気に入りではなかろうか・・・、などと勘繰ってしまいます。

『下萌』 京都・松寿軒

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2009年2月18日 (水)

広重・小梅堤

Photo 小梅堤 安政四年(1857)

利根川の流路が変更される以前は、関東地方の西北部に端を発した利根川に荒川と入間川が合流して住田川(隅田川の旧名)となり江戸湾へ流出していた。当時の本所は、蘆荻(ロテキ)が茂る洲があちこちに散在し、その問を住田川が幾筋にも分かれて流れている地形であった。その中でも水に浸らない寺島、須崎、請地(浮地)、石原、押上、柳島などには家が建ち人が住んでいた。小梅村もその一つで、かつて小梅村にあった三囲稲荷社の縁起は、牛島の地(小梅村が含まれている)に梅が生じたので、土地の名を梅が原と称するようになったと伝えている。これが小梅村の起源となったと考えられる。
 この絵の田圃の中央の水路は、もと本所や深川方面へ水を供給するために掘られた亀有上水であったが、その機能が停止した後は四ッ木通用水と呼ばれ、沿岸の田圃の灌概用に利用され、また上流では水上交通路として利用された。人間が舟を引く有様は
四ツ木通用水引船に示されている。
 小梅村での土堤は小梅堤と呼ばれていた。また用水に架かる一番手前の橋の右側には、梅の木が植えられていて、土地の広さが八段(8k㎡)あったことから「八段梅」とか「八段目」と呼ばれていた。そのため傍の橋の名も八段橋となった。用水右岸(絵では対岸)の道は水戸街道の脇道で、浅草方面からは、竹屋の渡しを舟で渡って来ればこの道へ入ることができた。柴又の帝釈天参りの人もこの道を使っていた。 
(堀晃明『広重の大江戸名所百景散歩』)

江戸は本所の北方、隅田川東岸にある小梅村にある堀川沿いの堤を描いた、広重の可愛らしい刷物です。

よく観るとなかなか急勾配な橋は、わざと視覚的に手前と奥の堤との距離感を演出するために使った手法でしょうか。実際もこの位の勾配であれば、ちょっと二の足を踏んでしまいますが・・・。

犬と遊んでいる子供も登場して、長閑な江戸郊外のスケッチのようなこの一枚は、梅の色香をほんやりと暗示するように天の部分と地平線あたりに、その刺し色がデザインされています。

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2009年2月17日 (火)

多摩川便り・春近し

Rimg16469 Rimg16470 Rimg16473 この日、急に気温が高くなり、20度を越えるということになり、自転車で久しぶりに多摩川へと出かけました。この日は、無風に近い状況ということもあり、ご機嫌なつかの間の春気分を存分に堪能しました。土手の雑草も整備されて、気分良い真っ直ぐな堤を快走しましたが、何故かこの日、やたらと高校生のマラソンチームとすれ違い、途中、何度も自転車を降りて、脇に寄らざるを得ないことが多く、以前はマネージャーがきちんと一列で走らせていたのですが、この日はどのチームも二列併走当たり前で、周りへの気遣いの無さが気になりました。

登戸方面から丸子橋に向かう途中、二子玉川再開発の区域には、ついにマンション棟が建ち始め、こうなると、(背後の国分寺崖線にお住みの)瀬田・上野毛地域の環境を存分に堪能できた既得権をお持ちの皆さんは、迫り来る、不愉快な日々の生活をどう思っているのかと、ふと頭を掠めました。

川崎側の堤にあり、この時季の名所でもある河津桜も満開で、その艶やかな光景を観てるだけで、(年明けから爽やかなニュースも無かったこともあり、)ほんのつかの間でありましたが、気分の良い一日でありました。

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2009年2月16日 (月)

生菓子の意匠・白山

Photo 例年ですとまだ残雪が山の頂を白く輝かせているのですが、今年は、真っ黒な頂が多く観られ、正に、暖冬そのままのような姿を露呈しています。

和菓子の世界も間もなく、春爛漫の意匠が、各店の趣向を凝らした姿となって登場してきますが、その少し前のこの時季ですと、渋いモチーフなどが店頭を上品に飾っています。

「残雪」「なごり雪」「白山」などの商品名も、今年は暖冬のせいか、いまいち・・・といった感がありますが、この小さな世界で、愉しむのも、悪くありません。小豆餡と粉砂糖というシンプルな素材で表したこの「白山」という生菓子は、女性好みとしての華やかさはないものの、久谷・染付けの器のシテ役が寄り添うと、なかなか、綺麗寂びのような情緒が浮き上がってきます。

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2009年2月15日 (日)

広重・愛宕下藪小路

108 降りしきる雪を背景に鮮やかな色彩を使いながらも、傘の下に身を沈めこちらに背を向け歩み去る人々、という何とも淋し気な図柄がみごと。路の奥は愛宕下、すなわち右手の丘の愛宕山のふもとになる。静寂なこの遠景に、丘の上の愛宕山権現社へ登る門の赤さがかすかな華やぎを添えている。
 一方,近景は活気にみちてにぎやかだ。右手の急流は桜川とよばれた放水路である。増上寺を過ぎ古川に注ぎこむまでの大分の距離を流れるが、遠く静かに後退する遠景と、にぎやかな近景のうまいつなぎとなっている。雪にたわむ何本かの竹は、右手の垣根から画面中央に大きくセリ出し、餌を探す3羽の雀が空に舞う。画題の色紙形の金箔模様も雪のようだ。
 実はこの竹藪は江戸の名所の一つで、江戸市民ならばすぐこの場所が分かるのだ。『江戸名所図会』(巻一)の挿絵には、四角い盛り土の上にはえる竹藪が見える。ちょうどここにあるような背の低い垣根に囲まれてもいる。ここは、水口(東海道は京都の四つ手前の宿場駅)の大名加藤家の上屋敷の東北の隅なのだ。竹藪の目的は明らかに鬼門の守りである。しかし何故竹なのか、地誌には何も書かれていないが、宮尾しげをによれば、加藤家の祖である清正の朝鮮における虎退治に由来するという。現在ここは、虎ノ門1丁目18番地の第10森ビルの角に当り交番が設置されている。考えてみると、これもまた守りの一つである。
 藪小路とはこの竹藪にちなんだ名前だが、加藤家の屋敷の裏屏ぞいに虎の門の水の落し口まで続く。小路は題名には現われても画面には登場しない。画面をはずれた右手の奥にある。代りに見えるのが南の増上寺の方角に向う広い通りだ。放水路にまたがる灰色の建物は加藤家の番小屋である。向いの屏は菰野(三重県)の大名土方家の上屋敷で、正門は画面をはずれた左側にある。(ヘンリー・スミス)2007

現在の愛宕通りの蕎麦屋『砂場』辺りから南の方角を望んだ雪の景色です。今や愛宕タワーがそびえ立つ景色であり昼夜、車の往来も激しいスポットであります。ほんの150年前はこのような光景であったのかと思うと又、残念と思わざるを得ません。江戸・明治・現在の地図を比較してみても、その優雅さは歴然ですし、さらに、ベアトの撮影した幕末の愛宕山の頂から永田町方面を撮影した一枚を通して、江戸の町並みの美しさに改めて驚愕するのです。Edo4Edo2 Edo3 

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2009年2月14日 (土)

1957年2月14日の日記『駅まで10分』

32304 小学校4年になる年の今日の日記です。

当時は吉祥寺駅から成蹊学園までは徒歩が義務付けられてましたから、怪我などの例外時を除いて毎日の行き帰りは、子供にとって社会勉強の積み重ねでありました。駅までは今のような外来者を対象とした商店も少なく、地元の日々の生活に関係する商店ばかりが目立ちましたし、すれ違う大人には友達のお母さんも多かったのです。ブロック塀の家などまだ皆無で、生垣と大屋石という正統日本のカタチがきちんとした街並を形成していました。

駅まで10分というタイトルのように、走って帰ることが一時期流行していて、吉祥寺の街中はすばしっこい小学生にさぞ迷惑であったに違いありません。

それでも、少しずつでありますが、今の東急界隈は長閑な郊外町にしては斬新な店などもぼちぼち出来始め、子供なりに、今までと違う町に変わって来たな・・・、などと感ずいてきた頃であります。

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2009年2月13日 (金)

きんつばの姿。

Photo 吉祥寺北口を降りると、そこはバスが連なっていて、初めて来た人は、どのバスに乗ってよいのやら、ちんぷんかんぷんな様子でした。バス停で並ぶ最後尾が何処行きかも分からないまま、違う目的地に行ってしまった人も多かったはずです。バス停の左を進み、今のパルコに向かう平和通り商店街を歩いていると、菓子屋さんが何軒かあって、その中に「きんつば」を店先で作っている和菓子屋さんがありました。

頂き物の石鹸のようなプロポーションをした羊羹のようなものに、白いでんぷんのようなものをつけて、鉄板に乗せるとジュウジュウと音を立てて、不思議な姿の「きんつば」が出来上がるのでした。出来上がっていくきんつばは横の白木の板に整然と、しかし、微妙な隙間を空けて並べられ、しばらくすると、ドミノ倒しのような列を成すのでした。

これは50年程前の記憶でありますが、小学校の帰りに、吉祥寺北口駅・平和通りの店を観ながら帰るのが、楽しかったのであります。小学生でしたから買い食いなどもまだ出来ぬ頃で、同じ学園の高校生などが店の中に入っていくのを観ていると、一日も早く、高校生になりたくて、たまりませんでした。

きんつばという不思議な名称の菓子は和菓子の世界では、さほど上級のランクではなく、むしろ、日々の「おさんじ」や植木屋さんに出す茶菓子の代表といった役目の多い菓子でした。子供の頃、「羊羹は餡子の塊程度」としか認識がなく、きんつばの「食して初めて分かる、簡素で風雅な侘び寂び味覚」を知ったのは、高校生になって、秋の文化祭の準備を終え、真っ赤な夕日に染まる店先の買い食いでありました。

さて、このきんつばですが、これ一筋を追いかけて全国ウロウロする「お好きな方々」も多いようで、確かに、野原に放置された瓦のような風情は、渋好みの諸氏のお茶の共としては、ベストチョイスなので、あります。

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2009年2月12日 (木)

松陰神社商店街

Rimg15908 Rimg15905 江戸時代から続く街道筋や生活道を拡張せず、又、アーケードを作ることなく、頑なに自分たちの生活環境を守り、明るい日差しの散策を楽しめる商店街はなかなか稀少なものとなってしまいました。

特に東京では、今という流れから置き去りとなってしまった荒んだ気配の商店街が目に余るようになって来ましたが、此処、世田谷・松陰神社商店街も、ご他聞にもれず、一時は地味な商店ばかりで、街から若い勢いと華が薄れていました。至近距離には勢いとエネルギーでは半端無い国士舘大学などもあり、下地はありましたから、この数年の若い世代の参入によって、昔の店と今風というか、中目黒風というか、カジュアルな生活雑貨を扱う店が按配よく溶け合って、散策が一層楽しくなりだしました。

商店街の道幅も広くなく、散策にぴったりのスケールで、向かいの店との響き合いも程よいハーモニーを醸しだしています。又、商店街の南端を走る世田谷通りは、カジュアルな飲食店舗の固まるロングゾーンでありますから、東急・世田谷線を降りて、『ぶらり途中下車』も、この時季の豊かな過ごし方となりましょう。

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2009年2月11日 (水)

鈴木信太郎の『靴屋』・1931年

38 1931年(昭和6年)http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1931.htmlの鈴木信太郎にしてはごく珍しい都会の風景です。

この時代、銀座にはモボ・モガと呼ばれるかなり生活レベルの高い層の坊ちゃん・嬢ちゃんが最先端の恰好をして闊歩していた頃でもあります。http://www.waraku-shachu.com/ojichan/daigaku/01.html今も変わりませんが、「身だしなみは足元からといったメッセージはこの頃作られた」と、銀座の旦那から聞いています。

この絵にもその時代の流行発信であった靴のお店の雰囲気がみごとに描かれています。奥の方にちらっと見える女性の膝下がこの当時としては斬新な画面構成であったと思います。このお店の外観を見ると二階のバルコニーの螺旋模様やグリーンとホワイトのテントのモダンな雰囲気が新しい風俗文化の台頭を予測しているかのごとくです。

しかし歴史的には、あまり誇れない日本の軍部が主導する筋書きに則って、最悪の時代に入る黎明期でありますから、こんな楽しい雰囲気が町に溢れていたのも僅かな期間だったに違いありませんね・・・。

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2009年2月10日 (火)

雪景色の意匠

Rimg12280 能衣装でありますが、このモチーフである雪笹と鳥の絵柄の構成がみごとです。雪は既に止んで、静けさだけの竹薮に突然、誰かが忍び込んだのか!、驚いた雀と思しき鳥がいっせいに飛び立ち、その勢いで笹に積もった真新しい雪が飛び散っているというみごとな時間の推移を織り込んだ衣装です。

能衣装のモチーフは具象と抽象の響き合うみごとな世界で、柔なアートの入り込む余地などなく、連綿として繋がる伝統文化の中でも極めてアバンギャルドな隠し味が満載であります。

能の動きは静と動を併せ表現しながらも、衣装はその演目の推移などを暗示しているわけで、その装飾の意味する洒落っぷりも、実に、お と な・・・なのです。

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2009年2月 9日 (月)

1971年・慶應義塾

1971 GKインダストリアルデザイン研究所の初期の傑作、公衆電話ボックスが鎮座しているところは、港区三田・慶応義塾大学・旧正門跡であります。

1971年といえば大阪万博も前年に終わり、経済成長も右肩上がりで、銀座の夜の混みようといったら想像できないほどで、店に入るのに順番待ちで近所の珈琲店で待っているといった状況でありました。学生さんも今の連中から比較すればずいぶんと渋い様子でありますが、この身なりこそが当時のきちんとしていた諸君のスタンダードであったのです。

ところで、この木造の建物は何だったのでしょうか?。倉庫のようなスケールですね。以前、慶應の近くに造り酒屋のあったことを小耳にはさんだことがありましたから、ひょっとするとこの建物がそれかも知れません。

この場所も今や閉塞感そのものといった様子でありますから、時の流れは速いものです・・・。

慶應義塾・幻の門    

東館のアーケードのところには、それまで60数年来「幻の門」と呼ばれていたゴシック風の門(旧正門)がありましたが、東館の建設に伴い、坂道の上に移設しました。昭和34年に今の正門が新設されるまでは、東館の場所が正門でした。かつて義塾で学んだ堀口大学が、昭和初期に「幻の門」という詞を発表してその名が定着し、卒業した後も愛着のある門でした。坂道の端にある石は、かつて馬を繋いだといわれる馬留石(うまどめいし)です。
 ところで、慶應義塾大学の5つのキャンパス全てにおいて門札・看板は存在しません(ただし、病院には看板があります)。看板がない理由として、誰かが盗んでしまい、「まあそれでもいいか」とそのまま放置していたら、看板がない状態が当たり前になったとも言われています。また、「慶應義塾」と言う看板を掲げなければ「慶應義塾」と判別できないようなものは慶應義塾ではない、という精神から看板がない、という説明もされています。この説明は権力におもねらず、反権力を志向した福澤先生の教えが具体化されている象徴的な事例といえましょう。

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2009年2月 8日 (日)

1949年・神田 神保町

1949写真:木村伊兵衛

初めて手にした海外の雑誌は、デザインに関係したスイスの雑誌・GRAPHISだったかと記憶しています。印刷大国スイスを象徴するかのごとく、その美しい紙面には、素晴らしいグラフィックデザインの典型ばかりが、満載されていました。銀座・イエナの二階にあがると、最新の海外雑誌をはじめとして、豪華な写真集・インテリア関連の本などが、整然と並べられていましたが、まだ10代でしたから、洋書の売場で立読みするのも、何となく気後れして、気まずい思いもどこかにあったように記憶しています。それでも銀座の洋書屋さんのもっている雰囲気が大好きで、洋書を開くと香る独特のインクの香りにまだ知らない世界をイメージしていたのです。

さて、戦後間もない、神田神保町の露店で立読みしている写真を観てますと、おそらく、PXの横流し経由ではないかと思われる雰囲気の雑誌が、ぎっしりと並んでいて、チョット前まで敵国であった国の風俗の豊かさを、実感している様子がうかがえます。当時も相当な高価格で販売されていた筈の海外雑誌には、勝戦国の活気ある風俗から物産まで、ぎっしりと掲載されていたのでしょう。

まだまだ神国・日本の敗戦を信じない大衆も多かった頃ですから、すっかり外国人になりきった、うつむき加減な、ハンフリー・ボガード風の店主が、何となく気まずそうに写っています。普段は堅気の仕事をしていたのでしょうが、この商売に味を占めてしまったのかも知れません・・・などと勘繰ってしまいます。

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2009年2月 7日 (土)

小田原細工の ぐい飲み

Rimg16313 銀座松屋のグッドデザインギャラリーを覗くと、小田原細工の新しい取り組みを展覧していました。

古くから小田原のお土産工芸品として、一時はどの家に行っても必ずあるキャラクターでしたが、細工の密度が高度化されるにつれ、生活環境の中で浮いた存在となってしまい、最近はあまり観ることも無くなっていました。

喜多俊之さんのデザインプロデュースによる今回の展覧会は試作品が殆どですが、このぐいのみなどは、ちょっと、欲しくなりそうな姿と装飾が施されています。

酒を愉しむ気分とか雰囲気とは、研ぎ澄まされる世界からしばし解放されることなのでしょうが、このぐいのみは、そんな酒飲みの自己弁護など関係なく、酒席に緊張感が流れるような気配を演出してくれそうです。

しかし、ぐい飲みはある程度の重さがないと、酔いが回るにつれ、手元が狂ったり、滑ったりと、その場が醒めてしまうこともあります。果たしてこのぐいのみは、そのあたりのことを、考えてくれていそうでしょうか・・・。私世代になると皮膚の油っけが飛んで、これまで楽に掴めたものが滑ったりするものです。

まあ、そんな心配をせずとも、これだけスキッとした姿であれば、酔いの回ること等、なさそうではあります。

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2009年2月 6日 (金)

日本のポスター

Graphic0101相当に古い話で恐縮ですが2007年、 2月に開かれたgggギャラリーの20周年記念のポスター展は、1980年代後半から今までの秀作が揃い、改めて日本のグラフィックデザインの持つ、底力を垣間見る事ができました。大御所から新人まで、その世代間の感性の相違も一緒に並べば、又、楽しいものです。2002年の田中一光さんの死去という思いもよらぬ出来事があって以来、デザイン界はカリスマなしのもぬけの殻状態が続いて、企業の販促品レベルまで墜落してしまった、今のポスターですが、この展覧会を見ると、やはり大切なのは、企業側の高い志のある経営者と、さしで話できるアート・ディレクターの存在でしょう。

以前は企業側にも全体観をもった、器量の大きい経営者や決定権のある部長がいましたが、今や、大変革や存立の危機を経験していない40歳代が重要決定権をにぎる企業も少なからずあるわけで、その人の未熟な経験がもろに社会に露出してしまう宣伝・広報の仕事というものほど、恐ろしい担当はないのです。

間抜けな判断ひとつで、企業のイメージが左右されるほど柔ではないはずの日本企業ですが、実態は相当やっつけ状態に陥っているとことも多々あって、些細な印刷物ひとつが命取りになることもあります。

無難な方向に傾くのも頷けますが、やはり、思い切りのよい夫々の企業のメッセージを、堂々と媒体に露出する潔さと、ぶれない志の高さを願うばかりであります。

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2009年2月 5日 (木)

広重・目黒太鼓橋夕日の岡

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今では目黒・雅叙園アルコタワーに夕日が反射して眩い処は、その昔太鼓橋という名の、夕日を逆光にして眩い艶やかさを演じた紅葉の名所『夕日の岡』にある、石積みの橋でありました。『夕日の岡』と呼ばれているのは今もその急勾配が心臓にきつい、現在の行人坂のことです。権之助坂ができるまでほこの坂が江戸府内に至る主道であったそうですから、坂下に現在もある鰻屋の存在は、精をつけてからもうひと頑張りという意味も含んでいるのでしょうか。

今も初めて目黒のとんかつ屋・『とんき』を目指して行くお客さんの中には、稀に行き過ぎにも気付かず行人坂を下って雅叙園に行き着いてしまう方もあるそうですから、昔から魅力のあるゾーンであったことは間違いなさそうであります。

現在の目黒川と江戸時代のそれは全く流れる位置も違いますし、もう別物と言ってもよさそうな地勢でありますから、いつ頃、大幅な工事が為されたのでしょう。もしそのままの景観であったならば都心のヒルクライムのお休み処としてもベストスポットであったでしょうに・・・。

Rimg6713 おそらくこの橋のある道筋は、その昔、大鳥神社や幡龍寺への道として隆盛を誇っていたのでしょうが、今や雅叙園への道としてしか機能していないような有様です。それにしても、降って沸いたような平成の地図に斜めに走る目黒不動へのバイパスのような道は、これもいつ頃出来たのでしょう・・・。

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2009年2月 4日 (水)

宮本三郎記念美術館

Rimg16015 Rimg16011 Rimg16013 Rimg16014 宮本三郎が生前に所有していた五千冊にもおよぶ書籍の数々「宮本三郎文庫」をまとめて初公開致します。
 
 宮本三郎が過ごした奥沢の邸宅には、彼が装丁を担当した獅子文六や大佛次郎そして石坂洋次郎らの大衆小説や、表紙を担当した『主婦之友』や『新女苑』といった当時の女性誌をはじめ、美術書や美術雑誌の数々、作品を描く際に参考にしただろう無数の写真集、自らの子どものための児童書、滞欧時に購入したと思しき洋書など無数の書籍が遺されていました。遺族の没後に作品とともに世田谷区に寄贈されたこれらの貴重な書籍の数々は宮本三郎の思考と創作の源泉や公私にわたる様々な関心を明らかにするのみならず、当時の著名な装丁家や写真家、そして美術家による昭和のブック・デザインを概観するための貴重な機会となるはずです。

 本展は、様々なテーマを設けて宮本三郎の蔵書をセレクトし、同時期に製作された絵画
作品とあわせて展示することによって、あらゆる視点から昭和を代表する洋画家 ひいてはその時代そのものを読み解こうとするものです。(宮本三郎記念美術館)

自由が丘駅を降りて、学園通りを田園調布方面に向かい、等々力通りとの交差点・奥沢6丁目信号を左折するとすぐ右側にある、世田谷美術館分室・宮本三郎記念美術館http://www.miyamotosaburo-annex.jp/で開催されている『画家の書棚にみる昭和アートブック史』は、宮本三郎の収集した書籍・雑誌から彼の装丁本を一堂に観ることができます。

この美術館は自邸を改築し、簡素美なコンクリートの外観ですから、周囲の住環境によく合っています。展示場は、今の新しい表現とは異なる、宮本三郎独特の重厚感と構成センスに長けたモダンな造形処理の本が、館内の簡素な展示を伴って渋い世界を作っています。残念ながら、書棚そのものが見られず、パンフレットの写真やタイトルを鵜呑みにした私は、「どんな書棚がアトリエにあったのだろう」と思い込んでいただけに、ちょっと・・・、でありました。

展示本は撮影できませんが、入口に展示された年賀状は撮影可ということもあり、一枚一枚見入ってしまいました。時代とともに、手作り・手刷りの年賀状は年々少なくなりましたが、ほぼ20年前までは、私にも一生懸命気持ちをこめた賀状が多く届いていました。見るだけでも嬉しい気分となって、年の初めの穏やかなときを過ごすにも豊穣な気持ちになりました。改めて、美しい賀状を見てると、自分が、ある懐かしい時代にリバースするのでした。

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2009年2月 3日 (火)

富士吉田駅前・1955

Photo 富士登山のの仕度場所でもあった富士吉田駅前・「富士屋」を1955年頃に撮影したものですが、寒さが染み入るような光景です。富士山周辺のパノラマを描いた観光案内図もリアリズムに徹していて、誰でも解る親切表現で、嬉しくなります。昭和30年代までは看板からパンフレットに至るまでこのようなポンチ絵風の案内図は全国を席捲していたような記憶があります。

この看板の賛助商店などの一覧も、以前のブログhttp://sohske.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_c7ae.htmlに出した網代の看板と同じ職人さんの手によるものらしく、この看板職人さんは静岡の仕事を一手に引き受けていたのでしょうから、それは大忙しであったに違いありませんね。実はニールズヤードの社長・梶原健二さんがこの町の出身で、この店のことをよくご存知でした。梶原さんによれば、何でもここの主人が熱海の出身だったからか、地元の人はここを「富士屋」ならぬ「熱海屋」と呼んでいたそうです。

雪解けで足場の悪い坂道を誰も雪かきをするわけでもなく、成り行きまかせといったところでしょうから、当然この時期のお客さんは少なく、もう少し春になるまで、耐え忍ばなくてはならなかったでしょう・・・。

写真からは、寒さと侘しさだけが伝わって来ます。

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2009年2月 2日 (月)

デュフィ・パリ模様

Dufy9 デュフィの筆さばきに料理されると、パリの風景も一層、パリらしく、一捻りある洒落た画趣に転換してしまいます。フランスの国旗・トリコロールを隠し味にしながらも、赤の占める面積を極力抑えていますし、市街地画面には、よく観れば細かい仕事ぶりもあって、いかにも、デュフィ自身が、この画面を自由自在に遊んでいることが分かるようです。さらに、白い雲の配置と大きさ、そしてトーンが、絶対バランスを以って、フレンチ・ウルトラマリンブルーを引き立てています。

画家というよりも、装飾家の経験も永いデュフィの緞帳の下絵からは、劇場の遠くから、どう見えるかを計算に入れた、プロの仕事ぶりが窺えます。

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2009年2月 1日 (日)

久我山・自宅前 1955

4321955その昔、 杉並区・久我山は大地主さんがそれぞれの地域を仕切っていて、道路までが私物でしたから、舗装・上下水道からガスの導入にいたるまで、そう簡単には住民の声に耳を貸さなかったのです。

この写真は1955年(昭和30年)に父が撮った、家の前の様子です。周りの地域はとっくに舗装化されて、雨でもさほど苦労しなかったのですが、この一角は、舗装になったのが、1972年ですから、随分と、遅れてしまったのでした。砂利を敷いた道も、数年後には殆ど埋まってしまい、また雨や雪に悩まされ、靴も汚れてしまい、といった惨憺たる状態でありました。右手の垣根と砂利の間に敷石がありますが、この線と垣根の間は地主さんの土地で、何故こうなったのか、今でもわからないことのひとつです。

まだ、テレビもなく、ラジオを聴いては想像力を駆使して、とくに紅孔雀などの昔の話に一喜一憂していた頃です。久我山の町全体が農村のような雰囲気をもっていた頃の一枚ですが、5年後には、宅地化の並が押し寄せて、あっという間に田園牧歌の世界は吹き飛んでしまい、それにつれて、画家の集団・二科会が久我山駅から東郷青児邸まで踊って練り歩く妖しげな祭りも、新興サラリーマン家族としての風俗的見地の影響が強くなったのか、いつの間にやら、無くなってしまいました。

この写真を撮影した頃は、農村の風景と二科会を中心とした芸術家の洒落たアトリエ村的要素が同居していて、それなりの優雅な環境でありましたから、宅地化によってこの町の色がなくなってしまい、平均的な郊外のサラリーマン中心の平均的感性の町に変わっていったのは、当然とはいえ、残念な話であります。

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