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2010年1月31日 (日)

本にまつわるPOST CARD

Rimg26492 ひょんなことから知り合うこととなった松浦弥太郎さん http://openers.jp/fashion/margarethowell/MATSUURA_Yatato_Interview.html とは、ふた昔以上前、伊勢丹・趣味雑貨新ショップ立上げの際、力を貸していただいたことが初めてお会いしたときに分かりました。

そのご縁で、中目黒にあるCow Books http://www.cowbooks.jp/newtop.html にご当人のいらっしゃる日に伺いました。柔らかな日差しの今にも桜の咲きそうな日和でしたから、散策する皆さんも穏やかな様子で、一日も早く春の訪れることを願っている雰囲気でありました。

此処Cow Booksは、松浦さんご自身が興味を魅かれた世界の本や高質な雑貨が凝縮しているものの、その範囲は決して個人的な狭いものでなく、きちんと並んだ一冊々が自由に舞い踊っているような自由なジャンル配列となっています。これは、ご自身がその風貌とはよそに青春時代から多くの経験を重ねられた道程が反映されているようです。昨今の、POS管理に慣れきった世代にはその棚入れの配置が新鮮でしょうし、私世代にとっては、神保町にも見当たらない、編集感性抜群の展開があります。

帰り際に、松浦さんご自身が撮影されたPOST CARDをいただきましたが、その一枚一枚にも、本を取り巻く気配を存分に楽しんでおられる姿が浮んできます。

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2010年1月30日 (土)

箱根冨士屋ホテル・1880年

1880 ベアト撮影による1880年・箱根富士屋ホテル ( http://www.fujiyahotel.co.jp/chain/history.html )の立派な姿です。

日本の数寄屋造りにも似た建物とコロニアルスタイルのバルコニーがうまい具合に溶け合って、この東西融合センスはみごとというより他、ありませんね・・・。

外国人が仕切ったのか、箱根の棟梁が仕切ったのかは定かでありませんが、異国人同士のコミュニケーションがスムースに振興したからこそ、このような国際交流の象徴のような建築が生まれたのでしょうし、当然ながら横浜・神戸に増えていく外国人の住いの影響も、少なくなかったのでしょう。

それでも、周辺の同業者は見たこともないこのような建築をどのような意識で捉えていたのでしょう。

外国人が増えれば、そこに新しい風俗・商売が生まれ、あっという間に過去から培ってきた地域の風土性・民俗性に地崩れが始まって、守旧派と改革派に二分化されていくのは、いずれの国・地域・商売も、避けて通れない一定の法則のようであります。

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2010年1月29日 (金)

1957年・初めての工作

Rimg21569 Rimg21571 昨今の小学生の授業カリュキュラムがどういう状況なのか、知る由もありませんが、工作・音楽などの時間が削減されたことは間違いありませんね。

私の小学生の頃の授業は私立ということもあって、情操教育に、たっぷりと時間・力をいれていたように記憶しています。いまだに手放せないでいるこのワニのおもちゃは小学校4年生のときに作ったものです。学園内にはクラシックな木造の工作授業を受ける場所があって、そこに入ると木の薫りやシンナー・ペンキの臭いが漂っていて、それだけでも、もう大人の世界に入り込んだと錯覚してしまうほどの、工作好き少年にはイリュージョンな領域でした。おまけに鍵を掛けて管理するといった発想などない英国流の教育方針で、いつでも出入り自由でしたから、工作室に放課後入っては自由に工作している先輩も多かったのです。

このワニは「転がるモノ・動くモノ」というテーマで各自、自由に作ったモノですが、私のような可愛くない生物をモチーフに選んだ者はほとんどいなく、男子は自動車・機関車 電車が大多数、女子は犬・猫などが人気でした。小学校時代は椅子・小箱・棚なども作りましたが、手元には最初に作ったワニだけが残りました。

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2010年1月28日 (木)

MoMAのカレイドスコープ

Uio 10年ほど、ほったらかしにしていたダンボール箱を開墾していると、MoMaのカレイドスコープが出てきました。1978年、初めての海外出張でニューヨークを訪れ、いち早く飛び込んだニューヨーク近代美術館のギフトショップで購入した私にとっては、だいじな記念品であります。

所謂、クラシックな光り輝くラグジュアリーな趣きとは異なりますが、そのプレーンな素材から発するリフレクションの輝きは、シンプリシティながら、なかなか奥深さを感じます。

MoMa Store http://www.momastore.jp/index.html?gclid=CKCIqcqigZwCFUwwpAodLHvS-w は今や人気テナントショップとして世界の商業施設からのオファーも多いと聞いてますが、たしかに優れたプロダクト商品から気の効いたお手軽な手のひらサイズのモノまで、現在の商品トレンドの宝庫であり、時間を潰すには格好の店であることは間違いありません。このカレイドスコープを購入した頃には、MoMA Store がこんなに商売上手になるとは、考えも及びませんでした。

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2010年1月27日 (水)

相性の良さったら、ありゃあしない。

Rimg26403 ちいさなちいさな他愛ないことなのですが、偶然、店の外観も確認せずに、出来立てほやほやの店に飛び込んでしまう癖というか運というか縁というか、・・・よくあることなのであります。

勢いのある街は人の嗜好速度・変化も速く、それだけ新旧後退も多いわけですから、参入してくる方々もそれなりの覚悟と志を二律双生しつつ、運営管理・監理せねばならないのですが、実はこの運営をディレクションされている店舗の少ないことが、独自性のなさとオーバーラップしてくるのです。

店を運営しているとある時期から必ずマンネリズムに陥り、この店のコンセプトの根っこはプロダクトアウトだったかマーケットインだったか・・・、などという二者選択の判断を迫る・迫られることは多いのですが、実態は作り手でもなく顧客の本音を咀嚼するでもなく、日々の売上目標達成のみを執着するに終っている店舗が圧倒的で、そこからは、街の景観・環境などを守備範囲にする視座など育つ訳などなく、そこそこの利益が読めた時点でその街を去っていくのであります。一事が万事こんな程度が大方であろうことでしょうから、今や、長いスパンで商業地域が美しい街並を形成するのは至難の業なのであります・・・。

さて、この日飛び込んだお店・・・、オーク材と思しき床と、永き靴磨きの効果が出て経年変化も美しいゴルフと呼ばれる靴、そして日本の藍染ジーンズとの相性が美しく映え、嬉しくなってしまい、一枚スナップを・・・。木と革と木綿の素材感の相性がぴたっと合う雰囲気というものはあるようでなかなかなく、すっかり嬉しくなってしまいましたが・・・、ほんとうにちいさなちいさなことでありました。

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2010年1月26日 (火)

父の似顔絵 1956年

1956202 出版社の編纂が主たる生業となって、自分では本業と思っていた画家の仕事は、殆どすることも無くなりだした1956年頃の父を描いたものです。

久我山の家の北側の殆どを父のアトリエが占めてましたが、出版に関わる仕事が増えたために、そのアトリエの気配は画家のそれというより、作家のそれ・・・、と見まごう如く、部屋中、本の山積みとなっていましたから、子供にとっては、父のいない間を狙って、忍び込んで、分からない本を開いたりするのがスリルもあって、探偵団の真似事のようなことばかりしていました。当時、父は慣れない出版の仕事のストレス発散のせいかヘビースモーカーで、ピースの缶入りを手放すことなく、散歩に行くにもその缶を手放せなかったのです。

仕事は夕方には終え、とりあえずビールを手始めに一人で晩酌をして、野球中継をラジオで聴くのが日課のようでした。

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2010年1月25日 (月)

中目黒から表参道 徘徊便り

Rimg26391_2やや風はあるものの、穏やかな日差しの土曜日、この日はのんびりと電車で中目黒に向かいました。Rimg26410Rimg26428このところ、所謂、大規模商業施設や、まったく元気のない百貨店ばかりを徘徊し、売場に鮮度と表現さえ失せてしまったこの状況は何なのかと、思っていたので、ストリート感性の宝庫というより、今や、隠れメーカーブランドの定点マーヶティングショップも点在する中目黒でほんわかしたくなったのが本音であります。

目黒川沿いに中古空家を改装しながら、自分に正直な感覚で店が出始めて、さほど年月も立っていませんが、川沿いのまだ蕾も出ない桜並木の陰が各お店に映り、なかなかのほんわか雰囲気であります。どの店もPONKOCHICK(ポンコツのような・・・わざと、古く作られている)から本当のUSED CLOTHINGまでが商売のトレンドなのか、ところ狭しというか、公開空地ぎりぎりまではみ出し寸前で、この自由な雰囲気は下北沢と似たものの、洗練と鮮度という点からも中目黒が一枚上手であります。場所柄、変装セレブの皆さんも来街するので、只の古着では済まされないのかも知れません。昨年見つけたSIMPLEXのクロックも、益々枯淡の境地に磨きがかかり、鉄枠の錆び模様も骨董雰囲気満点です。よく観ると、時針・分針は1950年代から精密機械に施された象徴でもあった結晶塗装(縮み塗装)という凝った仕上げでありました。

次に行く表参道へは自転車ですと、ほんの10分掛かるかどうかといった距離ですが、電車で往来の人の流れが滅茶苦茶な渋谷を経由して、たどり着きました。裏原宿と呼ばれる界隈も裏ではなく、今や立派な表でありますが、空き店舗も目立ち、すっかりここもFAST FASHONブランドに打ちのめされている気配が濃厚です。クレヨンハウスの傍の空き地で商売しているライトバンの移動店舗のまとまり方が美しく、清潔だったのでスナップしてしまいました。PONKOCHICKばかりが闊歩する当世、きれいで光っているのが逆に新鮮に映りました・・・。

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2010年1月24日 (日)

1958 友だちの顔・ピカソ 「アヴィニョンの娘たち」風

Rimg25972 1958年、小学校5年生の時分に描いたクラスメートの似顔絵ですが、この絵を描いたときのことは今も記憶に残っています。

家の半分ほどのスペースを占めていた父のアトリエには古い画集が積んであり、その中から適当に選んで観ていたのですが、あるとき、強烈な印象の絵が目に焼きついて離れなかったのです。それはピカソの有名な「アヴィニョンの娘たち」です。優美な女性とはかけ離れた強い個性の女性が睨みつけるようにこちらを向いていたのが鮮烈なインパクトとなり、その後、何回も画集を開いて見続けることになったのです。この強烈な影響をまともに受けてしまったのがこの一枚で、モデルが誰だったのか分からないほど、デフォルメしてしまいました。モデルとなった生徒は早熟な生徒だったのでしょうか、すでに、口の周りには髭なども生え始めていますが、本当にはえていたのか、それとも、私のアドリブで顔全体のバランスから思わず加筆してしまったのか、この点だけは全く記憶がありません。

右側にギョロリンなどとコピーが書き込まれるなど、この頃から勉強よりも漫画に熱中していた証が、残っています。Photo

New York. The Museum of Modern Art

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2010年1月23日 (土)

ヴラマンク 色三昧

Spark_of_color 1906年(明治39年)、モーリス・ド・ヴラマンクの描いた嬉しくなるような明るい春めいた画趣の一枚です。

しかし、保守派の絵画評論家から、「ただ色を重ねただけのナイーブないたずら描きに過ぎない」と酷評され、本人も落ち込むばかりで先の見えない不安ばかりが先行したようです。

それでも、純粋に美しい色の重なりは光の透過にも見立てることができますし、絵画とは本来、さほど哲学的・文化的なものでなく、『ただそこに美しい絵があるだけだ』・・・、なのでしょう。ヴラマンクには、この画趣とは対極の、暗い何かを暗示するかのような風景画もありますが、現在の時代の閉塞感もあるのでしょう、この絵の明るさは気持ちを和ませてくれます。

さて、昨今人気のエージング処理と呼ばれる素材加工や塗装・磨ぎだし技術は、所ジョージ命名するところの『PONKOCHICK』(ポンコチック・・・ポンコツのような)のテーストとして、『新技術を使い懐旧・経年感覚を遊ぶ』コンセプトとして、ファッションから店舗内装まで一大潮流となってます。彼の車に対するヴィンテージ感性はなかなかのものですが、最近はファッションから雑貨にまでPONKOCHIKKUの傾向がさらに幅を広げ、BSの番組http://www.bsfuji.tv/top/pub/setagaya.htmlでの解説も傑作であります。

丁度、ヴラマンクの色の重なりなどを応用すると、可愛いPONKOCHICKな木材や金属が誕生しそうにも思えます。

今日も話が飛び火してしまいました・・・。

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2010年1月22日 (金)

柳橋は鋼鉄で揺れもせず。

Rimg19996 Rimg20003 Rimg20007 父の生まれた柳橋に久しぶりに自転車で行きました。この界隈、往時は花柳界として、隆盛を極め、多くの小説の題材にも採り上げられています。昭和4年に造られた鋼鉄製の橋は「柳橋」というしなやかで女性的なイメージとは対極な男らしい風貌です。この時代は軍の圧力が政治にも絡み、進歩的文化人らを監視していた時代でしたから、このような造形・意匠となったのかも知れません。観る位置と角度により、ずいぶんと変化する鋼鉄の柳橋ですが、この変わり身こそ、女性の特権でもありますから、設計者は表層のカタチにあえて女性らしさを求めず、観る世界によって女性は異なるという高度な女性観を意図したのか・・・、なかなか、皮肉の確信犯と、お見受けしました。

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2010年1月21日 (木)

一面雪景色・広重 毬子

Photo_2 深々とした東海道に積もる雪はまだまだ止みそうもありません。朝の出発を出遅れた旅人が何とか「毬子宿」に辿り着いたものの、心身ともに冷え切ってしまってます。

観ているだけでも冷え込んでしまう、広重の東海道五十三次の一枚です。満艦飾のような浮世絵も結構でありますが、このようなモノトーンも和文化意匠の象徴のようで、イマジネーションの増幅を観る側に委ねられてしまった・・・、そんな一枚でしょうか。

墨黒と藍とが混じりあったような空から舞い落ちる雪が、星座のようにも見受けられ、美しく静かな時が過ぎ行くまま・・・、でありますし、ポイントカラーの朱色のポジションなど絶対位置としか、考えられません。

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2010年1月20日 (水)

とらや・曙

Rimg26232Rimg26239「とらやの登場」

お客様からよくお受けする御質問に「虎屋はいつ頃創業したのか」「いつ東京に出てきたのか」ということがあります。虎屋は、京都出身の和菓子屋です。

歴史上、古文書などの資料で虎屋の存在がたしかめられるのは、1500年代後期のことです。その頃の天皇に後陽成 (ごようぜい) 天皇という方がいらっしゃいます。豊臣秀吉と大変深い関係をもたれた方です。

虎屋は、この後陽成天皇の御在位中 (1586~) から朝廷にお菓子をお納めしてまいりました。朝廷の御用を勤めさせていただく店は、京都という町で、二、三代と世代を重ねて、社会的信用のある技術力の高い老舗が勤めています。

虎屋も1500年代の京都で老舗という評価を得ていた菓子屋だったのでしょう。後陽成天皇の御在位中からさかのぼると少なくとも1500年代の前半には菓子屋として商いをしていたと思われます。480年を超える間、日本を代表する菓子屋のひとつとして経営を続けてまいりました。

しかしながら、この当時の虎屋の具体的な姿はなかなか浮かびあがってまいりません。ただ歴史的な事件に虎屋の名前が出てきたことがあります。

1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いがおこりました。犬山城主石河 (いしこ) 備前守 (宗林) は豊臣方の西軍に属していましたが、戦に敗れ落ちのびました。備前守は京都に隠れひそんだのですが、この人を徳川方の厳しい探索からかくまったのが虎屋の主人でした。名を黒川円仲 (えんちゅう) といいます。虎屋ではこの人を中興の祖と呼んでいます。

ご存知とらやの季節の生菓子、今月末までのひとつ、『曙』であります。太陽の光が赤々と雲間から広がり始めるさまを表し、春の朝の華やぎを感じさせるという解説どおり、みごとな意匠です。中の餡は太陽の光を象徴するかのごとく紅色で、黄身餡の間からかすかに見える彩りの調和は日本の細やかな神経の賜物です。使われている上等な和三盆糖は煎茶を上手に入れないと、その奥ゆかしさの味わいを感じませんから、やや低めの温度がよろしいようです。

ややもすると、上等過ぎて、敬遠しがちなとらやの和菓子ですが、その表現力は古くもなく、新し過ぎることもなく、絶妙な時代に対する菓匠としての距離感は、作り手としての勉強にもなります。

さて、撮影するまで気付かなかったのですが、出来上がった画像を観ると、曙の素材感と器の天目模様がみごとに決まっているのに、些細なことにも関わらず、ちょっぴりと自己満足感に浸りました。

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2010年1月19日 (火)

浅草六区 1960

1960 杉並区内に生活していた者にとって、浅草は遠い世界でありましたが、その名が親しい感じになったのは、何といってもデンスケ劇場・大宮敏光の影響です。

テレビが家に来た1956年頃は、「野球中継」「プロレス」「日真名氏飛び出す」程度しか見たいものもなく、毎日、野球に明け暮れしてましたから、このデンスケ劇場の中継を観て、初めて、それまでの古典的漫才・落語とは違うスピーディーでエネルギッシュな舞台芸に子供ながら食い入るように観ていました。

この写真の背景である浅草六区がデンスケ劇場のある通りで、週末はいつもこのような混雑ぶりだったでしょうから、一人でも多くの客を館内に呼び込もうと各催しの主催者は必死で、芸風も一瞬で人を惹きつける掴みのオーラが要求されていたのです。

それにしても、今の繁華街のだらしない人の流れとは雲泥の差!、みごとな左右の往来の秩序ぶりです。

ほぼ同時代に登場したデンスケ・脱線トリオ・クレージーキャッツを代表とするコメディアンやエンターテナーは、その以前の穏やかさとは全く違う、高度成長を追風にしたスピーディなリズムに乗った活力満載な演芸ぶりでした。

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2010年1月18日 (月)

1956年・父のアトリエ

19561102 小学校3年生の夏の絵ですが、何故か色彩が現実離れしています。

というのも、この年、流行したステンドガラス絵にすっかりはまってしまい、このような家のアトリエを描いても、ステンドガラスのように色彩を分割してしまう面白さの誘惑に負けてしまい、自由に色彩構成をしていました。

父のアトリエは北側にある理想的な場所でしたが、実際は戦前の灰色のペンキ塗りで仕上た空間で隙間風が足元を抜けていましたし、鋳物ストーブは無論のこと、シンプルなカウチベッドもこんな色ではなく深いグリーンのベルベット生地でした。

この絵は、想像力が勝手に増幅してしまったある時期の記録として、私には大切なのであります。

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2010年1月17日 (日)

旧制松本高等学校・絵葉書

Rimg25965 Rimg25970長女が出張先の長野県松本から戻り、私への土産として旧制松本高等学校http://www.geocities.jp/bane2161/kyuumatumotokoutougaxtukou.htmの復刻絵葉書を渡してくれました。

旧制高校の話は父の友人等からも聞かされていましたが、そのルールとマナーを破る寸前のぎりぎりの寮生活は、10代の私にも憧れの世界でもありました。

旧制松本高等学校の思誠寮http://page.freett.com/shiseiryo/ryoshi.htmlで行われた記念祭は、この可愛い絵葉書からも想像出来、そのストームをはじめとする先輩の愛情あふれる戯れは、新入生にとっては恐怖と笑いに挟まれた微妙なイベントであったのでしょう。男子意気に感ず・・・、の世界は女子には分かりかねる感覚ではありますが、今も全国寮歌祭に集まる大先輩たちを観ると、それなりの追憶の情景を持てた世代の豊かさを感じざるを得ないのです。

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2010年1月16日 (土)

桂離宮 アバンギャルド感覚

Rimg12204 Rimg12203 桂離宮の御殿の話は簡素美という一言で片付けられそうですが、こと細かな部分には、簡素な仕事ばかりでは物足りないといわんばかりに破天荒な技巧美が点在しています。御殿の周囲の敷石にも、整然と破調が絶妙に混ざり合い、アバンギャルドな中にも宮家の別荘としての品位を怪我すことなく、高貴なハーモニーが奏でられています。

この敷石は有名な『松琴亭』の藍色の市松格子柄の襖を予感させるために集めたとしか考えられない構成ですが、当時、石にブルーを持ってくることなど禁じ手であったでしょうが、そこは宮家ということもあり、誰も陰口を立てなくなって、造園感性が一気にアバンギャルドに向かうのです。

さて、比較的高貴でやんちゃな皆さんが好き勝手に発想したことが、後の感覚のスタンダードとなること多々あって、特にファッションに関係することでは何故か、メンズファッション界に逸話が残されています。イギリスのウインザー侯爵などは先ず筆頭でしょうし、織田信長の衣装などもバサラ感覚が飛び交うばかりのセンスで、山本寛斎も降参といった在り様です。

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2010年1月15日 (金)

イタロ・ルピのポスター

2 イタロ・ルピは建築家でありながらも、DOMUS誌の編集長を務めたあとも、1970年代の世界のデザインの牽引誌であったABITARE誌の編集長・アートディレクターを勤めるなど、視覚伝達分野の功績が大でありました。

さらに、イタリアが世界に発信するミラノトリエンナーレ展のイメージ部門を担当するなど、イタリア企業のCI、文化機関の視覚伝達に関する貢献は計り知れないほど、多岐に亘っています。

1996年のイタリア共和国祝典のポスターにも、よくありがちなイタリアンポップな趣きを排除したイタリアンクラシックの趣きで、国の祝を実にシンプルでありながら、強いコントラストを以って象徴しています。

夫々のロゴに見え隠れするアイコンは、イタリアが世界に誇る歴史風俗分野のキャラですが、ロゴとのバランスも完璧でただただ、このポスターを前にひれ伏す出来栄えであります。表意文字ではないタイポグラフィーの集合はそれだけで、一つのオブジェですから、キャラとの相性もぴったりなのでしょう・・・。

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2010年1月14日 (木)

伊東駅前・お出迎え 1949年頃

1 戦前は東郷平八郎・北里柴三郎を始め日本を代表する政治家や文化人の別荘地でもあった伊豆の伊東は保養地としても人気の高いところであったものの、鉄道・道路の開通によって戦後一気に大衆化し、熱海との顧客獲得競争が始まりました。この写真もGHQ報道カメラマン、ディミトリー・ボリアによるもので、1949年頃の撮影とされています。

各旅館の番頭さんが列車の到着をお待ちしてお出迎えしている様子は今これほどの迫力はないものの、日本の観光地の定番風俗として定着していました。なかなかの強面も多く、初めてここ伊東市を訪れた平凡な家族などは、駅前で思わず後ずさりしてしまいそうな大迫力があります。各旅館の名前を描いた旗指物も、トータルで観ると何となく統一感があって、さわやかな印象を受けます。

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2010年1月13日 (水)

Rainy Blue 『帰郷』

Rimg26061 関西をベースに活躍されるアマチュア・フォークグループ、Rainy Blue http://www.rainy-blue.com/ のバンドマスター・小島常男さんからプライベートCDが送られて来ました。

Rainy Blueは、関東のバンドにはない独特のコンセプトで曲作りされ、その多くは普段の生活場面を切り取ったり、消え行く日本の情景の追憶であったりと、オリジナル曲中心に永いキャリアの持主です。メンバーの皆さんは夫々、本業も充実され、そのゆとりと穏やかなバンドのまとまりが、聴いていて和むのです。

頂いたCDの内容は日本の風土・風景の題材を元に、リズムは世界の民族音楽からインスパイアされたりと、その構成力と味付けは、無理なく、温かく、春に向かうこの時季にぴったりと、はまります。残念ながら非売品ですが、Rainy Blueの音楽はYou Tubeで楽しむことが出来ます。http://www.youtube.com/watch?v=sxPwUQuFLxU&feature=related

Rainy Blue 『帰郷』

曲目 01 夢みたものは

    02 今宵の物語

    03 アラン島

    04 くろがね

    05 ノクターン

    06 チチカカのほとり

    07 雨の遊園地

    08 道標

         09 あこがれ45

    10 春がまだ来ても

    11 帰郷

    12 クッキー

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2010年1月12日 (火)

1960年・夏の宿題

Rimg26050 小学校の夏休み宿題はいやいやながらも、何とか間に合うようにこなしてましたが、中学に入ると、一気に授業内容も変わり、その量・質ともに日々の宿題を通し、徐々にお勉強のハードルの高さを感じざるを得ませんでした。

1960年、中学一年の夏休みの宿題として出された、日本列島の地図作成を父が取っておいたのを、見つけました。何故、中国・四国地方を選んだのか、覚えてませんが、おそらく、瀬戸内の細かな島々に挑戦したのかも知れません。帝国書院の地図から、拡大できる道具でなぞったものですが、たいへんだったのは、色鉛筆で色を塗っていく作業でした。ケント紙の上から何度も塗り重ね、やっと地図らしい色調になるのですが、円い色鉛筆は塗っているうちに汗で滑り、力を入れないと濃く塗れず、この作業のしんどさはよく記憶に残っています。また、中学進学として買って貰った万年筆を駆使して、ブルーブラックのインクがちょっぴり大人気分になっている頃の思い出の一枚です。この面倒くさい地図作成の宿題は二年生になっても出され、正直、閉口したものですが、この宿題のおかげで、全国の地理を俯瞰で理解できるようになり、手で描くことにより、しっかりと記憶できるようになりました。今でも、若干の間違いはあるものの、概ね、全国を描くことが出来るのは、この宿題のおかげだと思っています。

たしか、この宿題は夏休みが終わりに近づく頃に始めたため、突貫工事のような急ピッチで描いたものだったと記憶しています。地学を担任していた内田信夫先生は、学園の名物教諭でもあり、その授業はアカデミックな地学・地政学に始まり、戦争と地図との関係の話など・・・面白く、なかなかの語り部でもあり、この先生がきっかけだったのか、秋には地理研究部に入り、理科館の部室で鉱物標本に見入ったり、地理研究部名物のソフトボールにほぼ毎日興じていました。

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2010年1月11日 (月)

自転車・2010年初乗り

Rimg26088 Rimg26066 Rimg26082 昨年末からの家のがらくた整理も捗らず新年を迎えてしまい、やっと昨日終り、これで、多摩川に駆け出しました。やや風の冷たさは気になるものの、快晴であれば気分は日本晴れですから、相当サボっていた自転車も快適そのものです。この日(土曜日)は連休の初日でもあり、皆さん、遠くにでも出かけてしまったような静かな多摩川の堤でしたが、国学院大学の陸上部の精鋭たちが時速20キロ程で疾走するのを目の辺りにし、若さのパワーを見せつけられ、アラカン世代も黙っているわけにもいかない!、などと自己発奮するのでした。

新年から、やがて梅・土筆・桜と春の兆しが巡って来ますが、今の時季、乾燥しきった中を追風に乗り、路面に写る樹木だけの陰を斜め上から見過ごして行くだけでも、何となく寂しさは免れず、一日も早く、「春よ来い」と叫びたくなります。

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2010年1月10日 (日)

梅原龍三郎・桜島 1935年

5_1 梅原龍三郎が鹿児島に旅行したのは1934年のことで、そこで眼にした桜島に関して、「東に面する桜島は朝青く、夕は燃えるように赤い、噴煙は時に濃く時に淡い、朝など濃藍の空と山の間に白く見えることもある。空の色・海の色・緑の色の光強く美しき事我国内地に此処に匹敵する処を自分は未だ知らない」と興奮が伝わってくるような日記をつけています。

鹿児島湾に浮ぶ火山・桜島の豪快・雄大なスケールこそが梅原が1922年にイタリアはナポリから望んだベスビオ山とダブって映り、このモチーフは浅間山と双璧の梅原定番となりました。

梅原龍三郎自身も火山のごとく、抑えることの出来ないエネルギーと生命感をキャンバスにぶつけていたパワフルな人間でしたから、生涯枯れる画趣とは対極の高温燃え滾るモチーフを追い求めていたのでしょう。

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2010年1月 9日 (土)

一瞬の冷気が最高です。

Vskj 夏場の炎天下、陽射しから逃げ場のない道路を走りまくるほどの気力などとっくの昔に消し飛んでしまいましたが、高校時代は、ずいぶんと無茶苦茶な走り方をしていて、何度か熱射病になりかけたこともありました。

信州の佐久平などは、陽射しから逃げ場のない街道が多く、前後左右、全くの平原状態といった箇所が多く、結構、危険な地域ですが、その、開放感あるパノラマの誘惑には勝てず、1963年の高校自転車部・昇格合宿で通過して以来、度々、訪れました。小さな村の旧道を探して抜けると、このフランク・パターソン氏の挿絵のような大木が目に入り、遠くからでも蝉の大合唱が一層、暑さを助長してくれたことがありました。暑さで目の前が白く見えるほど体が参っていたのですが、この大木の脇を通る瞬間に水を浴びたと同じくらいの冷気が体を覆い、そのときほど、樹木のもつ力を感じたことはありませんでした。この大木の傍、村役場の近くには万屋(よろずや)があって、そこでいただいたアズキアイスは甘く美味しく、疲労回復にはてきめんでありました。親切な店のおばあさんは、お茶も入れてくれ「暑い時は熱いお茶が体に良い」ということをはじめて教わりました。

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2010年1月 8日 (金)

こんな景色は郊外にもあった。

Patterson07_2 都心から多摩川の多摩川原橋を越え矢野口に出ると、よみうりランドが見えますが、その昔、今から46年前はこの辺りから一気に山の上りのような景色となって、自転車で初めて向かったときは、それだけで、こんな近場に素晴らしい景観があるとは思いもせず、純真な年頃もあって、感激ばかりしていました。

有吉さん・沼さんという東京サイクリングセンターを通して知り合った先輩の後ろにくっついて、黙々とペダルをこぎながら、変速機の使い方、状況によって臨機応変なライディング・フォームのかたち・・・、などを盗むように吸収していました。当時はまだ、前後で8段のギアでしたが、このフランク・パターソンさんの描くイギリスの景色にそっくりな場所に出くわすと、その美しさに脚力も元気を貰い、通学で使っていたREGALのコインローファーシューズが、トークリップから脱げ落ちそうになりながらも、歯を食いしばって上って行きました。頂上に出て一服する時、両先輩から頂いた、タッパウェアーに入った蜂蜜漬けのレモンスライスの上手さに、これもびっくりでありました。現在の新百合丘界隈も、この頃は森林、田畑の続く快適な場所が多く、その後、一人で出かけることが多くなりましたが、カメラが砂利道の振動で壊れやすいことを懸念し一度も持参せず、美しい景色を記録に残しておけばと、今も残念の極みなのです。それほど、素晴らしいパノラマ景色の宝庫でありました。

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2010年1月 7日 (木)

広重・亀山の雪晴

Photo_2 三重県亀山に吹き荒れた吹雪も去って、一転、雪晴れの絶景を描いたのでしょうが、そのしーんとした物音ひとつしない静寂感に満ちた空気が伝わって来ます。その中を大名行列でしょうか、深雪を踏みしめていつもよりスローダゥンしてしまった行列のピッチに、いらいらしている御方もいらっしゃるような観えない部分までを、勝手に想像してしまいます。

フランスのトリコロールのような配色が美しくも、モダンに観えてくるところが、現在の鑑賞眼としてはやや勇み足かも知れませんが、そう捉えても間違いありませんね・・・。この空の配色は朝なのか夕なのか・・・などといったことはどうでもよく、ひとつのグラフィックとして観ればやはりこの配色に広重は拘ったに相違ないのでしょう・・・。

今や世界のカメヤマローソクと云われる会社http://www.kameyama.co.jp/がこの地のビッグカンパニーでありますが、きっと昔より大雪の地区だけに温かい光に対するこだわりは他所には負けなかったのかも知れませんね・・・。

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2010年1月 6日 (水)

広重・柳しま

059 隅田川を目指して北十間川を左手へ1キロほど行くと、中央右手に見える猪牙船の位置へやってくる。南北に走る横十間川との合流点で、その手前、画面右手に架かる橋が、柳島橋である。
 これらの掘割は、その幅が10間であることから、十間川として知られているが、隅田川の東側に位置する本所と深川を縦横に走る6本の幹線水路系のうちの2本である。東西には4本の幹線水路が走っているが、切絵図では、その最北端に位置するのが、北十間川である。江戸城から見て西を上方と定めている関係上、横十間川は、右から左へと「横」へ流れるように描かれるので、このような呼称となった。
 江戸のまちの北東の一隅にある2つの名所を目当てにこの地を訪れる人たちは、屋根船(正式には日除船)を使って掘割を通り、目的地のすぐそばで下船する。下手にはその様子が描かれている。ここで断然有名なものは、日蓮宗法性寺の境内にある妙見堂で、北斗七星の神格化した北辰妙見大菩薩を本尊として祀る大きな建物が、左端の木のなかに見えかくれしている。「妙見さま」は、江戸ではとりわけ芸人たちに広く信仰され、寺はその信仰の中心であった。信者として有名なのが、浮世絵師の北斎で、「北の絵師」という意味の画号の北斎も、そこからとって付けたと言われている。
 有名なもののもう1つは、料理屋の橋本である。画面中央に大きく描かれている建物が、それである。明るい障子の窓が招いているようだ。橋本は、大正十二(1923)年の震災で倒壊した。遠景には、墨を散らした淡い色彩で、美しい田園風景が広がっている。草色の田んぼは墨線で縁どられ、村の家々が木立に包まれている。彼方には、筑波山が霞んで見える。江戸の人間にとっては、おなじみの姿である(この絵では、男体山が実際よりずっと西の方に高く描かれている)。   (ヘンリー・スミス『名所江戸百景』)

この版画は何となく手前の会席料理店『橋本』の広告とも見てとれますが、れっきとした江戸百景のシリーズに登場する一枚です。柳島妙見は現在東京都墨田区墨田区業平5-7-7辺りに全く違った姿で存在してますが、少なくとも関東大震災まではこの光景は存在していたようです。広重得意の俯瞰画でありますから、実際の景色よりも誇張されているとは云うものの、江戸の豊かな聖・遊をひとまとめにした傑作です。それにしても舟が重要な交通手段であったことを物語っていますね。

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2010年1月 5日 (火)

MIKIMOTO・歌会始

Rimg25789 Rimg25785 Rimg25788 正月三が日は、年末やり過ごした雑誌の整理に明け暮れたものの、何だか新春気分とはなれず、スイッチの切替にと、銀座へ出かけました。今日を仕事始めと思っていたもののどうやら明日、5日が仕事始めとした会社が多いようで、そのせいか、銀座も空いているのでした。

定点観察地点どもある、銀座MIKIMOTOのウインドーは、百人一首の歌会模様を木彫した人形で現しています。だいぶ前の御木本幸吉翁と世界の女優が勢ぞろいした時の作家が今回も担当したのでしょうが、その、塗装着色の按配がいかにも今風なので、顔を寄せて見入ってしまいました。

最近の店舗や住宅のフローリングや絵画の額でも使われるエージングあるいはラギッドなどと呼ばれる、意図した経年変化テクニックにも似た、「古くて可愛い」「雑に見えて繊細」な感性が充満しています。

おまけにガラスの裏側に密着させた和歌は、散らし文字が光沢のある樹脂のようなもので作られているものの、却って墨痕鮮やかな動きがリアルに表現され、人形の乾いた素材感とのコントラストが奏でられ、居合わせただけでお得な気分となりました。

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2010年1月 4日 (月)

鈴木信太郎の力量!

11_3 鈴木信太郎(1895から1989)が晩年に描いた伊豆の漁村風景です。今はずいぶん見られなくなった、なまこ壁がまだこの頃にはかなりあったようですね。

生涯、子供のように純粋に対象を捉え、楽しんで描いた鈴木信太郎の風景画には梅原龍三郎や安井曽太郎といった大御所の画趣とは違う、その人そのまんまがキャンバスに表れています。苦学した形跡もなく幼少時代に受けた身体的ハンディキャップもみごとに克服して、なお、このような誰もが「いい絵だなー!」と思う絵を描き続けた、鈴木信太郎こそが日本の洋画壇の頂点というべき人なのです・・・。

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2010年1月 3日 (日)

ぽち袋について。

Rimg11437 ちょっと袖の下・・・、などという台詞は、現代の様な清廉潔白を良しとする風潮下では好ましいものではありませんが、それでも、連綿としてぽち袋が作られているということは、まだまだこの国の文化にはきちんとしたご祝儀の作法というものが生き延びているのです。

昔は、水道局の人が検査に来れば、どのような由来なのか、煙草を一箱何も言わずに渡すのが、慣習だったことを母から聞いたことがありますが、これなどは杉並区・久我山地域のローカルルールだったのでしょうか・・・。他所の地域ではずばり『お小遣い』ということも、平然としていたようでもあります。

さて、花街や一部伝統芸能世界では、まだまだ、ぽち袋の活躍する場は多く、中身の金額はともあれ、こんな楽しい意匠に包まれたお札というものも、嬉しい気分なのでしょう。

又、すっかり洋風化してしまった都心のホテルなどには関係ないのでしょうが、日本式のクラシックな旅館では、ぽち袋を仲居さんにお渡しすれば奉仕の格差は明瞭で、効果は絶大ですし、料亭などの世界では、当然の事前儀式の最優先道具でもあります。

絵柄には季節ごとの歳時記に歩調を合わせたものが多く、又、機械印刷から手刷りのものまで、千差万別でありますから、こまめに少しずつ買い求めるのがこつであります。

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2010年1月 2日 (土)

銀座煉瓦街・1878年

18784_1 銀座煉瓦街は明治初年の銀座大火の後、都市の不燃化を目指して煉瓦造により造られた街並みである。関東大震災で壊滅した。

1872年(明治5年)2月、和田倉門付近から出火し、銀座、築地一帯を焼く大火が起こった。鉄道の起点で、東京の表玄関である新橋に近いこともあり、政府は西洋流の不燃都市の建設を目指した。同年3月には東京府によって煉瓦をもって再建するよう布告が出された。建設方法は官営(大蔵省建設局が建て、希望者に払い下げる)と自営(民間で建てる)があり、建物の設計お雇い外国人のウォートリスが担当した。

同年8月から着工し、翌1873年のうちには拡幅された大通り沿いに洋風2階建の街並みが出来上がった。ロンドンのリージェント・ストリートがモデルになったといわれている。1877年までかかって煉瓦街の計画は完了した。

煉瓦街とはいっても、表面は漆喰や石で仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではない。

当初は煉瓦造の建物が不評で空き家が多かったともいわれたが、銀座には新聞社や輸入品を扱う店など新しい商業が集まり、西洋文明の窓口になった。 当初の建物は次第に建替えられたり、改修で正面に装飾がほどこされたりしていったが、大正時代までは残っている建物も多かった。しかし、関東大震災ではほとんどの建物が倒壊、焼失し、銀座煉瓦街は完全に消滅したWikipedia

1978年、明治新政府も西南戦争を無事勝利し、東京をはじめ主要都市ではどんどんと西欧化に傾いて行きましたが、その頃の銀座中央通りです。この前の年に銀座の煉瓦街の工事が終了しましたから、これはその記念写真の一連のようなものかも知れません。人っ子一人居ない画面が少し不気味でありますから、おそらく、規制した中での撮影だったのかも知れません。右手の建物は、現在の松坂屋にあたる所だそうですから、左手を進めば交詢社通りということになります。ガス灯もなぜか哀しげですが、夜ともなれが出番が回ってきて、その明るさの輝きに見物人も度肝を抜かれたに違いありません。舗装などはまだ先の話ですから、慣れない外国人・要人等は雨が降ればたいへんな騒ぎだったでしょうね・・・。

ストーリー http://www.ginza.jp/ginzagaku/story/index.html

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2010年1月 1日 (金)

1973? 伊勢丹 元旦 広告

197014 人間の年

人間を抜きにしたら、スプーン、本だってあり得ないんだし、ヒトとモノとのかかわりあいが、これからどうなっていくのか、そこを見つめたい今年の伊勢丹。

ファッションだって、ことしはなにを着るかではなく、着る人のその着方とか、あるいは、その人の生き方みたいなもの、そこから生まれてくる美しさが、そう、それがファッションになる、そう思います。

椅子とかテーブルのようなリビングもまた、人間とモノとのかかわりあいが大切になってきますね。家具に引きづられる暮らしではなくて、あなたの生き方がリビングを支配しなければ。

レジャーも、これからは中身が問い直されるとき。精神的に満ち足りた自由時間をもっているかどうか。伊勢丹は、ことし、レジャーとその時間に入っていくカルチャーとを、重く見ています。

伊勢丹のサービスにも人間味を出したいと思うのです。お客様に、また行きたいな、と思っていただける そんな心のふれあいのあるサービス、それを目標に ことしの伊勢丹は出発します。

1970年代初頭の伊勢丹はファッション・リビングを二大看板に大きく変身を遂げようとし、元日の新聞広告に土屋耕一さんによる画期的なメッセージ『人間の年』を打ちます。この後、試行錯誤しつつ独自のコード(ノウハウ)によるファッション・リビングの商品を取引先の多大な支援により、展開していきます。ようやく社会の流れがゆとりと遊びを取り入れはじめた黎明期の傑作です。

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