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2010年2月24日 (水)

1947年・向島界隈

19472 私の生まれ育った杉並区・久我山は1960年代後半になるまで、それは素朴な光景の残るのんびりとした郊外の町でした。

南北を人見街道が分断し、二大勢力といわれた大地主さんがその街道を分けて仕切り、商店街の交流もさほどなく、トータルな町のもつ面白みはありませんでしたし、洒落た店があるわけでもなく、せいぜい日々の生活の消耗品を間に合わせる程度の役にしか立たない店ばかりでした。

やがて、井の頭線の南北でサミット・ピーコックが登場し、俄然、便利にはなったものの、ちょっと気の効いたものとなると、吉祥寺か渋谷に出かけるしかありませんでした。

昔は人見街道は道路幅が狭く、おまけにバスの往来が激しく、通行するにも後ろを向きつつ安全確認をしながら歩いていました。今もたまにこの街道を通ると、電信柱やガードレールに目移りしてしまいします。

この写真は昭和22年の向島を撮ったスナップですが、この雰囲気は当時の久我山・人見街道のそれとよく似ています。人見街道を西に向かうと、間もなく三鷹市牟礼となり、周辺は農家ばかりで、広々とした景色が展開してました。春一番の頃ともなると、強烈な黄土色の埃風が舞い上がって、自転車に乗っていてもまともに正面を向けず、暫く収まるまでは、街道筋の材木屋さんや、立派な造りの酒屋さんに逃げ込んでいました。

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