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2010年3月31日 (水)

ようやく快晴!。

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Rimg27659 気温は上らないものの、この久しぶりの青空に小躍りし、早朝から犬の散歩も早めに済ませ、駒沢通りを都心に向かいました。もちろん、例年の定点観測である桜の様子を観るのが目的です。月末ということもあり、若干の渋滞に巻き込まれたものの、たいしたことなく明治通りに出ました。普段はそのまま右折し、広尾から三田を抜け、日比谷通りに出ますが、今日は青山墓地経由で権田原から四谷に出、麹町6丁目信号を左折、日本テレビを抜けて千鳥が淵に来ました。日中といえども、気温は上りませんが、CRAFT社http://www.webmix.net/trends/craft_product.htmlの最新素材のインナーの素晴らしさを実感しています。

さて、桜ですが、例年であれば鮮やかな爛漫であろうものを、今年の低温三昧に揺さぶられ、まだ三分咲といったところ・・・。それでも、所々、いい案配の咲きっぷりもあって、満開とは違う淡雅な風情を満喫してきました。3時間、往復40キロのノンビリツーリングでしたが、今週末が最高の日となるよう、願うばかりです。

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2010年3月30日 (火)

Showa Style 再編・建築写真文庫

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編集者冥利に尽きRimg27469るとは、このような著作『Showa Style』 http://showastyle.blogspot.com/をまとめたときにでも云うのでしょう。

この本は、1953年から1970年まで17年間に亘り出版された145巻の『建築写真文庫』から、都築響一氏が商業・公共建築に分類される79巻を選び、その中からさらに再編集したものです。

元本は、建築家・数奇屋研究者にして、稀代の趣味人であった、北尾春道という男により、取材・撮影・編集されたもので、その好奇心と体力の結果、稀なるハード面からの第一級風俗資料となっています。登場する建築物はいわゆる建築家の作品の記録ではなく、その殆どが町に馴染んだ町角建築ばかりです。

私世代も、若き頃の記憶に残っている場所も登場しますし、先輩達がたむろしていた銀座の店などもあり、ページを捲るたびに過ぎ去りし町の薫りも運んでくれます。また、飲食店舗のロゴマークのシンプルで優雅なデザインにドキッとする例も多く、手を使い、頭を使いながら練り上げられた物件には、レトロモダンな印象以上に、パーマネントモダンのエッセンスが満ちています。

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2010年3月29日 (月)

囲まれました!。

Rimg27582 桜前線も小休止となっていますが、土曜日のやや穏やかな日、用賀方面から上野毛を下り、田園調布まで足慣らしをしました。

いつまでもこのような低温が続くわけでもないでしょうから、快適な春に向け、少しずつトレーニングがてら軽いポタリング気分で走りましたが、やや目方も増えたので、上り坂などは息があがり、脈拍も150を超えそうな状態でした。普段の食生活の見直し、とくに間食と遅めの夕食に気をつけねばと感じ入り、帰路につきましたが、途中気が変わり、久しぶりに二子玉川のBIKE & HIKE http://bikehike.jp/に寄り、今年の新製品をチェックしました。バイクフレームはますます美しく、軽くなり、一時のイタリアンに見られたけばけばしさは薄れ、全体に上品になったようです。ウェア類は新素材の進化が一段と進み、体にぴったりとなるようなジャージが多く、これでは中高年のポッコリ体形では着るわけにもいかず、意地でもスレンダーに成らざるを得ないのです。

そんな中、店内に先にいらっしゃったのが、ボディに無駄ひとつないご両人、リサ・ステッグマイヤーさんhttp://risa.blog.ocn.ne.jp/と藤田希志子さんです。トライアスリートとしても研鑽に励むお二人は、誰もが振り返る長身の特級美女でありますが、嫌な顔もなさらず、図々しいシニアの記念写真に応じてくれました。

さて、店内をうろうろしつつ、急に思い出したのが、現在使っているタイアの劣化でした。店主の竹内さんのアドバイスを参考にMICHELIN Pro 3 Raceに交換しましたが、帰りはそのスムースな転がり抵抗感が、生まれ変わったような快適性を保証してくれました。

MICHELIN Pro 3 Race

ツール・ド・フランスでも使用され、話題になっていたミシュランのレーシングタイヤ。
レーシングクリンチャータイヤの定番としてたくさんの支持を得たPRO2 RACEがさらに進化してグリップが最大27%向上・耐久性と軽量化を高次元で両立したタイヤです。
あらゆるメーカーのタイヤを凌ぐ低転がり抵抗を達成した究極のコンペティションタイヤです。
PRO2 RACEの225gから200gへと軽量化が行われていますがウエット性能・コーナーリング性能・耐パンク性は向上しています。

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2010年3月28日 (日)

休むために走る、銀輪徘走の誘惑。

Lrtr 陽射しの強烈な日には、わざわざ自転車で徘走する根性も失せ、のんびりと木陰で杉浦茂の「猿飛佐助」を見ていると、これはこれで、洒落た時間の過ごし方では・・・、などと思ってしまうのですが、ふと見上げた天空に西の方面からフィルター役の雲などがまばらに登場し出せば、銀輪快走の爽快感が誘惑し始め、さっと着替えて自転車に飛び乗る・・・などと、年も考えず、相も変らぬノーテンキな性格であります。

まだまだ自転車には肌寒い日々が続きますが、早春の薫りはどこからともなく届きはじめ、手近かな多摩川や目黒界隈の山坂でも、桜の芽生えが一気に始まり、場所によっては五分咲きもあるほどです。こんな時には洒落たオープンカフェ・・・、例えば銀座WESTのようなシンプルな白いテーブルクロスの設えのカフェで桜を一日中眺めていたい・・・などと夢想しがちですが、自転車乗りの格好では冷たい目線を浴びるでしょうからパスせざるを得ません。しかし、低価格でありながらそこそこの軽食メニューのあるカジュアルカフェも登場しているわけですから、時代は案外と便利で快適な方向にシフトしているのです。

さて、フランクパターソンさんの挿絵のようなロケーションに出くわすことなどあり得ませんが、思わず休んでしまいたくなる景観と建物が作為なしに自然体でおさまっている場所は、今でもどこかに在るに違いないと妄想しているからこそ、銀輪徘走を続けられているのかも知れません・・・。

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2010年3月27日 (土)

型ガラスのシャープさを再認識!。

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今の時代気分は、緩い感覚、頑張らない生き方、手作りの復権などなど・・・、スローな気分にさせてくれる流れに傾いてますが、人間というものは勝手なもので、振り子のようにバランスを取りたくなるのか、最近は1930年代から1960年代あたりのきっちりした工業用品などを見直す風潮が、トレンド好きな皆様に顕著なようです。

そんなことを云ってる私も実は、工業製品のもつアノニマス性を信奉している者ですが、長年、何処に行っても見つからなかったのが、日々、筆記具・ハサミなどを容れる器だったのです。それがある日、自由が丘mieurx http://www.mie-ux.com/ の白い棚に雑然と置かれていたガラスのジャム瓶を見つけ、やっと永い間探していた苦労が消し飛んだも同然でした。

夫々の筆記具には、かなり愛着とこだわりがあって、毎日机上で目に入るものですから、それに相応しいものを探し求め、これまで陶磁器のマグカップ、紅茶の缶、木製の筒などに容れてきたものの、中の筆記具を透過しつつも目移りせず邪魔にならないガラス素材がベストという偏見に到達し、多くのガラス瓶などに差し込んできましたが、この型で抜かれたガラス瓶ほど美しいものには出合いませんでした。

1930年代のフランスのジャム瓶ですが、エッジの立った鋭い角に西日が当たると、縦に光が走り、この手の瓶にありがちな気泡も皆無に近いベストコンディションです。目方もしっかりありますから、ひっくり返ることからも解放され、やっと安心できる机上の友がやって来ました。

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2010年3月26日 (金)

1967 奥野信太郎 『町恋いの記』

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Rimg27477 インターネットで欲しい著作物を検索してみても、途方もない金額設定をしているものも多く、おまけに、実物をこの手で確認できませんから、いくら、美装本などと書かれていても、おいそれと信用できないものです。

このところ、昭和30年代の町っこ気質の潔い書きっぷりにはまり、奥野信太郎さんの著書をインターネットで探していたところ、三月書房の『町恋いの記』という、どうしても、そのタイトルからして欲しくなってしまう一冊がありました。ところが、金額はピンキリ、こうなれば神田神保町の良心的書店の中から検索して、適正価格の一冊をやっとみつけたのが、こちらです。

三月書房のこのシリーズは、文庫本サイズながら装丁も洒落ていて、小洒落れたサイドテーブルに置くにも良し、剛毅なデスクに置くにも良し・・・、であります。

奥野信太郎 『町恋いの記』より 未完成は楽しい から抜粋

 ともかくぼくは毎日渋谷を通る。ここを通らないことには勤務先の三田にも、それからそのほかの用達の場所にも、まずゆくことができないからである。                    少年時代ほんのしばらく青山南町にすんでいたころ、よく道玄坂あたりまで遊びにきた。 水車小屋があったり田圃が続いたりしていて、もう宮益坂をおりると、あたりはすっかり田舎の風景であった。・・・

全編、このような話が語り調で続き、すっかり記憶から消し飛んでいた憧憬が表れると同時に、私の塞がれた記憶の詮がスポーンと抜かれるのです。書かれた1967年はまだ多く残されていた戦前の風景が徐々になくなり始め、そのせつなさを、江戸っ子らしく、さっぱりと諦める境地で、『町恋いの記』という表現で構成されています。

文体も、池田弥三郎氏ほどの直裁はないものの、麹町生まれの控えめなエスプリは、忘れかけていた文学のエキスを散らし、うつくしいのであります。                                  

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2010年3月25日 (木)

1970年代 伊勢丹の先進性

197010 実態は勘と乗りと勢いで1960年代からファッションデパートメントストアの位置を不動にした伊勢丹ですが、売上の殆どを新宿店が占め、当時からも不特定多数の客層が毎日なだれ込んでいましたから、何でも仕入れれば黙ってもそこそこ売れていく状況でした。そのような中、アメリカの百貨店の現状を視察した経営陣が、もう少し商売に感性と理性を持ち込めないか・・・、という経営判断の元、客層のカテゴリー化、商品の分類を従来の用途別などからデザインテースト・顧客の生活価値観マインド別に・・・などの手法を織り込んだ独自のコードを使い、1975年頃、全面的な大改装を通して、他のデパートより一歩先のマーチャンダイジング施策に踏み込んでいきました。

この新聞全段広告は1975年、アメリカのCI会社に依頼し旧来のシンボルマークを変えたときのものです。

土屋耕一さんのコピー『Healthy Sexy』 も傑作ですが、此処に登場したノーマカマリというデザイナーによる、カットソーをお洒落にデザインしたファッションが時代を象徴しています。カットソーというとトレーナーの素材として健康生活にはお馴染みでしたから、ちょっとドレープをあしらっただけで、こんなに可愛くなってしまうマジックのようなデザインが話題を呼び、これまで対極概念であったHealtthyとSexyとを同列に位置づけするショップが林立していきました。それはインナーと呼ばれる肌着にも表れ、それまで比較的地味な肌着ショップも明るく華やかに変身していったのです。

ところが、このシンボルマークだけは甚だ評判悪く、「アメリカ西海岸のデザイン会社に依頼したから、短絡的な朝陽のようなデザインになってしまった・・・、」などと散々に扱き下ろされ、そのせいか、さほど時を待たずして現在のマークに落ち着きました。   

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2010年3月24日 (水)

遠い昔の切手。

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石原信さんのブログhttp://shinmemo04.exblog.jp/に以前私が郵送した切手のことが書かれていていました。

私世代は昭和30年代の子供時代に両親が切手を買い込んでいた御宅が多く、残された切手をとって置くか使い切ってしまおうかと迷っているうち、人生も第三コーナーが近づき、せっせと郵送物に(よほどの記念切手でなければ)使ってしまおうと潔く決心したご同輩が多いように思われます。

私も、事務的な郵送物以外は、昭和の気分たっぷりな切手を貼っていますが、金額が金額だけに、枚数は増えますから先に切手の貼る位置を考慮しておかないと、住所・宛名次第ではだいじな相手先を書ききれなくなることもあります。

昨今の多量に作られる一音調子な切手のデザインとは異なり、夫々が、その時代の流れを如実に写し取っているからこそ、こんな切手が届いた方々は、嬉しくなってしまうのでしょう。単色刷りながら活版印刷のみごとなものもあれば、写楽・万博記念の銀を上品に背景にあしらったものなどなど・・・、手紙・葉書に書かれた文体の格調さえも問われそうな、ニッポンの遠い昔の秀逸なデザインであります。

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2010年3月23日 (火)

1953 初めての写真機?

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父が久我山の家を改築に着手した1953年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1953.htmlの工事現場で、大工さんたちが右往左往している中、チョコチョコと動いていた私を父が撮影したものです。

どういう経緯かわかりませんが、大工さんは全員、信州の農業を主としている人たちで、当時の私には、どうして農家の人が家を作れるのか不思議でなりませんでした。

大工さんたちは父のアトリエに寝起きし、毎晩、酒盛りとなって大騒ぎしていて、その雰囲気に興味があったのか、私も中に入っては、うろうろしていました。みなさん、信州に伝わる民謡から流行の歌謡曲まで、留まることを知らないほどの歌好きで、テレビのない時代でだからこそ、歌と戯言の濃いコミュニケーションが主流でありました。また、解体した廃材であっという間に作った仮設小屋が食事場・休憩場となり、そこで母やご近所の皆さんが食事の煮炊きをするといった按配で、子供にとっては毎日が知らぬことばかりで面白かったのです。大工さんたちは何でも自分たちで作ってしまうのが得意で、服を掛けるハンガーから靴箱まで、手早く器用に作ってしまうのでした。

さて、私が生意気な格好で写しているカメラが何処のメーカーのものか分かりませんが、このブログをご覧の方で、お分かりの方がいましたら、コメントをいただければ嬉しい次第です。

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2010年3月22日 (月)

東福寺・市松の庭

1012006062f252f812fb0071081_2033369312006062f252f812fb0071081_201932561禅宗の方丈には、古くから多くの名園が保存されているものが多い。然し方丈の四周に庭園のあるのは大本山東福寺の方丈だけである。この庭園は昭和十三年重森三玲氏が作庭された枯山水式の禅院庭園である。
 当寺が鎌倉時代の創建である関係から作者は鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基本とし、これに現代芸術の根幹をなす抽象的構成をとり入れて表現したものである。今それらの四囲の庭園を略述すると方丈南庭(前庭)は巨石十八尺の長石を基本として蓬らい、方丈、瀛洲(えいじゅう)、壺梁(こりょう)の四仙島を表現し剛健な配石と荒海の砂紋とによる躍動を表現し点観の移動によって変化を極めている。 方丈の西庭はさつきの刈込と砂地とが大きく市松模様に図案化された井田の抽象表現である四季の色彩的効果が意図されている。北庭(方丈の裏)はもと作庭以前に南の御下賜門内にあった敷石を利用したものでこれを市松模様としたものであるが、この北庭側は通天の楓樹が錦を織りなす美観の地であり且つ南庭が石庭である為に逆効果が意図されたものである。(東福寺)
 

京都・東福寺方丈裏の庭は重森三玲が1938年(昭和13年)作庭したものです。

この市松庭は北庭の意匠ですが、石と苔とのバランス構成を徹頭徹尾計算尽くし考え抜いた末にたどり着いた、作為のある自然環境としての代表例です。南庭・西庭は更に趣きが飛躍して、アバンギャルドでネイチュアな世界が広がります。

『自然のあるがまま』がお好きなみなさんには、耐えられない意匠でしょうが、日本の各分野の造形には、枯山水を筆頭に人間の感性と原始環境との約束ごとを超える闘いの証しがたいへん多いのです。西欧の足し算の美学と違い、日本は引き算の美学の宝といわれるように、俳句のような最後にたどり着いたエッセンスの塊こそが日本の美を象徴的に表現していて、昨今、海外ではこれを総称してZENなどと呼ばれています。

京都の寺院周辺には夢想国師をはじめ、このような人間の感性と自然との闘いの名残が此処彼処に集結しているからこそ、永遠なる創作のエネルギーを浴びに、多くの皆さんが一年中季節を問わず出かけるのだと信じていますから、たんに侘び寂び、美味しいものや御茶屋遊びだけが、京都の売りではないのです・・・。

重森三玲 http://www.est.hi-ho.ne.jp/shigemori/association-jp.html

枯山水 http://evuq.com/japan/karesansui/japan_patern_02_karesansui.html

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2010年3月21日 (日)

霞がかっておまけに南風・辛い銀輪徘走

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土曜日は、朝から白霞が世田Rimg27349谷一面を被い、銀輪快走を楽しむ 気分にいまいち成りきれず、ぐずぐずしてたのですが、腹回りも気になることだし、ほぼ二ヶ月の間4回ほどしか乗っておらず、とりあえず行くか!!!、と自分で自分を叱咤激励し、先ずは、多摩川に向かうものの、生ぬるい南風がやる気をそぐのでありました。春爛漫にも成り切れないこの時季の景色というものは、ホワーンとしたもので、独特の淡彩色は渋好みの輩には最高なのでしょうが、はっきりしたものごとのお好きな輩には、中途半端!!!の一言で一蹴されそうです。

二子玉川から丸子橋に出て、中原街道を都心に向かうのですが、自動車の渋滞にあきれ果て、よせばよいのに、わざわざ大岡山から都立大学を抜け目黒通りに出てみるとこれが空いていたのです。しめたとばかり、南風を背中に受け、快走・疾走を続け、白金から三田経由で愛宕山・新橋を抜け祝田橋に出てみると、ランナー集団のすごさが目に付くばかり。自転車は、そっと車道でも走るかと思うのですが、ここは自動車との接触の多いエリアですし、今や他府県からの参入車両も多いことなので、間抜けな事故に巻き込まれぬよう、ランナーの脇を失礼ながら抜けたのであります。

内堀通りから千代田通り・明大通りを経由、一気に本郷通りに向かい東京大学の先、言問通りを右折し、根津から工事の交通規制をかいくぐり、上野桜木信号を左折し谷中に向かうと、ここもお彼岸の人出で凄い状況。行く場も無く、優れたセンスの和陶磁器セレクトショップ『韋駄天』http://sohske.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a13a.htmlに寄り、しばしの歓談・・・。もうすぐ、桜・花水木の開花となり、谷中界隈も春に浮かれ出します。

午後になり、風が強くなり、世田谷までほとんど向かい風との格闘帰路となるのですが、今日、まだ二軒ほど寄るところがあったのです。一つは自転車雑誌、funride http://funride.jp/がプロデュースするショップhttp://funsta.jp/。もう一つは梶原建二さんが経営するブラウンライスカフェhttp://www.brown.co.jp/の新メニューと食器の刷新の様子。自転車ショップは渋い場所ながらこの界隈に自転車通勤する顧客のベースキャンプとして機能しているようで、ロッカー・シャワーの設備も洒落ています。ブラウンライスカフェは和食器を今風の見立てでコーディネートしたもので、実は、私がお手伝いさせていただいたものです。料理メニューもぐっと洗練され、比較的価格帯の高めにも関わらず、店内は盛況でほっと胸をなでおろしたのです。

銀輪快走にはコンディションの良い日とはいえない一日を、調子に乗って70キロ近くを走り、すっかり萎えた筋肉を取り戻すべく、春に向けてシェープアップせねばと感じ入った一日でありました。

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2010年3月20日 (土)

1947年 向島の桜

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1947年、私の生まれた年の向島の花見模様です。隅田川には首都高の閉塞感などまだ無く、それは解放的で穏やかな春麗であります。こんなに溢れんばかりの客を乗せた和船も今では違反でしょうが、盛り上がっている様子がうかがえます。また、隅田川の岸辺の石垣の斜度がこの景色に絶妙にはまっていて、現在の切り立った無味乾燥さが哀しいばかりであります。

戦後間もない貧しい時代ではあったものの、戦前から繋がった暮らしにすこしのゆとりと遊びを組み入れるセンスは、微動だにしません。

モノトーンな写真だけれど、その華やかなひと時の宴の有様が伝わってくる優れた写真です。

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2010年3月19日 (金)

1960年代・シンボルマーク 『スエーデン産業文化展』

Trade_mark_simbol520_2 ラルス・ブラムベルグ氏のスエーデン産業文化展のシンボルマークです。

1965年、亀倉雄策氏が世界のシンボルマークを一冊にまとめられ、『世界のトレードマークとシンボル』というタイトルで河出書房新社から出版されました。当時デザイン学生だった私は、破格値の¥4,800を銀座のスキー屋のアルバイトで捻り出し、この一冊を購入し、一つ一つのシンボルマークやロゴタイプのバランスを方眼目盛の付いたトレーシングペーパーでなぞっては、プロポーションとバランスの解析に励んでいました。

今でもこの本は名著と云われていますが、世界から亀倉氏が収集した点数もおびただしく、掲載に絞り込むにもたいへんな知力を要したことと思います。

その中の一点がこれであります。民族の力を極めて象徴的・抽象的に表し、この本の中でもお気に入りのシンボルです。

それぞれのマークには一切の解説も無く、淡々と繰り返されるマークの流れに一定の法則はあるものの、それはたいした意味を持たず、ひたすら美しいシンボルとマークの宝庫なのです。手と頭で思考されながら完成されたこれらのマークにはP.Cでは表せない独特の歪みとデフォルメがあって、45年近く経ってもその鮮度たるや、まったく変らないのであります。

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2010年3月18日 (木)

スイス・信州もどき

1109 先日、所用で南木曽・安曇野・小布施方面に出向くこととなり、今回は助手席で景色を観続ける観光気分を満喫しました。日本アルプスを北と南でその隆起からか、全く異なる姿を楽しむことが出来、中央高速・長野道などを通る楽しさを改めて見直した次第です。何処も、まだまだ芽吹く前のホワーンとした薄鼠色と薄紫色の重ね色といった状態で、眩しいほどの新緑にはまだまだであります。

この安野光雅さんのスイスの水彩は、家並は別としても、通ってきた先日の信州の光景と重なり、穏やかな春の訪れを示唆しているようなしっとり感がひろがる、やさしい絵です。

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2010年3月17日 (水)

懐旧の小道・八国山緑道 1965 早春

196505196504_2   1965年の早春、高校3年になる寸前のスナップです。場所は西武園に抜ける将軍塚のある美しい小道で、八国山緑地と呼ばれて、今は週末には多くのハイカーや近隣のウォーキングの皆さんで賑わっているようですが、この頃は、ひっそりとした森の小道でした。http://www6.ocn.ne.jp/~bojyan/r8koku.html高校時代は自転車と演劇にどっぷりと浸かり、毎日の通学の帰路では吉祥寺・東京サイクリングセンターでの先輩のよもや話に傍耳を立てていた頃です。何故か、趣味の話に共通点の多かった隣クラスの中村浩二さんと一緒に早朝のツーリングを楽しみましたが、この小道の両脇に芽吹きだした樹木からほとばしる樹液でセーターはもとより、自転車にまで、ベタベタとなり、頭などはポマード要らずといった状態となってしまいました。

このルートは1964年の春、有吉さん・沼さんという東京サイクリングセンターの大お得意さんでもあった先輩の後をひたすら追いかけて、今や伝説化されたご両人の美しくロスのないライディングフォームを真似ようと必死に付いて行きながら教わったルートで、当時は狭山の茶畑を抜けていく、素晴らしいルートでした。若造の私はどんどん小さくなる先輩を見失うまいと茶畑に見え隠れする二人の頭を追い続けながら走ってました。ランドナーや太目のタイヤが流行していたこの時代は、舗装道路を避け、わざわざ狭い土の道を走るのが粋とされていたのです。

現在この場所一帯は、宮崎駿さんがその素晴らしい環境と生態系を遺そうとボランティアで活動していることで、各メディアで採り上げられています。http://www.kmine.sakura.ne.jp/tokyo/kouen/hachikokuyama/hachikokuyama.htm

さて、私の自転車は東叡社・ブルーバードというキャンピング仕様のタイプです。東京サイクリングセンターの創業者・板倉修氏に強く勧められ、周囲の同僚は「どうせなら、ゴールデンゼファーにしなよ」などと囁かれたものの、根っからの偏屈なDNAがマイナー指向の自転車をセレクトしたのです。その後、カスタムアップの癖が抜けず、泥避けは前後ニ台分購入し、長い泥除けに前後取替え、ぐっとフランスっぽくなっています。フロントバッグの前にちょこんと鎮座しているライトはフランスのJOS http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000487.html ですが、泥除けとJOSを繋ぐ部品が無く、あのDaniel Rebourさんのテクニカル・イラストが掲載されたCYCLE http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/000661.html を観ながら、板倉修さんの工具を借り、東京サイクリングセンターの二階で手作りしたものです。鉄板を切り、メッキなどせず、エポキシ系の樹脂を塗ったものでしたが、なかなかの出来具合で満足感にひたっていたのです。

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2010年3月16日 (火)

涼風にしばし寛ぐ。

Sourtg 春の自転車徘走ほど快適なものはなく、偶然通りかかった知らぬ場所が思いもよらぬ静けさがあれば最高なのですが、昨今はそのような場所が存在することさえ難しいのが現実のようです。

私は運よく昭和30年代半ばの、まだ里山ばかりあった多摩丘陵を自転車で駆け巡っていたことがあり、その素晴らしさがいまだに残像として後を引いていて、その後の、醜い乱開発によって失っていった風景はもう元に戻らないわけですから、今から思えば、貴重な体で覚えた体験をさせてもらったと思っています。

このフランクパターソン氏の挿絵のような素晴らしい環境は望むべくもないのですが、イギリスがクラブマンという(日本でいえばランドナー)スポーツ・ツーリングが盛んな理由が、この挿絵一枚で分かります。ナショナルトラスト運動をはじめ、地球の奇跡と惠みがもたらした、圧倒的な美しい景観が人間の情緒に与える影響の大きさをイギリスは良くわかっているのですから・・・。

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2010年3月15日 (月)

雲と雨をこのように・・・、黒織部沓茶碗

Rimg23836 戦国時代の茶碗には、多くの名品がありますが、現代のセンスから観ても、その抜群の感覚のものを一点選べ・・・、などといわれたら躊躇なくこれを選択します。

織部と呼ばれるものの、あの深緑色の釉薬などどこにもなく、漆黒と白のコントラストのみで勝負し、白の部分にはこれまた洒脱な雲と雨が、まるでいたずら書きのような軽ろみと省略をもって描かれています。この余白の中の絶対バランスに配置された雲と雨は木立のようにも見立てることができ、観察する人夫々の解釈の自由度を許容しているかのようであり、自由奔放ながら人間の持つ創造力と技術が合致した奇跡の逸品であります。

今では、この写しも多く出回っていて、そんな贋作の器であっても、抹茶の新緑色が加われば一気に、鮮やかな宇宙が手の中で展開するわけですから、この作り手が緑色で加飾しなかったのは、かなりのアバンギャルドな挑戦であったに相違ありませんね・・・。

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2010年3月14日 (日)

器のこと。

Rimg18455 10年前に京都の物産と観光に関わる仕事をしてましたが、そのお礼にいただいた器を久しぶりに棚から出してみると、以前には見られなかった、風合が表れていました。

金泥を施した、いかにも京都のモダンな感覚の器で、10年前は金泥とレモンイエローの色調が眩しいほどで、又、方やざっくり、方やつるりという素材感のミスマッチが、装飾意匠の典型のようでした。

それが、経年変化とでも云いましょうか・・・。そのきらびやかだった雰囲気は一掃して、妙に、味わいのある器にと変身していました。金泥部分のつぶつぶは以前ですと金に隠れていて、認識さえ出来なかったのですが、この十年でずいぶんと、綺麗寂びの様相を呈してまいりました。

この器の趣きですと、季節料理の素材や、盛付けのセンスを問われると思い勝ちですが、意外にも、何にでも合ってしまう合理性があります。この一枚が食卓に登場すると、一気に卓上が明るくなり華やかな気分となるので、暫く、棚の中に眠っていたことですから、又、出番の数を増やしていこうと思っています。

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2010年3月13日 (土)

駒沢からの富士山

Photo 写真提供:駒沢 ラルー

玉川通りがまだ明るい頃というか、首都高がなかった頃はこのように富士山が見えていたのです・・・。

駒沢通りが桜新町方面と分岐する近くから1967年頃撮影されたものです。今でもほんの一瞬ですが、大きな富士山を望むスポットがあるのですが、望遠レンズで撮影されたものの、このようなスケールなど到底望めません。ここから南に分かれる駒沢通りにはほんの一瞬、大きな富士山を望む箇所が複数ありますが、いつも不思議なのは、何故こんなに立ち上がり、大きく見えるのか・・・、ということです。あくまでも錯覚なのでしょうが、多摩川から望む富士山もこれほどの迫力はないのであります。

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2010年3月12日 (金)

九段会館(旧・軍人会館)

Img_7525 早朝の都心を自転車で疾走する楽しみは、風・光・薫りをまともに受けながら、四季の移り変わりを体感するところにあるのでしょうが、皇居周辺はさらに歴史の証人としての建築が残っていますから、建築徘走の愉しみも大きなファクターです。

この九段会館 http://www.kudankaikan.or.jp/も戦前までは、軍人会館と呼ばれ、2.26事件では戒厳令本部が置かれるなど、諸々、そのステータスは帝国ホテルも及ばなかったといわれています。独特の屋根の意匠も素晴らしく、この建物を取り巻く歴史的な意味を無視さえすれば、物件として素晴らしい建物であります。桜の季節には此処の展望レストランが最高のスポットであることをご存知の皆さんで毎日が満員でありますが、それ以外は比較的静かであります。戦前からの威厳と伝統もありますから、レストランのお味にもそれなりのオーラが被さっていて、私のようなコスモポリタン的人間にはおいそれと伺えない所なのであります。

残念ながら首都高速道路の至近距離であり、この美しい建物を単独で望むことができませんが、威風堂々という意味では相当上位の物件であります。

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2010年3月11日 (木)

1956年・寒い小学校のアトリエ

Rimg26044 鉄鋳物製のダルマストーブは、その鋳肌が真っ赤に透けそうになって、今にも溶けてしまいそうになるほど、石炭をくべていました。

今とは比較にならないほど、寒かった教室の冬、とりわけ、図画・工作を授業は校舎が離れていて、そこに入るとストーブが真っ赤になって、生徒を迎え入れてくれました。

それでも、天井の高いアトリエですから暖かいのは上ばかり、床に近い足元は寒さで厳しく、生徒は、ほっぺただけが赤くなっていました。

この絵は、クロッキーという授業で、素早く対象をスケッチするものでした。墨汁でクラスメートの北川 伸君を描いたのですが、墨汁と筆との按配が分からず、はじめはベタベタの画面となってましたが、次第にかすれた風合に興味を抱き、子供ながら枯れた境地に魅了されることになってしまいました。

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2010年3月10日 (水)

靴下とは言わせない!銀座にて。

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Rimg27041 ファッションのカジュアル化、ファスト化の兆しは止まるどころか、加速度が付き、銀座四丁目に近いユニクロなどは優雅な銀ブラを逆撫でするほど入店呼び込みのスタッフがチラシを片手に公開空地に溢れていました。この有様は、銀座を慣れ親しんだシニアの皆さんには失笑ものに違いなく、首脳陣の銀座に対する配慮のなさに起因しているのかも知れません。

そんな銀座らしからぬ光景を眼にしたあと、松屋からプランタン方面に抜けるショーウィンドゥの一角で足が止まりました。このブランドはニットが売りのようですが、この靴下の感性に惹かれました。単なる、脇役に過ぎなかった靴下も時代のヘルシー・ビューティ路線に伴って、準主役と成りだし、このような表情豊かなスタイリングとなって来たのです。おまけにこの柄の意匠などは単純なスポーツテーストとは一線を画し、相当な力量のデザイナーが描き込んだデッサンがベースになっているのでは・・・、などと考えてしまいます。

さて、このようなニットが主役になるには、とある企業の発明が革命を起こしたのです。その会社が島精機 http://www.shimaseiki.co.jp/。元々、軍手を製造していたのですが、とあるヒントからシームレス軍手を製造し、そこから飛躍的にアイディアが広がり、多くのデザイナーのインスピレーションを、そのまま商品化することができ、今や、世界の島精機と呼ばれるようになったのです。

この画像の靴下が島精機の恩恵によるものかどうかは分かりませんが、シンプル格安な世界とは別のプロダクトアウトな流れも拝見できるのが、今様な銀座なのかも知れません。

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2010年3月 9日 (火)

琳派の蓋物

Rimg11985 このような立体の蓋物に、とんでもないアイディアを持ち込んだのが琳派と呼ばれる、アートディレクター主導型のものづくりの真骨頂かも知れません。これに限らず、硯箱にも、この意匠に似た、異空間同時展開柄が観られます。誰が最初にこのアイディアを考えついたか、諸処の説があるようですが、そんなことは、どうでもよし。

この器にぎっしりと料理が入れられ、いただいているうちに少しずつ、里山の景色が見えてくるなど、みごとな気配りですし、もてなしの受け狙い・為狙いなど関係なく、作り手の思い入れが、宴のひと時を操るわけですから、こんな作り手冥利に尽きることは、ないのです。

このような器は時空を越えた自由自在であれば反作用として、当然、この器に盛られるのは、里のものしか考えられず、昨今流行のミスマッチ感覚を盾に、海のものなど盛ってしまうと、もうダサいのひとことであります。このような器にミスマッチはご法度で、あくまでも、マッチメイトという約束ごと至上主義でなければ、宴の掟破りなのであります。

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2010年3月 8日 (月)

炎上する着物!

201_41 こんな絵模様には何か意味でもあるのでしょうが、それにしても、アバンギャルドな柄ではあります・・・。卍模様が発展して何やら雷の様相を呈している・・・などと思っていた矢先、これは着物の下に着る襦袢という衣装で歌舞伎十八番『鳴神」の上人が着用するものだということが分かりました。芝居のクライマックス、呪法が破れる瞬間にこの火炎模様が、ぶっかえり一瞬【いっしゅん】にして衣裳【いしょう】を替【か】える「引抜【ひきぬき】」の一種です。上半身の部分を仮に縫【ぬ】ってある糸を抜いて、ほどけた部分を腰【こし】から下に垂らして衣裳を替えます。「見顕し【みあらわし】」といって、隠【かく】していた本性を顕したときに使われる方法です。で現れるそうですから、迫力あったでしょうね。昔は照明器具など無かったでしょうから、蝋燭に頼った暗い歌舞伎小屋で最後にこんな鮮やかなエンターテイメントがあれば、ずいぶんと大向こうからもお声が掛かったに違いないでしょう・・・。

米兵が好んで着た横須賀独特の刺繍入りのスタジャンなどにも、この手に近い趣のものがあったように記憶していますが、グレード感は段違いですし、燃える炎は男好みのキャラクターとしても相当レベルの高い意匠ではあります。

鳴神  歌舞伎十八番の一つ。寛保2年(1742)、大坂・佐渡島長五郎座初演の「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」の一部が独立したもの。初演の"鳴神上人"は2世市川団十郎。筋書きは、朝廷に怨みを持つ"鳴神上人"がその法力で龍神を滝壷に封じ込め、天下は日照りとなって雨が降らない。朝廷の命を受けた"雲の絶間姫(くものたえまのひめ)"が色仕掛けで上人を破戒させ、滝壷の龍神を放つと雨が沛然(はいぜん)と降ってくる。騙されたと知った上人は怒りに燃え、豪快な立回りとなる。荒事芸の代表作品である。

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2010年3月 7日 (日)

スケート場の光景・1957年

Rimg26035 何かの拍子で踏んでしまったのか、靴の底跡も生々しいスケートの様子を描いた一枚です。

おそらく、後楽園かと思いますが、東京都心のスケート場に父と一緒に出かけたときの印象を描いたのでしょうが、背中に両手をまわしてスイスイと滑っている人の姿がよほど記憶に残ったのか、面白い格好に描いています。

この時代、スケートが大流行していて、綺麗な赤・青などの色のスケート靴のブレードには白い革のホルダーが付いていて、日曜日の山手線に乗ると、そのホルダーを片手に持った当時の若者がそこら中にいました。上手、下手の格差も激しく、スケートリンクを我が物顔に滑るテクニシャンとすってんころりんばかり繰り返すビギナーが、夫々の領域を侵すことなく、すみ分けされていて、そのコントラストも面白かったのです。

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2010年3月 6日 (土)

安野光雅・イギリス

709 安野光雅さんは、その風貌とは相反して、優しい画趣の表現が得意で、世界のどこを描いても、生まれ育った津和野のようなしっとりとした雰囲気がどうしても滲んでいます。

このアイルランドの岩山にそそり立つ城にしても、しっとりとした湿度感があって、そこが、たまらないという方々が多いのですが、私はむしろ、安野さんの混色にこそ、湿度感全ての秘密のようなものがあるに違いないと思っているのです。この画趣にしても、実際は、もっと厳しく、削られたような岩肌なのでしょうが、実に、日本画のぼかし効果の筆勢のような感覚が残っています。さらに、城壁手前に見える芝生のような箇所の色味も、彩度を落として品の良いまとまりになっていているからこそ、この絵が、険しい対象を描きながらも、独特の充足感を放っているのでしょう。

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2010年3月 5日 (金)

広重・四ツ木通用水引船

048 四ッ木通用水は、もともと本所、深川方面へ飲料水を供給するため、元荒川の瓦曽根溜井を水源として、四ッ木村を通って向島まで引かれた古い上水である。
 この上水は、水源の水量が不安定であったり、江戸湾が満潮になると塩水が混ったりして、飲料水としては不向きであったため、最終的には廃止されてしまった。
 それ以後、農業用水として、さらにまた四ッ木村と亀有との間の28丁(3km)は、人力による引舟の交通路として利用されるようになった。この引舟を四ッ木通用水引ふねといい、14艘ばかりの舟が往復していた。
 四ッ木村辺り一帯は湿地に近い平地で、用水の流れは緩慢であったが艪を漕ぐ舟には不向きであった。そこで、舟の舳先のやや後方に棒を立て、これに結び付けた綱を人間が引いて舟を動かした。引手は近くの農民で、副業として男ばかりでなく女も舟を引いたという。
 この用水の堤を水戸街道の脇道が通っており、亀有で千住大橋を渡って来る本道に合流していた。そのため、水戸へ行く人や柴又の帝釈天へ詣でる人が引舟を利用したという。
 落語家春風亭柳好は、「むかしゃ、あの引舟ってのを通って、お金持は舟であがる(江戸へ行く)、私たちゃ歩いて堤の上を行った」と述懐している。
(堀晃明『広重の大江戸名所百景散歩』)

水の都であった江戸の頃は幾重にもこのような風情の景色が重なっていて、それは今から観れば羨ましいようなパノラマであったに違いありません。なにしろ時間がゆったりと過ぎていったわけでしょうから、効率のよい道路計画など立てずに、生活路としての川が有効的に機能していたのでしょう。

春先に浜松町から浅草までの水上散策を楽しみますが、岸のみっともなさといったら、どうしようもなく、さらにステンレスのパイプが目に付き始め、その反射が春の爛漫としたのんびり加減を逆撫でするようであります。

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2010年3月 4日 (木)

モネの雲

1864 1864年のモネが雲の表現を習作として残したものです。雲はその光とともに刻々と変化しますから、瞬時の見極めと、先読みが必須で、ジャブとストレートを打たせないボクサーのようなセンスが必要なのです。

沈み行く夕日に映える雲を瞬時に捉えたこの絵は、1920年代に三菱商事パリ支店長・久我貞三郎夫人の田鶴子にモネから直接贈られたもので、田鶴子夫人はこれを契機にモネから画家モーリス・ドニを紹介され絵画を習うこととなりました。

今のような時代では考えにくいほど、当時はこのようなお宝が日常的に直接やりとりされていたそうです。

雲の合間から輝くオールド・ローズのような色と草原の丘の対比がモネらしい柔らかさを秘め、間もなく輝くような夕焼けになる寸前の美しい一枚です。

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2010年3月 3日 (水)

スペインの薫り

1809 スペインの名も知らぬ田舎町に迷い込んだのは、初めての欧州旅行がスタートしてから2週間ほど経った1967年の3月でした。

紺碧海岸をひたすらフランスからスペインに向かうにつれて、見る見るうちに土の色が赤茶色に変化していくのが、日本に居ては分からない感覚であり、一種不思議な光景でありました。

しっとりとしたフランスの南と一転して、乾燥の激しいスペインで見た風景の第一印象は、この、安野光雅さんの描いたスケッチの空気感によく表されています。シェスタと呼ばれる昼食後のお昼ね時間には、町が静かとなって、東京では働く人々が最も活発に活動している時間帯にも関わらず、このスペインでは長閑な静寂感を伴っていました。

お国柄の違いとはいえ、スペイン人のもつ気候に合わせた無理のない生活観にちょっぴり、羨ましさを覚えたのです。

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2010年3月 2日 (火)

菜の花畑の和菓子・塩野

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きんとんで表現された季節の和菓子は一年中、登場します。一輪の花の細部を模した意匠ではなく、菜の花畑など目の前に展開するパノラマからの印象を塊として表現するには、この、きんとんが陰影も採り込め効果的なのでしょう。

和菓子の老舗夫々が限られた印象を元に、緑と黄色の二色配分の彩度・明度・量感などなど工夫を凝らして展開していますが、概ね、3月3日には店頭からなくなり、和菓子の世界は華やかな春爛漫に移行していきます。4 赤坂・塩野の菜種きんとんは、数多き菜の花畑を模した老舗の中でも群を抜いた美しさです。他店との比較は邪道かも知れませんが、薯蕷きんとんの彩度を控えめにしただけ、器は派手目でもその調和には濁りがありません。

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2010年3月 1日 (月)

奥野信太郎著 『かじけ猫』 1957年

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Rimg26975 [古本屋の店頭で]

古本屋を歩いてみて、すぐ気が付くことであるが、本の数は割合に持っていながら、その本の一つ一つが、ほとんどろくなものでない本屋と、それ程数はもっていないが、その商品が一つ一つ粒えりのものである店と、この二通りあることである・・・。

『かじけ猫』という不思議なタイトルの古書を九品仏の古書店で手に触れ、奥野信太郎さん http://moondial.blog2.fc2.com/blog-entry-13.html の切れ味のよい文体に魅了されました。内容も徘徊から訪問記まで、銀座の夜から味噌汁の味まで・・・、明治33年、東京・麹町生まれの町っこキングここにありという、万象を切りまくるオンパレードは痛快であり、今の緩い社会風潮に浸かっている私にも鉄拳が下された思いでもあります。

「冬の日だまりに、身を縮ませて香箱をつくっている猫のすがたくらい不精なものはない。"かじけ猫"という題はそっくりそのまま著者自身のすがたでもある。・・・」と書かれたあとがき文の最後を読み、びっくり!!!。何と装幀は私の父でした。これはまったく知りませんでした。

「装幀は○○さんにお願いした。有島生馬先生、丸岡明君それにぼくを加えて四人で、東京の町を呑みあかして歩いた旧諠から、快く装幀をひきうけられた好意に対しては、まったくお礼の申しようもない。ふりしきる牡丹雪が、業平小紋の模様を綾なして、そこに猫一匹いない風景ながら"かじけ猫"のすがたはきわめて鮮やかである。」・・・と、寒さ嫌いのかじけ猫をインスパイアしてわざと雪を描いた装幀の父のセンスも天晴れながら、その絵柄を褒め称える奥野信太郎さんの文章の品格はさらに上等であります。

昭和32年(1957年)に章文社から出版されました。

季語 【かじけ猫】  冬
   ・暖かな所を探して丸くなっている、寒さ嫌いの猫の姿。

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