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2010年7月20日 (火)

広重・高輪のびっくり構図

Photo_3 このどこが高輪なの・・・、と叱られそうですが、増上寺安国殿造営に際し、わざわざ京都の牛が集められ運搬の下支えとなり牛町という町名になったいわれがあるそうで、現在の国道一号線沿い高輪二丁目界隈です。

1857年(安政4年)http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1857.htmlの作品ですが、遠くには鎖国状況も綻びだし暗雲立ち込めるご時勢か、お台場も観え、それと対比するように空には平和を祈願するように虹が車輪とのバランスを考え、構成上ここに収まっています。この画面も極めてグラフィックデザインの雛形のようであり、今も色褪せない典型であります。また、転がっているスイカの食い散しは人様の成せるものか、子犬の仕業か、観る人の想像力が広がりますし、その二匹の子犬の車輪に隠れた収まりなどは、おみごとのひとことであります。

この絵について

まず、高輪牛町からです。絵からもわかるように、当時は、目の前に海が広がる東海道沿道の場末でした。江戸の境は前回出てきた金杉橋でした。つまり今の浜松町までが江戸の市内でした。ただし、牛町は、高輪車町の前の通りを俗にそう呼んでいたのです。現在の国道一号沿いの高輪二丁目辺りということになります。絵で見るように、現在の国道は海の脇を走っていたということになります。絵では、食べ残しや、緒の切れたわらじが、いかにも場末を演出しています。しかし考えてみれば、そうした場所が、どうして「名所」になるのでしょうか。
 牛車は、山王祭や神田祭の山車を担当していました。『江戸百』でも描かれているので、いずれ取り上げることになりましょう。それだけではなく、資材の運搬に活躍しています。都市の復興が行なわれるようになると、その牛車の基地として、高輪牛町の地が注目され、人の口の端に上ったと思われます。
 牛車については、藤岡屋が、牛車と幕府の奥医師のけんかを目ざとく取材しています。そこから、牛車が往来を闊歩していた様子が浮かんできます。この事件は、安政4年閏5月に、南伝馬町二丁目で起きたので、広重が、家にいれば喧嘩の報を聞いて飛び出していって見に行けるほどの距離でした。医師は、お城から帰宅する途中、南伝馬町二丁目で歩みの遅い牛車に行く手をさえぎられました。怒った医師は、牛車を曳いていた者を捉らえて、この場所から数ブロック先の因幡町の屋敷へ連れていって杖で打ちすえました。そのため、牛たちは往来に放っておかれたままになり、道をふさいで大騒ぎになったのです。(原信
田 実)

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