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2011年1月20日 (木)

1957年1月20日 朝日新聞『サザエさん』より

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1957年(昭和32年)頃の白黒テレビの普及率は、まだ8%にも満たない時代でした。それでも、「約束手形券」を発行して、実質的分割払いを実施する松下電器チェーン店の拡販戦術を駆使した「久我山デンキ」のおかげで、杉並区・久我山の町は徐々にテレビアンテナが林立し出しました。http://www.nipponstyle.jp/column/nttr/column_01.html

http://www.akiba.or.jp/history/3.html

私の家は1956年にテレビが来ましたが、それまで静かにラジオを聴いて、想像力だけで野球・相撲・プロレスなどを愉しんでいましたし、本を読んだり宿題・予習に専念するなど、この私も「よいこ」であったのです。

しかしテレビが来て以来まったく生活スタイルが変り始め、先ずは父が夜になると編纂仕事に没頭しているアトリエから食卓のある部屋に来て、巨人戦の野球を食い入るように観るようになったことでした。私は、当時の子供の人気スポーツ・大相撲が愉しみで、贔屓力士は、信夫山・鳴門海という、これまた既にメジャー指向でなく、変わり者であったのです。寒風の中、学校から急いで帰り、炬燵に入りながら観戦する相撲は、まだその展開の遅さも気にならなかったのですが、間もなくアメリカのポップス音楽が流行りだすと、そのスピーディさに子供も惹き込まれ、徐々に相撲から遠ざかっていきました。その後一気にアメリカの人気番組が増えだすと、その羨ましいような生活環境がブラウン管を通して伝わり、翌日の登校後、教室での話題は前日のテレビの話ばかりとなっていきました。

また、「テレビばかり観ていると勉強が疎かになる」などという風評から、PTAのお達しで父兄に渡すよう、テレビを見る時間制限・好ましくない番組などの「ガリ版刷リスト」を担任の先生から預かるのですが、色気づきだした男子はそれを両親に見せることなく、バレるまでは知らん顔でありました。

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コメント

私は立浪部屋の安念山でした。
ひょろひょろしていても粘り強いといった印象で8勝7敗ぎりぎりに勝ち越していた相撲取りだった。高校生になったとき両国の立浪部屋の白い外壁にあった小窓から土俵だけを見に行ったことがあります。

投稿: sasaki jin | 2011年1月20日 (木) 午前 09時04分

当時、小学校の相撲人気はすごかったですね。
三根山・松登などのあんこ型力士の負けっぷりも愉しみでしたね・・・。alpshima

投稿: sasaki jinさん。 | 2011年1月20日 (木) 午前 09時10分

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