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2011年3月31日 (木)

雲中天壇 1939年 梅原龍三郎

1939 油絵の持つ混色の複雑さ・繊細さ・奔放さを、千姿万態(姿かたちや様子、ありさまが、さまざまであること。)な対象に向けて直球勝負した、梅原さん!。何と1939年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1939.htmlという日本が暗くなりだした頃、国策に反旗を翻すように自由賛歌を謳ったような作品です。

藝術のもつ技術的評価、歴史的意味など、もう、どうでもよく、ただただ、爽快な気分・晴れやかな気分を運んでくれる絵画のもつ力を指し示してくれる、永遠の傑作です。

晩年の雲のような縄文的造形はまだ控えめであるものの、既に、内に秘めたエネルギーは爆発寸前ですし、混色・配色の構成は、意識しなくとも脳内から瞬時に手先に伝わり、苦慮せずとも、画面に定着できる技量が輝くばかりです。

梅原さんは、「わたしは、この『音楽を聞いているような空』を楽しむ最高の場所は、ここ天壇だとよく人に言っています。広大な敷地のどこに立っても、空を仰ぐと東西南北さえぎるものはなく天、天、天……、大都会の一角とは思えぬ林のなかの静けさ、地上に点在する祈年殿の藍い瓦や円丘の白い祭壇……、すべてが碧い天と溶けあって『天地一体』を織りなしているのです。」と言っているように、北京の空と雲を気に入ってしまったのですね・・・。

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2011年3月30日 (水)

1854年・御殿山の絶景花見。

1854_2 

1854年の広重の版画は、品川沖と御殿山の桜の場面が五分五分構成となっていて、イマイチな感じもしますが、1853年に続く黒船再来航・横浜村で日米和親条約(神奈川条約)調印など、日本が開国したこの年は、さらに全国各地で大地震もあり、正に大揺れの年でありましたが、そんな事関係ないといわんばかりか、春爛漫の桜を楽しむ江戸町人などで賑わっています。

既に品川沖には万が一のリスクヘッジとなるべきお台場が出来、品川宿の至近距離に『御殿山下御枹台場』が一月に着工中なのですが、全く画かれていないのは、御殿山を削った土のおかげで出来たようなお台場など不愉快千万と云わんばかりに、公儀に対し、何か意図的なことでもあるのでしょうか・・・。

その後、25年ほど経過した明治20年頃のモノクロ写真を観ると、(お台場に供給した土のせいか)御殿山がいかにスーパーフラットな地形であったが窺えます(この写真は都合により画像として載せられません)。地形はすっかり変わっても流石に江戸から続く桜の絶景スポットですから、飲食店舗も本格的です。竹さおを骨組とし、そこにムシロを屋根代わりにしたこの設えは、仮設店舗以外にも、夏の納涼映画会などでも昭和30年代前半まで全国に浸透していた姿で、私も1955年の茨城県・五浦での夏休み、『高田浩吉の股旅物映画』を観ていたの会場がおなじ設えでした。品川沖からの浜風に当たりながら桜三昧の宴は、悪酔いもすることなかったでしょうが、酔っ払えば、急坂を下る際、脚がもつれて大怪我した輩も多かったに違いなさそうですね。

現在、この素晴らしかった絶景エリアの面影は完璧になくなっていますが、目黒川の居木橋をミャンマー大使館に向う坂道には、ささやかながら懐旧の気配が漂っています。

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2011年3月29日 (火)

Ricky Nelson

Ricky_nelson

PCで検索中、意図したものと違った画像が現れ、ビックリです。私世代から上の方々にもお馴染みだったRicky Nelsonが,趣味のビンテージカーを自慢しているとことでしょう。

Ricky Nelsonはその甘いマスクとちょっと恥ずかしそうに歌う姿が、小坂一也のようでもあり、日本でも1950年代から60年代前半に人気絶頂でした。主役のTV番組もアイビーファッションの流行と同調して、画面の一部始終を見逃さなかった御仁も多いのではないかと思います。

カントリーミュージックをベースにした甘いポップスサウンドは、パット・ブーン系列の良識派ティストでしたが、ギターを持った立ち姿が野暮臭くなく、同級生の女子にも人気が強かったのですが、知らず知らずのうち、消えてしまいました。大ヒット曲[ Hello Mary Rou ] http://www.youtube.com/watch?v=zLkCWT2neuI&feature=relatedは多くのロックバンドのカバー曲がありますが、この二つが秀逸ですね・・・。http://www.youtube.com/watch?v=Y0AkRThPCSU&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=tgq1ar__jYM&feature=related 

RICKY NELSON

甘いマスクと卓越した歌唱力で、50年代後半から60年代前半にかけて絶大な人気を誇ったスーパー・アイドル。確かに彼の音楽を水で薄めたようなロックンロールと揶揄する向きも多いが、有害とされていたこの手の音楽をお茶の間レベルにまで浸透させた意義は大きい。しかも「Be Bop Baby」「Travelin' Man」「Hello Mary Lou」という初期のヒットでは、ジェイムズ・バートンやジョー・オズボーンといった名うてのプレイヤーが演奏を担当しており、ソリッドなロカビリー・サウンドは今聴いても充分カッコいいのだ。
また、人気が低迷した60年代後半には、ポコを辞めたばかりのランディ・マイズナーを中心としたストーン・キャニオン・バンドを率いて、早くからカントリー・ロックにアプローチしていたことも見逃せないだろう。この時期のヒット「Garden Party」などは、バーズやフライング・ブリトウ・ブラザーズの作品と較べても、何ら遜色がないのには驚かされる。
惜しくも85年に飛行機事故でなくなってしまうが、ルーツ・ミュージックに脚光が浴びせられる今だからこそ、アイドル的側面だけでなく、音楽的にスポットを当てて再評価を与えたいところだ。

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2011年3月28日 (月)

浅間山 噴煙 1953年

1953 もうここまでやられると、絵画のもっている面白さ、解釈、技法などなど、話に尽きないのです。

梅原龍三郎さん1953年、65歳の作品です。この年の夏、軽井沢のアトリエが吉田五十八氏の設計で完成。夏から秋にかけて多くの浅間山を描きましたが、この作品が生涯を通し、典型的な梅原様式美として、教科書からカレンダーにいたるまで、巷に広まりました。

力強くも可愛くあり・・・。眼前の光景を、一瞬にしてご自分のフィルターを通すと、手品のように変った光景がキャンバスに定着します。

遠巻きにしてこの絵の出来上がる過程を観ていた近所の子供達は、その創造力を駆使した変貌ぶりに、大笑いしたということが伝わっていて、先生は、子供に受けることを愉しみにしていたのかもしれませんね。

麓の樹林と相似形のような火口の雲が可愛らしさの象徴で、此処以外は在り得ないと言えるほどの絶対ポジションですね。サボテン、あるいは鹿の角にも見れる噴煙の動きが荒ぶり、『縄文』しています。桃山時代の陶器にもあったような絢爛豪奢な画風は、先客万来の縁起にも使われそうな、来福絵画なのです。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年3月27日 (日)

広重・煙たなびく軽井沢

Photo 『見えるものを描きながら、見えないものを感じさせる』・・・、赤瀬川原平さんが、広重を評して、ひとことで言い切っています。

赤瀬川さんは広重の遺した版画を面白い区分けにしていて、「絶景」・「夜景」・「斜景」・「水景」・「雨景」・艶景」・「吹景」・「雪景」・「活景」・富士見・花見」と分類しています。夫々、赤瀬川さん独断の鋭さとゆるさの両極を按配しながら分けられ、その一枚一枚に対する解説は、茶道から街のカケラまでを守備範囲としているならではの奥深さと笑いを伴って、硬直した頭をほぐすには最適な特効薬であります。

さて、この一枚、夕暮れの一服といったところでしょうか。ひんやりとしたやや湿った空気感を、白抜きの焚き火の煙と炎が温めてくれます。煙の方向はほぼ真っ直ぐ上に上り、無風を暗示し、寒さはさほどではないことを視覚的に教えてくれます。さらに、木立は白抜きの部分を明るくするなど繊細さもサービスしていて、この構図ではあえて全部は要らない・・・、と思ったのでしょうか、遠くの浅間山の頂を見せず、全体を断片的にチラリとさせるだけにしています。

広重さん・・・、モダンなのであります。

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2011年3月26日 (土)

1883年 日本橋

16 お江戸日本橋から東京の日本橋となって16年後、まだまだぬかるみの状態です。人力車・人力馬車の轍(わだち)がアブストラクト・ストライプを奏で、見ようによっては面白い街の景色であるものの、生活している皆さんは、たまったものじゃあ、ありませんね・・・。人力車などの轍さえなければ、水捌けもよかったでしょうに・・・。

この写真の28年後、1911年4月3日には場所を少し左に振って、現在の日本橋が誕生しますが、開通式当日は、残念なことにかなり強い雨となり、橋の上は真っ黒な傘だらけとなり、橋上から富士山を眺めるなど出来なかったのであります。まもなく日本橋架橋100周年です。

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2011年3月25日 (金)

桜三昧・筋違万代橋 1875年

1875 明治8年の郵便錦絵は、近代化の重要な役目であった郵便事業を啓蒙するために、伝統的な錦絵手法を用いて、普及啓発に努めたのです。

神田川の両岸に満開の桜が咲き誇る・・・、いい景色ですが、此処は現在の万世橋と昌平橋の間辺り、煉瓦の高架になっている閉鎖的で殺風景な場所です。鉄道の走る以前の錦絵ですから、このような見通しの良い景色が広がっていたわけで、遠くの緑の森は左が湯島聖堂、真中が神田明神という位置関係ですから、見物の人も多かったのです。大きな擬洋風建築が異彩を放ってますが、此処は租税寮と記されてるものの、その内容がイマイチです。(租税寮は、明治4年に租税司を改称して設置された大蔵省の内局で、同10年に租税局となりました。この錦絵は、同7年に万代(万世)橋に開設された租税寮出張所です。

江戸時代からこのあたりを筋違見付と呼んでいたのですが、維新後、筋違万代橋となったものの、明治15年頃に壊され、このあたりは万世橋と昌平橋が場所を行ったり来たりと落ち着かず、明治末期、廣瀬中佐像を従えた万世橋駅が堂々の姿を見せる頃、現在の位置に収まったわけです。

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2011年3月24日 (木)

スイスの美的配慮。

Photo

この写真を見た瞬間、「自転車で走りたいのだ!」などと叫びたくなります。このように美しい自動車道路と自転車道路が共存しているのだからこそ、観光立国・スイスのデザインディレクションは広告・商品ばかりでなく、公共施設や環境分野にこそ、その真骨頂が発揮されているのです。控えめな衝突防止(?)のポールも素晴らしいですね。ガードレールによって景観も遮られ、無粋な鋼板ばかりが目立つ日本との違いは何なんでありましょう・・・。曲がるあたりに小粋に植えられた黄色い花のおさまりなど、縦割り管理ではこのような上質・上等な細部を生むことは出来ないのであります。

急にここで、今はどうなっているか分かりませんが、山梨県・清里から須玉に抜けるなだらかな下り坂の裏道に素晴らしい農道があって、ノーブレーキ・ダウンヒルで正にこの写真のような景色と眺望を堪能しながら、日立中央研究所・デザイン研究所に就職の決まった千葉昇君と、ご機嫌な自転車疾走を楽しんだ1970年の寒い寒い春のことを思い出しました。

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2011年3月23日 (水)

1963 吉祥寺駅 北口

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写真:鈴木育男(らかんスタジオ)

今も、年に何度かは学園の桜祭りや部活動OB会などに吉祥寺に出かけ、過ぎ去りし日々の懐旧にひたるのですが、ここ3年前ほど前から平和通りや、ハモニカ横丁が様変わりし出し、若い世代が切り盛りする店には、どきっとするほど斬新な店舗も見られるようになりました。

吉祥寺北口に出ると何故か昭和30年代に戻れるのは、どうしてかと思っていましたが、それはやはり、平和通りの設置されたスピーカーから聞こえてくる独特のイントネーションの女性による、商店街のPRだと、最近気付きました。ひょっとして、その声の持主が変わってないとすれば驚きですが、40年以上もひたすら続けられていることになります。たんたんと繰り返されるその声は一度聞くと癖になってしまうほど、個性豊かで、この街のシンボルと思っている地元の方々も多いと思われます。

さて、この写真は私が高校一年生の頃の、吉祥寺駅北口の改札界隈の模様です。ここから関東バスに揺られ、学園まで通ってましたが、朝の混雑と、待ち時間の不安定さから、雨・風の日以外は、ほぼ自転車通学に代わり始めた頃でもあります。当時は、バスの床が木材で出来ていて、たまに、ワックス掛けを済ませたピカピカのバスに乗ると、その強烈な臭いが鼻を突き上げるような凄さでしたし、冬場ともなれば車内暖房の温度も高く、その臭いは目眩いをしそうな、きついものでした。

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2011年3月22日 (火)

鈴木信太郎の『青い果物』・1970年代

1_12 鈴木信太郎の静物画には風景画に観られる明るく楽しい画趣が少なく、いわゆるアカデミックな薫りのする堂々とした画趣が多いのも不思議な感じを抱きます。

しっかりとした黒線で囲まれた各モチーフは夫々が孤立化して、存在を競っています。ここでも鈴木信太郎独特のグリーンが活きていてこの画面がかもちだすイメージをコントロールしています。又、青い林檎や洋梨と思われる果物とガラス・陶磁器とが違和感なく溶け合って、この画家でしか為し得ない独自の趣きが画面いっぱいに散乱しています。さらになぜか、奥に見える独特の造形で浮いている雲が、この重くなりがちな画面に少しばかり軽さのスパイスを振りかけています。

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2011年3月21日 (月)

両国橋あれこれ。

1873

01132221

早朝の新橋から日本橋まで自動車の少ない解放感を堪能しているうちに、江戸通りに出ます。ここは地方銀行の支店が多く、ちょっと不思議な光景ですし、この周辺は旧東京市町名、即ち、江戸の町名が残っているところとして有名です。紺屋町・美倉町・北乗物町・小舟町・堀留町・人形町・・・、さすが江戸通りの周辺ですね。春先は江戸通りを北上し、浅草橋から浅草方面に向うのことが多いのですが、靖国通りを右折し、両国方面には向おうとはしないのです。それは先ず隅田川を越えると京葉道路という名称にかわり、京葉道路といえば私世代には、自動車交通渋滞のメッカであったことが起因していますからどうしても向う気がしないのです。それと関東大震災・戦災などで寄道・抜道・戻り道の面白さがないほど区画整理の行き届いた道路ばかりになってしまいましたから・・・。

1873年(明治6年)の郵便錦絵を観ていれば、橋が人のためにあったことを改めて感じ入りますが、それから半世紀も経たない関東大震災前の両国橋は、車中心の時代となっています。

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2011年3月20日 (日)

街並の基本は・・・。

Boston_harvard_square_1 Winstonの看板は別に置いときまして・・・、この建物、記憶の片隅に刷り込まれているような懐かしい気持ちになります。

記憶は曖昧なもので、このような町のビルディングはさほど珍しい物件ではありませんでしたが、今や規制緩和も基準が時代によって大ブレするため、懐旧の情景も突然カットされたように、大変貌を遂げたりしてしまうのであります。

1991年撮影のBoston Harvard Squareの街角ビルディングは、まだ何箇所か1960年代製のGeneral Electrics社製と思しきエアコンが飛び出してますが、この撮影から数年後には殆どの窓がスッキリして、「その昔、除湿の水滴も洩れて階下の苦情が殺到したといったことも佳き思い出である」・・・などと懐かしい会話もあったのでは。

それでも、この窓枠の美しさには惚れ惚れしますね。ある町の環境の品位さえ、一軒のビルの窓枠で決定的に違ってしまうことを経験的に知っている世代としては、リノベーションによる良質なビルの保存を願うのみです。

さて、突然のお知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなったため、alpshima は本年12月12日をもって、書き溜めた毎日連載の記事が完了します。従いまして、タイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併行してご覧ください。

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2011年3月19日 (土)

1963年 自転車合宿

196327 1963年、高校一年生の8月3日から10日まで実施した自転車部昇格祈願の合宿は、毎日の食事が何といっても一番の楽しみでありました。食事担当の岩田君は各自の好みなど考える術もなく、典型的な野外食事、いわゆる戦飯(いくさめし)をコンセプトに組み立てましたが、合宿二日目の昼、コッペパンを固くしてしまったお叱りを部員から受け、ひどく憔悴してしまったので、この後は当番制で受け持ちしました。

この写真は五日目の夕食準備です。前日、私の叔母の家に泊まり、ご主人の計らいで八千穂村役場と折衝し、千曲川・川原でキャンプと洒落てみたのです。食事番の鶴見恭男さん企画のボンカレーライスの香りは、空きっ腹を刺激し続け、若者7人は大鍋のルーを一気に平らげ、追加のボンカレー、ジャガイモ・人参・豚肉などを入れつつも、暗くなりだした状況下では、闇鍋であった可能性も大有りでした。その上、防風壁を作るなどの余裕も無く、飯盒ご飯も風のあおりで時間がかかり、腹ペコペコ集団はイライラ集団へと、変身していくのでした。

それでも、満腹となれば眠くなるのが常。全員、川原の小石に背中が当たるのを不満ながらも、満天の星の下、9時過ぎには爆睡集団となりました。

今この写真を見ると、ずいぶん火力があるようで、川原の草に飛火しなかったことが奇跡のようであります。役場の職員も双眼鏡で我々の動向を見ていて、ハラハラしていたかも知れませんね・・・。

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2011年3月18日 (金)

1953・江東界隈

19532 中学・高校時代だった1960年代、通っていた学園には、クラブ活動の部室が構内に点在していて、特に、夏場ともなると、風通しの悪い体育系の部室から、強烈な汗とカビの臭いが充満していました。

ラグビー・柔道・バスケなどの部は特にその臭いが強烈で、最悪御三家などの呼名もあって、きちんとしたマネージャーが洗濯をして、陽に干してあるユニフォームの姿など殆ど見たことも無い・・・といった状態でした。

この写真は、木村伊兵衛さんが撮られた江東区内のスナップですが、ここには、まだ竹竿が主役だった頃の日干し模様が記録されています。南側がたっぷりと開いている敷地ですから、一日中、陽の翳ることもないでしょうから、取り込んだ後のシーツなどは、あの独特のオゾンを浴びた薫りでいっぱいだったでしょう。この住いは、個人住宅なのか、下宿を兼ねた住いなのか、分かりかねますが、家事・洗濯好きのオーナーでしたら、家族や下宿人は汚れたものを篭などに投げ入れとけばよかったのでしょう。

開けっぴろげの住いからは、この時代のノンビリしていて、町が安全であった頃の空気が読み取れます。

さて、突然のお知らせですが、このブログ alpshima は本年12月12日まで記事を連載準備完了してありますが、容量がいっぱいとなり、タイムリー記事を入稿できなくなりましたので、新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ を只今からでもご覧ください。

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2011年3月17日 (木)

Rugged な看板

Rimg30975

写真を観るな!、読め!と教示したのは名取洋之助ですが、この写真をいきなり観せられたら、困りましたね・・・。

とりあえず・・・。

佳き時代、此処にありき一軒の宿。おりしも大衆消費社会の到来に因り、自動車社会と成りだしたアメリカ東南部の片田舎にも、モーテルがビジネスとして成立しだし、地元の有力者たちは挙って、ドライバー相手の宿屋をはじめたものの、サービス業などは享受するもので、自分がする側とは思ってもいなく、そんな根性ですから、日々、お客とのトラブルも消えず、その一人の客が近くのローカルラジオ局にがなりこんで、DJのマイクを奪い、TOURIST HOMEのサービスの悪さと従業員のしつけのなさ等を叫んだのです。ところがこのラジオ局、オーナーはモーテルのオーナーと同一人物。たまたま聴いていて慌てたオーナーは、この噂が広がることを極端に嫌い、考え抜いた挙句、隣接する州の皆さんには電話番号下3桁の番号が、ルーレットを回した結果と一致すれば無料にするなどという奇策を打ったものの、これが却って、最悪なモーテルを打ち消そうとする手立てなのだ・・・、という噂が噂を呼び、あっという間にさび付いた有様となりました・・・。

以上、これはあくまでも短絡的読み方の創作例であります。

風に晒されつつ経年変化して、すっかり洒落た味わいとなったこの看板。腕の良いレタリング職人が気合を入れて書きあげたようですが、アメリカらしからぬ書体が却って微妙な店のありようを暗示しているみたいです・・・。

というわけで、この晒された風景に合うカントリーミュージックをお楽しみ下さい。大御所の揃い踏みですが、画面プロポーションがイマイチなのです。 http://www.youtube.com/watch?v=uw1bHaUk1CM

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2011年3月16日 (水)

1962 初めての建築模型

02 1962年、中学3年の夏休みの宿題は、日数がかかりました。自由課題と思いきや、必須課題で何と『建築模型』というそれまでにない、時間と手間、そして、構想力も問われる想定外の宿題が課せられたからです。ただでさえ、基礎科目の卒倒するほど厚い問題集に僻々していたのに加え、ひどい仕打ちだと思わざるを得ないのでありました。

この頃、父は出版編纂の仕事に没頭。元々、画家を目指していた父のアトリエには、建築・デザインの雑誌も点在していたので、父の留守に入り込んで、見たことのない画集やカタログを食い入るように見てましたから、建築模型の参考になる住居デザインの参考に使える雑誌はないものかと探していたところ、『Modern Living』という雑誌が目に入り、そこには当時の個人住宅がたくさん掲載されていました。その中から、気に入った何件かの設計図を組合せトレースして、出来上がったのが、恥ずかしいほどの豪邸であります。

当時から模型マニアの中では有名だった吉祥寺『歌川模型』の主に相談し、ニューム管・バルサ板・竹ひごなどを買って、毎日黙々とラジオの野球中継を聴きながら完成したのですが、宿題の条件として一階、二階の平面も見ることが可能であることとされ、家具・設備の類まで作らざるを得なくなり、思った以上に、大苦戦でありました。さらに、ガラス戸のサッシを作るには、面倒くさいが一枚一枚切り抜くのが早いこともわかり、1961年に発売されたばかりのNTカッター http://www.ntcutter.co.jp/menu.J.htm を買いスピーディにカットしていきました。その上、父に、フィニッシュとして接着剤を先に塗り、庭に砂を撒くことをアドバイスされ、セメダインの強烈な臭いの中、完成となったのです。夏休みが明け、学校に持参するにも、かなりの大きさ故、バスにも乗れず、大正通りを慎重に歩いて行きました。

この模型は美術担任の読谷山先生のお褒めにあずかり、その後10年以上も美術室のガラス棚に保存されていたということです。

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2011年3月15日 (火)

1956年 多摩川で合唱。

833195602 1956年、春の遠足は多摩川でしたが、熱心な清水晴男先生のスケジュールは過密で、のんびりすることも儘ならず、川原遊びのあとは先生の大好きな合唱大会となりました。写真を観る限り、穏やかな気候なのか、パンツ一枚の男子もチラホラ。歌うは『春の小川』か『春が来た』か・・・・?。先生の合唱好きは、日々の授業の最後でも度々浮上し、そのおかげで今も唱歌の殆どを覚えています。

又、通っていた学園内も自然環境に恵まれ、春爛漫ともなると構内の植物採集、そして押花標本作りが季節のお約束でもありました。清水先生の熱心さは、当時、小学校教育のひとつの典型として、学外からも教諭参観者が絶えなかったのですが、生徒は見慣れない大人に後ろから覗かれているような気配があり、はやく授業の終わることばかり願っていました。ここでも先生は最後に全員合唱を指揮し、無事終了となるのでした。

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2011年3月14日 (月)

梅原さんの浅間山。

1952 春風駘蕩・容貌魁偉・眼光炯炯・・・、梅原龍三郎画伯の爆発やや寸前の控えめながら、眩さは琳派全開であります。

1952年、時季は冬から春に向う頃でしょうか。空一杯の金一色がシュールで、浅間の噴煙も可愛いですね。

対象を凝視しつつも、守・破・離のごとくどんどん離れ、悠々たる自分の世界に仕立て直す感性と技術は、画風として飽きないのであります。妙に説明書きのような一軒の山荘のあしらいが絶対位置におさまり、出しゃばらず程よい匙加減がみごとです。

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2011年3月13日 (日)

ヴィルフランシュ港をさらっと。

Rimg31284 その昔、デザイナーの必須アイテム、カラーマーカー・PM Padを駆使して、即座に描いたような堀内誠一さんの地中海です。

ほんとうにこの色彩どおりの光景が展開するのを経験した1967年のヨーロッパ旅行。モンテカルロ・カジノで、ブラックジャックで奇跡の大勝に導き、全員は予想だにしないバルセロナ旅行のボーナス。ひたすら地中海を左に見っぱなしで車を飛ばしたのです。地元の土で作られた屋根瓦と地中海のコバルトターコイズブルーとの補色対比がサングラスを掛けてさえ眩しく、全員苦虫顔となっていました。陽射しの強烈さに慣れない集団は疲れ、途中、坂を上り段々と眺望絶佳となれば、一休みしてシェスタ三昧となるのでした。

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2011年3月12日 (土)

芭蕉と紫陽花 鈴木信太郎 1937年

1937

あまりにも早すぎるモチーフですが、今年も昨年のような猛暑とならぬよう、早々の祈願を込めて・・・。

鈴木信太郎さんの描く逆光に揺れるバナナの葉とみごとなボリューム感の紫陽花です。亜熱帯高気圧化してしまった日本列島では南方の生態系がかなり北でも誕生しているようですから、四季の移ろいにあわせた衣更えのたしなみなど関係なく、年中、エコ・ルックで通せる時代が目前なのでしょうか。

さて、55年以上前、突然父が久我山の家の玄関にバナナの樹を植えたものの、子供の私にさえ、周囲の雑木林との関係とミスマッチであることは明白で、おまけに純和風住宅との按配もいかがなものか・・・、といった雰囲気でした。やたら、幹部分ばかりが太くなり、やがて塊となり、高校時代ともなれば、グロテスク以外の何ものでもなくなり、ついに父は根元から解体し始め、抜き終えたその場所には、繊細で鮮やかな山吹が治まり、春ともなるとその眩しいイエローが寝ぼけた気分を一新させてくれました。

方や紫陽花は西側のブロック塀脇に群生していて、剪定もせず、6月ともなるとぐんぐん伸び、清楚な花とは無関係な大きな葉と幹に、蛙もお好きな場所なのか、うっかり剪定始めれば、ゴソゴソと逃げ出す始末・・・。やはり、紫陽花は鉢植えに花三つというところが上品です。

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2011年3月11日 (金)

1953年(昭和28年) 飯田橋

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写真:木村伊兵衛

初めて自分で井の頭線久我山駅から吉祥寺経由で、中央線に乗り(父は省線と呼んでいた)、神田方面に行ったのは1958年(昭和28年)、小学校5年生の夏休みです。

当時流行しはじめ、外国の子供達との文通のやり方を指導してくれる、ペンフレンド協会にクラスメート2人と行ったのですが、飯田橋にあったその協会を訪ねていくと周辺は飯田濠だったのか、やたらと水辺ばかりが目に入りました。三人とも武蔵野界隈の生まれでしたから、生活の場近くに水と船のある環境に、戸惑ってしまったことを記憶しています。

既に排水汚染も進んでいたのか、強烈な臭いが蔓延していて濁り、油の浮いた川からは、私の住まいの北側を流れる自然な神田川の下流と思えない違和感がありました。

昭和28年頃の飯田橋界隈は、明治時代の地図と、殆ど変っていないようです。

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2011年3月10日 (木)

半蔵門からこんにちは。

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寒暖のアップダウンがこうも激しくては、もうすぐ春というものの、体調管理も難しいですよね・・・。例年であればこの時季はグングン走りこんで(自転車ですよ)、体調も良好なのですが、今年は自分を叱咤激励せねば、行動も鈍くなってしまいます。

というわけで、朝から晴れ晴れしたこの日、皇居に向って玉川通り・青山通りをまっしぐら・・・。用賀から三宅坂まで38分という運動不足気味にとっては、なかなかの成績でした。9時半頃に半蔵門で、霞ヶ関方面をボーッと観ていると、ほんのりと霞がかった光景に「もうすぐ春ですね」と言われているような気分になりましたが、風はまだまだ冷たいのであります。この桜田濠を一望できる一角は、ランナーの増えたこともあって、いつも見物名所化してしまい、人の頭が邪魔となってしまいがちでしたが、この日はOKでした。もう一時間ほど早ければ霞も少なくクリアーなショットとなったのですが・・・。

皇居一周は概ね5キロですが、アップダウンもなかなか侮れなく、そこかしこにランナーが脚を攣っている姿が観られるように、きちんとストレッチするなど準備怠り無く挑みませんと、危ないのであります。

春爛漫の待ち望まれる、半蔵門からでした。

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2011年3月 9日 (水)

1969 町ケ沢スキー大会

196901 景気も右肩上がりとなり出した1969年の春、待望の谷川岳・町ケ沢スキー大会に参加したのです。

が、中春の雪渓はザラメのように粒子の粗い状態で、エッジを研いだり、ワックス調合などの知識がものをいう世界でしたから、何の努力をせずとも楽しめるゲレンデスキーヤーにとっては厳しい自然の天罰が降りかかり、顔面制動でもすれば、やすりに削られるような痛さが走り、泣きっ面となってしまうほどでありました。

この頃は、ギャラの高いデザイン木型模型アルバイトの掛け持ちで忙しく、大学の卒業制作の構想をまとめることも間々ならず、元来の楽天的な性格は、ひたすら遊びにエネルギーを使い果たしていました。左にいる関根誠さんは同じスキークラブの慶應の学生で、気の合う友人として一緒に行動していました。一流商社のサラリーマンとして安定した世界に向うのでは・・・などと、お互い目指す方向は違っているかと思っていたのですが、卒業後パリに渡り、難関のスタイリストの資格を取得され、現在もアパレル会社を経営されています。

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2011年3月 8日 (火)

本郷 『瀬佐味亭』 黒胡麻ザーサイ麺

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本郷通りを本郷三丁目交差点から駒込方面に北上していくと、左右の谷からの風を受け、此処が尾根道であることを実感します。

久しぶりに世田谷から自転車徘走した日曜日は、天気予報ほどの暖かさを感じることもなく、まだまだ冷たい風に晒されると気分的にもイマイチなのでした。梅などはどこも五分咲き模様で、これでは例年より一月遅れの開花といってもよいでしょう。

さて、この本郷通りを何度も抜ける度に、いつもお客さんの途絶えない一軒の普通のラーメン専門店があります。『瀬佐味亭』という店名はラーメンにあまり興味のない私でも、覚えてしまう傑作ネーミングで、せさみ・・・セサミというごとく、胡麻味を売りにしたお店です。よくありがちなラーメンメタボな客層とは対極な上品な本郷の初老のご夫人や、独り静かなアラフォー女性などなど、勢いつけて暖簾を潜れば、そこは旧山手の懐旧の薫りに満ちています。

早速メニューを斜め読みし、狙い定めた黒胡麻ザーサイ麺を注文。まだ捌きもまだるっこしい新人スタッフに注文の品をニ回聞き返されたものの、周りの客筋も鑑み、ここはイラッとするところを押さえ、しばし沈黙。出てきたのは香りも堪らないこの画像です。麺は細麺、黒胡麻との絡みはベストチョイスで私は好きですね・・・。太めにカットされたザーサイは歯応えも良好。あっという間に頂きました。

この店は本郷三丁目を越え、一つ目の信号傍にあり、この内容であれば平日の混み様も凄まじそうですが、幸い、日曜開店すぐの滑り込みでセーフ。その後、ドヤドヤ・ガサガサと体育会の東大生の来店で、店内はむせかえるような男で一杯となりました。

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2011年3月 7日 (月)

東北取材 1955

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父が出版編纂の一環として東北を訪ねたのは1955年5月です。46歳の年で、ライカカメラのアングル・構図も日に日に上達して、後半の写真ともなると10代で厳しいデッサン訓練をした記憶が蘇ったような、正統的写真の撮り方です。御箱崎近辺でないかと思われますが確証はありません。

この取材は仙台から陸中海岸、釜石方面まで亘り、父の潔癖な取材と資料収集がどんな成果を挙げたのか記録になく分かりませんが、写真を観る限りでは気合の入れ方が半端でありません。

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2011年3月 6日 (日)

さらっと描いてみるのは難しい。

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気に入ったイラストレーションなどをそのまま雑誌ごと保存しておいても、結局、捨てるときには未練なく「えいやーっ」とショッピングバッグに放り込んでしまうことが多く、あとで後悔しても既に遅し・・・、やはり、切り取って保管するに限ります。

古いブルータス誌には堀内誠一さんのスピード感あふれる一気描きのイラストが頻繁に登場し、デザインマーカー、クレヨンなどで描く透明感たっぷりな街の空気が伝わって、観てすぐその場に飛び込んでしまいそうです。

画材に得手・不得手のなかった堀内さんは、何でも使いこなし、自分の表現としてしまいましたから、どの画材を使ってもひと目で堀内さんと分かってしまいます。14歳で伊勢丹の宣伝部に入社し、チラシ広告から店内装飾に至るまで何でもやらされた経験が、自分のストックとなって、マガジンハウス黄金時代の雑誌タイトル作りから雑誌全体のアートディレクターまで職能のフル回転となりました。そんな多忙な中でも、自分の生き方のピッチを管理し、楽しい感性だけは錆び着くこともなかったのです。

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2011年3月 5日 (土)

1950年代 信州

1955 1950年代に父が出版編纂に関わり、取材旅行した際の写真がノートに差し込まれていました。場所は美濃に近い馬篭村の中仙道尾根道を、北側から早朝に逆光撮影したものです。棚田のみごとな姿が記録され、早朝の陽射しのローアングルがその造形を浮き立たせています。この棚田も現在は、一部を除いて無くなり整地されています。

馬篭村を貫通する中仙道もまだ舗装されず、昔のままの石畳のゴロゴロした街道時代で、早春と思われる木々の柔らかさが逆光を通し、よく写されています。

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2011年3月 4日 (金)

鈴木信太郎 伊豆の山 1970頃

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伊豆の旅行といえば、1964年、高校2年の初春自転車ツーリングで、未舗装・アップダウンの多い国道を走ったヘトヘトな思い出しかありません。伊豆半島全体が「馬の背」ということもあり、尾根道は半島の中央のみ縦走しているがため、合宿では強面先輩が意識的にそこを外し、部員の軟弱精神を鍛え、毎日が上り下りの厳しい仕打ちなのでした。歯を食いしばって上るものの、未舗装の道路は滑りがちで、落車の連続、パンクの連続などなど、なかなか前進できなかったことも、過ぎし日の青い思い出となりました。

1970年に描いた鈴木信太郎さんの穏やかな伊豆の風景は、四苦八苦していた道路とは関係ない、気持ちの豊かになる作品です。平凡な景色を自分の世界に取り込み、独特な柔らかさを以って、長閑な日本風景ここにあり・・・、といったところです。

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2011年3月 3日 (木)

1956 雛祭り

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1956年の春、小学2年生のとき、雛祭り学芸会は男子も雛祭りの歌を歌うこととなっていたものの、いまいち気乗りのしない生徒も多く、何とか歌詞を覚えさせられたのですが、本番ではあがりまくり、曲のメロディーさえ忘れてしまった男子生徒も何人もいたのです。男女共学とは名ばかりで、当時のひとクラスに占める女子生徒の数は御覧のとおりです。学園の象徴である本館講堂は板張りで、「ギシギシ」と鳴り、歌いながらもその音が気になっていました。

この7年後の中学卒業謝恩会では、人気絶頂のクレージーキャッツがこの板張りの舞台を縦横無尽に動き回り、バンド演奏の素晴らしさと「ギシギシギシギシ」が一緒に聴こえ、それが却って今も記憶に鮮明なひとときでした。

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2011年3月 2日 (水)

伊豆半島ツーリングは厳しかった 1964。

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春の伊豆がいかに他所より穏やかな気候だとはいえ、自転車で受ける風はまだまだ冷たく、おまけに現在のようなハイテク下着などなく、純綿が一番だ・・・、などという時代でしたから、汗が冷え切り、うっかりすると風邪を引いてしまうのでした。

東京オリンピックの年、1964年の春休みに行われた伊豆半島ツーリングには『鬼の穂保・地蔵の帆足』と呼ばれた二人の健脚先輩が同行(鬼の穂保さんは血相を変え真っ赤になって怒ったり、突然スピード加速するからという所以。地蔵の帆足さんはまったく表情を変えずに追い抜いたり、厳しいお叱りを受けるものの、リカバリーもみごとで空気を穏やかにするからという所以)。それまでのんびりとサイクリングを楽しんでいた軟弱部員を鍛えなおそうと、日々その機会を窺っていたようですが、こちらはこちらで厳しいお仕置きを受けまいと、かなりマジになって走り抜いたのです。立派な舗装になる以前の、伊豆半島全体がこのような道路状況でしたから、太目のタイヤが小石に掬われたり、カーブで曲がりきれずにブッシュに突っ込むなど、ハンドル操作も一筋縄ではいきませんでした。

西伊豆・松崎にやっと着いたときの記念写真は疲労困憊ぶりが垣間見れますが、笑顔を絶やさないように見えるのも『鬼の穂保・地蔵の帆足』の「笑って笑って!」の命令を遵守しているからであります。全員若々しい太腿が悩ましいですね・・・。

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2011年3月 1日 (火)

J・COOKから、こんにちは・・・。

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Rimg34718 渋谷区神宮前で商売しているお店の中には、ジャンルを問わず栄枯盛衰の荒波に晒されながらも、地道に地元の根強い固定客をしっかり掴んでいるお店も僅かながらあります。

このようなお店に共通なのは、頑固一徹・真実一路・確乎不抜・・・、『自分に程々に正直』を金科玉条としているような気がいたします・・・。やみくもに世間に反旗を掲げるといった思想的なことよりも、むしろ、その時代現象や風潮と自分との誤差を微妙に修整しつつ世間寄りにすることもいとわない意味も含むのです。固執しつつも微妙な時代の気配は少しながら採り入れるということでしょうか・・・。

此処J・COOK http://www.harajuku.jp/com/kichen/jcook/jcook.htm も、ちゃらちゃらした流行には頑固拒否という意味で相当なレベルでありましたが、最近はTwitterでメニュー公開したり、場合によってはレシピも公開するなど、これまでの路線から一気に情報社会の中に参画し出した様子なのです。

中尾年英さんの作る、パリの賄い料理のよな雰囲気は、何処にもない味の領域に達し、お得意のスープとともに、全てのメニューが絶品至極であります。最近は中尾御夫妻のユルキャラを慕って若い世代の皆さんがこのお店を訪れることも多いそうですし、雑誌にも見開きで特集されることも度々ですからご覧になった方々も多いのではないでしょうか。

ガレージを改造して作られたこのお店のお昼時を、たまたま独占してしまった至福のスナップです。

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