父のスケッチ 1923年頃 東京の春
このスケッチが挟まっていたファイルの前後からして、大正13年の春と思われます。川端画学校の生徒と出かけたのは何処だか分かりかねますが、大正後期の春うららな時季ののんびりとした気配が伝わってきます。橋のたもと付近で寛ぐ家族のまとまりが上手いですね。小さな子どもをはさんで手前の女性の柳腰が何とも言えない色っぽさがあります。
この頃、父も17歳という多感な年頃となり、仲間から聞いていた世界芸術潮流の一環であった、村山知義の『マヴォ』の新芸術運動に傾倒していく年で、その新鮮な視点と思想に純真な父は「これしかない」とばかり一直線となります。そうすれば、当然このようなアカデミックなスケッチやデッサンなどが陳腐にさえ映り、地道な訓練としての基礎実習などはピタリと途絶えてしまいます。まもなく、川端画学校の仲間等と当時の流行でもあった左翼系美術運動の渦に入り、専ら、ポスターや挿絵、さらに左翼運動のプロパガンダとしての漫画に精を出し始める年でもあります。
紆余曲折だった父の生涯を通し、最初の転換期となった1923年でもあります。
さてこのスケッチですが、川端画学校でメキメキ、デッサン力のついた父は、手当たり次第に画きまくり、その対象も身近な小物や、飯倉から小石川に徒歩で通う途中の景色まで、活き活きとしています。画材は神田神保町の文房堂で求め、川端画学校の生徒であることを証明すれば割引してくれたそうです。このスケッチの鉛筆は4B以上の濃さがありそうですから、おそらく、ファバー・カステル社ではなかろうかと思います。というのも、父は鉛筆に関しては三菱・UNIが登場するまで、国産を信用せず、ドイツのファバー・カステル一本やりで、アトリエの抽斗には短くなってもごっそりと入っていましたから・・・。
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