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2011年4月30日 (土)

朝霧の旅立ち・三島 広重

41833 赤瀬川原平さん式にいうならば、この景色などはさしずめ、『透景』とでも呼ぶのでしょうか・・・。

東海道シリーズの、静岡県・三島宿の朝の旅立ちの様子です。

登山並みの早朝出立が当然であった江戸時代は健脚であれば一日15里(60キロ)は歩けたそうですし、食生活も質素なものばかりでしたから、メタボ体形の者などいるわけ無く、幕末写真など見ていても、スリムな体形の者ばかりがうろうろしています。

広重にしてはずいぶんと遠近・立体感のある画趣で、朝霧の効果をぼかし手法で表しています。中央の駕籠かきのあたりに色彩を集中させ、周囲をモノトーンのグラデュエーションで広がりを持たすなど、望遠と接写を一緒にしてしまったような効果抜群のテクニックであります。左奥に霧の中に消え行く三人の納まりがみごとで、このぼかしがなければ、まとまりのない分裂症気味の、おかずいっぱいな画趣となっていたところです。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年4月29日 (金)

向島 都市懐旧 1947

1954 父の遺していった雑誌資料は、もう何でもありといった状態で、遺していったというよりは、忘れたままといった表現が正しいほどです。

比較的多かったのが、アサヒグラフや週刊新潮のグラビアなどで、風俗に関わる写真が多くありました。

この写真は昭和22年と記録されていて、私の生まれた年でもあります。場所は向島ですが、この家屋の仮設屋根の両脇の結界は何の意味なのでしょう、近づくお祭りに向けた商店としての心意気でしょうか。それと、右の板塀に隙間がありますが、これなどは、何らかの理由(例えば、時代的に暖房燃料の確保が難しく、外壁板の一部をはがして使ってしまった・・・など、)があったのでしょう。

今では、都市懐旧としての、レトロな光景として捉えがちでありますが、この時代、まだまだ、劣悪な暮らしぶりであったのでしょうが、地元の祭りに対する配慮は怠らなかったことを、この一枚の記録からも読み取れます。

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2011年4月28日 (木)

北斎・下目黒からの富士

Photo 峠越えのしんどさを味わったのは、徒歩でなく初めての自転車ツーリングでのことでした。1963年、夏の高校サイクリング部昇格を願って実行された長旅での鳥居峠などは今も、その光景が脳裏に張り付いているだけでなく、未舗装の道路から顎に振動がダイレクトに受ける凄まじさも体が覚えているのです。

さて、峠をよく人生に例える定番企画も最近はあまり聞かれなくなりましたが、高度成長期の雑誌ではよく採り上げられていました。人生、上り坂あれば下り坂もあり・・・、君ももうひと頑張りすれば光明がみえる・・・、自分だけが苦しいのではないのだ・・・、等等、分かりやすいテーマとモチーフだけに、人生進路の悩める青春時代にはよくお世話になったものでした。

ところで、北斎の峠は何処でしょうか。下目黒と表されてますし、遠景の富士山の方角からして、今の行人坂辺りかも知れません。時季は稲刈りをおえた後の澄み切った秋でしょう。相も変わらず、北斎の執拗な細部表現の満開には負けそうになりますが、旅人の行き交う小路がヒューマンスケールでもあり、ほっとさせてくれます。しかし、いつも気になるのは、北斎の源氏雲のあしらいがどうもイマイチなのであります・・・。

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2011年4月27日 (水)

父の絵・神田川から高井戸を望む。

Rimg25106 杉並区久我山の自宅北側の崖から高井戸方面を望む父の神田川の絵には1972年と書かれてました。私は1970年には既に護岸工事が始まっていたと思ってましたが、この絵からして工事は、1973年以降だったのです。

遠くの左手に、ぼやけた垂線がちょこんと見えますが、これは高井戸清掃工場の煙突です。この崖からの眺めは実に気分爽快で、毎朝朝日がこの絵の正面から昇ると雑木林が逆光で輝き、土手の斜面に影が流れ、とくに新緑の頃は、葉のライムグリーンが目を射すような鮮やかさでした。右の黒く塗られた辺りは大蔵省印刷局グラウンドの裏手で、関係者以外立入禁止でしたから、雑木林が欝蒼としていて落葉も堆積している中、子供の頃は見つからないよう探検に出かけ、アケビや野いちごなどを採っては食べたりすることも出来ましたし、この界隈の住民だけが知っていることとして、春には片栗の花が群生し、みごとな色彩が展開してました。神田川左手の土手辺りも、まだまだ長閑な田園風景でしたが、しばらく経つと京王・井の頭線の操車場がこの画面の左手にも進出して、威勢のよい整備員の昼休みのバレーボールの歓声などが聞こえてくるようになりました。

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2011年4月26日 (火)

父のスケッチ 1923年頃 東京の春

2  このスケッチが挟まっていたファイルの前後からして、大正13年の春と思われます。川端画学校の生徒と出かけたのは何処だか分かりかねますが、大正後期の春うららな時季ののんびりとした気配が伝わってきます。橋のたもと付近で寛ぐ家族のまとまりが上手いですね。小さな子どもをはさんで手前の女性の柳腰が何とも言えない色っぽさがあります。

この頃、父も17歳という多感な年頃となり、仲間から聞いていた世界芸術潮流の一環であった、村山知義の『マヴォ』の新芸術運動に傾倒していく年で、その新鮮な視点と思想に純真な父は「これしかない」とばかり一直線となります。そうすれば、当然このようなアカデミックなスケッチやデッサンなどが陳腐にさえ映り、地道な訓練としての基礎実習などはピタリと途絶えてしまいます。まもなく、川端画学校の仲間等と当時の流行でもあった左翼系美術運動の渦に入り、専ら、ポスターや挿絵、さらに左翼運動のプロパガンダとしての漫画に精を出し始める年でもあります。

紆余曲折だった父の生涯を通し、最初の転換期となった1923年でもあります。

さてこのスケッチですが、川端画学校でメキメキ、デッサン力のついた父は、手当たり次第に画きまくり、その対象も身近な小物や、飯倉から小石川に徒歩で通う途中の景色まで、活き活きとしています。画材は神田神保町の文房堂で求め、川端画学校の生徒であることを証明すれば割引してくれたそうです。このスケッチの鉛筆は4B以上の濃さがありそうですから、おそらく、ファバー・カステル社ではなかろうかと思います。というのも、父は鉛筆に関しては三菱・UNIが登場するまで、国産を信用せず、ドイツのファバー・カステル一本やりで、アトリエの抽斗には短くなってもごっそりと入っていましたから・・・。

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2011年4月25日 (月)

1955 箱根の修業。

1955_21

195522

195523 56年前の夏の学校・学園箱根寮の写真を観ていると、懐かしさもありますが、厳しい清水晴男先生を思い出します。先生の方針は熱血教育・本音で生徒に向かい合う・・・など、さらに文武両道を目指すなど、教育そのものが管理される以前の個人の情熱によって引っ張っていけた時代かも知れません。この三枚の写真のうち、大きな写真は朝食前の凝念という儀式で、一分間、各自今日の目標をイメージしているところ、残りの二枚は就寝前の今日の日記と朝と同じ凝念で、今日の反省をしているところです。小学校2年の夏ですから、遊びだけを楽しみにしていた私をはじめ、殆どの生徒は、毎日毎日、繰り返される目標設定と反省にいささか戸惑い気味でありました。特に、夜の反省時には先生がこの日のできごとをまるで記録したかのように詳細にお話しされ、普段の学校での大らかな先生と違う一面を観たようでした。

それでも、まだまだ野趣に富んでいた箱根の遠足は徒歩で仙石原から元箱根までと、子供にとっては強行軍でありましたが、清水先生は路傍の草木の名前を生徒に教えながら、自然観察と健康とを兼ねた、実学指向の実地訓練を成され、先生に育てられた多くの生徒は、その後自然への慈しみを忘れることなく、今日に至っています。

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2011年4月24日 (日)

中ノ橋付近・明治後期

Photo

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写真下:1869年ベアト撮影 古川橋から中ノ橋

世田谷方面から皇居方面に向う場合、自転車の長所を活かし、寄道・戻り道を繰り返している経験からか、港区の坂道がやや暗めで、その昔もこうだったのでは、と思う箇所に出くわすことが多いのです。幕末のお抱え写真家・ベアトによる港区の古川橋界隈の写真など見ると、現在の首都高がなければどれほど美しいのにと考えてしまうほどです。

この絵葉書は港区三田一丁目の中ノ橋付近の様子です。撮影された時代は不明ですが、明治後期から大正初期のものと推測されます。世界に誇る水の都であった東京都心の長閑な光景が羨ましいですね。私は広尾・有栖川宮記念公園から仙台坂上に向かい、坂を下って二ノ橋に出て日向坂を上り、三井倶楽部を左折、神明坂を下るとこの絵葉書の辺りに出ます。残念ながら、このような景色はありませんが、多少なりとも、過ぎ去った美しい景観を頭に刷り込んでおくだけでも、都心の自転車徘走はイメージが膨らみます。

関東大震災(1923)・東京大空襲(1945)により都心のインフラが改善整備されたとはいえ、1960年代以降、高度成長のもと東京都心の景観が一気に劣悪になっていったのですから、今では、この絵葉書程度で、知らない時代の豊かな光景を眺めているしかありません。

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2011年4月23日 (土)

江戸橋・三菱倉庫

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 日本橋よりひとつ東側に掛かる江戸橋は、此処も高速道路の影で薄暗い状況になってますが、その昔はこのような美しい水の都の光景を見せてくれていました。

明治時代の郵便錦絵にも三菱グループの倉庫とともに東京郵便局・本局の立派な建物が描かれていますが、どれほど実際の光景に近いのか、疑心暗鬼なところがあったものの、ネット時代の恩恵か・・・、この場所を記録した土木資料の写真が検索できました。錦絵を描いた時代からかなり進んだ頃でしょう・・・、倉庫の棟数も増え、橋梁の構造も大きく変っています。

どちらにしろ、東京都心が江戸の掘割と河川の美しさに護られていた佳き時代の記録であります。

自転車でこの界隈を抜けているとき、もしも、昔のように川風の恩恵を受けることが出来るのであれば、多くの人が自転車の愉しみが散歩以上にあることに気付くと、常々思うのです・・・。

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2011年4月22日 (金)

色彩が流れてる・ボナール。

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アーティストの対象を捉える眼力のすごさが、この一枚にも出ています。現実には逆光の影などは、このように現われませんが、ボナールは海の印象が途切れないように、グレーとブルーの配色を何色かパレットに予め準備して、即興的に描いていったのでしょう。

下準備と段取りをきちんとしなければ、このようなマリンスポーツのもつ醍醐味と優雅さを一画面で表しきれるものではありませんから・・・。

きれいな色ばかりで埋められた、宝石のような色彩設計からも、ボナールの段取り名人のセンスが垣間見れます。

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2011年4月21日 (木)

1907年(明治40年)慶應義塾創立50周年

1907_50 嬉しくなるような風俗が乱舞してますね・・・。三田の慶應義塾・創立50周年に集まった招待客の皆さんは、紋付袴あり、英国調紳士服、モーニングあり、と、正装なら何でもありのドレスコードであります。皆さん、それなりのキャリアの方々と見受けられますが、夫々の着こなしに和洋ありながらブレがなく、OBとしての誇りをしっかりと両肩に背負って歩いているようにも見えます。

慶應というイメージからくるモダン感覚も、この写真の中の一部に見えていて、時代を越えた良い写真であります。

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2011年4月20日 (水)

1955 箱根で足相撲。

195524

箱根の学園寮の北側には広大な草原が展開していて、周囲の山々から吹き降ろす涼風も爽快で、毎日の勉強後の遊び時間が待ちきれなかったのです。

担任の清水晴男先生は、生徒に少しずつ闘争心を養うため、足相撲(脛と脛を組んで、その痛さに我慢できなくなったら負け!)を採り入れました。勝ち抜き戦ですから闘争心は湧くものの、この脛同士のぶつかる痛さは、想像以上で、厳しい体験をさせられました。

ご覧のような環境ですから、当時流行ったゴジラごっこ・水雷艦長からボール遊びにいたるまで、全員フラフラになるまで遊びに徹していました。遠くに見える木立の中に、学園創立者の別荘があって、先生に見つからないようにこっそりと忍び寄ったものの、放置しっぱなしの木立の不気味さに、ただ、立ちつくすのみでありました。勇敢な同級生の後から恐る恐る付いていくと、イギリスのカントリーハウスのような広大な山荘が現われ、いつかは征服しようぜ・・・、などと意気込んでみたものの、さっさと引き揚げるのが精一杯でありました。

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2011年4月19日 (火)

整理整頓が億劫に。

Tintin601 仕事のやり方もそうなのですが、どうも、物事を整理するより、広げてしまうのに向いている性格なのか、最近、机上の資料が内容・数ともに増加中であります。

iPadというお手軽玉手箱の御蔭で、調べたい資料を概ね取得は出来ますが、複数の資料を照合しながらの検証も増えますから、結果、時間が掛かるのであります。

最近、日本の伝統的意匠・地域の工芸品に関わる資料を検索していると、同じ内容の解釈が千差万別であることが多く、うっかりすると、その差異の比較を愉しんでしまうことさえ起きますから、本来の目的を忘れがちになり、気を付けねばなりません。

私は学生時代から社会人になっても、図書館に通っては文献を読み漁ったりしてましたが、最近、久しぶりに近くの世田谷中央図書館に出かけると、館内は息抜きに通ってそうな輩ばかりが右往左往していて、その脱力感だけの姿に唖然としました。以前のような張り詰めた緊張感が途絶えて、お気軽なサロンと化しているようであります。こうなると、残された方法は一般人も入れる大学図書館にでも出向き、アカデミックな薫りに浸るしかありません。

これからは、インターネットの利便性と大学図書館のもつアカデミックな空気を感じ取るという両面を使いこなすことが、学ぶことの醍醐味かも知れません・・・。

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2011年4月18日 (月)

北斎 尾州不士見原

Photo 北斎の富士山はそこに生活する人々が揃うと、ぐっとリアル感が増して、神の山が人間に近くなって、そうなればもう歳時記の挿絵に見立ててしまいそうです。

広重の画趣が風俗を主体としていて、軽ろ味が持ち味だとすれば、北斎はかなりの硬派的構成力をもって、画面と勝負しています。

この「尾州不士見原」と題される絵には、平凡な風景に桶職人をぐっと手前に引き寄せたことにより、そこに奥行きを生み、樽の円周で分断された景観が時間差さえも生んでいるがごとくであります。その結果、桶職人と富士山がこの画面で同一化し、信仰の山・富士山を象徴化しているというわけであります。

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2011年4月17日 (日)

1955 東北の港

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この大震災前に記載したブログです。

父の写真センスも悪くないなと思ったのは、1955年に出版編纂の取材旅行で東北・三陸地方を訪れ撮影した何枚かの写真を見つけたときでした。何ごとにも几帳面な父は、この頃、多くの人と会い、資料として書簡のやりとりから、口述記録にいたるまで、体系化して保存してあったので、亡くなってから私が見ても、時系列にさほどの狂いが生じなかったのです。

しかし、残念ながらこの写真が何処の港なのか記録データが見つからず・・・、という基本的欠陥があって、凡そ、大船渡・釜石・陸前高田市広田町・吉濱・唐丹・碁石岬辺りに出向いた記録があるのですが、今さら探りようのないのが実態であります。

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2011年4月16日 (土)

プロヴァンスの瓦屋根・堀内誠一さんのイラスト

Rimg31285 プロヴァンスのシンボルはオレンジ色の瓦屋根、肌色に塗られた壁と水色の窓。運河にネコヤナギがなびき、そろって南へ南へと枝をなびかせ、裏白の葉を見せる。糸杉が感嘆符のように整列する。協会の鉄骨だけのカンパネラ。それが強い太陽に照らされたシルエット。また町の広場や大通りにはたくましい鈴懸の大木が並んで、こちらは涼しい影を、チラチラと賑やかな木洩れ陽を広場に集まった人々の上に遊ばせる。こんな緑色のなかで、冷やしたコート・ド・プロヴァンスのロゼを飲むなんかいいものだ。(堀内誠一)

このオレンジに輝く南仏の光景を眼にした1964年。これほど太陽の光が輝くように見えることは日本で経験なく、ただ居るだけで陽気になってしまうほ、嬉しかったのです。ドロミテの岩肌に沿うように車で走り、サンレモに到着してから、延々とコートダジュールを地中海に沿って西へ西へと向かい、エメラルドグリーンの海と真っ白な住居のコントラストに眼も眩みながらの珍道中は途中、モナコのカジノでスタッフが大勝して、その金でスペインまで行くことになるなど、愉快な旅でありました。

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2011年4月15日 (金)

春のお家。

1963415 画:谷内六郎 週間新潮1963年4月15日号

この谷内六郎さんの水彩挿絵を見ていると、今ほど豊かでなかったものの、兄弟・家族・隣近所との親密な気配が感じとられ、とても温まりますね・・・。描かれた時季からして、明るい兆しが始まった春の澄み渡った空気が画面にいっぱいです。子供達の衣裳やリボンの雰囲気から、都会から離れた郊外といった場所の設定でしょう。

週間新潮に掲載されたのがオリンピックの前年ですからテレビもカラーの時代となり、子供達も外で遊ぶことが少なくなりだした時代です。谷内さんは、その気配を察知して、この素晴らしい状況設定の一枚を仕上げたと思います。また、このお家の中と外との温度差を巧みな表現から感じるなど・・・、谷内さんは正に、温度画家なのであります。

人形劇の舞台が雪見障子というのも、谷内さんの目の付け所の凄いとこですね。子供は何でも自分の遊び場にしてしまうという好例を表現してくれています。左の家の屋根・女の子のセーター・散り終える桜吹雪の色が春そのものでありますね。

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2011年4月14日 (木)

イギリスの風景

1609 水彩画:安野光雅

長閑な景色の中を自転車で走りめぐっているうちに、自分の居る位置関係に不安を生じ、あせったところで、ただひた走るのですがそうなるとますます、奥に行くだけで、帰路のルートは神頼み・・・、などということを高校時代に何度も経験したせいか、今では何処に行くにも携帯ナビ頼りという若い世代が多くなっていることを知り、私世代との度胸の格差を感じます。

オリンピック前の東京南西部、今の多摩丘陵あたりは、この絵のような景色に似たふくよかな丘陵地帯に囲まれ、自転車で一日中駆け抜けるには絶好の場所でしたが、農道をひたすら進むとうっかり農家の庭先に出てしまったり・・・、と失礼の繰り返しでもありました。夕方、棚田の美しさに見とれているうちに西日を浴びると田圃の水が紫色に輝く一瞬を経験したり・・・、手近な場所に日本のカントリーシーンを堪能できる所があったことは、その後、消費を謳歌する顧客相手の仕事に従事しても、その反作用で自然環境の中に出かけていったことと無関係ではなかったと思っています。

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2011年4月13日 (水)

鈴木信太郎 これぞ静物画

1924 あまりにあっけらかんとした色彩の輝きというものを、南仏もしくは沖縄ならいざ知らず、関東では見慣れていないこともあって、この絵のようなしっとりとした低明度・中彩度の色調に惹かれます。全体に被るようなパープルグレー気味のベースカラーが効いていて、補色関係に近いレモンと金魚が、一層深い色味を引き立てて、みずみずしさが伝わってきます。

銀の茶筒と、立てかけられた画集とのコンビネーションも日本的な寂び感覚に溢れ、おそらく、鈴木信太郎さんの身近にあったものを無作為に描いたにも関わらず、みごとに絵画として成立していますね。

それにしても、しゅーっと抉るように描いた金魚は、生きているかのようなバランスです。

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2011年4月12日 (火)

1955 信州の大工さんが作った犬舎。

733195605 久我山に住んでいた頃は、家の北側は急な崖地で笹薮が欝蒼と茂っていましたし、クヌギの雑木林が子供にとっては絶好の遊び場でした。この崖地を下り、神田川に行く細い道があって、そこは切通しが赤土むき出しになっているなど、野趣に溢れた武蔵野風景でありました。家の北側半分近くはアトリエで、アトリエ独特の大きなガラスを開くと、遠くに久我山五丁目の台地が展望でき、手前に井の頭線が走り、田圃が広がり稲の刈り取り時期になると、多くの人出で歌など歌いながら、稲を刈っていました。

この犬小屋はずいぶん立派ですが、その筈で、1953年に増改築した際の廃材で信州から来た大工さんが、作ってくれたものです。私が中に入って寝ころぶこともできる広さでしたから、よくこの中で遊んでいました。

犬は雑種の大型でしたが、よくなついてくれて、私が何処にいく時も付いて来てくれました。放し飼いなど自由な時代でしたから、久我山の町まで父のタバコのお使いにも一緒に来るし、往きの通学にも久我山駅近くの雑木林まで送ってくれました。町に出る道まで来ると、さっと振り向き走って家に帰る姿は今も覚えていて、時々、その頃を懐旧します。家から町に出るまで畑も多く、戦前からの大きな別荘のような建物があるなど、独特な雰囲気が薫る界隈でしたが、今はどうなっているのか分かりません。

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2011年4月11日 (月)

霧のミルクも来てた。1970年

1970411

何十年も保管してきた『芸術新潮』を整理しているうち、一瞬、「要らないなあ・・・」と思い、名残惜しくパラパラとページをめくるたびに虜となったのが、あの、谷内六郎さんの特集でした。

2001年5月号には谷内さんの全てが埋まっているように思い、この号は捨てるわけにはいかない・・・、と感じ、とっておくこととなりました。

この水彩画は週間新潮1970年4月11日号の表紙で、『霧のミルクも来てた』と何ともシュールな題名がついています。現実と幻想の橋渡しでもなく、郷愁的・抒情詩的というものでもなく、この作家の持つ誰にも真似ることのできない感性の発想を定着させたに過ぎないのですが・・・。季節・時間・温度・湿度をなぜこのシンプルな画風に封じ込めることが出来たのか・・・、それだけが不可解なだけであります。

きっと何か意図的なことがあるのに違いないと感じていても、そのことを勘繰る私の卑しさをあらためるしかないのが、この傑作でしょうか・・・。

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2011年4月10日 (日)

絶景だった高幡不動 1956

19563

通っていた小学校は野外学習を重要視していて、遠足から社会科見学にいたるまで、よく私たちに楽しく学ぶ考えを浸透させてくれました。高度成長時代前の、長閑な武蔵野・多摩地区の自然環境を謳歌できた影響は、今日までも繋がっていて、自転車徘走などはまったく、その例そのものであります。

今や、分譲地としてベッドタウン化した高幡不動ですが、55年前は多摩川から立川方面をこのように望むことができました。春の桜も開花する少し前でしたが、山全体が芽吹く蕾で柔らかい雰囲気になっていたのを、初めて体験した遠足です。

当時から、お弁当の人気は『おにぎり』が一番でした。この頃は、大きなおにぎりが一般的でしたが、水筒は意外と小さなアルマイト製でしたから、お昼ご飯が終ってしまうと、水筒を空っぽにした男子生徒はお不動さんの社務所に寄って、ありがたい『お水』をいただいたのです。

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2011年4月 9日 (土)

延々と何処までも・・・。

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画・安野光雅

1967年、初めてのヨーロッパ旅行で最初に降り立ったロンドンでBMCのレンタカーを借り、先ずは慣らし運転とばかり郊外に向かったものの、ミシェェラン地図の購入を後回しにしたものですから、行く先々も適当で、当時まだ運転免許をもってなかった私はナビゲーター役となり、勘と度胸でドライバーの大西さんに方向指示をしてました。

それでもしばらく走っている間に偶然迷い込んだ丘の向こうに、日本では観られない美しいパノラマが展開していて、車を止めて遠くの方まで続く一本道の素晴らしい景色を堪能していました。イギリスにはライトウエイトなスポーツカー文化があったり、クラブマンというカテゴリーの(ランドナーとも呼ばれます)高速で楽しむ自転車ツーリングの嗜みがあったりと、羨ましい限りですが、全てはこの目の前に展開するパノラマのおかげであるに違いないのです。今日も、これらの無垢で美しい光景は低俗な観光振興に迷うことなく、ナショナルトラスト運動 http://www.aflo.com/nationaltrust/?gclid=CPWg5ufbraECFUMwpAodPDqb_A など自然景観の価値を重んじるブリティッシュカルチャーの象徴として、根強く頑なに守られています。

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2011年4月 8日 (金)

セザンヌの正統性

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昭和30年代の前半、久我山の家の離れには武蔵野美術大学に通う従兄が下宿していて、学校から帰ると其処に遊びに行くのが楽しみでした。あるとき、六畳ほどの畳部屋には油絵の授業の課題からか、セザンヌの模写に励んでいましたが、茶室のような天井も低い仮設小屋もどきでしたから、採光も良くなく苦労していたことを思いだします。仮設小屋といいましたが、この小屋のような建物は1953年に父が改築に伴い、廃材で信州の大工さんたちの荷物置き場兼休憩所として作ったものでしたが、しっかり出来ていたので、その後も、40年以上、納戸として使っていました。

このセザンヌの絵そのものを、従兄が模写していたのですが、キャンバスに油絵具で描く前に、何枚ものデッサンを木炭で描いてはコッペパンで消したりと苦労していました。「自然を円筒、球、円錐に見立てる」抽象化への実験を繰り返し、この世の中に存在するものを単純化して構築的・造形的に捉える反印象派の旗手・キュビズムの創案者として知られるセザンヌですが、その考えをも模写しなければならなかったようで、従兄がデッサンしながらも、片手にセザンヌの画集を置き、苦しんでいた様子を思いだします。

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2011年4月 7日 (木)

1912年 牛ケ淵から神保町方面

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こういう写真を見せられると、東京の明治から関東大震災までの一時期、そして一部は昭和40年代まで素晴らしい景観スポットが点在していたことが分かります。九段坂のキツイ坂道を迂回し、わざわざ田安門の下を潜り、そのまま千鳥ケ淵に向う路面電車は一日乗っていても飽きることのない景色が展開していたでしょう。そのまま内堀通りから三宅坂を右折し、赤坂見附の絶景ヒルクライムを車窓から堪能しつつ豊川稲荷を右手に見ているうちに青山離宮。そのまま一気に青山車庫で終点・・・。じつに春先の桜見物には都内で最高のルートでしたね。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年4月 6日 (水)

父のスケッチ・大正中頃の東京

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鉛筆スケッチを一生懸命画いていた父のスケッチブックの中は、その殆どが人体デッサンと小石川・川端画学校に飯倉から徒歩で歩いていた途中の景色ばかりですが・・・、その中に、大正12年の風俗が画かれた一枚がありました。月日が記録されていないのですが、前後のスケッチから推測して、春爛漫・春麗な時季ですが、場所がわかりません。

ピクニック気分も最高潮な雰囲気ですね・・・。近くに暮らしているのか、一升瓶片手の旦那とその隣で何か料理でもしているのでしょうか、姉さん被りの奥さんと思しき方が黙々と下ごしらえをしています。此処は遠くの小さな人姿から、潮干狩りに見えないことはありませんが、隅田川界隈の草摘みではなかろうかと・・・、勝手に推測するしかありません。

小さな卓子に置かれたぐい飲みはひとつで、淋しい感じは歪めないのですが、鉛筆の線の表現が実に穏やかな春気分であります。

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2011年4月 5日 (火)

100年前の日本橋。

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明治44年4月3日に渡り初めした日本橋の写真は数多くありますが、当時の大理石も眩いばかりのフレッシュな印象を記録した一枚は、やはりこれでしょう。

一番手前の仮設架橋は市電が日本橋の上を走る前の貴重な記録ですし、遠くに見える江戸橋の右岸には近代化の三菱倉庫群がカワイイ三角屋根を並べています。

日本橋川沿い両岸には魚河岸が江戸情緒と変らない姿を見せていて、行き交う船の水上物流が東京経済の大動脈であった頃をきちんと残してくれています。

日本橋の真っ白さは、生粋の江戸っ子が慣れ親しんだ江戸城の漆喰とも違う重厚さだったでしょうが、何より、前征夷大将軍・徳川慶喜の揮毫になる『日本橋』が、過去の清算も含めてみごとな手打ち式でもありました。

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2011年4月 4日 (月)

向こうに富士山が・・・。

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上は、1911年(明治44年)4月3日、日本橋開橋記念絵葉書の中の一枚ですが、江戸時代から富士見の名所であった、駿河町からの絶景観光振興的アングルですね。広重の江戸名所百景にも登場するので、見飽きた感じは歪めないですが、このようなアングルで見えたとすると、気分は良いに違いなかったでしょうね・・・。

それよりも、三越の建物がこの絵葉書の半分以上を占めていて、この絵葉書のスポンサーとしての威厳を指し示しているようでもありますね・・・。富士山は、レタッチで現実よりも少しせり上がっているように思われますが、今やここからは見ることもできず真実は分かりません。渡辺長男制作による麒麟彫刻をあしらったこの絵葉書は洒落ていて、桜を散らすなど分かりやすいデザインが記念品として爆発的人気だったのです。

しかし、開橋式当日が雨だったとは、皮肉でありますね。

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2011年4月 3日 (日)

1911 日本橋 渡り初め

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眩いばかりか、輝かんとさえする日本橋の真昼間に立ったのは57年前の春です。父と三越で絵の展覧会に連れられて行ったあと、京橋方面に歩いていくと、見たこともないような広い広場のような場所に出、そこには路面電車から外国の自動車までが忙しそうに動いていました。その広場を渡ると大きな橋が見え、ここが日本橋であることを教わりました。川とのコントラストも美しく、空はあまりにも広く、杉並の雑木林に囲まれて育った私はただただ、キョロキョロするしかありません。父は10代で飯倉片町から小石川春日の川端画学校に通いながら、ときには日本橋方面に出て、画廊巡りなどしていたそうで、この界隈もにも詳しく、日本橋川沿いを歩きながら、呉服橋に向かい、とんかつ屋さんで生まれてはじめてのとんかつを味わうことができました。川を跨ぐ橋が何本も遠くに観え、その雰囲気は私にとって東京の水の都の印象を焼き付けることとなったものの、たった10年後にはこの界隈が首都高で塞がれた状態になるなど、思ってもいなかったのであります。

小さい写真は日本橋が完成した1911年4月3日の渡り初めの絵葉書です。あいにくの雨ながら、蛇の目傘から洋傘までぎっしりと人で埋まった日本橋からは周囲を見渡す愉しみはなかったものの、日本が近代化していく慶びが伝わってくる絵葉書です。

本日、日本橋は架橋100年記念日でありますが、盛りだくさんな企画を予定していた100周年記念イベントも、この状況下、自粛せざるを得なくなりました。http://www.nihonbashi-meikyou.jp/ 

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2011年4月 2日 (土)

明治末期までの赤坂見附の眺望はさぞ・・・。

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写真資料:明治・大正・昭和東京写真大集成

 

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この明治時代の三枚の写真を観て、何処ということがすぐ言い当てられた方は、昭和30年代前半までよくこの界隈を散策されたか、政財界のもっとも元気な時代に赤坂・平河町あたりで夜な夜な宴に浸っていたか・・・、どちらかでしょう。1963年に青山通りと首都高が高架交差し、このような気も晴れ晴れ出来た光景は消えてしまいました。着色絵葉書は1905年(明治38年)の桜満開の様子です。拙い着色の雰囲気は妙にリアリティがあります。

着色絵葉書とほぼ同じ場所を撮影した黒白写真は、1870年(明治3年)の撮影で、赤坂御門の内と外からという珍しいアングルです。この坂を下って正面に見える家並の場所が、現在の赤坂見附交差点です。弁慶橋の創架は明治22年ですから弁慶濠もなく左には溜池濠の北端が見えてます。

今さらぼやいてもどうすることも出来ませんが、首都高を走っていても気になるのは朽ち始めたコンクリートやひび割れたボルト箇所などで、いつ壊れてもおかしくないのではと思ってしまいますし、雨漏り箇所は当然錆が想定以上ではないかと勘繰ってしまいます。日本橋再生計画とリンクして、首都高・地中化のディレクションによる美しい水の都・復興計画以外、東京の都市再生化の大義名分はないのかも知れません。もちろん、江戸城復興計画もパッケージの上ですが・・・。

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2011年4月 1日 (金)

妙な絵を描きだした頃。1958頃

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突然、それまでの描き方から豹変し、あるときは和紙に黒インク・・・、あるときは模写三昧・・・、と中学に近づくにつれ、父のアトリエにあった和洋の画集を引っ張り出しては、勝手し放題に画趣を愉しんでいた頃の一枚です。記憶は飛んでいて定かでありませんが、武者小路実篤か熊谷守一か・・・、彼等の作品の模写と思います。

数ある世界の名画からでなく、このような渋いモチーフを選んだ動機も分かりませんし、おそらく、原画と全く異なるであろう色彩の調子などなど、悩み多き早熟な子供であったことが、自分ながら分かります。画材は父の愛用していたペンテル社の専門家用クレパスですが、正方形の断面をもったこのクレパスは油の含有量が多く、その分、べたつきやすく画用紙もすぐ汚れてしまうなど、色の綺麗さとは裏腹な扱いにくい画材でありました。

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