« 妙な絵を描きだした頃。1958頃 | トップページ | 1911 日本橋 渡り初め »

2011年4月 2日 (土)

明治末期までの赤坂見附の眺望はさぞ・・・。

190538

187032

1870_3

写真資料:明治・大正・昭和東京写真大集成

 

Rimg317971

この明治時代の三枚の写真を観て、何処ということがすぐ言い当てられた方は、昭和30年代前半までよくこの界隈を散策されたか、政財界のもっとも元気な時代に赤坂・平河町あたりで夜な夜な宴に浸っていたか・・・、どちらかでしょう。1963年に青山通りと首都高が高架交差し、このような気も晴れ晴れ出来た光景は消えてしまいました。着色絵葉書は1905年(明治38年)の桜満開の様子です。拙い着色の雰囲気は妙にリアリティがあります。

着色絵葉書とほぼ同じ場所を撮影した黒白写真は、1870年(明治3年)の撮影で、赤坂御門の内と外からという珍しいアングルです。この坂を下って正面に見える家並の場所が、現在の赤坂見附交差点です。弁慶橋の創架は明治22年ですから弁慶濠もなく左には溜池濠の北端が見えてます。

今さらぼやいてもどうすることも出来ませんが、首都高を走っていても気になるのは朽ち始めたコンクリートやひび割れたボルト箇所などで、いつ壊れてもおかしくないのではと思ってしまいますし、雨漏り箇所は当然錆が想定以上ではないかと勘繰ってしまいます。日本橋再生計画とリンクして、首都高・地中化のディレクションによる美しい水の都・復興計画以外、東京の都市再生化の大義名分はないのかも知れません。もちろん、江戸城復興計画もパッケージの上ですが・・・。

|

« 妙な絵を描きだした頃。1958頃 | トップページ | 1911 日本橋 渡り初め »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/29019/36902676

この記事へのトラックバック一覧です: 明治末期までの赤坂見附の眺望はさぞ・・・。:

« 妙な絵を描きだした頃。1958頃 | トップページ | 1911 日本橋 渡り初め »