皇居から本郷方面を自転車で走ると、他所では体験のない独特の春風が季節の薫りを運んでくれます。それは東京大学の誇大な敷地に点在する樹木からの賜物なのでしょうが、本郷通りを疾走するといつも感じる一瞬です。
本郷界隈から根津・谷中周辺を回遊して、帰路に着くルートは、麹町から赤坂方面に抜け、江戸時代の坂道の名前がきちんと遺されている薬研坂・丹後坂・稲荷坂などわざわざせせこましい箇所を通るのが、これからの時季にはうってつけで、下町とは違う生活感の情緒が垣間見れます。古地図とまったく変らない道を抜けるのは徒歩が最適でしょうが、足腰の鍛錬を怠ってなければ、ちょっと目線の高い自転車でも充分満足できます。
さて、この絵葉書は赤坂見附の旧弁慶橋の様子です。麹町から赤坂に抜けるときはこの橋を渡りますがいつも自動車の信号待ちで、交差点は首都高と青山通りが上を塞ぎ、青山通りに抜けるとき、つい首を竦めがちになりますし、交差点が異様に広く感じ青山通りまで抜けられるか不安になるなど殺風景の極みな場所ですが、1962年頃まではこのような光景が展開していて、三宅坂から並んでいた桜の満開を堪能できました。弁慶濠も何となく怖い雰囲気がありましたが、現在もその環境が遺されていて、周辺の[適当なモダンさ]と対極な草木が「伸び荒れ放題」な野趣に富んだ一角です。
【弁慶橋】
『弁慶橋(べんけい ばし)』 は、「外堀通り」 の赤坂見附交差点から紀尾井町に向う小さな通りが外濠 (弁慶濠) を渡る橋である。
かつての江戸城南側の外濠は 「四谷見附」 から南回りで「呉服橋」 まで、そのほとんどが埋め立てられて道路などに変わっているが、この 「弁慶濠」 だけが、唯一 「濠」 の形態を残している場所となっている。
【弁慶橋の創架と橋名】
『弁慶橋』 の創架は明治22年(1889)で、それまではこの場所に橋はなかった。
江戸時代には近くの 「赤坂見附」 や 「喰違見附」 を通って江戸城内との往来をしていたわけである。
橋名の由来には二説あって、一説には、この外濠を築造したといわれる 「弁慶小右衛門」 の名前から 「弁慶濠」 の名称が付き、それが 『弁慶橋』 の橋名になったというもの。
他の一説は、江戸時代に 「弁慶小左衛門」 が東神田の 「藍染川」 に架けた 『弁慶橋』 を、後にこの場所に移設して、そのまま 『弁慶橋』 と呼んだというものである。
【旧・弁慶橋】
明治22年の架設当時、この橋の疑宝珠(ぎぼし) は『筋違橋』 ・ 『日本橋』 ・ 『一ツ橋』 ・ 『神田橋』 ・ 『浅草橋』 の古いものを集めて用いたというが、残念ながら現在は残っていない。和風の美しい橋の姿は、春の桜、冬の雪景色などを背景にして、明治・大正の頃の東京の名所でもあったという。
【現・弁慶橋】
現在の 『弁慶橋』 は、昭和60年(1985) に改修された鉄筋コンクリートの桁橋である。
改修前は親柱や欄干に木材を使うなど、周囲の景観との調和を図っていた。
改修後はそれらが全て金属になってしまい、木材に比べるとどうしても冷たい感じがしてしまう。ただ、改修前のイメージを残すデザインで好感のもてる橋となっている。
最近のコメント