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2011年5月31日 (火)

アルフレッド・ウォリスの絵

31_2 さぞかし、難しい航路だったのでしょう。灯台と岩の間をすり抜けるように進行している漁船に乗って漁師としての仕事をしながら、鮮明に焼きついた海の様子を、描いています。

この絵もその辺りに落ちていた厚紙にチョークと油彩で描かれた一枚ですが、珍しく荒れた海に翻弄されているような状況が克明に記録されています。殆ど船を水平に描くことの多いウォリスさんですが、よほど波のうねりにさんざんな目に遭ったのでしょう・・・。船首をが上に上りきって今にも落下しそうな一瞬が、スローモーションのように感じます。体に記憶された時間と状況を鮮明に表現できる稀有な才能があったからこそ、格別な絵画教育をいけなくとも、ここまでの作品が誕生したのです。

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2011年5月30日 (月)

イギリスの、のんびり三昧。

Rimg33694

初夏の頃でしょうか。英国・湖水地方のスナップ写真ですが、羨ましいほどの、贅沢景観ですね・・・。

もはや、この国ではこのような雄大で野趣な場所などあるわけなく、何処に出かけても商売の旗指物やファストフード店の環境無視な店舗が目に入ってきて、折角の自然景観が台無しになってしまいます。

まあ、このイギリスの写真でも見て、静寂で広大な光景をほぼ独占しているお二人になりきってみましょう。無風に近い湖畔では鳥のさえずりも聞こえていそうで、射すような季節はずれの天候は、この二人にはラッキーそのものです。幼年時代からの気の置けない友人なのか、それとも、二人で創業した会社も予想以上のスピードで巨大化し、もう、部下に任せて創業者仲間はのんびり三昧といったところでしょうか・・・。まだまだ先行きの読めない時代を相手に、どう会社の矛先を向けたらよいのか、悩んだ末に、この素晴らしい自然環境に身をおいて、雄大な構想を練りだしたところ・・・、といった状況のようでありますよ。

Decision Makerは些細なことに案じることなく、全世界の次世代潮流をも鑑みつつ、豊かな環境の中、清浄なる気分を以って、ことに取り組む時代に入って来たのではないでしょうか。

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2011年5月29日 (日)

大正時代 神保町。

Photo

写真:明治・大正・昭和写真大集成

父が10歳代半ば、飯倉から小石川・春日にあった川端画学校に通っていた頃より前の神田・神保町の姿です。震災前の写真ですが、このアングルはどこから撮ったものでしょうか・・・。

画学校の生徒は厳しいデッサン修業を終え、画材の購入と称して、よく神保町に繰り出し、文房堂で木炭鉛筆や、スケッチブックを買ったあと、先輩の後をついてはこの界隈のカフェなどで芸術談義と戯言を聞かされ一方だったようで、だらだらと御託を並べた取り留めのないその雰囲気を、父はずいぶんと嫌っていたようです。それでも、当時の前衛系の皆さんが呉越同舟、日々、熱く語っていた時代を見て見たいものです。私世代は、新宿・風月堂の開放感溢れるガラスのモダンな空間内で、お歴々のフランス文化・芸術中心の談義が店内で開花しているのを記憶してますから、その雰囲気と大同小異であったと推測されます。

まるで、京都市内のような風情ですね。靖国通りの街並は1923年の震災後、防災観点から鑑み、いわゆる看板建築のオンパレードとなりますが、路面電車の舗装箇所以外は、まだ、土であったことにビックリです。

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2011年5月28日 (土)

安野光雅の画風

1309 エネルギッシュな色彩と厚化粧の画風には人をへとへとにしてしまうパワーが漲り、体調によってはそれを観ていると貧血を起こしそうにもなってしまいますが、安野光雅さんの画趣には全てとは云えませんが何となく俳画のような軽ろ味があって、私はその盛り蕎麦のようなすっぴんの潔さに魅かれてしまいます。今風にいえばロハス的画風とでも申しましょうか・・・。

私の好きなこの水彩画も、正に俳画的感性がたっぷりで、ささっと描き上げたのでしょうが、たっぷりと太目の筆で仕上げた筆勢には鈍感力と瞬発力が同居していて、なかなか気持ちの和む画風です。

ひと目観て、どこの国かも分からないところが無国籍感覚そのものですから、何時でも・何処でも飾って眺められる多目的用途にぴったりの一枚です。

あの平山郁夫さんのような潔癖性とは程遠い画風であり線でありますが、何故か私はこのような緩い調子の絵に軍配を挙げてしまうのであります・・・。

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2011年5月27日 (金)

1871年 三宅坂から桜田門方面を望む。

Photo

日曜日の早朝、すでにランナーの皆さんは皇居周回を楽しんでますが、その数の多さに圧倒されます。この二年間で全国ランナーの聖地化したこの周回ルートは、何といっても想像以上の景観展開のバラエティーと起伏に富んでいることです。桜田門から皇居をグルリとほぼ5キロのコースは四季折々、その季節の変化を堪能できますから、ただ走っていているだけは、自然の美しさを享受していないようなものです。

自転車で皇居周回する醍醐味は、半蔵門から加速してスピードも最高潮に達し、信号が青であることを確認して、大きく左折する三宅坂から桜田門にかけて一気にペダルの回転をあげると、追風ならば、その爽快感は他では味わえないことでしょう。

この写真は、その三宅坂交差点の場所で、右手の屋敷は井伊家上屋敷で桜田門で暗殺される井伊直弼の住まいであります。その後、陸軍省となり、現在は憲政記念館となっています。この角には、有栖川宮の銅像が建っていて(現在は有栖川記念公園にあり)、その姿のカッコヨサが記憶に鮮明です。有栖川宮は和宮との婚約を井伊直弼の公武合体作により解消されたわけで、ここに当初建てたことは偶然ではありえませんね。

写真では人力車の人夫が麹町方面に向う客待ちをしてますが、人力車の数からして、けっこう商売になっていたようですね。この坂道は歩いてみるとその急坂の勾配に唖然とします。

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2011年5月26日 (木)

東北の港 1950年代前半

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1950年代前半に、父が東北陸中海岸を中心に出版絡みの取材旅行をした際、カメラマン・田村茂さんから譲り受けたライカⅢfで撮影した港の光景です。撮影日時は5月としか記されてないのですが、春とはいえ、写真からはまだまだ厳しい東北の波止場が記録されています。この写真の前後関係、うみねこが数羽撮影されているところから、父が数日滞在した陸前広田町辺りではなうかと推測されます。

父が久我山のアトリエで、この写真を元に描いた油絵がイーゼルにかかっているスナップ写真があるものの、現在、この絵が何処に存在しているのかは分かりません。

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2011年5月25日 (水)

ボナール・食堂

Rimg31123 ボナールが住んでいたカンヌの住まいを描いた何点かのうち、可愛いけれども不気味な一枚です。ガラス戸の奥からこちらを見据えている人はまるで心霊写真のようでもありますが、画家が意図的に描いたからには、無意味という事はありえず・・・、きわめて不可解なのであります。ボナールの絵は観る者に豊かな感受性を奮い起こさせるほどの効果があって、今のような閉塞感全開の状況では、最も、生きる歓びを示唆してくれる画家ですから、この絵のもつ暗示的画風は、この画家らしからぬ表現なのです。

テーブル奥、鼻先がかすかに見える犬におやつでもあげている、長閑な午後のひとときは、輝く庭の光が室内まで射し込み、眩いばかりに露出オーバー気味です。美味しそうなお菓子はあるものの、飲物はこれから準備でもするのでしょう。朝から出しっぱなしのような水差しだけ片付けるのでしょうか。どんなティーセットが登場するか、愉しみですね・・・、たぶんこの設えからして、やや田園的装飾が描かれた陶器製のセットあたりが正解かもしれません。ボナールは大きなテーブルがよほど好きだったのか、数多くの大きなテーブルを描いていて、日常の豊かで平凡なシーンを象徴的に表そうとしていたかのようです。

ボナールの色彩構成は、カンヌに相応しい地中海の煌めきそのものです。その補色の取り合わせ、同系色の色相トーン展開など・・・、ボナールの色彩調合は純色同士の濁りない、彼の人生そのまんまでもあります。

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2011年5月24日 (火)

和食器三昧

Rimg11956 カジュアルでヘルシーな生活観が定着して以来、多様な使い勝手ができる和食器が、様式的な洋食器を飛び越え、とくに若い世代に人気が爆発しています。

都内の寺・神社境内で定期的に開催される骨董市の人気でも、和食器は古布と双璧の人気の王座は揺るがないようですが、私は、数多く存在する日本陶磁器の中で、白磁と呉須のシンプルな普段使いの寸法の皿・小鉢に、ピンとくるものがあると、脚を止めてしまいます。呉須にもピンからキリまであるものの、天然呉須は極々僅かで、その値段も驚愕価格ですから、焦点はどうしても、その図柄になってしまいます。花鳥風月の具象柄も捨てがたいのですが、料理の邪魔をしない・何を載せてもオーケーという点では、抽象柄に軍配が挙がります。

江戸末期の洒脱なトリミングの絵付け皿を観ていると、この国の嘗ての職人の感性・技能・技術の冴えに感心するのみであります。

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2011年5月23日 (月)

梅原龍三郎の生命力!

5 、生涯、元気と生命力を貫いた人間は、もうそれだけで、尊敬の念を抱かれますが、梅原龍三郎も、その代表的な一人でしょう。

1921年頃、ナポリから望むベスビオ山にその生命力を感じとって以来、日本の桜島にぞっこんとなって、何十点ともいえる傑作を遺しています。朝の青さと夕の赤さのコントラストを好み、さらに梅原独特の想像力を以って、実物以上のエネルギーを画面内に封じ込めたのでしょう。

いつ観ても、パワーを頂ける絵画は、それだけで、もう、有難い天からの賜物ですし、何はともあれ、今や、元気のない子供たちに先ず、観て貰いたい作品です。

軽ろ味を潮流とするこの時代に反比例するような、梅原の絵画は、昭和30年代の高度成長期の大手銀行から第一次産業の社長室に飾られていたのも、頷けるわけであります。この梅原の絵画と林武の絵画こそが、猪突猛進を金科玉条としたこの時代の、宗教画なのでした。

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2011年5月22日 (日)

1958 アジア競技大会 聖火が吉祥寺を。

19580522 アジア競技大会・聖火が五日市通りを走ってくるというわけで、1958年5月22日、学園前には小学生徒が歓迎しました。このときの興奮ぶりは物凄かったのですが、聖火の煙も物凄かったのです。走っている武蔵野市長は真っ赤な顔でいかにも高血圧顔然としていて、脚も上らず、歓迎する方も内心ハラハラしていました。先導も武蔵野市役所の職員なのか、まだまだパトカーなどもいない長閑な街のビッグイベントでした。

左隅に見える三共ベーカリーはこの学園の創立者と関係あるご家族が生徒のために営業しているといっても過言でないほど賑わったお店で、名物の『ラスク』にはバターと蜂蜜がたっぷりと塗られていて、子供にはずいぶんと高級な印象をもっていました。この店で『原田の小母さん』とよばれていた御方は、いかにも明治生まれの立派なお顔立ちで、大きく澄んだ目の奥からは、「しっかりお勉強されて、立派なお方になりなさい」などと暗黙のプレッシャーを受けるようなオーラがありました。

道路には白ペイントの標示もなく、ガードレールも見られず、いかにも、のんびりとしていますね。

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2011年5月21日 (土)

1912年 廣瀬中佐と杉野兵曹長像 

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以前の交通博物館のあった場所が1912年(明治45年) http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1912.html 4月1日開業の万世橋駅の跡地です。翌年、東京駅が開業すると、交通の中心はやがて万世橋から東京駅へと移行してしまいますが、それ以前、東京の交通の要所は日本初の駅前広場をもった万世橋であり、須田町界隈は東京でも賑い盛んな町でありました。左奥のニコライ堂そっくりさんは神田郵便局で、日露戦争の記念切手を販売するとき、この界隈は大勢の民衆で埋め尽くされたそうです。辰野金吾設計による駅舎は関東大震災で消滅しますが、この外観とほぼ同じものは東京駅に残っていますし、霞ヶ関・法務省も外壁の意匠が同じ様式です。

日露戦争の名誉の戦死で、軍神化した廣瀬中佐http://www.youtube.com/watch?v=RlWMfRydU28と杉野兵曹長の像は明治43年に建立、その素晴らしい姿は、此処で戦後まで民衆を見守ってきたものの、昭和22年、GHQの命令により撤去されましたが、その後行方不明という情報管理のお粗末さ・・・。この絵葉書からも軍威高揚を度外視すれば、ランドマークとしての素晴らしさが偲ばれますね。

靖国通り・中央通り・昌平橋通りに囲まれたこの跡地界隈の現況は、松屋・薮蕎麦・竹むらなどの美味しいお店を除き、混雑しない空虚な気配が漂ってます。富国強兵の時代に戻ってはならないものの、帝国首都の威容をバーチャルでも感じてみたいと、思わないわけではありません。自転車で上野御徒町のアウトドアーショップに出かけるときはこの広場跡を経由して抜けますが、この絵葉書の印象を頭に焼き付けているとはいえ、現実の環境を目の前にする哀しさからか、残像がまったくイメージ出来ないのであります・・・。

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2011年5月20日 (金)

荷風先生 1953年

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写真:木村伊兵衛

ちょっといい気持ちになっているのは、撮影した前年に文化勲章を受けた永井荷風先生http://www.tokyo-kurenaidan.com/kafu-10.htm 。

散歩ブームもあり、人生そのものが散歩だったとも言えないことのない人気の荷風先生は、その自由奔放な脳内創造力から紡ぐ一言一言以上に面白い人生行路があって、有名な独り臨終の姿など、あまりに衝撃的であります。

荷風先生・・・、若き頃はみごとなジェントルマンの姿が写真にも残されてますが、浅草で木村伊兵衛さんの盗み撮りのショットにも、酩酊気味ながら浅草ロックに出向かんとする意気込みも伝わり、銀行員経験から知り得た上等な英国仕込の身なりが、シャツの袖口の裁断角度にも表れています。

さて、記録に残された古い写真を観ていると、夏の男性のスーツにパナマ帽という組合せは「イカシテル」としか思わざるを得ず、昨今のジェル・スーパーハードなどを使った頭髪は帽子など関係ない造形と化し、おまけに中高年まで拡大し、ますますカジュアルを勘違いしてしまった汚い男衆のデカ頭に、地下鉄が占拠されたような勢いであります。

粋で凛としたオーセンティックなサラリーマンは何処へ行ってしまったのでしょうか。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年5月19日 (木)

南仏の輝き。

Rimg31118 たしかにその国、その地域、その場によって同じ色相であっても太陽光線の波長の差で違ってしまうことは、南仏に居を構えた画家の作品の発色を観ているとごもっともな話であります。

ボナールの描いた南仏の風景にも眩しい日差しの中に柔らかなフィルターを通したかのようなトーンが独特で、一気に洗濯物が乾いてしまうような乾燥した空気までも感じとれます。

ボナールの得意なブルーグレー系の日陰がまさに遠くにちらっと見える La Mer を導き出すのですから、ここはやはりシャルル・トレネ http://www.youtube.com/watch?v=fd_nopTFuZA に登場してもらう以外、考えられません。シャルル・トレネの歌をバックにちらっと見える青い海は最高であります。

シャルル・トレネ

シャンソン界の超大御所歌手であると同時に詩人でもあったシャルル・トレネ。1913年、南フランスに生まれ、15歳で初めての詩集を発表。当初はジョニー・ヘスとヴォーカル・デュオを組んでいたが、第2次世界大戦後はソロとして活動をしていくようになった。
代表作として英語圏でも広く認知されたのは、「La Mer(海)」「Boum!」(共に38年。後者は、「When Our Hearts Go Boom!」と改題されヒットした)といったところ。軽やかなシャンソンから生真面目なヴォーカル・ジャズまで、誰より自分自身が楽しみながら歌い続けたトレネは、最大限に歌い手らしい歌い手であったといえるだろう。聴いた途端、小さな頃お気に入りだった毛布にくるまれるような感覚――トレネの優しい声はとにかく別格なのである。第2次世界大戦中には、ナチス・ドイツとの関わりを疑われたこともあったが、彼のエンターテイナーとしての人気は不動だった。
75年に引退表明をした後も度々その姿を舞台で披露していたが、2001年2月19日に脳卒中で逝去。享年87歳であった。

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2011年5月18日 (水)

佳き時代の設計事務所

Rimg28688 蛍光灯・電話・塗装された木製机・設計図などなど・・・、1950年代初頭のアメリカの造船設計事務所の忙しい有様と同時に、この時代の設計事務所の空気が見てとれます。

パティエーションによって区分けされたオフィスが大多数を占める今日の虚無な気配とは違い、経済の右肩上がりを追風に、作れば売れる、注文にキャンセルなし・・・、といった嬉しい悲鳴さえ聞こえるようなこの会社ですが、設計部署はごらんのような静けさですね。とくに、蛍光灯の姿が妙にインテリジェンスを後押ししているようで、その並び方は縦横が交差していて、このレイアウトなどは、日本では考えられない何か特別なノウハウによって決定されたかも知れませんね。

電話でクライアントなのか、工場担当者なのか・・・、やりとりしてますが、メールと違い、相手の気持ちを電話の声で掴む訓練も日常茶飯事でしたから、紙に書かれた企業戦略十か条などとは別に、担当者個々個人の相手心理を読み取る能力も相当なレベルで要求され、大学などで勉強したこととは段違いの、毎日がスリリングなできごとの繰り返しであったようです。

皆さんお元気であれば、100歳前後でしょうか・・・。

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2011年5月17日 (火)

漁師の家の写真 1950年代

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父が1950年代前半に慣れないライカⅢfで撮影した東北・陸中海岸地方の一連の写真には、戦前に雑誌「新風土」を通して知己となった土門拳もどきの、厳しいアングルと構成が垣間見れ、10歳代から厳しい絵画デッサンを修業した片鱗が、このなんでもない漁師の家にも表れています。

写真裏には鉛筆で漁師の家となぐり書きがあり、それで、漁師の家と申し上げたものの、積みあがった薪、土管の煙突などから、ひょっとすると陶器を焼いている陶器職人の家のようにも見えます。場所も記録がなく分からずじまいですが、今では消え去った一時の風俗記録として、味わい深いですね・・・。木っ端板に石を載せる屋根は信州で初めて観たのですが、東北でも、同じ手法というか、考えてみれば、誰もが最初に思いつく素材と手法が、全国に一律展開していたのでしょうね・・・。私は1959年に台風の通る頃、信州に出かけていて、強烈な風にこのタイプの屋根は(めったにないことなのですが)、吹っ飛ばされ、翌日、真っ青な空があっけらかんとした何もない屋根越しに見えていたのを思いだします。

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2011年5月16日 (月)

1955年・パン屋

1955 ここは何処なのか、分かりませんが、1955年の街角風景です。パン食が国の施策として、給食にも普及し始めた頃で、私もパンの給食は脱脂粉乳を除けば、一番の楽しみでした。吉祥寺の学校の五日市街道を隔てたところに、父兄が営むパン屋さんがあって、たしかこのような雰囲気の店だったように記憶しています。当時はラスクが人気で、まだ買い食いなど出来ませんでしたから、早く高校生になって、食べたいものだ・・・などと密かに考えていた頃です。

この写真を見ると、コッペパンにジャム・ピーナッツバターを塗ってくれる、当時のパン屋さんの平均的な様子ですが、下に張ってある映画ポスターにはディズニーの「砂漠は生きている」、ヒッチコックの「裏窓」から東映の「百面童子」など、映画の全盛期の様子がこの決して美しくないちらしからも窺えます。

ところで、真中のお兄さんのズボンの裾上げが気になりますが、当時はこの恰好がちょっとした流行だったのでしょうか、あるいは、職業柄のいでたちなのか・・・、コートの長さも決まっていて、ずいぶん周りから浮いた存在の洒落男であったに違いなさそうですね・・・。

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2011年5月15日 (日)

1872年 市ヶ谷門橋から尾張上屋敷を望む。

18725 神田から本郷辺りを自転車徘走し、西片一丁目の細道のアップダウンを堪能したあと、白山通りを水道橋に向かい、外堀通りを右折し、そのまま神楽坂下から靖国神社方面に抜け、案外と馬鹿にできない上りを一気に越えると、田安門が待っています。左は神保町に向かい自動車さえ少なければご機嫌なダウンヒルですから此処の下りは早朝に限ります。右に上ればJR市ヶ谷駅にぶつかり、そこを左に行くと四谷方面、右は市ヶ谷橋で外濠を渡って左に行くと新宿方面となります。

さて、明治5年に撮影されたこの写真は、靖国通りの市ヶ谷駅近辺から、尾張藩(徳川慶勝六十二万九千五百石)上屋敷を左奥に望む絶景スポットから撮られました。明治11年にこの屋敷は陸軍士官学校となり、現在の防衛省に至ってます。家並は市ヶ谷八幡町、小高い丘の辺りが亀岡八幡です。現在もこの界隈は行政の事務的論理に歯向かうがごとく、江戸文化の薫りを遺すため、町名が美しいのであります。

このまま遺されていれば、都心最高の休憩スポットのひとつでありますし、坂町として違った発展もあったことでしょうね・・・。

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2011年5月14日 (土)

1955年 夏休み発表会

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夏休みはもちろん元気一杯遊びつくすのが最高なのでしょうが、終るとすぐ苦手な発表会が待っていました。この写真が撮影された小学校2年生の頃でも、きちんと自分の夏休みの過ごし方と自由課題でつくった作品や標本の発表をするプレッシャーが、とくに男子において顕著でありました。

この夏、父旅行した千葉・茨城の想い出を絵日記にした私は、その説明をするものの、父兄、とくにお母さんの熱心な視線をまともに受け、そのプレッシャーはなかなかのものでした。当時はお母さんからも質問があり、慣れない男子生徒は戸惑うばかりで、どう応えればよいのかオロオロするだけでしたが、しっかりした女子は整然と説明し、ニッコリと席に着くのでした。

今のお母さんたちと歴然と違う風格ですね。この頃はまだ、子供が五人六人という家族も多く、お母さんも貫禄充分です。因みに私の母が32歳でもっとも若い母親でしたが、40歳過ぎのお母さんも少なくなく、PTAの集まりは年齢幅が広く不思議な雰囲気でありました。

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2011年5月13日 (金)

1872年 御茶ノ水から昌平橋を望む。

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写真:明治・大正・昭和写真大集成

江戸から東京と言う名前に変わり、明治初期の御茶ノ水界隈は大名屋敷が維新に貢献した皆さんの住まいに変りつつあるものの、周囲は御覧のような絶景スポットであったのです。

この土手など現存していれば、間違いなく最高の昼寝場所でしょうね。神田川の向こうには昌平河岸が観え、活き活きした生活の様子が垣間見れます。この土手は現在の聖橋辺りですが、高さはまったく違います。この界隈の近代化以前の長閑さの証写真は意外と少なく、この写真など稀少な一枚です。

自転車でこの界隈を走っていても絶景スポットなど皆無に近く、和洋中華ファストフード・楽器店などが賑やかな呼び込みを連呼し、「生まれてくるのが遅かった・・・」、と思わざるを得ないのであります。

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2011年5月12日 (木)

1923年 父のスケッチ 麻布飯倉片町

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大正12年、15歳の父のスケッチはハサミの刃を研ぐ職人さんの姿です。現在の麻布狸穴町IBMの脇を下った谷底のような場所に、父や兄弟と暮らしていた住まいからスケッチしたものです。お屋敷の多い植木坂上に抜けるこの道は現在も当時の面影が残されていて、私も父と生前、何度もこの界隈を散策しましたが、欝蒼とした麻布台の夏の蝉のうるささに仰天したものです。

ハサミも、今では材質の優れた耐久性モノが多いですし、切れなくなれば買い替えという御仁の多いご時勢ですが、昭和40年代まではハサミ・包丁研ぎを含め、家庭用品の修理をする仕事に携わる方々も多く、住宅街の週末は玄関脇で黙々と仕事する職人さんを見かけたものです。子どもにとって職人さんの持っている諸道具は夫々に役割があって、専門家としての微妙な調整を取り替えながら徐々に出来上がっていく様子は面白くもあり、不思議な雰囲気でもありました。

さて、この職人さんの手前に見えるのは、タバコ容れとキセルのようですが、一服しながら仕事をしている姿は長閑でありますね・・・。

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2011年5月11日 (水)

車も、こんなでした!

1951 自動車が、ある時代の、社会の有様を表現していることは、昔から言われていることであります。

今や、エコロジー・環境に対する配慮が為されませんと、世界では通用しない、自動車にとっては不条理な状況となってしまいました。

それでも過去にはこのような笑えるようなスタイリングを捻り出した時代もあったわけですから、人間の考えるアイディアの幅には感心いたします。

1950年代のシカゴ・モーターショーのスナップですが、アメリカの車らしく大衆の消費欲望を最高に喚起させるようなオーラがあります。ヨーロッパの自動車には伝統的に人間とのかかわり・運転する歓びが設計意図としてのDNAとして盛り込まれていますが、アメリカの車には、まず始めにスタイリングありき、といったDNAがどうもあるようで、この車など、まともな神経の持ち主であれば、如何なものかと思ってしまう外観であります。

此処最近まで、車に限らずアメリカの商品は一部のアウトドア用品・軍事用品などを除けば、全く恥ずかしくなってしまうほど、顧客満足という大義名分の下、媚を売るかたちが蔓延していました。この1950年代の車は特にその傾向が顕著で、一部のマニアの「お好きな方々」を除いては、その場を逃げ出したくなるような凄みと滑稽さのオンパレードといえるでしょう。当時の自動車メーカーの役員たちがこのような車を目の前にして、どんな意見を交わしていたのか、機会があれば役員議事録なんぞ見たいものであります。

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2011年5月10日 (火)

1900年 銀座通り

33 この賑やかな銀座通りを埋め尽くした装飾は、1900年(明治33年)5月10日、ときの皇太子・嘉仁親王と九条節子との結婚祝賀の様子といわれています。

晴れ晴れとした祝いの気配が、この写真からも伝わってきますね。鉄道馬車・服部時計店の塔など、すっかり1872年(明治五年)の大火でリニューアルし、様相の一変した銀座の勢いが分かります。銀座煉瓦街と言われたものの、実態は煉瓦壁の表面にスタッコ(西洋漆喰)を塗りたくった建物が圧倒的で、煉瓦の落ち着いた街並とは程遠い、眩いばかりの白化粧の店舗が居並ぶ街であったということです。この煉瓦街とは歩道に敷き詰められた煉瓦から由来しているというのが事実のようであります。(参考;池田弥三郎著・銀座十二章)

尚、服部時計店(現・和光)の前の話をしますと、此処は朝野新聞社が明治9年に銀座に進出したところで、当時の銀座は近辺に官庁街が有った為、新聞各社が銀座に押し寄せてジャーナリズムの街となった時代であったそうです。明治27年この朝野新聞社屋を買って伊藤為吉が設計改築し、服部時計店が完成した由来があります。

その後、この一等地に関わる地所争いは、天ぷらの名店『天金』と『服部時計店』の間で繰り広げ、大正七年に服部時計店が取得します。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年5月 9日 (月)

1904 気球から木挽町から丸の内を望む絶景。

1904_2

写真:明治・大正・昭和東京大写真集成

リアリティありますね、この写真は。

明治37年撮影、海軍大学校から気球を上げて撮影したものです。よく観ると銀座四丁目の服部時計店のドーム型の屋根(1894年・明治27年に朝野新聞社の建物を買収後、改修。現在の和光の姿は1932年・昭和7年から)が見えますし、気球の垂れ下がったワイヤーの先は何と丸の内・三菱四軒長屋と東京府庁が分かります。草ぼうぼうの野原が整地されたものの、空き地であることが、今では想像もつかない世界です。

手前下が築地海軍大学校、その右斜めやや上の大きな建物が歌舞伎座。中央右から左下に流れる掘割は三十軒堀です。ご一新から37年経過しただけですが、銀座通り以外にも洋館の多いのがビックリであります。

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2011年5月 8日 (日)

暗闇の箱根道

Photo_2 広重の箱根といえば定番の富嶽三十六景の絶景ものがありますが、こちらはそれらとうって変わった、夜道の危ない箱根東海道であります。

広重はかなりの崖オタクではなかろうか・・・、などと思うほど、全国の崖すれすれを歩く旅人を描いていますが、この作品も箱根峠の険しさと谷底の深さがが夜道のスリリングさを伴って、ゾクッとさせるほど、納涼気分がいっぱいです。よほどの急勾配なのか、旅人は篭を降り、徒歩で上っているように観えます。

道に点在する石は却って危険ではないか・・・、などと思われる方々も多いでしょうが、現在遺されている旧・東海道の石畳を観ると、この絵に納得します。ここを草鞋などで上っていったのですから、いやはやなんとも・・・、でありますね。さらにこの先、盗人などが忍んでそうなことさえも邪推してしまう傑作です。

話は飛躍して、「唱歌・箱根八里」に関わる話です。 http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/hakone_hachiri.htm

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2011年5月 7日 (土)

これは紀尾井坂では・・・。

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119 明治・大正・昭和東京写真大集成という本が世田谷中央図書館では人気らしく、先月ようやく借りることができました。石黒敬章氏 編・解説もこの手の本にありがちな難しい文脈が無く父上である石黒敬七さんに似た、洒脱な文体が内容とよく似合っています。

一昨日のブログ資料を編集中、その中に明治40年代に撮影された弁慶橋の絵葉書が載っていました。弁慶濠の永田町側から撮影されたその向こうには、わざと後から描いてしまったのか、富士山のような姿があります。ところが、この富士山と思ってしまったのが実は、他の写真資料から紀伊和歌山藩邸の巨大な樹木林であることが分かりました。それにしても高さとボリュームが立派でおそらく築山でもあったのでしょう。ということは手前に市電の走る坂は紀尾井坂ということになります。

このことが分かり、もしかして・・・、と東京藝術大学コレクションの『歌川広重・名所江戸百景』の図版番号119にある「赤坂桐畑雨中夕けい」にまったく同じアングルから描かれた一枚があったことを思い出し、その解説を読むと、画面中央の坂道が紀尾井坂でなく赤坂御門に向う坂道と記載されてます。となると手前は溜池濠の北端となるわけで、この坂は歩く人が見えないほどの高い土手が築かれてましたから、

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この版画も間違いなく紀尾井坂なのであります。ハッキリ言ってしまえばこの版画は赤坂御門から見た紀尾井坂方面なのであります。雨にかすむ奥の樹木林などはまったく写真と同じといっても過言ではありませんよね・・・。

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この私説について、藝大美術館に問い合わせても、担当学芸員が転籍のため分かりませんという、シンプルなお答えでありました。今は自動車ばかりが通過する道路となり上を見れば首都高が塞いでいますが・・・、何ということか!、この樹木林だけは、まったくといってよいほど同じカタチで健在なのです。

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2011年5月 6日 (金)

ボナールの色彩 田園の食堂

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ボナール(1867年~1947年)の華麗な色彩は独特の透明な深さがあって、とくに赤系の色調に科学的色彩調合が計算されているようにさえ観えます。

『田園の食堂』と題されたこの一枚、1912年にボナールが購入した自宅の食堂を主題にし、庭の黄色・新緑色とぶつかり合わない赤のトーン変化構成が自然体にまとめられ、居心地のよい暮しが垣間見れます。ドアの色調変化のバランスがこの絵に時間概念を生ませ、具象でありながら、抽象でもあるボナール独自の絵画の代表作として、大人気な傑作です。

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2011年5月 5日 (木)

旧弁慶橋 1920

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皇居から本郷方面を自転車で走ると、他所では体験のない独特の春風が季節の薫りを運んでくれます。それは東京大学の誇大な敷地に点在する樹木からの賜物なのでしょうが、本郷通りを疾走するといつも感じる一瞬です。

本郷界隈から根津・谷中周辺を回遊して、帰路に着くルートは、麹町から赤坂方面に抜け、江戸時代の坂道の名前がきちんと遺されている薬研坂・丹後坂・稲荷坂などわざわざせせこましい箇所を通るのが、これからの時季にはうってつけで、下町とは違う生活感の情緒が垣間見れます。古地図とまったく変らない道を抜けるのは徒歩が最適でしょうが、足腰の鍛錬を怠ってなければ、ちょっと目線の高い自転車でも充分満足できます。

さて、この絵葉書は赤坂見附の旧弁慶橋の様子です。麹町から赤坂に抜けるときはこの橋を渡りますがいつも自動車の信号待ちで、交差点は首都高と青山通りが上を塞ぎ、青山通りに抜けるとき、つい首を竦めがちになりますし、交差点が異様に広く感じ青山通りまで抜けられるか不安になるなど殺風景の極みな場所ですが、1962年頃まではこのような光景が展開していて、三宅坂から並んでいた桜の満開を堪能できました。弁慶濠も何となく怖い雰囲気がありましたが、現在もその環境が遺されていて、周辺の[適当なモダンさ]と対極な草木が「伸び荒れ放題」な野趣に富んだ一角です。

【弁慶橋】
『弁慶橋(べんけい ばし)』 は、「外堀通り」 の赤坂見附交差点から紀尾井町に向う小さな通りが外濠 (弁慶濠) を渡る橋である。
かつての江戸城南側の外濠は 「四谷見附」 から南回りで「呉服橋」 まで、そのほとんどが埋め立てられて道路などに変わっているが、この 「弁慶濠」 だけが、唯一 「濠」 の形態を残している場所となっている。

【弁慶橋の創架と橋名】
『弁慶橋』 の創架は明治22年(1889)で、それまではこの場所に橋はなかった。
江戸時代には近くの 「赤坂見附」 や 「喰違見附」 を通って江戸城内との往来をしていたわけである。
橋名の由来には二説あって、一説には、この外濠を築造したといわれる 「弁慶小右衛門」 の名前から 「弁慶濠」 の名称が付き、それが 『弁慶橋』 の橋名になったというもの。
他の一説は、江戸時代に 「弁慶小左衛門」 が東神田の 「藍染川」 に架けた 『弁慶橋』 を、後にこの場所に移設して、そのまま 『弁慶橋』 と呼んだというものである。

【旧・弁慶橋】
明治22年の架設当時、この橋の疑宝珠(ぎぼし) は『筋違橋』 ・ 『日本橋』 ・ 『一ツ橋』 ・ 『神田橋』 ・ 『浅草橋』 の古いものを集めて用いたというが、残念ながら現在は残っていない。和風の美しい橋の姿は、春の桜、冬の雪景色などを背景にして、明治・大正の頃の東京の名所でもあったという。

【現・弁慶橋】
現在の 『弁慶橋』 は、昭和60年(1985) に改修された鉄筋コンクリートの桁橋である。
改修前は親柱や欄干に木材を使うなど、周囲の景観との調和を図っていた。
改修後はそれらが全て金属になってしまい、木材に比べるとどうしても冷たい感じがしてしまう。ただ、改修前のイメージを残すデザインで好感のもてる橋となっている。

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2011年5月 4日 (水)

1912 新大橋 渡り初め

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1912年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1912.html(明治45年)7月19日、新大橋の架橋完成の渡り初めの様子です。何だかこの様子も時代風俗が推測されて面白いですね。きちんと並んだ芳町(正式には葭町)芸者衆は江戸から続くプライドの塊のような皆さんで、幕末の志士らも手こずったといわれる面々のDNAが引き継がれ、その風貌にも表れていますね。薩長の功なり名を挙げた 皆さんでさえ、通い詰めたにも関わらず、お座敷をすっぽかすなどなど、当たり前。ここはまだまだ明治維新ではなく、徳川瓦解の世界だったそうです。日本橋・人形町・浜町の旦那衆がお得意さまであった芳町芸者衆にとっては田舎臭い明治の要人等は場所柄、新橋・赤坂に任せていたのでしょう。

片や、似合うに会わないは別として、芳町芸者衆にとってお好きでない東京府の要人や地元の名士らによる渡り初めの姿もバラエティたっぷりで飽きませんね。右奥の妙に洒落込んだ伊達男などまるで華麗なるギャッビーの映画から飛び出した雰囲気です。これが明治45年のセレブでしょうか・・・。

さてこの新大橋ですが、今では大動脈として機能してはいるものの、アールヌーボーの美しさなど一掃され、その名残は明治村に一部が保存されているだけです。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年5月 3日 (火)

新しさこそ価値がある。

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1952年5月3日の平和憲法施行5周年記念式典http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennpousekoukinensikiten.htm 会場で準備に大わらわなのが、新聞社・ラジオ局のスタッフの皆さんです。風俗写真としてもたいへん魅力あるショットで、とくに、純木製か木製もどきか、自動車の姿も家具に近くてよろしいですね。この意匠、バンタイプの自動車に大流行となったスタイルで、キャンピング・ピクニックのライフスタイルから発想した、いかにもアメリカンなルックスです。戦後のアメリカ経済の成長に伴う大衆消費生活の豊かさを、こんな場面でも見せ付けられていたのであります。それでも、スタイリッシュな日本人カメラマンも多く、映画の影響をそっくり真似たようなスラックスの着こなしなど、今の、アウトドアスタイル丸出しの汗臭そうなテレビカメラマンとは大違いな、ダンディぶりであります。

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2011年5月 2日 (月)

1944 江田島 海軍兵学校

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撮影:木村伊兵衛

昭和15年、日本も臨戦態勢の準備を怠り無く、海軍兵学校では一心不乱に体力増強に励んでいます。日本軍部の首脳陣のお粗末な状況分析とは別に、純粋に国家のお役に立つことだけを金科玉条として刷り込まれたこの写真に登場の皆さん。お元気であれば、90歳前後になられているものの、この時代の特訓が功を奏し、今も矍鑠として日々をお元気で暮らしておられるのでは・・・。

江田島・海軍兵学校 http://kawkaw.net/nomi/sansaku/heigakko/history.html の訓練の厳しさは半ば、伝説化されてるのでしょうが、木村伊兵衛さんの写真からは、ひたすら自分を磨く男達の益荒男振りだけが浮き上がっています。

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2011年5月 1日 (日)

1941 梅と紫陽花 鈴木信太郎

1941 かなりの季節の前倒しですが、正統的静物画として大好きな一枚です。

昭和16年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1941.htmlこの年の12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発しましが、6月頃に描かれたこの画風からは日本を取り巻く状況とは一線を画し、自分の感性の趣くまま、ひたすら純粋に美しい絵を描いた画家のいたことの証明というものが読み取れます。

この絵のタイトルを知る以前、相当長きに亘り、梅を桃と勘違いしていたのですが、どう観てもメロンとの対比からして梅には見えませんでした。

この紫陽花の量感がみごとです。花びら同士の間の隙間など描こうとしても描ききれるものではないのですが、鈴木新太郎さんは、あっさりと描いてしまいました。

全体の画趣からは、家具材の薫りまでしてきそうな、昭和10年代のちょっとモダンな和洋折衷住宅が想像されます。

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