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2011年6月17日 (金)

1873年(明治6年)銀座通り

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写真:明治・大正・昭和写真大集成

1872年2月26日、和田倉門内の会津藩上屋敷より出火し、銀座・築地方面がほぼ全焼。即座に井上馨大蔵卿と由利公正東京府知事は不燃都市を計画し、イギリス人技師トーマス・ウォートルスの設計監理で、京橋から新橋間の煉瓦街があっというまに翌年10月には誕生したのです。http://homepage3.nifty.com/oohasi/ginza.html

いかに不燃都市を目指すというものの、ここまで、懐旧の情景を逆撫でする感覚は、徳川さまにお世話になった銀座の旦那衆には屈辱的であったことでしょう。鹿鳴館など、欧米列強に媚びを売りすぎた田舎者・井上馨の欧米文化偏重指向があったからこそ、このような間抜けな銀座が生まれたのです。しかし、銀座が一躍全国に知られるのは1882年(明治15年)のガス燈点火以降なのです。

話は飛躍しますが、幕末維新ドラマを筆頭に、この変革時代の企画はよほどのことが無い限り、人気となるものの、結局は幕藩体制が薩長の中央集権に変ったに過ぎず、1868年から1945年の間に、理想とした維新の志は消え、陸軍偏重の富国強兵策とともに、私利私欲蓄財に走る山縣有朋を先頭に、旧幕藩の上屋敷など東京の一等地の殆どは薩長土佐の志士関係か、京都からやって来た公家に占拠されたも同然の姿でありました。

それにしても、この角度から観た列柱の壮大さは、笑えるほどの滑稽さですね。別のアングルから撮られた写真を観ると、この列柱と店舗の間に人が歩ける幅があるものの、大人3人が横に並んで歩くにも足りない環境なのです。

明治も中頃以降になれば、さすがに堪忍袋の尾が切れた旦那衆の中には、独自のビルにしてしまう店、この躯体に唐破風の屋根をつける店など改修も流行となり、バラバラな街並となっていきます。そして、1923年(大正12年)関東大震災であっけなく消滅してしまいます。

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