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2011年6月30日 (木)

1926 昭和1年 有楽町駅方面から日比谷公園

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和みそうな店が固まってうごめいているような嬉しくなる三角ゾーンですね。現在の東宝ツインタワー辺りですが、現在、左の道路は無く、その一角は三信ビルがあります。

白い四角のビルは1887年創業の東京ホテル。1890年開業の帝国ホテルにお株を取られ寂びれ、ブラジル公使館、日本倶楽部へと引き継がれました。1928年(昭和3年)、区画整理によってこの三角ゾーンは消滅し、現在に至っています。殺風景な現在のこの地に立っていると、東京の地勢の変化の凄まじさに驚愕する以外のなにものでもありません。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年6月29日 (水)

大正初期 須田町より万世橋駅を望む。

191144 この絵葉書の万世橋駅界隈は、関東大震災以後、現在と大幅に道路状況も変ってしまいましたが、大正3年、東京駅が開業するまでは諸車(自転車・手荷車・電車・自動車)6万台で、日本一の交通要所として、商店も活気付いていたそうです。その名残は、須田町・連雀町のグルメゾーンに今もかすかに残っています。

この絵葉書は写真の上から着色したのでしょうが、すごいリアリティがありますね。路面電車の色など多少違うとしても、町の景観を損なわない洒落た乗物だったのですね。大衆の姿も日本人らしさにちょっと小粋なパナマ帽など、神田っ子らしい和洋折衷も観られ、その気風にあわせたのか、この近辺には「ニッポンの洋食屋」さんが多かったのでしょう。

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2011年6月28日 (火)

明治末期 四谷見附より外堀通・陸軍士官学校を望む。

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Rimg32914明治時代に発売された東京名所絵葉書は、今は失せてしまった絶景スポットがふんだんに登場する上、江戸時代の名残とご一新の成果たる西欧建築とがほどよく混在していて、建築環境文化論的には和洋の二律双生が視覚的に分かり、『お好きな方々』の教典でもあります。

この眺望では四谷見附駅から市ヶ谷に抜ける外堀通がなだらかに流れています。遠くに見える陸軍士官学校は何故か薩長の軍事支援をした英国でなく、幕府側の支援をした仏蘭西の軍事教育を旨としたそうですから、維新前後の当時の事情がよく分かりませんが、日本人特有の日和見判断でもあったのでしょうか・・・。

いい景色を独り占めできる土手は今も概ね変ってませんが、この穏やかな眺望は取り戻すことなどできるわけありません。都心から自転車で世田谷に戻るときたまに走るルートですが、埋めたてられた土を掘り返し元に戻し、絵葉書の景観の一部でも堪能できるならば、この界隈だけを徘走していても充分満足であります。

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2011年6月27日 (月)

1885 浅草仲見世

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写真:明治・大正・昭和 東京写真大集成

知らないことって多すぎるのです。あの、浅草仲見世がこのような赤煉瓦街であったことなど・・・。それにしても大胆な発想であったものです。

1885年(明治18年)の撮影ですがこの煉瓦街は その年のクリスマス、12月25日に完成したそうです。左手前の梅林堂は今もこの場所で商売してますが、関東大震災でこの煉瓦街は壊滅。復旧したものの、その後昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失、今日に至っています。

関東大震災の前後でどのように景観が変ってしまったのか分からないことも多く、銀座といい、浅草といい、関東大震災・大空襲がなければこの不思議な折衷環境は現存していたかも知れません。

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2011年6月26日 (日)

1877年 品川駅は海のほぼ上。

187710 品川駅は海の上・・・。と呼んでもおかしくないようなロケーションです。素朴な駅舎には数名の方々が見えますが、みなさん、この写真撮影のために集まってきた烏合の衆でしょうか。埋め立てられてしまった今の品川からは、凡そ想像だにつかない環境です。

それでも、海の風を受けて走る汽車に乗ることのできた方々は車窓から美しい海岸線を観ながら優雅なひとときを享受していたのでしょう。湘南の江ノ島電鉄に乗って、鎌倉方面に向うとき、いつもこの写真が脳裏をかすめます。近代化によって得たもの・失ったものなど・・・功罪を問う気など毛頭ありませんが、この環境を見ておきたかったのはたしかですね・・・。

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2011年6月25日 (土)

ノーマン・ロックウエル 家出

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Runawayと題された、ノーマンさんの挿絵です。兄弟とのちょっとしたいざこざから、家を飛び出したものの、地域コミュニティがしっかりしているこの町では、大人がきちんと子供を見守っているようで、お巡りさんが男の子を優しくダイナーに連れて行って、大好きなソーダ水を飲ませて、店主と一緒に、ことのいきさつを聞きつつ相談に乗っている・・・、といった状況でしょうか。

床に置かれた布には何が入っているのでしょう。大好きなベースボールのグローブか、それとも、野宿をするための最小の荷物なのか・・・、小さい頃から独立心を育むアメリカの教育視線を、ちょっと斜め目線から捉えた秀作です。

ジーンズの素材感、当時は大人も子供も同じような髪型だったクルーカットの毛の流れ、右手カウンター奥に見えるパイレックス・パーコレーターなどなど、ディテールがたまりません。

ペンキで塗られたような店舗空間とみごとにマッチした、1958年・Saturday Evening Post 9月20日の表紙の原画です。

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2011年6月24日 (金)

格闘技のような自転車レース。

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近年のTour de Franceは先端技術と先端素材の見本市の要素もあって、規模と日数も半端なく、自動車レースと変らない業界のせめぎあいがあります。

選手のスタイルも一時代前のガッチリした体形からジャニーズ事務所のタレントのように華奢でスリムな選手ばかりが目立ちます。一概に言えませんが、フレーム、ホイール、サドル、ブレーキ、変速機夫々の機能性が飛躍的に向上し、ロス無く走ることが出来るようになった結果のようです。また、チームの走法シフトも夫々のようで、個人の負担も軽減されたのも一因です。

1972年の写真は、今日のスマートな姿とは違う、格闘技的様相を呈しています。自転車もずいぶんとシンプルで、クロムモリブデン鋼のフレームも美形ですね。トークリップの流線型は上品で、革製のレースシューズは町で歩いても違和感ないデザインで昨今のような仮面ライダー系でありませんね。

ジャージはニット製で暑いと思われがちですが、体温の調節を上手くコントロールしてくれ、感触も柔らかく快適なのです。ヘルメットなどあるわけなく、命がけで男意気を見せる峠の踊り場に向えば、後は新聞紙を受け取りお腹に入れ、体温低下を防ぐ準備が出来れば、後の下りは正に卒倒するほどのスピードで疾走していきます。

ほぼ40年前のスナップですが、監督から競技をさほど管理されない時代の、選手個人の判断が勝負を左右していた意気込みが伝わってきます。

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2011年6月23日 (木)

安野光雅・イギリスの丘

909 安野光雅さんが海外でさらっとスケッチを描いてもその出来上がりから観えてくるのは、純日本的な空気感と光の按配でしょうか。

今の季節に合うような、このイギリスの丘陵を描いた一枚にしても、柔らかいトーン・ぼかし効果が日本の風土にも見られる里山のようであり、安野さんが育った津和野の景色でもあるような雰囲気です。

イギリスの地方に行ったのは1967年と1985年の二回ですが、遠くの方まで見渡せる安心感とイギリス独特のやや暗めのトーンに覆われた地勢は確かに日本の美しい里山と酷似してますから、同じ雰囲気になっても当然なのかもしれません。

こんな景観の中をライトウェイトなスポーツカーでかっ飛ばす醍醐味を知ってしまうと、他国では味わえない自然との一体感を体感しますから、バイク・クラブマンなどの洒落た大人のオートバイ・自転車愛好家が後を絶たないのでしょう。

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2011年6月22日 (水)

美しく強い・アルフレッド ウォーリス

36_2  美しい色彩と力強い構図は、漁師稼業で体得した光景を脳裏に焼きつけ、その記憶は生涯薄れることがなかったのです。

アルフレッド・ウォーリスが遺していった絵画の多くは、手元にあった船舶ペンキやグアッシュをまぜこぜにしたものですが、誰も真似することの出来ない画趣は、自分の体験に裏打ちされたデフォルメとパーステクティブ満開の画面となっています。

かなりの曲者的絵画と思われ勝ちですが、どこでも・いつでも目の前に置いておきたくなるプリミティブ・アートなのであります。

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2011年6月21日 (火)

1949年 信州上田 木村伊兵衛

24 農業が信州の基幹産業であった頃の写真で、撮影は木村伊兵衛さんです。木村伊兵衛さんの撮影はライカ名人と呼ばれるほど、早撮りの名手で、対象の全体像を俯瞰し、瞬時に主役と脇役を分解し、写した一枚は木村さんの予感どおりになっているという逸話の持主です。

父とも戦前から交流があって、昭和30年代には、銀座・ピルゼンで同時代の画家・建築家・詩人などと集まっては、閑談・雑談・放談に明け暮れていました。後年、ピルゼンのあった交詢社ビルの秀山荘でアルバイトをしていると、裏手のトイレで用を足しながら、手際よくフィルム交換をしていた木村さんのうつむき加減の格好を思い出しました。

この写真は農家の手伝いというよりも、子供の生活の一環に取り込まれていた農作業を楽しんでいる屈託のない姿が、頼もしいですね。明るい笑顔は何時の時代でも一番の宝ですが、今では、彼等と同じ年の子供の明るい笑顔が激減しているように思うのは、私だけでしょうか。

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2011年6月20日 (月)

南仏の眩しさ。

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堀内誠一さんはどんな画材を用いても、堀内さんらしい温かくカジュアルな趣きとなって、小さな挿絵でさえも、細かく見れば見るほど、密度の濃さに感服します。

このスケッチはデザイナーがお好きなTOMBOW  ABTでスピーディに描いたノルマンディー地方・オンフルール(HONFLEUR)の港ですhttp://www.youtube.com/watch?v=_zleCHQxH-Y。デュフィが数多く描いた港でもありますが、元来スレート貼りの外壁を一軒一軒、夫々好きなように塗りたぐっていても、ノルマンディー地方ということもあって、下品にならず、明るい街並になってます。

堀内さんは実際の色彩をさらにカジュアルアップさせ、ビビッドで健康的な元気良い南仏の街並にシフトチェンジしています。

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2011年6月19日 (日)

神々しい一瞬。

E75ed87f4df40df9e02806186a9c64161 うっかりミスでこの写真のデータが何方のものか分からなくなってしまいました。

それにしても、神々しいショットです。小学生の頃観た映画『十戒』のワンシーンのようでもあり、正に天尊降臨・・・、神話の世界が展開しています。この光景に出くわした方もきっと手が震えたのではないかと思えるのですが、落ち着いて連写したのでしょうね。画面の構成が偶然とはいえ完璧ですね。

夕方に自転車を運転していて目の前に奇跡的というより他ない光景が展開したのは、高校時代の自転車合宿で八ヶ岳の夕陽を見た時でした。その光景は48年経った今も、強烈に頭に焼き付いてます。こういう経験をした方も多いとは思いますが、一瞬でも崇高な気分になれる有難さは、他に例えられない自分だけのものですね・・・。

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2011年6月18日 (土)

1872年 湯島聖堂から昌平橋を望む。

18725

自転車で川に沿ってダウンヒルしたり、併行して走ると川風のおかげもあるのか、たいへん快適にご機嫌なひとときを味わえます。といっても、東京都心では首都高に覆われてしまった御濠や川が気の毒さえ思ってきます。日中も太陽の恵みをほとんど受けず、ひたすら、日陰の哀しさに耐え忍んでいるようですから・・・。

明治5年の湯島聖堂から昌平橋を望む光景を観ると、羨ましい時代もあったのです。今もこの下り坂を車の少ない早朝に秋葉原方面に向って走れば、快適な気分になりるものの、土手も見えず、川も見えず、景観などを愉しむ坂ではありません。聖橋もありませんから、みごとなパースペクティブが展開していて、ここいらで弁当でも広げ一服でもすれば、昼寝をしてしまいそうです。

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2011年6月17日 (金)

1873年(明治6年)銀座通り

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写真:明治・大正・昭和写真大集成

1872年2月26日、和田倉門内の会津藩上屋敷より出火し、銀座・築地方面がほぼ全焼。即座に井上馨大蔵卿と由利公正東京府知事は不燃都市を計画し、イギリス人技師トーマス・ウォートルスの設計監理で、京橋から新橋間の煉瓦街があっというまに翌年10月には誕生したのです。http://homepage3.nifty.com/oohasi/ginza.html

いかに不燃都市を目指すというものの、ここまで、懐旧の情景を逆撫でする感覚は、徳川さまにお世話になった銀座の旦那衆には屈辱的であったことでしょう。鹿鳴館など、欧米列強に媚びを売りすぎた田舎者・井上馨の欧米文化偏重指向があったからこそ、このような間抜けな銀座が生まれたのです。しかし、銀座が一躍全国に知られるのは1882年(明治15年)のガス燈点火以降なのです。

話は飛躍しますが、幕末維新ドラマを筆頭に、この変革時代の企画はよほどのことが無い限り、人気となるものの、結局は幕藩体制が薩長の中央集権に変ったに過ぎず、1868年から1945年の間に、理想とした維新の志は消え、陸軍偏重の富国強兵策とともに、私利私欲蓄財に走る山縣有朋を先頭に、旧幕藩の上屋敷など東京の一等地の殆どは薩長土佐の志士関係か、京都からやって来た公家に占拠されたも同然の姿でありました。

それにしても、この角度から観た列柱の壮大さは、笑えるほどの滑稽さですね。別のアングルから撮られた写真を観ると、この列柱と店舗の間に人が歩ける幅があるものの、大人3人が横に並んで歩くにも足りない環境なのです。

明治も中頃以降になれば、さすがに堪忍袋の尾が切れた旦那衆の中には、独自のビルにしてしまう店、この躯体に唐破風の屋根をつける店など改修も流行となり、バラバラな街並となっていきます。そして、1923年(大正12年)関東大震災であっけなく消滅してしまいます。

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2011年6月16日 (木)

水道橋は華麗な装飾に。

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Photo

1911年(明治44年)に完成した水道橋は、江戸時代から続く木造橋を撤去し、装飾も美しい鉄素材に変りました。橋を支える土台の煉瓦作りと同様な姿は四谷橋に今も残されていますが、鉄と煉瓦とのコントラストも華やかさで一杯だったのでしょう。水道橋を右に行くと現在は後楽園のエンターテイメントゾーンですが、この時代は東京砲兵工廠がその威容を放っていました。

その姿は大正時代の帝都東京名所絵葉書にも印刷されてますが、さいかち坂から望むパノラマは、富国強兵の象徴のようなゾーンだったのですね・・・。1923年、関東大震災で被害甚大となり、1935年に九州小倉工廠に移転しますが、此処では小銃などの小型兵器製造を専らとしていました。その資財物流の運搬荷揚げとして機能したのが水道橋というわけです。

武器製造の場所から一転して、後楽園遊園地・東京ドームに変身するこのアイデンティティーを無視するような変わり身の潔さこそ、いい悪いは別として、ニッポンの活力の源泉かも知れませんね。

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2011年6月15日 (水)

紫陽花も自由自在に。

Photo 能装束 紫陽花模様縫箔 サントリー美術館蔵

白の平絹地の背に、多数の花を付けた紫陽花の古木が、右裾から立ち上がり左肩へと大きな曲線を見せている。この模様の配置からは、寛文以降の小袖の大模様の雰囲気が伝わる。伝統的な模様や技法が用いられる能装束であるが、時代の好みが反映していることが窺える。縫箔とは刺繍と金や銀の箔を糊付けして模様を併せて用いる技法、あるいはこの技法が施された装束をいう。本作品には紫陽花の花の間に金箔が認められる。(サントリー美術館 日本を祝う展 解説)

と、そのようなことですが、紫陽花をこのように超現実的に飛躍した表現として用いるなど、能の世界のアバンギャルド感覚は想像を超えてますね。暗い舞台にかがり火で浮き上がった舞台ではその輝きも素晴らしかったでしょう。文様意匠だけの狭い世界に留まらず、トータルエンターテイメントのアートディレクションとしてコンセプトの軸足がブレないからこそ、このような超越した感性も正統の延長として継承されていくのです。

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2011年6月14日 (火)

1953年 湯島天神裏

28 慣れ親しんだ光景があれよあれよと変わっていった1980年代中頃の東京でありますが、その代替として新規に出来上がった物件は、ほとんどが賃貸部件を複数もち、一階が建主の店舗というパターンが多く観られます。既に20年以上経ち、経年変化というより、劣化と言った方がピッタリな姿も多く、あえて何処かとは申しませんが、同時代に建て替った街並は同時代に朽ちていくのでしょうか。

建て替わるると同時に、街の薫り・臭いも変化し、四季の移ろいさえ花の咲具合でしか感じざるをえないとは、哀しい風情ではありませんか。

木村伊兵衛さんが撮った湯島天神界隈の写真には、雨に濡れた天神の石段と、明治・大正・昭和と繋がっていた木造住宅の折り合いの良い光景が記録されています。シンプルな写真でありますが、各家から茶の間の笑い声や、一服のお茶の香りがしてきそうで、慎ましやかな日本の暮しの空気感が焼き付けられています。

この場所も、今や、小さな面積ながら、ニョキニョキと林立しています。

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2011年6月13日 (月)

日銀・常盤橋 1922年

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関東大震災の前年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1922.htmlに発売された東京名所絵葉書では遠くに常盤橋・日銀が望めます。

現在、手前の一石橋は暗渠となり、呉服橋ランプとして車の出入りの激しい箇所です。この絵葉書でも江戸の名残を一掃するかのような道路拡張・土木工事が盛んですが、翌年の大震災で、天変地異となり、優先順位も大幅な変更を余儀なくされたのでしょう。一石橋の右に見える東京火災保険の煉瓦の建物を含め、ここら辺りの景観も新旧の比較を愉しめたでしょうし、日本橋川の広さに驚きます。なにせ、車で通っていても首都高に覆われっぱなしで、日中の薄暗さからして、このような景観のあったことさえ皆さん知りませんから・・・。日本橋周辺の再開発もここが目玉になってもよさそうですね・・・。

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2011年6月12日 (日)

1954年 日劇 秋の踊りフィナーレ衣裳で屋上から。

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ご健在であれば、優に80歳を超されているのでしょう。昭和29年、私が小学校に入学した年、有楽町日劇の屋上から一人の踊り子が度胸満点、縁に上って日比谷方面を望んでいます。

この写真は、日劇の裏方さんが趣味の写真を活かして撮った貴重な写真の中の一枚です。当時の銀座の写真は数多くあるものの、人間が主役で、街の環境が脇役の写真など、映画を除けば貴重なものです。

私が記憶している森永の屋上広告塔、松屋辺りから登るアドバルーンなどなど、戦後復興もようやく軌道に乗り始めたものの、1954年はビキニ環礁で第五福流丸被爆・近江絹糸労働争議などなど事件もあり、まだまだ混乱期から離陸したわけでもありませんでした。

ですから、屈託のない笑いとキッチリしたプロポーションのラインダンスを求め、丸の内サラリーマンを中心に、大いに賑わったのが日劇です。戦前も多くのスターを輩出し、伝説のステージも限りなかったこの舞台も、4年後にはロックンロールが特化、炸裂。ウエスタン・カーニバルが集客の一位となり、時代の変遷をまともに被るようになりました。

ところで、日劇の隣にあった、朝日新聞社は灰色外観のイメージした残っていなかったのですが、それは空襲を避けるためのカムフラージュだったそうで、実は1927年、出来た当時は鮮やかなイエローオーカーだったのです。戦後になっても、戦争の証を固守したのか、築地に移転するまで灰色そのままだったような気がします。

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2011年6月11日 (土)

スイスの空気は特別だった。

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画:安野光雅

毎年6月に開催されるツール・ド・スイスの自転車競技中継で、スイスの家並とともに空撮で追いかける場面になると、その美しい光景に息を呑む箇所が出てきて、その都度、1967年の自動車で走り巡ったヨーロッパ取材旅行が脳裏をかすめ、自分が運転しているような気分に浸れます。

アルプスの雪解け水が川となって村落の脇を流れている光景は、日本のような護岸工事で無機的な姿となってしまったのとは違い、中世の姿と殆ど変っていないのが、スイスのものの考え方かも知れません。地球温暖化で、氷河も年々その姿が縮小しつつありますから、いつまでも水と緑と山の姿が特別である保障はないものの、何とか維持できるように、全地球人の英知を結集していただきたいものです。

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2011年6月10日 (金)

1927年 聖橋

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1927年(昭和2年)誕生の御茶ノ水・聖橋の姿は神々しいですね。それもそのはず、ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶ橋なのですから。周辺に高い建物も見えず、神田上水を往く和船、奥に見える昌平河岸などとの対比からも、帝都復興の切口として、あっと驚くモダンさが求められたのでしょう。

昭和モダンのマスターピースとして、今も御茶ノ水橋を渡るときに見入ってしまいますが、現在この橋の美しさを手前の樹木が邪魔してますね。この土手でしたら、一年中季節変化が楽しめる低めのドウダンツツジが美しいのではないでしょうか。土手の整備を野趣に富んだ植栽にすれば、まだまだこの橋の美しさを享受できると思いますが・・・。

と思って資料を探していると、やはり昭和初期の絵葉書には、ツツジのようなものが点在していました。このスカッとする遠近感の絵葉書こそ、昭和懐旧の情景でもあります。

つくづく思うのですが、東京というところは美しい水平線のない、デコボコパノラマばかりとなってしまいましたね・・・。

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さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年6月 9日 (木)

広重 木曾街道六拾九次内 須原の夕立

Photo 木曾谷を縦断する中山道を景色を観ながら歩いていると、突然、谷が漆黒のような黒さとなって、強烈な雨に見舞われている様子が、単純な画面ながら伝わってきます。

木曾街道のシリーズは、明るい東海道の観光振興ポスター的仕上がりとは反転して、木曾の山々の間を縫っていく街道を旅する旅情感に溢れています。東海道シリーズでは登場しないシルエットで表現されることも多く、画面内のテーマ性を引き出すような趣きになってます。このシルエットの黒色もおそらく藍色を混ぜたような色味のような深みがあって、単純な影絵のようでいて、職人技は複雑技法の満載なのかも知れません。

雨に濡れまいと駆け込む農民の脚は、アスリートも顔負けするほどの絞られ様ですし、背を低くして駆け込んで来る様子から、この雨の強さと痛さが分かります。粗食で育った信州の働き者の姿が、ちらっと感じとることも出来て、リアリズムも盛り込まれています。

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2011年6月 8日 (水)

石工の意匠。

19922

19921

Rimg31664 古い写真といっても、20年前のスナップです。久我山に住んでいた頃ですが、毎年秋になるとよく出かけた三鷹の山本有三記念館です。作家としての作品世界とどうみても馴染まないそのクラシックな洋館ですが、中に入ると妙に日本染みた気配のディテールが点在していて、この建物も確信犯的和洋折衷であります。とくに建物外部に見える暖炉の煙突は大谷石ですが、そのパッチワークが独特で、長年、その印象が頭の中に残像としてありましたが、先日、自転車で愛宕通りを北上しているとき、ふと左を見るとありましたよ・・・、そっくりさんが。

どちらも石工さんの仕事でしょうが、素材感の違いを微妙に構成する感覚は経験的に裏打ちされた職人技なのです。予め、図面化したり、色彩構成を練ったりなどということをせず、現場で直感に素直に従っただけなものでしょうが、経年変化がみごとな平面構成をつくりあげました。この意匠様式について、業界では何か呼名でもあるのでしょうか・・・。

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2011年6月 7日 (火)

アルフレッド・ウォリス 『ロバがいた』

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全体を覆う暗く深い色調は英国のお国柄そのものを象徴するようですが、作者はそんなことお構いなしに身近にある画材を、それも油絵具や船舶用ペンキを併用しつつ、一連の作品を心の思うまま、記憶に正直なまま描いたのに過ぎないところが、素晴らしいのです。

家・鳥・動物の対比も実際の大きさの比率など関係なく、まるで、映画の絵コンテのようなテーマ性を前面に押し出したような作品で、一瞬、観る側の想像力が試される、極めて厳しい作品に変身してしまいます。

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2011年6月 6日 (月)

広重・高崎の様子

Photo 木曾海道六拾九次・高崎の一枚です。分かりやすい構図と、旅人とお金でも無心している輩の風俗展開が、単なる観光振興の手段としての浮世絵でなく、江戸時代の生活情報が伝わってきます。

全体の色のトーンが褪せているとはいえ、木々の漆黒がコントラストとなり画面を引き締め、却ってモダンな雰囲気を助長していています。古典的な構図ではありますが、榛名山に引き込まれるような街並の遠近感が美しい作品です。

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2011年6月 5日 (日)

1887年 市ヶ谷陸軍士官学校

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四谷見附から高力坂を下り、市ヶ谷見附に出るのが水道橋・本郷方面に向う自然の成り行きルートですが、今もこのような光景が目の前に展開しているならば、わざわざ靖国通りに直進してでも回り道して行くことでしょう。

尾張六十二万五千五百石・中納言徳川慶勝屋敷を一掃し、富国強兵のフランス式ヘッドクォーター養成機関・陸軍士官学校http://www2.wbs.ne.jp/~ms-db/other%20data/rikugun%20sikangakko.htmの洋風建築(1878年に新築)が凛々しくそびえています(現在の防衛省)。周囲の市ヶ谷本村町もまだまだ長閑ですし、明治初期、陸軍士官学校のために作られたバイパス道はさすがに風格があります。

この広い通り、今はアパレルのSAYOなどファッション関係の会社が点在し、このような光景の微塵も無く無機質なビルに囲まれ、陽射しも乏しい靖国通りの抜け道として生きています。

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2011年6月 4日 (土)

明治中期から昭和初期までの九段坂の変貌。

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写真:明治・大正・昭和写真大集成

神保町から信号が青で繋がっていれば、自転車を加速して一気上がりで靖国神社上まで上れますが、九段下で止まってしまうと、さほどでないように見える勾配も厳しいものであり、トレーニングを怠っている脚力では目眩を起しそうなほどなのです。信号待ちで左手を見れば、菊竹清訓の設計になる昭和館を、一見巨大な通気孔としか観ていない輩も多く、たしかにその姿は隣接する歴史の証人たる旧軍人会館との格差はいかんともしがたく、建築公害の典型であり、むりやり、モダンさをこのような環境化で主張する時代は、もう終りにしてもらいたいものです。

というわけで、三枚の九段坂の写真は、夫々、1892年(明治29年)・1912年(明治45年)・1935年(昭和10年)の撮影です。明治中期に建てられたニコライ堂の威容が浮き上がっていますが、これほどのコントラストであれば却って、都市のダイナミズムと云う建築評論の文脈として絶好のネタであったでしょう。その後の、路面電車、自動車の普及に因り、都市の景観が如実に変貌していくのが明快ですね。明治中期と後期の変化も想像以上ですが、やはり1923年の関東大震災の瓦解が景観を一変させてしまった様子があらためて分かります。

これが現在の九段坂です。

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2011年6月 3日 (金)

1962年6月3日 朝日新聞『サザエさん』より。

3763 以前住んでいた久我山の家に、電気掃除機がやってきたのは1961年の春でした。家電が日本経済の牽引の一翼を担い、まだ当時唯一のデンキ屋「久我山デンキ」も掛売りのような約束手形券で、地元に家電を浸透すべく営業を躍起となっていた頃です。http://www.nipponstyle.jp/column/nttr/column_12.html

「久我山デンキ」はナショナルのチェーン店でしたが、掃除機の人気は東芝がダントツでした。ナショナルこと松下電器のスポンサー・テレビ番組では泉大助とアシスタントの現・加山雄三夫人、松本めぐみの存在が新製品の宣伝係として影響も大きかったのですが、久我山の主婦層は東芝の地味なセンスに軍配を挙げていたのであります。やがて、主婦のパワーに折れたのか、東芝製品も扱うようになるという、当時としては、ややイレギュラーなナショナルチェーンの店でした。

私の家は、殆どが板張りの床でしたから、掃除機の振動音が増幅して、騒音がガラス戸にも鳴渡り、そのうるささは尋常ではありませんでした。掃除機には日本の特殊な家屋事情に対応した細かな部品が幾つもあり、畳部屋の隅の埃を吸い取るパーツやらを母が小まめに使い分けていたのですが、飼っていた犬がどうしてなのか、この掃除機を敵対する動物とでも思ったのか、近くに行くと聞いたこともない無い大声で吠えるのでした。それが治まるまで数ヶ月掛かりましたが、今でも愉快な記憶として鮮明であります。

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2011年6月 2日 (木)

1904年 木挽町から日比谷公園を望む。

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明治37年、海軍兵学校の飛ばした気球から撮影された連作の一枚です。掘割に囲まれた銀座や左手の土橋から想像しても、車は無きがごとしですし、川風などご機嫌な風情だったのでしょう。後年、銀座の中央通に柳を植えたのも、この川風に揺らぐ柳の葉が、江戸情緒を懐旧させる情景でもあったのです。

中央に大きな白いビルが見えますが、これが井上馨外務卿の要請による1890年開業の帝国ホテル。現在とほぼ同じ位置ですが、北側(写真の右側)には山下見附と日比谷見附を結ぶ堀がこの写真撮影の一年前までありました。ホテル手前の道は御堀の位置ですが、すでに埋立が始まっていることが土橋・幸橋周辺のようすから分かります。銀座の街名もまだ行政分類名でなく、きちんと江戸の名残と文化が残っていた時代でもあります。

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2011年6月 1日 (水)

この姿から生まれた誠実なアメリカン。

Nr1ノーマンロックゥエルさん(1894~1978)は若い頃から自分には絵を描くことしかないと悟り、Saturday Evening Post誌の表紙などは1916年から1963年に亘り、ほぼ連続で描かれました。

写真資料を駆使したスーパーリアリズム絵画の典型として、アメリカの歴史・社会風俗を採りいれた国民画家として、ふっくらしたキャラクターを望むアメリカ人にしては珍しく、その細面のちょっと神経質な雰囲気を、愛して止まなかったのです。

理想的な採光のアトリエで、黙々と描いている姿からは、誠実そのものな様子が窺え、家族愛・地域交流に絵画のテーマをもっていた気配が濃く漂っています。

http://www2.plala.or.jp/Donna/rockwell.htm

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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