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2011年7月31日 (日)

町に人情あり。

Fdsj 写真:1956年 東宝映画 『妻の心』

昭和三十年代は、戦前から受継がれてきた生活習慣や生活道具、あるいは風俗が徐々に消えていった時期である。「卓袱台のある暮し」「縁側のある暮し」という祖父母の代から続けられていた生活がなくなっていった。いま昭和三十年代が懐しく振り返られるのはそのためだろう。
当時の映画をいま見ると物語もさることながら懐しい暮しに目がゆくことが多い。物干台、蚊張、火鉢、あるいは夜汽車、そばの出前。東京の人間に親しまれたお化け煙突や佃の渡し、都電も東京オリンピックの頃に消え始めた。向島の鳩の街や深川の洲崎パラダイスも。
一方で新しいものも登場した。テレビ、マイカー、団地。まだ素朴な形だったが、これからは暮しがよくなるという明るさがあった。東京タワーはその希望の象徴だった。(川本三郎)

小学校3年生になった昭和30年代になると、町に自動車、それも三輪車が増えてきて、炭屋さんの道路の荷の積み下ろしなどを学校の帰りに、吉祥寺で観ていました。間もなく、ストーブの普及で炭屋さんは燃料屋さんとして冬には灯油をお得意さんに一軒一軒回るようになったものの、炭の需要も根強く、炭の入った荷箱はまだ木箱で、そこらじゅうささくれ立っていて、そのためか、軍手をした小父さんがスピーディに店内に運び入れてました。その隣の店は魚屋で、夕方には一日の商いが終り、魚を捌いた場所をホースで洗浄し、ブラシで目地に埋まった汚れを取り除いていました。面白そうに観ていると「坊ちゃん、やってみますか」などと云われ、友だちとゴシゴシ遊ばせて貰いました。吉祥寺の大正通り・昭和通り・中道通りは商店と住宅とがほどよく点在、子供の下校は毎日が新発見のようなことばかりでした。通りに面した住居もプライバシーなどの意識無く垣根が殆どで、垣間見れる縁側ではのんびりと茶飲み話でお互い相槌を打ってましたし、町の人々同士の挨拶もごく自然に当たり前でしたから、元気な子供の声をはじめ、そこらじゅうから笑い声が聞こえていました。吉祥寺駅に近づき、今も人気で混み合うダイア街のおでんだねの店からは、空きっ腹にパンチを浴びせられたような、美味しい臭いがしましたし、平和通りの石黒という自家製の飴屋さんからは、芳ばしいニッキの香りもするなど、テレビが生活行動の軸に成り出す前の、長閑な時代の街並でした。なにしろ、皆、大声で笑っていて元気でしたね・・・。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年7月30日 (土)

人の波・両国花火

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写真:木村伊兵衛

1948年(昭和23年)夏の両国花火を見上げる群集は、まだ薄闇の中、一番花火でも見上げているのでしょう。ぎっしりと埋まった船上は今にも水上に落ちそうな人も多く見受けられ、今でしたら、安全管理上、受け入れられない状態です。1733年以来、何度か中断したこともありますが、現在も隅田川花火大会と名称が変り、相変わらずの大混雑な夏の東京ビッグイベントであります。

私が両国花火のスケールの素晴らしさをはじめて知ったのは、山下清さんの貼り絵で、素朴ながら観衆一人ひとりの細かさ、花火のリアリティの表現に、画材といえばクレパスしか知らなかった頃で、子供ながらびっくりしたものです。その後、小学校3年生の夏、同級生だった小林健司君のお母さんの実家が浅草海苔の問屋さんを営んでいて、そのご縁で初めて両国花火を観ることが出来ました。井の頭線・総武線を乗り継ぎ両国駅を降り、大混雑の中、会場にたどり着くとこの写真とまったく同じ状況が目の前の隅田川にあり、その観衆の多さと歓声の大きさに、のんびり暮らしていた久我山の生活とは真逆な活力にあふれた生活感たっぷりな世界を感じ、花火そっちのけで観客の様子に興味が移ってしまい、一人ひとりの動作振りを観ているばかりでした。花火がシュルシュルと垂直に上っていくのとシンクロして顔も上っていく動きが大勢なだけに面白かった記憶があります。

今日は、両国花火大会、いや、隅田川花火大会その日・・・だった筈でしたが、残念であります。

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2011年7月29日 (金)

『ムーランルージュラ・グーリュ』 ロートレックのモダン

Photo アーティストの力量を十二分に発揮したポスターといえば、これしかございませんね・・・。

1891年にロートレックが初めて手がけた代表作として有名ですが、実寸は畳一枚以上もある巨大サイズで、普通ならビビッてしまいそうな寸法です。実際にこの寸法のままアトリエで描いたのか、あるいは、画帳に描いたものを拡大したのか定かではありませんが、生まれつきの病から小柄であったロートレックは、堂々と立ち向かい、このドラマティックなコントラストを表現しました。

ロートレックの作品には写真の手ほどきでも受けたのかと思いたくなるようなアングルと逆光表現が多く、どれも冴えてますが、この作品はその中でもやはり・・・、ピカイチですね。

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2011年7月28日 (木)

1934年 銀座

1934_9 昭和9年の陽射しも強烈な夏の午後といった頃でしょうか。此処は銀座の表通り。帽子といえば昔も今も『トラヤ』と決まっているのであります。時季的に、そして世界の帽子の流行としてパナマ帽が大流行の頃ですから、この時代のサラリーマンの画像や映像を観ていると圧倒的に町中がパナマ帽の洪水なのです。男性諸氏が帽子を被っていた時代は、結果的に明るい時代が少ないのですが、パナマ帽の氾濫する街の風俗は、視覚的にも涼感を呼ぶマナーさえ感じさせる景色でありました。

帽子の風俗は戦後も長く続き、私の子供時代の記憶にも鮮明でしたが、パナマ帽が街から消えてしまったのはそれなりの理由があったのか、一般的には整髪科の嗜好変化などといわれてますが、あるときからピタッと消えてしまったような印象があって、何となく気持ちの悪いものでした。

最近はレトロブーム、あるいは、だらけた風俗の反作用なのか、クラシックな帽子からトレンディな被り物までが街を跋扈していますが、自由な時代としては結構な光景でありますが、皆同じような格好をし、秩序と統制を尊ぶ過ぎし日の情景も景色だけ観ていれば美しいと、つい思ってしまうのであります。http://www.youtube.com/watch?v=dCWxEeL9eEo

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2011年7月27日 (水)

1958 竹芝桟橋。

1958_5 小学校5年生ともなると、さすがに母親の見送りといえども手を振るなど恥ずかしく、ましてや、テープの端と端を持ってのお別れなどは、恥ずかしいを越した男としてのカッコワルイ段階の話になってしまいました。

写真を観ても、テープは僅かしか見えず、手を振るだけの母親が寂しそうな出港となっています。千葉県岩井海岸の夏の学校は、大人に目覚めだした年頃でしたから、赤い褌の格好が恥ずかしく、全クラスの集団だからこそ乗り切れたものの、水泳技術レベルで組み分けされ、五人ほどの少人数となれば、男子はカッコウワルイことばかり気になって、水泳の技術を取得するなど蚊帳の外であったのです。私立学校の伝統からか、その風習は連綿として私世代も受け継ぎましたが、今では、その恥ずかしい想い出が佳き想い出に変換され、日々のできごとさえも鮮明に蘇るのです。

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2011年7月26日 (火)

1949 Jacques Tati

1949_jacque_tati Jacques Tatiの傑作『のんき大将』http://www.youtube.com/watch?v=IXhRPnh1JSU の扮装で写っているのはご本人ですが、この人は長身ながら映画の中で頻繁に出てくるコミカルな動きが機敏で、しかもアメリカ映画に観られる表情のわざとらしさなどなく、アドリブかと思われる一瞬一瞬の決まりポーズが何ともいえない和みを与えてくれます。

もう一つの傑作『ぼくの伯父さんの休暇』http://www.youtube.com/watch?v=_92Cm8gl7Ls は、観る側のイマジネーション次第で美しい映像の展開を如何ようにも解釈でき、この「無意味の意味センス」が時代を経ても風化しない、ナンセンスな普遍性なのでしょう。

さて、この写真ですが、解体してしまった自転車を元にもどすことも出来ず、途方に暮れているニュアンスのポーズがイカシテいますね。しかも、ずいぶんと各部品のレイアウトに集中したとみえ、散々ダメだしを繰り返した結果なのでしょうか・・・、カメラアングルからは、Jacques Tatiさんの細部への尋常ではないこだわりが垣間見れますね・・・。

些細な話ですが、私も和菓子を小皿に載せて撮影することがあるのですが、皿の真中に和菓子を置いてもレンズを通すとまったく異なる構図となり、その収まりに数ミリ単位で四苦八苦しますから、これだけの部品同士の納まりが完璧であるということは、当然、Jacques Tatiの映画のワンシーンの小道具・小物の位置にも、同様な異常ともいうべきエネルギーが投入されていたということでしょうから、又、見直すべきシーンがたっぷりとありそうです。このあたりの極小細部世界における構図感覚は、日本映画の巨匠、小津安二郎・成瀬巳喜男・黒澤明も同様なのです。

大胆さと微細さを併せもつ映画の醍醐味は、このような目と手の研ぎ澄まされた感覚から生まれ出るものなのですね・・・。

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2011年7月25日 (月)

明治22年 ニコライ堂建設中の足場からの絶景。

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22_3

写真:明治・大正・昭和写真大集成

この写真の所有者というか、依頼者であったといわれる三菱・岩崎彌之助邸が左手前に見えていて、このアングルも素晴らしい絶景ですね。もちろん現在とは道路位置なども違いますが、江戸時代の名残がしっかりと残っています。それでも富国強兵・欧化政策に便乗して財を成した皆さんの邸宅と思しき姿も点在していて、この時代の和洋混交状態も捨てがたい光景です。神田川沿いの昌平河岸から万世橋にかけてのスケールの大きな空間は当時にしては破格あったでしょう。右写真の中央やや上の更地が現在の秋葉原駅周辺で、この界隈の慌ただしい変貌振りの経過が記録されています。

万世橋の広い界隈は明治45年に日本発のターミナル駅として誕生し、大いに賑わったものの、2年後に出来た東京駅にあっという間にお株を取られ、地元の実力者達は支援した政治家をつるし上げにしたなどという後日談も残っていて、交通インフラにかかわるいざこざの種は尽きないのは今も同じですね。今は殺風景な環境となり、唯一、哀しげなアーチ型赤煉瓦が往時を偲ばせてくれます。

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2011年7月24日 (日)

1954 Fernand Leger

1954_fernand_leger ポップアートの先駆者、レジェhttp://www.youtube.com/watch?v=qYDssbfI-6I の画面には多くの男女が登場していますが、皆、とてもよく似ていることに気付きませんか。私はレジェの作品を見つつ疑問であったのですが、フランスの写真家、ロベール・ドアノーが撮影したレジェの肖像を見て分かりました。描いた本人の顔と一緒ではありませんか・・・。

とくに鼻筋と口にかけての人中部分は、全くのそっくりさんで愉快になりますね。

今もって人気の高いこの画家は、アートの垣根を払拭して自由奔放な画題と構成を存分に描ききっていて、大空間に掛けられても、その存在の強さはひけをとりません。画壇などという狭い私的機関のような存在を超越した、自己実現願望到達の典型であり、あるべき人生の処し方の大家でもあったのです。

フェルナン・レジェ Fernand LEGER

◆20世 紀前半に活動したフランスの画家。1881年ノルマンディー地方のアルジャンタ ンに生まれ、1900年パリに出る。第1次大戦での 戦場経験を元に、都市や機械、工場などを分解して再構築した。ピカソ、ブラックらとともにキュビスム(立体派)の画家と見なされる。キュビズムを代表する画家で、ピカソ、ブラックとともに「キュビズムの3巨匠」 とも称される。

しかし後にはキュビスムの作風から離れ、太い輪郭線と単純な フォルム、明快な色彩を特色とする独自の様式を築いた。絵画以外にも版画、 陶器、舞台装置、映画など幅広い分野において作品を残した。1955年、歿。

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2011年7月23日 (土)

夏の意匠・草花に雲模様帷子白麻地

Ctg

帷子:サントリー美術館蔵

余白を残すよりも埋め尽くしたい・・・、という思いがぎりぎりのところで野暮にならず華やかで愛らしく留まっています。

夏の小袖である帷子(かたびら)は、涼しげな麻生地の白さに散りばめられた絞り染めと刺繍のコントラストが生地表面に微妙な陰影を生み、全体はキリッと締まっています。この帷子を着こなすにはシャープな顔立ちと鍛えあげた体形でなければ受け付けてくれないような気迫があります。

昨今の着物レンタルの隆盛など着る者を選べない分野では、この帷子コピーがあったとして、似合わないお方が選んだとしたら大ひんしゅくを買いそうでありますね・・・。

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2011年7月22日 (金)

1910 倫敦一丁 凱旋通り

191043 百年前の丸の内凱旋通り(馬場先通り)の姿ですが、この界隈の豹変振りは凄まじかったのでしょうね。維新前は、諸大名の上屋敷だらけであったものを、宮城警護の兵舎・練兵場として更地化したものの、内乱が収まり、富国強兵のため軍事施設は赤坂・麻布に移転し、その跡地を岩崎弥太郎に払い下げした後は、一気に英国建築展示場化してしまいます。コンドルの設計による一連の建築物は、たいへんな人気となり、今も昔も、成功者の象徴としてのアイコンであり続けています。

今や、高層ビル群に囲まれ、この開放的な空を見ることはできませんが、絵葉書からも宮城までのパースペクティブがみごとであったことが分かります。

この写真は明治40年の絵葉書で石黒敬七氏の膨大なコレクションのひとつですが、他にも丸の内の写真などを蒐集していて、そのどれもが、時代の変遷を読み取るうえでも、貴重なものです。

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2011年7月21日 (木)

広重・隅田川 橋場の渡し

Photo 白鬚の渡しとも呼ばれ、隅田川で、最も古い渡し場として知られた橋場の渡しの版画です。左から煙が立ち上がっているのは今戸焼きという玩具・瓦を焼いている最中の様子で、この煙の表現は度々名所江戸百景に登場し、空間構成に意外性を採りこんでいます。ちょっと観た感じでは和紙を引き裂いたような持ち味ですが、広重独特の渋いセンスに、いつも感心するのです。この作品も年代によって趣きがかなり異なり、東京藝術大学が所有する作品には都鳥や船のぼかしがなく、空に見える藍色・浅黄色も消えていて、まったくスコーンとしています。この違いを見つけるのも浮世絵愛好家の愉しみなのでしょうが、私はただただ、ほんわかとした春気分に浸りたいだけなのです。桜が満開なのは水神の森と思われますが、桜を控えめに表した珍しい作品です。

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2011年7月20日 (水)

1951 信州上田

24 写真:木村伊兵衛

東京で生まれた私が、父の故郷である信州に連れて行かれたのは1954年の春でした。父は故郷の子供達と溶け込ませるよう、私をいろいろな場所に連れて行ってくれました。

今では、中仙道の宿場としての街並保存の代名詞となっている馬篭・妻籠の旧中仙道の石畳を父に手を引かれながら上っていると、村の子供達が、当時は珍しかったのか、東京の子供を見に街道沿いからニコニコしながら見ていたのが、恥ずかしかったことを思いだします。

その後、同じような体験をしたのが高校一年生になった夏の自転車合宿で、私の叔母(父の妹)の住む佐久市臼田町に宿泊したときでした。ドロップハンドルの自転車がまだ珍しく、しかも7台ものスポーツ自転車ということもあって、老若男女の人だかりが街道筋にあったこの家の長屋門の中まで溢れ、私たちは自転車の説明に追われたこともありました。信州人は人と溶け込むまで時間がかかるものの、一旦、打ち解け始めると、屈託のない笑顔で接してくれ、実に気持ちの良い人柄の方々が多いのです。木村伊兵衛さんの写真を観つつ、ふと、記憶の断片がよみがえったのです。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年7月19日 (火)

水彩画に想う。

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水彩画は、水を制御する技法を習得しない限り、透明感は表現できないのですが、そのあっさりとした表現がイマイチとばかり、色を混ぜすぎて、濁った画風になってしまうといった経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。何ごとにも原則というものがあって、これを踏まえない限り、いつまで経っても自己流の範疇を越せないのであります。安野光雅さんのイギリスの川面の表現などは、さしずめ、最小技法の最大効果とでも云える淡白ながら、深みのある一枚です。近場にこのような環境がありさえすれば、早朝に釣り糸を垂れてみたくなりますね。

さて、下の写真は幕末にベアトが撮影した、古川橋から麻布・三ノ橋を望む写真ですが、今はこの川の上を首都高速が塞いでいます。草の茂った辺りには鳥類も生息していそうですし、左手には当時、有名な御茶屋さんが見えます。ここでも、釣り糸を垂らした粋人を見かけたでしょうし・・・、つくづく、このまま何故、残せなかったのかという思いだけが残り、心底残念なのであります。東京の良好な自然環境は皇居周辺と一部の大学・庭園しか観られず、あとは車優先の道路ばかりというのも、情けないと思うのであります。

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2011年7月18日 (月)

品格のある村

Pro701 今や、日本全国至るところの街並が、祖先からの慣わし文化を捨て去り、目先の換金効率に溺れ、その結果、均一な商品建築が蔓延ってしまいました。

伝統文化を意地でも守り続けるにはそれ相応の志と金が必要で、その上、品性卑しからずの役人が不可欠であります。残念なことにこの国の捨て去ってしまったことを見直すには遅すぎるのでしょうが、若い世代が中心に、地道な暮らしへの見直しと実践が芽生えだしたのは、正しい選択のように思えます。

さて、このピレネー地方のコンク村の写真を見てはため息をついてしまいます。写真からも、此処に住んでいる人々の誇りさえ伝わってきますよね・・・。おそらく400年前と何ら変わらない景観なのでしょうか・・・。http://www.geocities.jp/sjwatabe/conques.html

自転車レースの最高峰、ツールド・フランスの中継にでも出てきそうな場所ですが、・・・そうそう、ツールド・フランスといえば、ヘリコプターからの画像を通して選手の一団が流れるように映る美しさも素晴らしいのですが、同時に、白眉はヨーロッパの素晴らしい景色・景観を堪能できるところですね!!!。

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2011年7月17日 (日)

1888・長崎絶景

1888 横浜・山手界隈の丘から一望できる海のパノラマには、高速道路が邪魔をしたりと、昔ほどの一望感は薄れてしまいましたが、わくわくするのであります。優雅な帆船の類は、よほどのことが無ければ立ち寄ることもないのでしょうが、この明治21年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1888.htmlの長崎一望のショットを、もし現実に見ることができたならば、その興奮たるや、尋常ではなかったでしょう。当時の最先端の船が諸外国からこのようなラッシュ状態であれば、その数だけ外国人もこの港界隈にウロウロしていたわけで、『毛唐』などと呼んでいた時代の平民気分が良く分かる気がいたします。

街並も幕藩体制時代と何ら変わらず・・・、と言った中で、少しずつ、庶民生活に西欧の風俗文化がそれまで以上に隆盛している頃であります。

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2011年7月16日 (土)

1956 マジックインキ、フル回転

Rimg25984 1956年、小学校3年生頃に突然生徒間で大流行したマジックインキは、筆記具というよりむしろ画材として、それまでなかった色彩と自由にさっさと描けるという点から、春休み・夏休みの自由課題にうってつけの必須アイテムでした。

この絵は、マジックインキの面白さの誘惑に負け、目の前の景色を自分なりにアレンジしまくっているが如くであります。よく観ると、どこかの船着場、もしくは港のように見えます。当時の日記を読むと、私の親戚が東横線・白楽に住んでいて、そこに遊びに行って、横浜に出かけてますから、そのときの様子かも知れません。いずれにしても、目の前の景色をアレンジし放題で、マジックインキの実験絵画教室のような有様です。父の保存状態が良かったため、退色もさほどでなく、当時の新製品を使っている様子の鮮度が保たれています。

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2011年7月15日 (金)

船に乗って山登り。

Rimg30671 1936年、豪華客船Queen Maryから下船する旅行者の背中には、私世代には懐かしいキスリングとアイゼンらしき道具が見え、この人が登山家であることを示唆しています。

豪華客船は階級差の明快な世界であり、船長に絶対の権限行使が委ねられてましたから、三等客室ゲートから出てくる皆さんには厳しい扱い格差の疲れが見えてますが、さすが山男の御仁は、世俗の煩わしさなど関係ないような屈託のない笑顔で、すでに心は天山を歩いているかのごとくです。

この御仁のトランクに貼られた世界のステッカーからして、世界の名山を登る著名な登山家かも知れませんね。

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2011年7月14日 (木)

ボストン 1965年。

Boston_harvard_square_67 夜ともなればシャッターが下りて、各お店は真っ暗となれば、散歩の愉しみ・ウインドーショッピングも間々ならず、賑やかな人の出入りはコンビニばかり・・・、といった光景が目に入ってくる昨今の商店街ですが、それでも昭和40年代までは、全国、活気のあった商店街に溢れていたのです・・・。

昭和30年代中頃から、若い世代にとって欲しいものが街にあふれだし、それを求めようとする同好の仲間が集まり、その輪がさらに広がって、街を飛び出して週末の宴となっていった景気の右肩上がりは、もう、遠い記憶の彼方へと消え去ろうとしているのです。先日、仕事の関連で日本近代の風俗史を調べているうち、この20年間の閉塞感はおおきなものを失ってしまったことが明快になりました。ひとことで『志の喪失』です。国家も個人も地域も、目先の処理にばかり追われるうちに、大義・道理・勝算のバランスさえ捨て、何しろ自分だけのことしか思考回路が回らなくなり、実態は水没中であります。生活面では、買いまわりが恥ずかしいように揶揄され、最小アイテムの最大効果といわんばかりに、組合せ編集力が消費者に求められるようになってしまいましたから、売れる数そのもののパイが小さくなってしまったのです。

1965年のボストンの街中のスナップを見ていると、消費は美徳であった時代の、元気に明るい社会の健康さが読めるようです。

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2011年7月13日 (水)

アルフレッド・ウォリス 『ファル川』

8 イギリスはコーンウォール州・デヴォンという港町を描いたウォリスの作品は港・橋・船とそのモチーフも多く遺されています。

漁師の時、船上から観てきた記憶を一気に吐き出すように描き続けた、一連の画趣には、素晴らしい気配というものが封じ込められていて、素朴ながら凄みが同居しています。

ありあわせの船舶用塗料や封筒・ダンボールを使った作品には、絵のもつ魅力というものが専門家とはまったく違ったベクトルの先端で輝いています。

『ファル川』と題されたこの作品も叙情的で、紀行絵画のような素晴らしさがあります。

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2011年7月12日 (火)

日本の伝統パッケージ

Photo_6 『卵つと』と呼ばれていた山形県の卵・パッケージの、おみごとな姿であります。

流通の変化により、プラスティックや環境問題からパルプ・モールドなど時代の波と同調して包装素材も変わりましたが、この姿はきっと生産の場と消費の場が同じ生活圏にあったのでしょうし、農家の副業として卵の販売が許されていたからこそ、藁の素材が有効だったのでしょう。まさに、農村文化のひとつの表れがここに写真として遺されているのです。高速道路・新幹線と、インフラ整備と引き換えに、流通革新が生まれ、モノも人も自由自在に移動し出した結果、伝統的なるものごとがあっという間に消し飛んでいったのでしょう・・・。

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2011年7月11日 (月)

大正初期 須田町通り

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Photo

大正初期の東京名所絵葉書には「神田須田町通り 」とタイトルがあるものの、現在の何処かと問われても、よく分からないのですが、おそらく明治時代の地図で見当つければ、現在の須田町交差点から日本橋方面に向って撮られたのではないでしょうか。

靖国通りもこの頃は存在してませんし、自動車など皆無状態。人力車が堂々と移動し、番頭さん、丁稚どんが慌ただしく自転車でお客さんの注文取りなどに忙しそうです。通りの左手には、異国情緒満開な店舗が並んでいて、この界隈が当時、東京の一二を競う繁華街であったことを裏付けてくれます。

それにしても、現在と明治時代のこの界隈の道路の変貌もすごいものですね・・・。

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2011年7月10日 (日)

郵便物のデザイン。

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写真:BRUTUSRimg29177

一年に二回ほど雑誌の整理をしながら、とっておきたい特集などを切り裂き別のファイルに容れますが、やはり5年以上前の雑誌には、編集者のこだわりと執念が内容にも反映されているように思い、逆に、昨今の雑誌は広告扱いが減少した分、手もみするような「よいしょ企画」もありありといったところでしょうか。

切手コレクターでもある柳本浩一さんhttp://openers.jp/interior_exterior/yanagimoto_kouichi/index.html  http://metabolism.jugem.jp/ が、海外から持ち帰った郵送物のデザインが掲載された2003年のBRUTUS(537号)「切手デザインをなめるなよ」も秀逸な一冊で、切手を中心に郵送物のデザインに関して、かなりのデュープな執念が観えます。

さて、現在とくにそうですが、日本の切手のグラフィックの貧弱さは止まることを知らず、その幼稚さとマンネリ化は、美しさの微塵もないのと併行し、絶望的でもあり、その概要はこの号で一目瞭然であります。最近は、切手を貼って投函することも少なくなり、メールが主役の時代となってしまい、又、宅急便が小荷物郵送の中心となってますが、この世界でも、海外の小包箱からステッカー・タグにいたるまでの美しく、視覚伝達の基本をおさえた優れたデザインが目に付くばかりであります。記入する際の優先順位も世界の誰もが分かる親切心がディテールに反映され、印刷物にも無駄のないアスリートの身体のような機能美があることを改めて教えてくれます。

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2011年7月 9日 (土)

Boston Harvard Square

Boston_harvard_square_11

1950年代のボストンの繁華街の写真ですが、第二次世界大戦後の成長エネルギー全開な空気がインテリの町にも伝播していますね。

ビルの一階のお店も、トラッドな街並そのもので、ウインドーショッピングも楽しそうです。自動車もこの当時の西海岸とは雲泥の差・・・、やはり知的でありますね・・・。

銀座並木通りやみゆき通りも、この雰囲気が1970年代までありましたが、気付いてみると、まったく面影の無い街並になってしまいました。並木通り・資生堂本社の向かいにあった銀座・TIROLも、この雰囲気をもった街並のなかでひときわ光彩を放っていた狭い一軒でした。一年中、スキー・ゴルフ・テニス・などのスポーツアイテムで、狭い店内は見たことのない仏蘭西・伊太利のハイエンド商品が、ケースの上からこぼれるばかりに満載でした。

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2011年7月 8日 (金)

帯の文様もここまできているとは・・・。

1 Rimg32446日本の伝統文様を調べていると、百済からもたらされた仏教美術・仏教建築に携わる技術集団が来日し、奈良時代には国際的な多彩な意匠が登場します。その後、平安時代に入ると、日本独自の美意識と構成による優美で情緒的な文様が生まれ、鎌倉・室町時代には武士階級の勢力拡大に伴い知的で構成的な意匠へと変わっていき、安土・桃山・江戸と変るにつれて、外国意匠の取り入れ、斬新な琳派の登場、町人の洒落を採用するなどなど・・・、狭い世界でありながら、その時代背景と密接に繋がっていることを改めて感じ入ったのであります。

昨年、ホテル・オークラの衣裳室を見学する機会があり、日本の伝統美が最も凝縮されている帯の奥深さを再認識させられました。京都の帯も斬新な琳派文様が定着し、留袖とのコントラストもますます、アバンギャルドであります。方や、伝統的雪輪文様も通年の縁起良い記号として定着し、輪郭線の中に宝づくしが盛り込まれるなど・・・、普段あまりご縁のない世界も、時代の流れを受け入れて進化しているのであります。

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2011年7月 7日 (木)

 エドワード・ホッパー 海辺の部屋 1951

Rimg29758 エドワードホッパーさんの描く都市環境の細部には、隠し味のような描写があって、それを見つけるのが愉しみという方々が多いのにびっくりしたことがあります。

都市生活のもつクールな面にみごとにマッチする孤独感・寂寥感をシンプルなタッチで表現するホッパーさんは、何故このような表現を思いついたのか、不思議であります。優れたアーティストが持つ独特な社会観・世相観から湧き上がるイマジネーションをキャンバスにダイレクト一歩手前で抑えるホッパーさんのセンスは、お仕着せがましくないだけに、モダンな画風を通して、いつも新鮮です。

この作品は、Rooms by The Seaと題された一枚ですが、海辺の部屋を切り取った画面からも、開放感というよりも、閉塞感が先にきてしまいますし、左のソファーの質感と右の海の質感とが温かさと冷たさのコントラストを形成し、人間心理の何かを象徴しています。

この作品を観ていると、以前、ベランダのすぐ下が海というホテルに泊まり、快適な気分を味わってたのですが、翌朝、外に出ると、波間に見え隠れする反射の感覚がやけに不気味だったことを、思い出させてくれます。

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2011年7月 6日 (水)

明治末期 帝国劇場 警視庁

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もし、この威風堂々たる西欧建築が現存していれば、自転車徘走しながら立ち止まっていると、職務質問でもされそうな威厳のあるゾーンですね。

明治末期の日比谷通り、帝国劇場と桜田門の移転する前の警視庁の姿を馬場先門・凱旋道路から撮影、彩色された東京名所絵葉書です。帝国劇場は1911年(明治44年)、横河民輔の設計により落成、関東大震災でも持ちこたえ、1966年(昭和41年)に谷口吉郎の設計で現在に至ってます。方や、赤煉瓦の警視庁は関東大震災で壊滅、1931年(昭和6年)に現在地で新庁舎落成。尚、この絵葉書の警視庁の場所には、現在、第一生命があります。

今も御堀の涼風は一年中爽やかで、柳並木の優雅な動きとともに、周りの喧騒を忘れさせてくれます。御堀側の歩道は人通りも少なく、ふと、エドワード・ホッパーの都市の寂寥感が脳裏をかすめます。馬場先門からの眺めは建物が近代化してしまった以外、ほぼこの雰囲気が守られていて、皇居石垣との対比は、渋いものがあります。

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2011年7月 5日 (火)

大正初期 現在の泰明小学校より新橋方面を望む。

PhotoUg Rfcvg_2いい景色だったのですね・・・。大正初期の帝都東京名所絵葉書は彩色された稚拙な仕上がりですが、レトロ感は十二分にあって、このタイプを「お好きな方々」には垂涎のコレクターズアイテムであります。

この場面は、現在の銀座・泰明小学校正門辺りからコリドー街・新橋方面ですが、初代帝国ホテルが列車の後ろに見えています。線路が敷かれる前はこの御堀とともに西欧建築の絶景ポイントとして有名な場所でありましたし、現在の場所とはずいぶん違っていたのです。

この赤煉瓦は今も一部健在で、居酒屋などが軒を並べた飲み屋街の雰囲気とよく似合っています。ついでに、現在の山手線の高架下にはハイヤー会社からバーまで混在していて、ちょっと時間の止まってしまった気分が味わえます。

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2011年7月 4日 (月)

私の食物誌

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以前、文庫で読んだ本を、単行本に買い換えて読むと、同じ文体であるものの、言葉以外から伝わってくるものが違うことに気付きます。装丁の力なのか、組版の違いなのか・・・、同じ情報内容であるながら、受ける側の印象は別物なのであります。

電子出版のトレンドは進化することはあっても、退化するなど考えられない時代となったものの、一冊、一冊の紙から伝わるものは違いがあって当然で、利便性と文化性の違いとでも云っておきましょうか・・・。

吉田健一さんの名著『私の食物誌』は昭和40年から46年にかけて、読売新聞に連載されたシリーズをまとめたものですが、高度成長時代のど真ん中の食に関わる和と洋の対比、慎ましかった日本食文化が洋風化に傾斜していく流れなど、吉田さん独特のユーモアとひねりを加味して、伝わります。日本全国の美味しいもの・旨いものに対して、このような視点・観点があることを改めて認識させてくれますし、言葉の達人として読み手に広がるイメージの拡散など、その文体の品格が素晴らしいのであります。

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2011年7月 3日 (日)

1970年・ヒット家具

197002 1960年代後半から1978年頃にかけて、伊勢丹はオリジナル家具開発に力を入れ、商品研究所(インダストリアルデザイン研究室)のコンセプトとデザインを差別化商品の錦の御旗として強化していました。時代は週休二日制が浸透しはじめの頃でしたが、余暇を遊ぶだけでなく、お勉強もしなければ取り残されるサラリーマンの宿命をテーマに生み出されたヒット商品が、これです。

この商品は「、コーナーデスク」と呼ばれ、たとえ限られたスペースであっても、自分の書斎を持ちたいというささやかなサラリーマンの願望をカタチとしたものです。1970年に発売と同時に、洒落た新聞広告の力もあって、週末は、御約上済みの赤いシールがこの机の角から床まで垂れ下がるほどの人気で、あっという間に、コピー商品が出回っていきましたが、10年近くヒットし続けたロングセラー商品です。

小売業をバックボーンにもちながらの商品開発は宣伝媒体とリンクし、時代のトレンドを伊勢丹の看板であるファッション以外にも発信し、この広告も地味ながら、ライトパブリシティのセンスと職人技がヘッドコピーや決め細やかな椅子の影に表れています。

自ら時代潮流を読み取り企画し、デザインし、販売現場と宣伝部と一体になり繋げることのできた、佳き時代の記録の新聞広告です。

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2011年7月 2日 (土)

旧・箱根寮 1955

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初めて学園の箱根寮に夏の学校で出かけ、寮の北側の丘を登って見える芦ノ湖のを含む展望の素晴らしさに仰天してしまいました。

芦ノ湖半にあるその寮は、戦前からの木造の質素な建物で、南北はガラス戸と雨戸の枚数が多く、それらを開閉するのも一仕事でした。当番など決めず、『自主的に率先して行動することを良し』とした伝統校風を重んじていた時代でしたから、起床から就寝まで、大まかな日直は決められたものの、作業などは気付いた者が粛々として始末してました。

今は、乗風台と呼んでいたこの丘も立派な建物が建ってしまい、英国・湖水地方に最も近い景観と言われた環境も、この建物が邪魔しています。

1955年・夏の学校には初めて『マジックインク』を持参して、目の前に展開するパノラマを無視して自由奔放に夕方の様子を描いています。このインクの臭いは強烈でしたが屋外ですと臭いも飛んでいき、室内で窒息しそうなほどの思いもせず、快適に描ききりました。

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2011年7月 1日 (金)

1957 武者小路実篤か熊谷守一か

Rimg26039 父の葛篭箱から出てきた私の小学校時代の絵の中で一番不思議な一点といえば、これです。

いつ、どこで、ということなどまったく記憶になく、角に表記されたナンバリングさえ、分かりません。

おそらく、夏休みの宿題かなにかで、父の持っていた武者小路実篤、もしくは、熊谷守一の画集から、私が気にいった一点を描いたのかも知れません。

10歳頃の絵でなかろうかと思いますが、あまりに枯淡の境地になりきっているところなど、今から観ると、微笑ましくもあり、気持ち悪くもあり・・、といったところでしょうか。それでも、黄色で塗りつぶした背景のバランスが絶妙ではありますが・・・。

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