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2011年7月31日 (日)

町に人情あり。

Fdsj 写真:1956年 東宝映画 『妻の心』

昭和三十年代は、戦前から受継がれてきた生活習慣や生活道具、あるいは風俗が徐々に消えていった時期である。「卓袱台のある暮し」「縁側のある暮し」という祖父母の代から続けられていた生活がなくなっていった。いま昭和三十年代が懐しく振り返られるのはそのためだろう。
当時の映画をいま見ると物語もさることながら懐しい暮しに目がゆくことが多い。物干台、蚊張、火鉢、あるいは夜汽車、そばの出前。東京の人間に親しまれたお化け煙突や佃の渡し、都電も東京オリンピックの頃に消え始めた。向島の鳩の街や深川の洲崎パラダイスも。
一方で新しいものも登場した。テレビ、マイカー、団地。まだ素朴な形だったが、これからは暮しがよくなるという明るさがあった。東京タワーはその希望の象徴だった。(川本三郎)

小学校3年生になった昭和30年代になると、町に自動車、それも三輪車が増えてきて、炭屋さんの道路の荷の積み下ろしなどを学校の帰りに、吉祥寺で観ていました。間もなく、ストーブの普及で炭屋さんは燃料屋さんとして冬には灯油をお得意さんに一軒一軒回るようになったものの、炭の需要も根強く、炭の入った荷箱はまだ木箱で、そこらじゅうささくれ立っていて、そのためか、軍手をした小父さんがスピーディに店内に運び入れてました。その隣の店は魚屋で、夕方には一日の商いが終り、魚を捌いた場所をホースで洗浄し、ブラシで目地に埋まった汚れを取り除いていました。面白そうに観ていると「坊ちゃん、やってみますか」などと云われ、友だちとゴシゴシ遊ばせて貰いました。吉祥寺の大正通り・昭和通り・中道通りは商店と住宅とがほどよく点在、子供の下校は毎日が新発見のようなことばかりでした。通りに面した住居もプライバシーなどの意識無く垣根が殆どで、垣間見れる縁側ではのんびりと茶飲み話でお互い相槌を打ってましたし、町の人々同士の挨拶もごく自然に当たり前でしたから、元気な子供の声をはじめ、そこらじゅうから笑い声が聞こえていました。吉祥寺駅に近づき、今も人気で混み合うダイア街のおでんだねの店からは、空きっ腹にパンチを浴びせられたような、美味しい臭いがしましたし、平和通りの石黒という自家製の飴屋さんからは、芳ばしいニッキの香りもするなど、テレビが生活行動の軸に成り出す前の、長閑な時代の街並でした。なにしろ、皆、大声で笑っていて元気でしたね・・・。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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