明治12年 久松座繁栄之図(現・明治座)
明治座は明治13年2月4日、久松座時代に類焼し、更に23年5月6日千歳座時代に失火で焼失、大正12年9月の関東大震災での焼失、昭和20年3月10日の大空襲での焼失、それに昭和32年4月2日失火焼失と5回の焼失にみまわれました。大劇場として、江戸時代はともかく、明治以降で、この様に焼失をくりかえしたのは、都市東京における出来事として大きな事件として記憶されるべき事と云えましょう。
昭和20年3月9日・10日の大空襲は、東京に大打撃を与えたのですが、明治座も焼失したことは云う迄もありません。復興で東京が活況を呈するに至った24年、明治座も11月復興に着手、25年12月海老蔵(団十郎)、羽左衛門などで、「忠臣蔵」を晝の部、夜の部での通し上演で大好評を得ました。それ以降、順調に多くのファンを集めていったのですが、昭和32年4月2日、また、出火で焼失。直ちに復興にかかり、33年2月竣工、3月の新派の一座で開演、多くの観客をよぶようになったのです。こうして明治座は浜町・久松町一帯の人々と共に歩み、平成5年に新しく再建されて美しい姿を見せ、芝居好きの人々を喜ばせています。
1879年(明治12年)三代広重による久松座の堂々とした姿の錦絵です。この錦絵にも、新時代の息吹が華やかな風俗画として表れています。この芝居小屋は何の因果か、明治から昭和に至るまで、幾度と火災・震災・空襲に見舞われ、なかなかこの地に落ち着くことができなかったようですが、翌年の火災のため一年しか存在しなかったこの久松座が、ハレの場としての美しさをふりまいています。
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