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2011年8月31日 (水)

桜田門から参謀本部を望む

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井上安治

明治期の文明開化は、人々の生活のみならず、浮世絵版画の世界にも、新たな光をともしました。それまでとは違う、新しい空間表現、水や光の描写。何度も版を重ねて微妙な陰影がつけられた作品は、「光線画」と称して人気を呼びました。その第一人者であった小林清親に、明治11年(1878年)15歳の井上 安治は入門しました。清親は大判のサイズで「東京名所図」という揃い物の版画を発表しており、それを引き継ぐような形で、安治は、同様の作品をハガキ版という約4分の1の大きさで制作したのです。スナップ写真風に、名所やそこに集う人々、時間や季節の経過を切り取った図柄は、清親の作品をそのままなぞったものも多く見られますが、版が縮小されたためか、人物や描線がいくらか省略されより引きしまった作品となっています。隅田川、両国、浅草、上野などのんびりとした光景の間に登場する駅や鉄橋といった洋風の建築が、江戸ではなく東京という都市がもたらす新鮮な空気を感じさせます。(府中市立美術館)

知らない世界はまだあるものです。世田谷中央図書館の版画の棚にあった井上安治という版画家のことなど全く知りませんでしたが、彼の『明治東京名所絵』をめくっていると江戸の浮世絵を引継ぎながらも、新しい時代の空気を表した東京の光景が展開しています。後に多くの東京名所絵葉書に登場する観光スポットのアングルの典型を作り上げたようですが、その名前を知る人も殆どいないようであります。光があたって出来る人影を影法師といいますが、師匠の小林清親から習った影のあしらいがモダンな要因かも知れません。

夏の早朝、皇居桜田門から望む国会議事堂方面の光景はこの絵葉書と全く変らず、唯一、陸軍参謀本部の建物が1945年の空襲で消滅してしまったのは景観的に残念ですが、今も気持ちよい東京の定番アングルです。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年8月30日 (火)

東北の港 1950年代

195506 うねってしまった波止場の木製のデッキは、大波でも来たら放り出されてしまうこと間違いなしの気配ですね・・・。父の撮影した陸前高田市・広田港と思われる一枚も、5月の撮影とはいえ、東北の厳しい自然環境を捉えています。この画面の構図もアカデミックなツボを押さえています。

父が1952年に田村茂氏から譲られたライカⅢfは、現在、私の手元に在りますが、そのコンパクトなボディと、通称、軍艦部と呼ばれる機能凝縮した部分に、光学・技術の粋が美しく詰まっていて、時々、桐箱から出しては、磨きながら悦に入ってます。60年近く経っているものの、その優美なスタイリングは当時の先端性とドイツらしからぬエレガンスが感じとられるからこそ、今も、途絶えぬ人気が別格なのです。

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2011年8月29日 (月)

折衷感覚の教科書

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折衷感覚とはいうものの、様式史・風俗史・素材史などを咀嚼して、自分なりのアレンジをした、マーガレット・ハゥエルさんのリビングルームの一角ほど、みごとなまとめ方はありません。だいたい、室内のコーディネートには意図的な作為が見え隠れするものですが、彼女の生み出すファションと同じ延長上の『簡素であるが質素ではない』という生活の心地よさが漂っています。

デザイン学生向きの講義的表現とすれば、「古今東西、その時代時代の民芸としての道具と、相対する装飾性とが響き合うオフビートな現在感覚」とでも言ってしまいましょうか・・・?。

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2011年8月28日 (日)

1937年 千駄木

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写真:木村伊兵衛

日本の生活のメリハリを司っていた四季の移ろいは、二十四節気http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/24doc.htmのように細分化され、小まめに切り替えていた暮しの知恵も、今では、すっかり様変わりしてしまい、街の風情も通年変らずといった様相ばかりです。

木村伊兵衛さんが撮った昭和10年 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1937.html 、文京区千駄木商店街の様子は、女性の着物姿がお約束の季節柄を周囲に振りまいて艶やかです。いかに旧暦から新暦に変えるなど明治以降の欧化の波が浸透したとはいえ、庶民はまだまだご一新前の生活習慣を継承していたのです。鮮魚屋さんですから、今と違って生臭さも強烈なようですが、この艶やかさのお蔭で帳消しですね・・・。

この頃、日本国の進路に警戒をもつ諸外国は大使館付の諜報部員をもぐりこませ、密かに市井の生活をも詳細に報告していたようですから、この街にも外国商品の店を商いながら、キョロキョロしていた御仁も居たのかも知れません。

この20年後には松下電器チェーン店も全国に広がり、テレビも(一般的ではないとしても)出回るようになるなど洋風生活の大衆化が押し寄せ、高度成長に向いひた走りとなっていきます。

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2011年8月27日 (土)

1957 父のクロッキー

19574 1957年、小学校4年生の夏に父が木炭で描いたクロッキーが、手付かずの荷物から出て来ました。

板張りのリビングにあったソファーは、戦後の混沌としていた時代に荻窪の旧家が家財道具を売るということとなり、その話を聞きつけた久我山の地主さん父も出向いて購入したというものです。構造は楢材の木組のためたいへんな重さで、知り合いの材木屋に頼んでトラックで運んで貰ったとのことでした。この場所に鎮座して以来、ほぼ40以上、一度も移動しなかったつわものです。

紆余曲折していた戦前と違い、戦後間もなく出版編纂の仕事が始まり、徐々に多忙となり、自分で本業と考えていた絵を描くことが覚束なくなり、手の運動を鈍らせまいと、頻繁に手じかのもののスケッチの類を書き溜めていたのです。それでも、生涯に私を描いたのはたったの一枚、それも、簡単なクロッキーだけというのも、妙なはなしではあります。

出版編纂から解放され、父が本格的に絵を描くようになるのは1970年頃ですから、その間はひたすらスケッチと雑誌のスクラップ、そして自分の芸術探求模索の手立てとして、芸術・哲学・世相などを日記に付けていたのです。

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2011年8月26日 (金)

船の模型作りを手伝わされ・・・。

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突然、予想もしていないような難題を頼まれた経験のおありの方も多かろうかと存じます。多少なりとも経験のあることならば問題なしとしても、それが、門外漢だからといって、断りきれないこともあるのですよね・・・。

今から12年前、友人の息子さんの夏休み自由課題として、リクエストされた船の模型作りには正直、参ったなあ・・・、というのが本音でありました。船は全くと云って良いほど何の知識も無く、その構造さえ把握していなかったのですから。

そういうわけで、とりあえずマンガのような絵を自由に描きつつ雰囲気を掴んでから、息子さんと図書館や横浜港に出かけて、最終的にはこの絵に近い模型を紙とバルサで作りました。私は軍艦、とくに日本帝国海軍の軍艦に関しては小学校高学年から一時、のめり込んだこともあったのですが、それ以外の船については疎いもいいところで、結局、漁船とモーターボートの合体したような模型となりました。

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2011年8月25日 (木)

アルフレッド・ウォリスの船の絵

23 おそらく、部屋の中に置いてあった厚紙に直接油絵具と石墨(チョーク)という意外性のある組合せの画材で描いたのでしょうか・・・、『四人の船員の乗った三本マスト船と四頭のイルカ』と題された、アルフレッド・ウォリスの絵はさすがに元船乗りであっただけに波のうねり・雲の被さる感じが臨場感を以ってこちらに迫って来ます。

半乾きの状態の油絵具の上から白のチョークでハイライトを着けたのが、波の表面のボリューム効果を倍加させていて、そちらに目が移ってしまい、波間に見え隠れするイルカに、気付かないほどです。

さらに、船と船員との極端にアンバランスなプロポーションが、この絵のストーリーを語っているかのようで、ただひたすら真っ直ぐ進んでいる船の絵なのですが、気持ちうつ伏せ加減な船員の姿勢が、画面にスピード感をもたらせてくれます。

渋い中にもぐっとくる絵とは、このことでしょうか・・・。この絵もあまりの純粋な心で描かれていて、観ているだけで日々の作為だらけの仕事の俗っぽさを反省してしまいます。

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2011年8月24日 (水)

夏休み絵日記・1955

Rimg26031 「8月24日。きょうのゆうがたぼくはともだちとふたりでとこやにいきました。すこしこんでいたからぼくとともだちとでほんをよみました。ぼくのほんはかばだいおうさまでした。ぼくのおもしろかったのはかばだいおうさまがそばやになったところでした。やっとすいたからぼくとともだちはいすにすわってあたまをかりました。はぢめはしろいきれをかけてかりました。おわりにかおをそってからともだちのおわるまでまちました。そうしたらおとうさんがとこやさんにきました。それからあめがふってきたのでぼくとともだちとふたりでさきにかえりました。すこしたってからぼくはおとうさんをむかえにいきました。おわり。」

1955年(昭和30年)頃、久我山の床屋さんといえば、駅を降り人見街道を南下して坂を上りかける手前の左にあった、『大川理髪店』だけだったかと記憶してます。戦争が終り10年も経つと、少しずつ町も元気になり、新しい店も増えてきました。この『大川理髪店』の隣は『久我山デンキ』というナショナルチェーン店で数年後にはテレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電ブームが到来し、久我山界隈のニーズを独占、大繁盛し、あっという間に坂の途中に立派な独立ビルの店舗を構えてしまいます。かたや、大川理髪店の店主は、時代の潮流にも同ぜず、めったに笑いもしない強面の職人気質でしたから、やおら髭剃り刃を革のベルトのようなものでピタピタと研ぎ始めると、内心、怖かったのでありました。

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2011年8月23日 (火)

1882 京橋

1882 東京で働いている息子が送った東京の錦絵を見た実家の家族は仰天したでしょうね・・・。馬車仕立ての路面電車、着物姿と洋服姿が混ざり合う東京の魅力、西欧建築が大通りを占拠・・・。

錦絵は地方に住む実家の皆さんにとって、最上の情報源でもあったので、画面詳細部分もきちんと事実に基づいていて、それが今見ていても、飽きない理由なのかも知れません。関東大震災で壊滅してしまった多くの建造物も、錦絵という独自な平面グラフィックの世界で記録されているのが素晴らしいことでもあります。

この錦絵でも女性の時代に対する積極的反応振りが容姿に表れていますね。おそらく維新後、一気に町に西洋色が氾濫しだし、江戸情緒も忘れられ、西洋文化の物品が氾濫し始め、この通りなどは博覧会気分で散策できたでしょうね。各お店の警備も手薄だったでしょうから、店主みずから夜警もせねばならず、寝不足気味の旦那はとりあえず毎朝珈琲を味わっては戯言を楽しんでいたかも知れません。

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2011年8月22日 (月)

DUFY・田園の音楽家たち

Dufy10 デュフィにしては珍しい収穫期の田園をモチーフとした1948年から翌年にかけての作品です。デュフィ独特の単純化した線と大胆な構成が、確かなデッサン力をみせ、牧歌的風景をモダンなデザインのように見せてくれます。

この作品はポール・バレリーの『田園詩』の挿絵のひとつでありますが、ファッションイラストレーターとしての経験が、着ている衣服のニュアンスにも生かされているようです。

どんな作品にも、ちょっとした細部に細かな職人芸のようなこだわりがありながら、ひとつの洗練さとデザイン性を垣間見ることができるからこそ、私はデュフィから目がはなせないのであります。

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2011年8月21日 (日)

明治12年 久松座繁栄之図(現・明治座)

1879 明治座は明治13年2月4日、久松座時代に類焼し、更に23年5月6日千歳座時代に失火で焼失、大正12年9月の関東大震災での焼失、昭和20年3月10日の大空襲での焼失、それに昭和32年4月2日失火焼失と5回の焼失にみまわれました。大劇場として、江戸時代はともかく、明治以降で、この様に焼失をくりかえしたのは、都市東京における出来事として大きな事件として記憶されるべき事と云えましょう。
 昭和20年3月9日・10日の大空襲は、東京に大打撃を与えたのですが、明治座も焼失したことは云う迄もありません。復興で東京が活況を呈するに至った24年、明治座も11月復興に着手、25年12月海老蔵(団十郎)、羽左衛門などで、「忠臣蔵」を晝の部、夜の部での通し上演で大好評を得ました。それ以降、順調に多くのファンを集めていったのですが、昭和32年4月2日、また、出火で焼失。直ちに復興にかかり、33年2月竣工、3月の新派の一座で開演、多くの観客をよぶようになったのです。こうして明治座は浜町・久松町一帯の人々と共に歩み、平成5年に新しく再建されて美しい姿を見せ、芝居好きの人々を喜ばせています。

1879年(明治12年)三代広重による久松座の堂々とした姿の錦絵です。この錦絵にも、新時代の息吹が華やかな風俗画として表れています。この芝居小屋は何の因果か、明治から昭和に至るまで、幾度と火災・震災・空襲に見舞われ、なかなかこの地に落ち着くことができなかったようですが、翌年の火災のため一年しか存在しなかったこの久松座が、ハレの場としての美しさをふりまいています。

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2011年8月20日 (土)

1967 スイス・ベルン

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1967年のヨーロッパ・スポーツ業界取材旅行で、一週間一人で滞在したスイス・ベルンは街並の美しさは無論のこと、そこに暮らす人々の落ち着いた様子に興味がわいて、ひたすらスナップのしまくりでした。大きな聖堂のそばにはシスターが信号待ちしていて、その格好など日本では見ることのできない姿でした。

朝の通勤通学時間の町の中心地は、どこもその国・町の様子を観察するのにベストな場所ですから、ほぼ毎朝、食事前に出かけては写真を撮っていたのです。街角のカフェから漂ってくる、バターのたっぷりなクロワッサンやコーヒーの香りが空きっ腹を刺激するものの、何処で朝食を摂るのが安くて美味しいかも分からずじまいで、結局、泊まっていたスイス料理レストランの屋根裏部屋に戻り、写真撮影のデータを記録し終えてから、のこのこと一階のレストランに出向いて、日本では味わうことのないようなパンとコーヒー、そしてオムレツに独り満足していました。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年8月19日 (金)

1944 桂林作戦

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Photo 戦時中、父が報道班員・従軍画家として取材した桂林作戦は「恐ろしかったの一言だ」と、生前話していました。

父の遺した当時の写真は、桂林の有名な奇山に向って進攻する日本軍ですが、奇山には八路軍が銃口を構え、狙い撃ちにされたそうです。運の強い父は生き延びて、長閑な桂林のスケッチを遺しましたが、このスケッチ以外に60枚ほどのスケッチ・デッサンがあり、これらは名取機関に委託された陸軍プロパガンダの一環でありましたが、戦意高揚のかけらもなく没となり、終戦後の引き揚げの際、裏ルートを使ったのか定かではありませんが、全て日本に持ち帰ることが出来ました。戦後も発表することもなく、久我山のアトリエにひっそりとロール状に保管されていました。

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2011年8月18日 (木)

エドワード・ホッパー・The Mansard Roof 1923

この絵に関する場所などの情報もありませんので、ただひたすら風が爽やかに通りぬけている、気持ちの良い絵だなあ・・・と思うだけでEd18_2す。場所的にはエドワード・ホッパーの生活圏であるCape Codだと思われますが定かではありません。又、この建築様式を何と呼んでいるのか分かりませんが、大雑把にはコロニアル様式の仲間なのでしょう。西海岸のサンフランシスコにもこの雰囲気の建物がよく見られましたから、アメリカの建売住宅としてアメリカ本土のほとんどを席捲していたのでしょうか・・・。

硬めで浸み込みの少ない紙の上からサササーッと大胆にスピードを上げて描きあげた痕跡から、この日は何か用事でもあって、いつものようなじっくりと腰をすえて描いた作品とは趣きの異なる、でもエドワード・ホッパーらしいカジュアル・スポーティーな画趣に仕上げています。

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2011年8月17日 (水)

1926 豪華客船の見送り。

Rimg30662 イギリスの豪華客船・Barengaria号を見送るサザンプトン港の光景ですが、佳き時代を彷彿させてくれます。階級差の明確だったヨーロッパの船旅では、部屋からサービスまで、それははっきりとした格差があったものの、不満など言う野暮な輩などいなく、夫々のクラスでの楽しみを謳歌していたそうです。

1926年(昭和1年)http://www.youtube.com/watch?v=F_kGpLmLudw の8月頃の写真ですが、手前の構造物をがっしりと組み込んだあたりはモダニズム黎明時らしい構図です。

見送る人たちは服装からしてかなり上のクラスと思われますが、まだまだ船旅も危険な冒険に近い時代でしたから、内心は不安感一杯の見送りであったに違いありません。それでも、船中では毎晩毎晩エンターテイメントが目白押しで、ダンス・仮装パーティーなど乗客を飽きさせない企画が不安感を消すのに役立っていたようです。

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2011年8月16日 (火)

1945 Paris これからどうする。

1945_paris_2 第二次世界大戦が終結して間もない頃でしょうが・・・、何時の時代も変らないこの光景・・・。

東京育ちの私世代であれば先ず、銀座みゆき通りと並木通りとの交差点を目指した1964年、東京オリンピックの年の夏、あっという間に溢れたあがったアイビーボーイ・アイビーシスターの集団を思い出します。今ではみゆき族としてその時代の風俗として象徴化されてますが、実態は、ほんの2ヶ月弱の線香花火現象であったのです。

この写真、教会礼拝のあとの三々五々、何処かに流れようとする男女の視線のもどかしさは、何方も記憶の片隅にある青春のすっぱい思い出のようであります。

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2011年8月15日 (月)

1975 父の戯れ画。

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1971年に、生涯最初にして最後の個展を開いた父は 、その後追求していた絵画理論を更新する油絵を描くこともなく、ひたすらスケッチブックに当時、発売されたばかりの筆ペンが気に入って、書斎以外の食卓やソファーに座り、このようなデッサンやスケッチを描いていました。まだ出版編纂の仕事や祖父の記念館文庫の設計監理などにも携わっていたので、出張・取材など落ち着かなかったのですが、家に居る時はのんびりと水墨画のような画風を愉しんでいたのです。

時おり川端画学校時代の仲間である原精一さんが久我山の自宅に遊びに来ては、深夜まで酒盛りとなって、そのエネルギッシュな風貌と食欲に明治生まれの豪傑ぶりを感じていました。明治生まれの芸術家に特有なのは、この、自分の追及するテーマを生涯ぶれないで追い求めたことでしょうか。意思・技術・体力を自分の知恵と出会いによって得とくしていった魁の迫力は今も鮮明です。

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2011年8月14日 (日)

牧野富太郎

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小学校時代、昭和29年から35年にかけて、夏休みの宿題といえば植物観察記録が定番で、高学年になると自由研究のひとつとなったものの、低学年では『朝顔』を筆頭に毎日の成長記録を絵と日誌として残すのがノルマでありました。そんなとき、何といっても力強かったのが牧野富太郎博士 http://www.makino.or.jp/dr_makino/frame/f_makino.html の植物図鑑でした。子供でも分かり易い解説と博士自筆の図は、植物そのもの以上に、その性質を捉えているかの如く、一目瞭然でありました。

はじめて博士の写真を見たのは1956年の新聞記事で「天皇陛下からアイスクリームを賜る」という記事が妙に記憶に残っています。亡くなる一年前の写真からは「ものすごいおじいちゃん」の印象しかありませんでした。今こうして、1936年木村伊兵衛氏の撮影による姿のトラッド然とした研究者の風貌は、あまりにみごとな身なりからか、予想外でしたが、学者の魁としての品格に相応しい、身のしまる思いがします。

牧野博士に限らず、明治・大正・昭和の教育・研究に没頭した方々の肖像写真などを見るに付け、昨今のカジュアル指向な学究の徒と対極な「きちんとした」オーラには、一礼せざるをえないのです。

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2011年8月13日 (土)

デュフィの風俗画

Dufy6 1920年頃のパリはベルエポック爛熟期で間もなくアールデコ全盛を迎えようとしていた時期でもあり、人間の欲望と贅沢三昧が一気に爆発した頃であります。その風俗や流行の情報の流れは案外と早く日本にも伝播して、銀座あたりにはパリ風の流行大好き人間たちが溢れ出していたようでありますが、残念ながら衣を中心にならざるを得ず、ご本家の様に食・エンターテイメント・アートなど総合的な広がりまでは至りませんでした。

デュフィは室内装飾家としての修業も経験してましたし、テキスタイル・デザインのセンスも卓越してましたから、このようなちょっとした風俗スケッチ的な描写にもなかなかの時代感性を読み取れる細部までもが、嬉しいほどリアリティーを以って表現されています。まるで芝居のコスチュームデザインのスケッチのような雰囲気があって、それが却って時代考証をも読み込んだ域にまで達しているようであります。

稀代の洒落者であったデュフィらしい、1920年当時の先端風俗の記録でもあります。

デュフィについて http://www.depo.jp/art/dufy_inv_001.html

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2011年8月12日 (金)

三代広重 1873 東京駿河街国立銀行繁栄之図

1873 現在、日本橋三越と三井本館の間の道が、一方通行出口となっていて、常盤橋方面から中央通りに抜ける自動車も少なく、おまけに日中の陽射しも高層ビルの間であるため、暗く肌寒い環境になっています。

この錦絵からは現在の暗い環境が想像できませんが、このみごとなパノラマこそ本来あるべき日本橋の姿でありましょう。ご一新後ようやく国家のインフラ整備とともに国際化に対応するべく金融整備の象徴として出来上がった国立銀行の姿も和洋折衷の感があり、周辺環境とも馴染みけっこうであります。

それにしても富士山が望遠レンズで覗いたように大きく見え、誇張しすぎではと勘繰りたくなるのですが、このような錦絵は東京土産として人気絶大であったからこそ、富士山も大きく描いたのではないかと思います。

それでも、駒澤通りの深沢から見える富士山が何故大きく見えるのか不思議同様、角度によって、全く周辺と見え方のちがいが生まれるそうですから、この大きさも誇張ではないかも知れないのです。検証するにも、ここから皇居の間の丸の内界隈の高層ビルがあり、そうなると、コンピューター検証しかありませんね。

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2011年8月11日 (木)

1934年 銀座四丁目。

1934_9 涼しげな風が吹いていますね。現在の銀座四丁目・日産ショールーム前の姿、1934年(昭和9年)です。

関東大震災以前ではないものの、まだまだ銀座の周辺には掘割も遺され、川辺を抜ける涼風が町を走っていました。又、日本の歳時記にみられる季節毎の衣更えも暗黙の了解という文化に昇華していて、ひとりひとりの姿・立振舞いが町の風情の重要な構成要素として成り立っていたのですから、日本の街がどれほどイカシテイタのか今では、皆目、見当さえつかないのであります。

1950年代以降、街から風が感じられなくなったのは、植栽などのハードな面もそうでしょうが、洋風化に伴う和装の優雅さが消えていったこともあるのではないでしょうか。

このスナップなどは、メンズファッションとしての白麻スーツにパナマ帽、方や、女性群の季節柄の着物が上手に混じり合い、銀座独特の和洋混交文化が奏でられていますね・・・。

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2011年8月10日 (水)

1952 PICASSO

1952_picassoボーダーストライプの似合う人の頂点といえば、やはりこのお方でしょうね・・・。

生涯一画家として、進化し続けたその源は、当たり前のことですが、絶え間ない好奇心と旺盛な食欲であります。この写真なども、目の前の面白いカタチのパンをとっさに手に見立てたアドリブの一瞬かも知れません。手近のモノを芸術家の観点によって変換させることはよくある話であるものの、ピカソのユーモラスなセンスに追いつく者など皆無なのであります。

南仏の自宅でのスナップですが、そのユーモラスな画面とは裏腹な獲物を狙うような鋭い眼光には、尽きることのない創造力に満ち溢れているオーラがあります。http://www.youtube.com/watch?v=Bo9UDldSDgk

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2011年8月 9日 (火)

広重・浜松の一服。

41833 天保4年(1833)に描かれた広重の一枚、浜松の光景です。北斎と較べると町民などの顔の表情も漫画的な要素が強く、思わず笑ってしまう瞬間を捉えているので、版画の芸術性うんぬんよりは、その時代考証と風俗感がたまらないのであります。

暖をとる人々の中心に焚き火の煙が上がり、画面を分断するかわりに木立をぐっと際立たせています。このあたりの構成主義な感覚と重力配分は北斎も達人的でありますが、広重の方がちょっとヌケた感じがカジュアルモダンで、現代マンガの『吹き出し』にでも繋がっていったのでしょうか。

遠景の平凡な光景も画面の分断によって異時同図のように思えてしまうなど、いくらでも深読みできる楽しみがありますから、記憶力の劣化が気になる諸氏には、頭の体操にも好都合な、『広重』であります。

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2011年8月 8日 (月)

北斎・江ノ島と富士

2 江ノ島はかつて、このように引き潮時に渡るしかなかったなど・・・、知らない世代が主流を占める時世となりました。

広重に比べ絵師職人としての魅せ場を前面に主張したがる北斎ですが、その殆どはディテールに注がれ、この一枚でいえばさしずめ点描手法のオンパレード、といったところでしょう。

手前の源氏雲の位置など、いまいち納得できないのですが、この出来不出来の幅があるからこそ、北斎は飽きないのであります。もしも広重がこのアングルからの作品を描いたのであれば、もっと旅人をクローズアップさせ家並もデフォルメし、風俗絵として傑作を残したかも知れません。

源氏雲 

雲文の1つで、絵画や文様の中を洲浜形に仕切って、雲がたなびいた感じを表わしたものです。「源氏物語絵巻」に使われたことから源氏雲と呼ばれるようになりました。雲に隠れた部分で時間や空間の推移を想像させ、さらに装飾的効果も与えています。

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2011年8月 7日 (日)

丸の内 1949

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路面電車の走っていた頃の丸の内は、電車と荘厳なビルとがよく似合っていて、ロンドン的な光景ではありましたが、1949年ごろの写真には、GHQのご達しなのか、通り名や時速制限の看板は、まったくニューヨーク・五番街の風情であります。大八車は、今も免許更新の講習を受けると、このシルエットが登場する標識もありますが、よほどの必要アイテムとして活用される以外、現在は絶滅アイテムといってもよいのでしょう。

さて、この花屋さんはどこからやって来たのでしょうか。真夏と思しき季節ですし、花もお得意さんの定期的入替のような雰囲気ですから、丸の内に近い、新橋か八丁堀の昔からの花屋さんかも知れないです。

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2011年8月 6日 (土)

尾根道の快適さは・・・。

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水彩画:安野光雅

都心の尾根道は、快適な自転車徘走を愉しむのにご機嫌なひと時を約束してくれますが、少しでも早い時間ほど、その空気の清祥感が別天地となって体中に流れていきます。

東京は大まかにいえば、皇居に向かって街道が収斂していて、周囲に山と谷が川を絡ませて複雑になっています。尾根道はこの収斂しているエリアに限られ、本郷通り・日本榎通りから旧山手通り・目黒三田通りなどは、名残の部分と現在部分が交わっていて、自転車だけでなく徒歩でも、奥深いスポットに出会い愉しめるルートであります。

方や、優れた里山の尾根道も申し分ない快適感を約束してくれますが、自動車社会となり、どうすることも出来ないのですが、標識以外にも道路に描かれたペイントの制限表示が以前より増えた気がして、これでは情報の氾濫も極まった感があって、絶好の写真スナップエリアでも、制限表示が写ってしまいます。せめて、このスイスの絵のように、人為の記号の見えない光景を観たいものですね・・・。

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2011年8月 5日 (金)

デュフィより美しい堀内誠一さん

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1980年、トゥールの音楽祭の会場を、さらりと描いた堀内誠一さんのイラストは、これから始まるコンサートに対する期待感の雰囲気が伝わってきます。

ロワールの谷、トゥールで毎夏開催される納屋を会場にしたクラシック音楽祭は、世界中からその独特な雰囲気に魅せられた固定客で溢れ、年に一度の再会を楽しみにしている・・・。そんな空気がしっかりとこの中に封じ込められていますね。

デュフィに似ていることもない・・・、と思い勝ちですが、瞬発感覚といい、ブルーとイエローの補色を中心に据えた色彩構成といい・・・、デュフィを越えてますね・・・。

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2011年8月 4日 (木)

南フランスのひととき。

1945_paris 1945年の写真は、フランスのSceauxの教会前で撮られた一枚です。戦争が終わり間もない頃ですから、自由を獲得したフランス人の穏やかな表情が素晴らしいですね。

それと、この帽子にステッキ・・・。海外に行って一番感じるのは、このさりげない洒落っ気の大人の多いことですね。日本の中高年のワンパターンといってもよいほどの姿とは違い、きちんとした身なりで現役を過ぎても着こなしていることに感心した記憶があります。日本は、現役を過ぎるとスーツと縁がなくなり、適当なカジュアル姿となってしまいますが、スーツというものは着続けていないと、まったく似合わなくなる性質があって、たまに出かけるときには是非とも、スーツの着用か、カジュアルであればブレザージャケットにチノクロスパンツなどを願いたいものです。

さてこのお二人、子供の頃からこの場所に生まれ、殆ど、他所など旅行もしたことのないような、頑固者のようですが、長年着続けたスーツのくたびれ加減が、却って、洒落っ気たっぷりでありますね。

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2011年8月 3日 (水)

 昭和30年代 尾瀬の浮島。

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写真提供 「サライ」

『夏の思い出』http://www.youtube.com/watch?v=QXWv5JOFHCo が日本登山隊・マナスル初登頂成功の昭和31年、発表されてから7年後に突然フィーバーしたように大流行したのです。

私世代には夏の定番唱歌で、父兄のコーラスで何度も聴かされた昭和24年の『夏の思い出』は妙に寂しい旋律が元気な子供にとっては、はがゆくなるような曲でした。この曲が尾瀬沼の自然をテーマとモチーフにしたものとは知っていたものの、その場所が何処にあるのか・・・、など全く興味なかったのです。

さて、この曲が一気に流行するまでは尾瀬も植物生態学者や一部の登山家が訪れる辺境に過ぎず、それは素晴らしい世界であったようです。

その後、水芭蕉と草紅葉に魅せられ尾瀬を訪れる人も急増すると、辺境であったことから、自然環境対策やゴミ対策など後手後手であったのですが、東京電力の支援をはじめ、良識のある登山家比率の高さから地道に環境保護が実を結び、今日に至っています。

この写真は、人気の出だした頃でしょうか、まだこのような羨ましい体験も出来たのです。ただひたすら木道を進むしかない今と違い、沼を優雅に浮遊する贅沢さを享受された皆さんは、その不思議な感覚を生涯忘れることなど出来なかったでしょうね・・・。

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2011年8月 2日 (火)

1897年 『大磯風景』 原田直次郎

1897 明治中頃から昭和にかけて、湘南は保養地としての魁として発展し、多くの政治家・軍人・作家・画家が訪れたり住んだりしました。

画家・原田直次郎もそのひとりで、森鴎外とのドイツ留学時代の交流があったことで、ロマン主義の画趣が溢れています。日本的湿度を感じる抑えたトーンは日本の洋画としての代表作でもあり、ここには失われた穏やかな湘南の景色が封印されています。

大磯には年に数回訪れ、『井上』のはんぺん・蒲鉾、『新杵』の和菓子、などを愉しみに買物しますが、海岸には行ったこともなく、次回は是非、この絵のポストカードを持参して海辺の古今比較検証でもしてみようかと思っています。http://www.trad-sweets.com/wagashikaido_3/pg19.html

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2011年8月 1日 (月)

父の絵・1957

Rimg30871 父が生前に私を描いたデッサンがスクラップ帖の中から出てきました。この一枚を両サイドからマジイックインキの絵が挟むようにして出てきたため、インキ染みが発生していたものの、これはこれで、経年変化の証しでもあり、私には、時の流れが染みていて、懐かしい一枚です。

描かれたのは小学校4年生の夏、この頃から野球にはまりだし、父を相手に学校から帰ると庭でピッチングとノックの練習をほぼ毎日続けていました。私がサウスポーということもあり、私のクラスではピッチャーとして登用され、秋には優勝し、この翌年から少年野球大会武蔵野地区大会に出場することとなりました。

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この絵に描かれたソファーは父が戦後、荻窪の旧家から買い求めたもので、クラシックな姿にいつも糊の効いたカバーが掛けられ、そのゴワゴワした感触がイマイチでありました。頑丈そのものだったこのソファーは、一回の修繕だけで1995年まで使い続けました。

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