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2011年9月30日 (金)

広重・浅草海苔の養殖

Photo 広重のアートディレクションの冴えわたる好例といえる『南品川鮫洲海岸』です。江戸湾の遠浅を象徴するような藍ぼかしの色などは堪らない深みがありますし、この一枚に占める赤の量もみごとです。

帆掛舟の浮んでいる辺りが品川でしょうから、江戸湾の海苔を総称して『浅草海苔』と呼ばれるビッグ・ブランドの養殖場として、鮫洲は大森と品川の間という重要な位置にあったのです。

実際の距離感を無視し源氏雲を使い、ぐっと手前に引き寄せてしまった筑波山のプロポーションもみごとで、この辺りのデフォルメセンスは持て余すデザイン感覚のフル回転であります。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年9月29日 (木)

1911年 銀座尾張町。

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現在の銀座四丁目交差点、百年ほど前の写真です。服部時計店の擬洋風な姿が日本的でありますし、イギリス直輸入の路面電車が不思議と銀座街の環境と溶け合って、この町の優雅さがいっそう引き立っています。

電信柱も凄まじい様相ですが、この町の商売の景気のよさを現していますね。歩行者ものんびりしていた頃ですから、堂々と中央通を横断しています。

すでに多くの老舗が繁盛し、維新に乗じて京都から出店してきた店も多かったのですが、江戸っ子の店との折り合いも付かず、「東京」とは「京都の東」の意味とはしゃらくせえ・・・とばかり、徳川瓦解を嘆く江戸老舗の旦那の多くが「とうきょう」とは言わず、「とうけい」と言っていた時代です。この「とうけい」という言い方はあくまでローカルルールかと思っていたのですが、一部の外交公文書にもTOKYOではなくTOKEIと記載されていたようで、反維新派の小技な反抗というのも、なかなか腹の据わった手口をみせていました。 ついでに、銀座の大店の旦那衆はいまだにこの交差点を尾張町と呼び、日本の中心地点と誇りにしているのですが、実際は道路元標のある日本橋が日本の中心地点であります。しかし銀座の旦那のすごいところは、銀座尾張町が銀座の中心、銀座の中心は東京の中心、東京の中心は日本の中心という誇りをもっていることであります。

現在揺れ動く銀座の街並も気がかりではありますが、この発想の続く限り、クラシックな町は永遠なのであります。

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2011年9月28日 (水)

ワシントハイツ 1949

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 Wh_aeroview1 東京オリンピックでほぼ姿を消した代々木・ワシントンハイツですが、1949年の写真には、日本とアメリカの国力の差を見せ付けられたと言っていた父の友人の言葉どおり、子供の着ているものにもそれが見てとれます。久我山で生まれ育った私は何故か代々木方面に出かけることもなかったのですが、小学校高学年になってPXに納品していた会社の息子と野球チームで一緒になり、よく彼から大リーグの野球カードやしっかりした綿のT・Shirtsを貰いうけましたが、正に横流しの横流しであったわけです。下の写真を観てのとおり、広大なスケールが米軍家族のために開放され、代々木は米国といわれていたことが嘘ではなかったことを物語っています。

代々木公園・オリンピック競技場などが作られた今の姿からは想像もつかない素晴らしい居住空間であったのです。このまま、遺してくれれば、などと不遜なこともいいたくなるほどの超一等地であったことは、当然ですよね・・・。

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2011年9月27日 (火)

こんな記憶もありました。

1972219 私の家に白黒テレビが来たのが1957年(昭和32年)の夏でした。テレビを買えば家族中、見入ってしまい本も読まなくなるし、勉強も覚束なくなるから、子供には良いことなど何もない・・・、と言っていた父が、それまで一日中没頭していた編纂の仕事を切り上げ、夜7時からの巨人戦の野球中継に夢中になってしまったのが今となっては笑い話であります。

テレビが来て以来、家の中に夜の静けさというものが無くなり、それまでラジオを聴いて想像しながら話の世界を目に浮ばせていたことも無くなり、家族がひたすらブラウン管に一点集中していました。

さて、まだテレビのない頃、子供の寝る時間は遅くとも9時というのが私世代のお約束だったと思いますが、それは静かなものでした。住んでいた久我山の家は北側が神田川・田圃・井の頭線という順番に並んでいて、秋ともなれば虫の音・長閑な電車の音がいかにも郊外の叙情そのものでした。案外虫の音は大きいもので聴いていると寝付かれず、じーっと蒲団の中で眠くなるのを待つのですが、電車の音も聴こえなくなった深夜、突然、一軒の家から犬の遠吠えが聴こえたかと思うと、連鎖反応なのか、輪唱のように至るところで吼え始め、それは決して気分の良いものではありませんでした。

谷内六郎さんのこの絵は、正に、そのときとおなじ記憶をシュールに描いた一作ですが、イマジネーションが秀逸ですね・・・。犬は影に怯える習性があるといわれてますが、この絵は、電球のついた明るい部屋が、犬の吠える不気味さを打ち消したい子供の心理を的確に捉えています。

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2011年9月26日 (月)

志野茶碗 加藤唐九郎 1973

48 志野に始まり志野に終った稀代の陶芸家・加藤唐九郎の闘いは、桃山様式との闘いであり、独自の世界を拓いた独りの男の構築された伝統との闘いでありました。志野という趣きは、概ね女性的にも関わらず、長石釉の白さと素地の剛毅さ、鉄釉の絵付のダイナミックさなど、野趣に富んだ宇宙観を加藤唐九郎は創出したのです。

陶芸家はその風貌とは真逆に比較的「あたらしもの好き」の多い中、数段抜き出でたのが唐九郎でした。その範疇も身につけるものから家具・調度にいたるまで、歯止めが掛からずといった状態で、好奇心は生涯衰えを知らなかったのです。

作品だけが自分であるなどという狭い発想など持ちえなかったのが幸いして、自由奔放さも抜きん出てしまい、やはり魯山人の遥か上を行く超人であったのです。

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2011年9月25日 (日)

『夕映え』 1965年 9月25日 週間新潮表紙

1965925 どうして夕焼けが場所によって色も迫力も違うのか、今もってよく分からないのです。

例えば、駒澤通りを都心から帰る時、深沢あたりで出くわす強烈な色彩乱舞は八ヶ岳ではじめて観た夕映えのパノラマとひけを取らず、素晴らしい迫力で刻々と変化していきます。

谷内六郎さんの水彩画は、素朴な里の夕映えの様子ですが、私世代には、切なくなるような空気の薫りまでがよみがえってきそうです。夕映えの色彩を独特な色相で練り上げ、俗っぽくなく叙情的に構成された画面からは、お家の温かさが手前の姉弟にも伝わっているようです。

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2011年9月24日 (土)

床屋に行っていた頃、おなじことをあの人も。

1955_5

今から50年以上前、杉並区久我山に住んでいた頃、駅前に一軒しかなかった『大川理髪店』に父と連れ立って散髪に行きました。しかし、この店主の顔立ちがごつくて眼も鋭く、顔を合わせるのがイマイチな気分で出かけるのでしたが、順番が来て椅子に座るとそれまでとはうって変わりニッコリと笑ってくれるので不安な気分は消し飛んでしまうのでした。

早速、真っ白なシーツがかけられると、それまでの現実世界から一瞬にして、純白の不思議な世界へと連れて行かれたような気分になるのでした。いかつい顔にしては丁寧なはさみさばきがスピーディで、瞬く間に頭のてっぺをシャリシャリ、額の上を真一文字にシャキッと刈り込まれ、気が付くと白布は黒髪が木立のように乱舞しているのです・・・。

いやあ、ビックリしました。おなじイメージを、あの谷内六郎さんも抱いていたとは・・・。

1955年の谷内六郎さんの水彩画『床屋』です。谷内さんはシュールな絵も得意で、日常生活に潜んでいるちょっとしたできごとを、谷内さんならではの紡ぎ方で観る者を惹き込みます。

やがて10年後の1960年代中頃には、大川理髪店も当時の先端装置であった折りたたみ式洗面台が目の前に登場し、鏡と自分との間にあった散髪用具や整髪料の並べられた台も消えてしまい、目の前が何となくノッペラボーになってしまったような記憶があります。

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2011年9月23日 (金)

神保町の古典的窓枠?

Img_3826 私の自転車徘徊の聖地である神保町界隈にはこれまで数えられないほど通っておりますが、それでもまだ見たこともない物件に出遭うことが多々あります。それほど奥深い地域であるということの証拠なのでしょうが、だから飽きることもなく探索の日々を続けることができるのです。

昨日、文房堂に画材を買いに行った帰りに周辺を徘徊してましたら、ご覧のようなみごとな意匠の窓枠のようなものを発見しました。セメントで固められた外枠の中に繊細な幾何学模様の装飾板のようなものがあります。おそらくは、鉄鋳物なのでしょうが、ずいぶんと凝ったものです。元は窓だったのか、あるいは通気口なのか定かではありませんが昭和の初め頃の神保町界隈の古典的な町並みの名残を今でも留めていてくれます。神保町も今では、新しい世代の人によるお洒落な本屋さんもちらほら見かけるようになり、少しづつ、変貌の芽が顔を出し始めたようです。新しい切口による本の文化を継承しつつ、異なるジャンルの業態とのコラボレーションも実験レベルながら、オッと思う感覚の店も現れました。目黒川近辺にもそういう同感覚の本屋さんが出てきましたから、どちらも自転車徘徊には最高のロケーションですので、両方ともに見逃せなくなってまいりました。

80年近く神保町を見てきたこの物件にしても、この数年で変貌し始めた様子をどんな気持ちで今もながめているのでしょうか・・・。

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2011年9月22日 (木)

1900年(明治33年) 室町の光景

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いい光景ですね・・・。連なる家並が室町ということですから、この画面の左は日本橋方面です。とすると、手前の橋は鎧橋ということでしょう。

日本橋川が魚河岸を中心とした物流動脈として機能していた雰囲気が記録されています。河岸には洋風建築が見られるものの、日本の伝統商家との相性も違和感がありません。真中にちらっと見える橋は江戸橋でしょうか。関東大震災でほぼ全滅したこの界隈は帝都復興ですっかり街並・道並が変ってしまい、江戸橋の位置もこの写真よりぐっと左手に移動してしまいました。明治33年は日本橋三越が近代百貨店としてスタートし始めた年で、この界隈もひたひたと商売の流れが新たに動き始めた頃です。

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2011年9月21日 (水)

デュフィーの肖像写真

Dufy1932 ひたすら楽しく、明るく、美しく描き続け、藝術至上主義者からは嫌われたデュフィーのニースアトリエでの写真です。

この国ではアーティストはだらしなさが売りというところがあり、その観念は一般にも浸透してしまった感がありますが、このデュフィーのスタイリッシュな風貌にはそんな風潮を笑い飛ばすかのごとく、スノビッシュな洒落者そのものであります。

日本の洋画家ですと東郷青児さんがかなりの洒落者であったことは間違いなく、同じ久我山に住んでいた私は小さい頃から東郷さんのアトリエを見ながら学校への行き帰りを繰り返してたので、その洒落っぷりの印象がいまだに焼きついています。

さて、デュフィーの明るいアトリエからはコートダジュールの眩い光景が目の前に展開していたのですから、毎日、朝起きてから気分の良い一日を過ごしていたのでしょう。デュフィーの人気がいまだに強いのは、彼の描く画題のポピュラー感覚とシンプルな色彩だったからで、同じコートダジュールに住んでいた多くの画家たちは結局、デュフィーの画趣さえも超えることが出来ずじまいだったのですよ・・・。

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2011年9月20日 (火)

明治初期 鎧橋から第一国立銀行を望む。

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Img_803_21

日本橋の下流、東京ウォーターフロントが絶景であった頃の鎧橋と、月光シルエットで浮かび上がった国立第一銀行が洒落ています。描いた井上安治の光線画法が的を得ていて、時代の新旧の移り変わりさえ薫ってくるようです。

渋沢栄一もこの界隈に居を構え、まるでベニスのような光景を堪能していたそうですから、今の状況からは想像さえつきませんね・・・。

デフォルメされて描かれた第一国立銀行の「下から目線」がなかなか傑作で、この建物の持つ威容と権威を象徴しています。庶民の暮しはまだ変革に伴うてんやわんやばかりでしたが、日本橋界隈の川べりは着々と近代化・西欧化(擬洋風)だらけとなり、過去の江戸っ子気質と結びつかない環境変化の仰天振りは、川柳などにも謳われています。

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2011年9月19日 (月)

叱られているのか?。

Nr4 1951年に描かれたノーマンロックウェルさんの The Facts of Lifeという題材です。

人生の壁にぶち当たったというよりも、クラスメートとのトラブルを担任の先生に相談でもしているのでしょうか・・・。深刻なその顔からは先生の言うことすら疑っているような目線が気になります。先生は、一生懸命に、何か生徒を説き伏せていますが、猫の安心しきった寝姿からも、優しく諭しているようですね・・・。

ハイバック椅子はラルフローレン好みのセンスですし、生徒のチノクロスパンツと捲くった裾、ズレ落ちて靴からはみ出す靴下などなど・・・、メンズファッションに欠かせないはずしのディテールが此処にも散りばめられています。先生のボゥタイは水玉のようですが、きちんと自分で締めた雰囲気さえ見とれそうな、緩み具合がみごとであります。いかにも頻繁に鼻をかむ雰囲気の横顔から連想してしまいますが、諭すのに集中し、うっかり仕舞い忘れているハンカチーフは、何を物語っているのでしょう。

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2011年9月18日 (日)

1897 明治22年 九段坂

1899_22

そうだった・・・、道は人のためだった・・・、ということをライブ感覚で記録した写真の撮影場所は、云わずと知れた九段坂です。

時は明治22年。

2月1日:東京・銀座に御木本幸吉が真珠店を開店。

6月:東京・浅草に三光堂が開店。初の蓄音機専門店。

  • 8月4日:東京・新橋(現=中央区銀座8丁目)に日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)がヱビスビールの宣伝のために「恵比寿ビヤホール」を開店。日本で最初のビヤホール。 8月15日:東京・赤坂溜池で、森永太一郎がキャンデー、ケーキの製造を開始。森永製菓の前身。カカオ豆から加工する日本初のチョコレート一貫製造を開始。これにより大量生産が可能になった。

などなど、外国のまねをしながら、日本人も新しいことの目白押しです。かたや九段坂では昔と変らず、しゃも料理を食べてこの急坂を上る前の腹ごしらえでもするのでしょう。左手の看板はたいそう繁盛していた店の気配が記録されています。まもなく此処を自動車が走り始め、無神経にも土埃を舞い上げつつ九段坂上まで一気に上るのを見ていた人力車夫が、いち早く商売替えを考え始めた時代です。

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2011年9月17日 (土)

明治44年 馬場先門先

44 1911年(明治44年)の馬場先門の北側から日比谷通りを撮影したものです。空の解放感が気持ちよいですし、学校に通う尋常小学校生徒の姿も初々しいですね。この界隈の写真は建物中心にたいへん多いのですが、この写真は時代の空気を感じ、私の知る中では一番の素晴らしい写真です。

丸の内が原と呼ばれた陸軍練兵場を払い下げで購入した三菱社の象徴のビル群が異彩を放っています。明治生命・東京商工会議所など設計したコンドル博士の好き放題、その後どんどんと倫敦化が進み、一丁倫敦と呼ばれる界隈となりました。日露戦争の勝利以降、馬場先門から鍛冶橋までは凱旋道路とも呼ばれ、様々なイベントも開催されて、多くの見物人で賑わったところです。

さて、ちょんまげ時代から44年、西南戦争から34年・・・、凄まじかったでしょうね、この界隈の変貌振りは・・・。維新前は徳川家に従順な家臣の上屋敷ばかりでしたが、そこに暮らした武士の多くは勝海舟のグッドアイディアで静岡でお茶の栽培を始めるなど、徳川瓦解と考える皆さんも、その時代転換に即対応し、柔軟な転向ぶりがみごとでありました。しかし、徳川家に仕えた家臣の家系の皆さんは、今でも東京會舘などを使うことがないそうであります。

一丁倫敦の推移
明治23年に陸軍省練兵場を購入した三菱社はジョサイア・コンドルの設計、曾禰達蔵の現場指揮の元、煉瓦組積造三階建で,明治27年(1894)三菱一号館が竣工、馬場先門前に明治28年(1895)三菱二号館が竣工,一号館の対面に明治29年(1895)三菱三号館が竣工した。
明治32年(1899)妻木 頼黄の設計により馬場先門前に東京商業会議所が竣工。
明治37年(1904)曾禰達蔵の設計により一号館に隣接して三菱四号館、翌年五号館が竣工する。
明治40年代になり保岡勝也の担当により十二号館、44年
に十三号館が竣工して馬場先門通りに連なる[一丁倫敦]と言われる煉瓦街が完成した。

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2011年9月16日 (金)

明治45年 芝口三丁目から新橋停車場広場・逓信省

45 1912年(明治45年)のパノラマ写真はみごとな絶景ですが、日本伝統住居と西欧伝統館との相当なミスマッチが不思議で、テーマパークのようであります。

芝口二丁目から観た、新橋停車場広場、その向こうが逓信省と、景色も十二分に楽しめる写真です。左に広告塔が見えますがこの右のビルは宝来橋たもとにあった十五銀行です。左手前の店舗の看板も臨場感があって時代を感じませんが、ご一新からもうすぐ大正時代にかわり、凡そ10年後には関東大震災となりこの光景で残された建物の殆どが消失してしまったのです。

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2011年9月15日 (木)

大丸呉服店 江戸通り前

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32_2 江戸通り大伝馬町に堂々たる構えの大丸呉服店の屋根の重量は凄いものだったでしょうね。郵便錦絵を見て誇張かと思っていたところ、明治32年の古写真を見ると誇張でないことが分かりました。ついでですが、浮世絵のデフォルメのセンスはみごとで、屋根の重量感とスケールの迫力は写真など足元にも及ばないことが明らかですね。

今では、蔵の町といえば埼玉県川越市が有名ですが、江戸の真ん中こそ蔵の町と呼んで貰えるよう、日本橋の復活と連動して、啓発してもらいたいものであります。

この江戸通りは斜めショートカットの道として日本橋から浅草に抜けられる通りですが、自転車ですり抜けるとき、突然、寂寥感の風が吹き、思わずブレーキを掛けると、錦絵のような懐かしい気配の街並が目の前に浮んできます。

大丸の歴史:http://manabow.com/pioneer/daimaru/1.html

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2011年9月14日 (水)

明治43年 芝公園杉並木

43 素晴らしい杉並木・・・、明治43年の写真ですが、見た時は日光かと思いましたが・・・、芝公園内の杉並木だったとは・・・。現在、赤羽橋から二又になっている一つ先の信号辺り、芝ゴルフ場の脇に小さな池の名残がありますが、その昔、ここは弁天池というきれいな池があり、この池の周りがこのような美しい杉並木だったわけです。

徳川家康は江戸城の鬼門の厄払いとして日光に東照宮を、芝に増上寺を設けたわけです。日光だけは今も杉並木が有名ですが、芝はどうしたのでしょうか。大門駅から山門に出る手前に樹木草のきれいな区域が横に並んでますが、この界隈が杉並木であったのでは・・・などと勘繰ってしまいます。

詳しい人に聞くと、何と、先の戦争末期、資源に乏しい日本は松井石根陸軍大将の短絡な一言で、焦土と化さないために平地伐採計画という愚策を立て、日比谷公園・恐れ多くも代々木・芝の並木を伐採して軍需資材として使用したということのようです。今となっては恐ろしい話で、やはり戦災ということでなく人災を被ったというのが正解かも知れません。

それにしても、東京にもこのような素晴らしい環境があったとは・・・。知らないことが多すぎます。自転車で真夏の早朝、この並木を疾走することが出来たら晴れ晴れした気分になれたでしょうに・・・。

また、「たられば」の話となってしまいましたが、無茶苦茶となってしまった場所の典型とでもいえましょうか・・・。

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2011年9月13日 (火)

御茶ノ水 明治初期

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明治10年代に井上安治が描いた東京名所絵は広重風の洒脱さと簡略センスが、いかにも新時代の感性に昇華され、風俗記録としてもその出来栄えは素晴らしいものがありますが、伝統技法を重んじるこの国のお歴々のせいか、今ではすっかり忘れられてしまいました。

、御茶ノ水の光景を描いたこの作品からも、神田川・崖の雰囲気から渓谷のような景色が描かれています。遠くに見える薄赤色を雪の降り終った日の夕焼けとみるか、雪の降った翌日の朝焼けと見るかによって、この版画の方角が決まってしまいますが、古写真に記録された水道橋方向からの一枚と比較するとよく似ているので、右が駿河台、左が湯島台ということになります。

今では取り戻すことさえできない、貴重な水辺の東京光景です。

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2011年9月12日 (月)

里山の魅力。

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水彩画:安野光雅

ヒマラヤほど厳しくなく、ウラヤマほど寂しくなく、その中間とでも申しましょうか・・・、サトヤマ(里山)の魅力は、1960年代中頃までは多摩丘陵など都心から近場でも存分に楽しむことが出来、自転車の魅力にはまりだした頃は、週末になるとこの界隈を走るのが病みつきとなってしまいました。多摩地区の四季折々の風景の違いを、この水彩画のような道を走りながら享受していた時代は、今となっては稀少で貴重な体験でありました。

鶴川街道を矢野口から黒川方面、或い高石方面に抜ける途中は、まだ時代劇のロケに相応しい環境が存在していて、実際、出くわした事もありました。今はその面影が皆無ですが、自転車の愉しみである寄り道・回り道を謳歌できるロケーションに恵まれていた地域であり、この道の先はどう展開していくのかスリル半分で走っていたので、磁石と五万分の一白地図が必須アイテムでありました。とくに秋たけなわの頃は、冷たい風を受けながら走っていると至るところから落葉の焚き火が柔らかな白煙を上げ、秋の薫りが顔面を抜けていきました。さらに、少し足を延ばして王禅寺界隈に来ると、その先はまだ見知らぬ現在の青葉区となり、迷い込みそうな雰囲気があって、そそくさと久我山に引き返していました。

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2011年9月11日 (日)

鍛冶橋遠景 明治初期

4 東京駅・八重洲口に並ぶタクシーの二重駐車、観光バスの違法駐車など、それを知らなければただ待っているだけで先に進まなかった経験のある方もいるでしょうが、その昔、外堀通りの鍛冶橋を遠くに望む光景は、この井上安治が描いたような水の都の象徴のようであったのです。現在の銀座プランタン辺りから観た光景です。

江戸期の鍛冶橋と呉服橋・神田橋・筋違橋などの間には多くの職人が住んでいて、町名にも大工町・呉服町・桶町・畳町・具足町・檜物町・紺屋町・炭町・鉄砲町・鍋街・・・など、嬉しくなるような町のアイデンティティーがありましたが、現在は僅かながら吏僚の愚案に反発した町会長の存在していた町だけが、その名を留めています。

水の都として、ベニス以上に生活機能・経済機能、そして風光明媚の揃った世界に誇る都市であったことがうかがえる東京の、記録としても素晴らしい井上安治の仕事です。

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2011年9月10日 (土)

1910年 内幸町から新橋方面。

43 以前のブログに載せた絵葉書と逆のアングルから撮影した写真がありました。現在の景色しか頭にありませんでしたが、いやあ、美しい町並みの中を、西欧化の象徴・鉄道が走っています。モノトーンなだけに観る側の想像力が試されるような写真ですね。土橋に向う川は御濠で今は埋め立てられ東京高速道路が塞いでいて、高架下はコリドー街となっています。中央が山下橋で右に行けば帝国ホテルです。

たった百年前の明治43年、団塊世代の生まれ始めた36年前ですよ・・・。

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2011年9月 9日 (金)

斜景・超景 広重のアバンギャルド

Photo 方や、地域観光振興の宣伝部長兼アートディレクターとして、万人に理解されやすく、『そうだ、旅に出よう』と思わせる東海道五拾参次の連作があると思えば、ちょっと地味目な木曾海道六拾九次では対象となる名所が一般的ではないが故、広重はドッキリするほどの先進性と斬新性を採り込んで、遊び捲くっています。

上松の名所でしょうか、左上から垂直に叩き落ちる滝はまるで水晶の塊に見えないでもありませんし、画面全体が平衡感覚を失うほどの目眩トリックを駆使し、ニョキニョキする岩場の表現でさえ、不気味であります。広重は一旦遊び始めると留まるところを知らず、もう誰も抑えられない超常現象のようなデフォルメも良しとしてしまうのですから、この浮世絵を懐に旅に出た大阪の皆さんなどは、現場に立って「ちゃうんとちゃうん?」と密かに喋っていたのかもしれませんね・・・。

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2011年9月 8日 (木)

広重・回向院元柳橋

067 この相撲の櫓はいうまでもなく両国回向院を象徴するもので、回向院そのものを描かず、それを象徴するものを描く広重一流の行き方である。櫓には幔幕が張り巡らされ、太鼓が置かれている。また、二本の竹棹から下がる「出し幣(だしっぺい)」も描かれていて場所が始まっていることがわかる。この絵について、一番太鼓をすでに打ち終わったところなのか、それとも今から打ち始めるのかという詮索をする向きもあるが、それは無用の詮索というものだろう。櫓も太鼓も象徴として描かれているわけである。すなわち、櫓の上に呼び出しが坐っていないから、太鼓の音が今鳴り渡っていないという風に考える必要はない。第一、呼び出しをこの櫓の上に坐らせるなら、絵はぶちこわしである。太鼓を描けば撥の音が響き渡っていると解釈していいのではないか。

 名所江戸百景では気象条件の表現に相当の注意が払われていることはどこかで触れたが、本図なども一月の日本晴れの早朝の雰囲気がよくでている。江戸の街は未だ眠りから覚めやらず薄墨一色で処理されている。早朝といっても、おそらく、夜明け少し前、空の色が刻々明るさを増すそんな時刻ではないだろうか。

(森川和夫・広重風景版画の研究)

回向院http://www.ekoin.or.jp/history.htmlから薬研堀に架かる元柳橋と富士山、そして早朝の町並という構図はなかなかのグラフィックデザイナー的構成に満ちています。広重ならではの、主題を見せずにその場所を暗示させる手法は数多く登場いたしますが、その中でも美しさから云えばこの作品が、万人にも納得できる一枚でしょう。

この時代(安政四年・1857年)の柳橋は現在の東日本橋二丁目二十一番地に在ったといわれ、その後、現在の神田川河口に移転したために元をつけた呼称となっています。

相撲の興行も文政年間以降、回向院境内で年二回執り行われたそうですから、当時は正に神事にかかわる興行だったからこそ、昨今のような不祥事など考えられなかったわけであります。明治42年(1909)、旧両国国技館の竣工に伴い、回向院での相撲興業は終わりを告げましたが、回向院と相撲との縁は今も深いそうで、境内にある「力塚」は新弟子たちの力を授かる祈願碑ともなっています。

尚、絶妙な位置にレイアウトされた白地の梵天は本日の晴天興行を知らせているサインだそうであります。

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2011年9月 7日 (水)

暗闇でドッキリ

Rimg29751 エドワード・ホッパーさんは、解放感あふれたスポーティな郊外画風と、都会の寂しさ、哀しさを暗示する画風などで表現がまったく異なり、技法の幅が広いのです。

この作品などは、劇画のような暗示に満ちたもので、四コマ展開であれば話の筋道がつきそうでありますが、このワンカットですから、観る側の想像力しかこのエッチングを評価できませんね。

コーナーに映る影が何かを象徴しているのか、この影の手前と先で何か意味が違うのか・・・、などと詮索も尽きないのであります。私も、下を向いて歩いていて、突然、不思議な影が視界に入り、ドキッとすることがありますが、そのときの気配を俯瞰で冷静に捉えているのかも知れませんね・・・。

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2011年9月 6日 (火)

明治初期 神田川から駿河台を見上げる。

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明治初期の時代、このアングルから駿河台を望む写真も図録もなく、井上安治のとびぬけたセンスに脱帽すると同時に、描いてくれてありがとう・・・、と言わねばなりません。

船のある辺りは昌平河岸ですから、井上安治は当時の万世橋(現在の昌平橋)から西に向かって描いたのでしょう。神田川から切り立つ崖の鋭さはシャープで、以前の江戸名所絵図とは趣きが違います。

遠くの坂は湯島聖堂辺りでしょうが、順光と対岸の逆光のコントラストがこの画家を光線画の名人と言わしめた所以でしょう。

左手の坂の天辺あたりに、岩崎彌之助男爵邸の豪壮な洋館がある筈ですが、ここにはまだ描かれていませんから、明治10年代の景観ではないかと思われます。

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2011年9月 5日 (月)

1934 昭和9年 銀座 資生堂パーラー

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はじめて父に連れられ銀座に行ったのが1955年の晩夏で、美しい夕方の光景は今も鮮明に記憶しています。すずらん通りと交詢社通りの角には米軍の放出物資が木製の即席テーブルとビール箱に重なり、トランプやHERSEYのチョコレートが妖しいガスの光で揺れていました。銀座はとてもアメリカの薫りに満ちていたのです。

それよりも20年程前の記録写真は、石川光陽氏がライカで撮影した、資生堂パーラーの光景です。

1934年は暗雲立ち込めた時代ですが、さすがに銀座にはそんな影は微塵たりともありませんね。夏の真っ盛り、男性諸氏は『トラヤ帽子店』あたりで買い求めたのか・・・、上質なパナマ帽に白麻スーツ・蝶ネクタイで決め込んでいます。至るところに掛けられたパナマ帽がこの店をいっそう洒落た景色にしています。その後、いつとはなく街から男の帽子姿、いやいや、女性の被り物も含め、消えてしまい、今では、ラフな帽子姿をたまに見る程度でしたが、ぼつぼつと昭和モダン好きな若い輩が決め込んだハット姿が現れています。微笑ましくなるほどさまになっていなく、笑いたくなりますが、本人は真面目にサッサと銀座の歩道を縫うように闊歩して行きます。

1930年代の銀座・丸の内などなど。http://www.youtube.com/watch?v=9BXPaz6KZvE

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2011年9月 4日 (日)

初代広重 江戸高名会亭尽 柳橋・河内屋

Photo_2上の錦絵は、両国柳橋にあった会席料理屋、河内(かわち)屋二階での書画会(しょがかい)の様子を描いたものです。河内屋は主人の名が半次郎で、河半ともよばれていました。
 書画会が料理屋で行なわれるようになったのは寛政年間(1789~1801)からといいます。書画会は会場に客を集めて、専門家が書画を揮毫
(きごう)し、希望者に販売する会で、『江戸繁昌記』(1832刊)には1章を設けて、書画会について記しており、概略つぎのような内容です。
 「書画会は期日の数ヶ月前らか、大きな看板を出して、当日揮毫する画家、書家などの名を宣伝し、当日は座敷の数ケ所に、毛せんを敷いた台を設け、画家や書家はそこで揮毫し、客たちは料理や酒を楽しみながら、気に入った書画を争って買い求める。会場の会席料理屋としては柳橋の万八と河内屋が知られている」。
本来、会席とは茶や俳諧などの集まりをいい、その席で酒とともに出される料理が会席料理でした。江戸時代後期に料理屋が多くなり、会席が料理屋で行なわれるようになって、本膳料理を酒宴向きに簡略化したものとして会席料理ができました。『守貞漫稿』(1853)には、天保(1830~44)の初めころから、会席料理がひろまったとあります。
「狂歌会席料理名家双六」には、柳橋河内屋半次郎として「白魚(しらうお)の四つ手も春の柳ばし、よくつり舟やつなぐ河内屋」とあります。柳橋街は神田川が隅田川に入る川口の両岸にあり、春には四つ手網で白魚をとる釣舟も河内屋に寄ったのでしょう。
 このように、白帆の舟も見える景色のよい会席料理屋の河内屋には、書画会の会場としての文化的役割もありました。 (松下幸子千葉大学名誉教授)

初代広重作の浮世絵は柳橋 http://www.e-navilife.com/taito/story/05/12/index.html   の全盛期でしょうか。今でも面影が多少はあるものの、往時の風情は皆無で、この時代から会席料理の店として別格だった亀清楼などの料亭も近代ビルに姿を変えてしまったのであります。父の生まれた浅草新片町は柳橋のすぐそばで、以前、地元商店街会長にご案内いただきましたが、関東大震災で江戸から続く通りも変わってしまい、父の生まれた明治41年頃の面影を、偲ぶにも偲びようのなかったことを思いだします。

今では想像も出来ないほどの優雅な遊びが、庶民には縁遠いとはいえ、頻繁に開催されていた江戸後半の時代は、人心は穏やかで、今ほどせちがなく他者を蹴ってでも先に行くような発想は皆無だったかも知れません。それでも、欲の塊のような町人などは高名な書家の揮毫した書画などに高い金額を払うなど・・・、酔いが回るにつれ価格の高騰といった一面も、多々あったのかも知れませんね。

 

 
 

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2011年9月 3日 (土)

1932 銀座尾張町交差点

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1932年(昭和7年) http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1932.html の銀座四丁目交差点。世相は五・一五事件、上海事変、満州国建国、桜田門事件など暗雲立ち込めだしたものの、銀座はいっこうに関係ない穏やかな気配。

女性のファッションもさすが銀座、和風から洋風までさまざまに楽しんでいますね。男性は、パナマハットから羽織までとこちらも和と洋の揃いでまさにここは風俗文化の交差点そのものです。掘割の殆どが江戸時代と変らず残っていて、その川風とともに銀座の柳も涼しく腰を揺らしていたのです。http://www.youtube.com/watch?v=98yFnrOLg5k

銀座の町名は行政区画区分の記号となって味も素っ気もありませんが、東京市旧十五区町名のもつ字体とその響きは、夫々の町の気配や人情までを読み取ることができます。http://www.kyougoku-do.com/tkyo-15ku-itiran.htm

時代は明治維新の志など関係ないと思わんばかりの陸軍主導となり、戦術あって戦略なしの泥沼に浸かる一方でしたが、こんな明るい歌も作られました。http://www.youtube.com/watch?v=J_gxIpXltZ4

そして陸軍の理不尽な戦略論理に対峙し、ロス・オリンピックで日本を歓喜させたこの御仁とウラヌス号。http://www.youtube.com/watch?v=c6n92JyVhxw

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2011年9月 2日 (金)

明治初期 筋違通夜景 井上安治

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関東大震災・戦災ですっかり江戸の風情もなくなり、さらに東京オリンピックとその後の高度成長・・・、光と闇と樹木と水辺がみごとに混在していた明治の東京も、現在のような景観となってずいぶん経ちますが、まだまだ港区では再開発の動きは活発です。

庶民の日々の些細な生活文化が消え失せ、地域の顔役も居なく、家族の団欒にいたってはもう遠い過去の話などなど・・・、こうなれば、昔の風俗生活資料を執拗に見て、佳き時代の生活・景観・風土がいかに豊かであったことを再認識するしかありません。

エコ・エコ・エコなどと叫ぶのもわざとらしく聞こえてくるご時勢なれど、元々、世界に冠たるエコの都市・東京(明治維新でなく徳川瓦解と思った族はとうきょうとは呼ばず、とうけいと呼んでいた時代もあったのです)は水と緑に溢れ、水辺を中心にした物流経済からあそびの界隈に至るまで・・・、それは風流な世界であったようであります。

明治の初期、井上安治の描いた旧筋違見付(すじかいみつけ)門、八ツ小路夜景の一枚にも神田川を眺めながら優雅に散策する大人の愉しみが刷り込まれています。以前まで交通博物館、その前は廣瀬中佐像のあった場所ですが、今も赤煉瓦の高架線が邪魔し、川向こうの光景を愉しめませんし、ビルばかりですから別にどうってことのない光景でしょう。珠に自転車でこの通り界隈を抜けるときがありますが、林立ビルのお蔭で一日中薄暗く、夏場でもぞくぞくっとしてしまいます。

明治22年、ニコライ堂建設中の足場から撮影した記録写真の中央右、萬代橋の右側広場が八ツ小路です。

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2011年9月 1日 (木)

萬代橋(よろづよばし)現・万世橋

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井上安治作のしっとりとした、如何にも日本の空気に満ち溢れた版画です・・・。時季は梅雨頃でしょう。カラッとした夏を願わんばかりか、暗愁のトーンに同調せんばかりの柳の緑色のハーモニーがみごとです。左の橋が大久保一翁の命名による萬代橋・・・、現在の万世橋です。

この版画を制作した明治初期、神田駿河台から淡路坂を神田川沿いに下ると、萬代橋南側に八ツ小路広場という柳の茂る一角があって、永井荷風も都会美の第一の要素として「静かな樹木と水流のあること」として、この場所を典型例として挙げていたそうです。後に万世橋駅・廣瀬中佐と杉野上等兵の銅像が建立された辺りです。

現在のJR高架線・赤煉瓦の辺りから秋葉原方面を観た場面です。

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