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2011年10月31日 (月)

石塀の目地から。

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玉川通りと用賀中町通りが交差する用賀一丁目信号をボルボのショールームに沿って上ると綺麗寂びの世界が突如、現われます。

何の変哲もない石塀の目地から途切れることなく水分が湧き出ているのでしょうか。経年変化物件でも、かなり美形であります。この裏は立正佼成会で東條英機邸跡でもあり、何か因縁めいたことでもなければよいのですが・・・。

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2011年10月30日 (日)

瞬時に捉える達人技!。

2009 アーネスト・H・シェパードさん http://www.asahi-net.or.jp/~ka3i-mztn/shepard.htm の挿絵は熊のプーさんの世界的ヒットにより一躍人気となりましたが、その卓越した表現は空気感まで捉えていて、思わず和んでしまいます。昨今のユルキャラと呼ばれる稚拙なものとは段違いの品格をもったひとつひとつの挿絵には、細部を通してイギリスの子供に対する慈愛さえも描かれているようです。

さて、この一枚、こちらにやって来るあひるの家族の動きなど、歩くリズムさえ描かれているようで、どうすればこのような線描センスが取得できるのか聞いてみたくなるほどです。それと、草の一本一本の無駄のないあしらい方など、小さな作品ですが、人間と動物たちとの絶妙なコミュニケーションさえ浮ぶような秀作です。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年10月29日 (土)

広重 木曾街道六拾九次内 妻籠

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妻籠や馬篭などの、街道街並保存を遵守している観光地を訪れる方は、その殆どが団体バスツアーのようで、以前のように滞在してゆっくりと昔の旅情に浸ったり、地元の民話など聞くことも少なくなったようですが、最近は、海外のお客さん比率が高まり、この界隈も人気がぶり返してきたそうです。

いっときは、民宿ブームに便乗し、大手の飲食店も覆面店舗を出したりしていたものの、ご他聞に洩れず、ブームが去れば、さっさと撤退するなど、街の活性化には何にも役立つことなく、集金だけして帰っていったようなものですが、今では、地元の奥さんなどがふだん食している自家製の食材加工品などが人気です。

さて、広重の妻籠には定番の街並がいっさい登場してませんが、この画面は妻籠城址の辺りです。例によって、漆黒のシルエットで浮かび上がった松林が画面をぐっと引き締めています。山の稜線の延長下に街道をシンクロさせるなど、全体の構成、色彩設計にはデザインセンスが沸きあがりすぎてインパクトにかけますが、旅情心は満足させてくれます。

『行ってみよう・・・木曾』といったところでしょうか。

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2011年10月28日 (金)

デュフィのさっぱりクロッキー

Dufy15 美術を志すにも技術がなければ何の意味もなさないのでありますが、このデュフィのクロッキーを観ると、即興ながら動きと構成・余白を瞬時に捉えていることなどから、この画家の力量がいかほどのものか・・・、分かろうというものです。

ロンシャン競馬場にたむろする、紳士の様子でありますが、風俗画としても一級ですし、線の太さを自由自在に使い分けられる腕の筋肉の鍛錬さえもうかがえるようです。さらに、余白さえも練り上げたかのような構図が、登場する一人ひとりの動きをストップモーションのように切り取ったかのようであり、エレガントな題材ながら、ダイナミックな作品となっています。

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2011年10月27日 (木)

1897 日本セメント八代工場

1897 何か分からない動きが少しずつ始まって、そのうち、急激な変化立ち上がり、出来上がると、これまで見たことも無い別世界の景観が誕生してしまった・・・。明治維新(徳川瓦解)以降の急激な富国強兵へのシフトチェンジでは全国このような現象が跋扈していたのです。

この写真を観ていると、明治の中頃の富国強兵・産業振興としてのインフラ役だったセメント増産に急ぐ国家の誇りが、カタチとして見えるようであります。周囲はまだ長閑な景観であったに違いなく、この近辺に先祖代々住み続いた旧家の皆さんなどは、天変地異のごとく、ご一新のもつ意味をこの景観から感じていたのでしょう。

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2011年10月26日 (水)

鳳凰雲・火炎雲

1189597091_photo1 このような夕日に輝く雲を何と呼べばよいのでしょう!。

あえて鳳凰雲、あるいは火炎雲とでも呼んでしまいたくなるような、奇跡的な夕日と雲とのアンサンブルの瞬間を写したショットです。

日本では先ずお目にかかることないのでしょうが、この素晴らしい光景が撮影されたハワイでは、よくこの様な光景を見ることが出来るのであれば、羨ましいとしか言いようがありません。

写真でさえこの迫力ですから、実際の光り輝くゴールドの部分など、それは神懸りといっても過言でないシーンであったでしょう。

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2011年10月25日 (火)

議事堂のある風景 1942年 松本竣介

1942 太平洋戦争に突入したものの、ミッドウエィ海戦に於けるお粗末な指示系統の判断ミスが、その後の運命を決定づけてしまった年に描かれた作品です。世間は参謀本部の情報統制により事実を伏せられたまま、勝ちっぱなしを信じ、有頂天になっていたものの、直観力に神がかったものを持つ松本竣介は、既に荒廃した暗示のような世界を描いています。

画趣だけで観れば、透明でありながら荒々しい表現は、松本竣介の孤高の誌的世界であります。体制打倒などのメッセージしか描けない単純な左翼画家とは違い、美しくも寂寥感に溢れた混色の環境表現は、永田町の権力者だけが知っていた、ニッポンの実態を象徴しているようであります。

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2011年10月24日 (月)

三代広重 1875 東京第一名所 永代橋之真景

1875 江戸から東京に名前が変わっても、錦絵の職人さんは、先代の画面構成・刷りの技法・顔料調合などなどひとつも違いなく、粛々と目の前の風俗の変化を微細な部分にまで目を据えています。

永代橋、忠臣蔵http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA001/S001-2.htmlでもおなじみの美しい橋です。http://www.tokyo-kurenaidan.com/chushingura2.htm

http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/bs-eitaibashi.html 秋の永代橋を越え、佐賀・福住辺りの昭和の経済を支えた工場などを自転車徘走しながら観ていると、いまどき、どこから出てきたのか・・・、紅葉・枯葉が道一面に流れていて、この界隈独特な過ぎし日の寂寥感があります。おそらく、夜などはEdward Hopperさんの絵画のようなブルックリンの街のような光景が展開しているのでしょう。

三代広重のディレクションによるこの錦絵も晴れ晴れしますね。飛脚に代わる郵便配達が新時代の職業として活き活きと働いていますし、ちょんまげあり、フロックコートあり、馬車あり、魚売りあり・・・などなど、新旧混交の風俗がエネルギーを感じます。

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2011年10月23日 (日)

イエメン・ハッジャの尾根道に目眩が!。

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撮影:東京学芸大学名誉教授 伊藤清忠先生

イエメンといわれても、何処なのかピンと来ないのが当たり前でしょうが、この尾根道には感動しました・・・。標高も2000メートル近くあり、この地域は城塞集落の宝庫ということですから、この写真もその一環かも知れません。

自転車のダウンヒルをイメージしたところで、転倒してまっさかさまという悪夢以外見そうもなく、その険しさも半端ではありません。ガードレールなど関係なく、ひたすら穏やかな尾根と鋭角的馬の背が混ざるこの場所はどの辺りなのか・・・。ダウンヒルマニアには垂涎の場所でありますね。

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2011年10月22日 (土)

父を描く 1957年

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父を描いたA3サイズのクロッキーがスクラップ帖から出てきたのですが、これを描いた頃の記憶がうっすらと残っています。スクラップの前後から推測して1957年(昭和32年)だと思います。

まだ十歳でしたが、筆に墨汁をつけて描いたのは父の「お前もやってみろ・・・」という画策に便乗したのかも知れません。眉間に大仏のような●が見えますが、これは墨を垂らしてしまった結果でありますが偶然とはいえナイスな場所に垂れてしまったものですね・・・。

この頃の父は出版編纂に日々没頭していたので、顔つきにも、それなりの厳しさがあって、その雰囲気がよく出ています。爽というサインを左下に記してますが、左利きでしたから筆勢をコントロールできず、まったく、かたちになっていません。

神田川に面した北向きの広いアトリエは、出版編纂の仕事に追われていたため古書店のような山積みの本や、送られてくる資料の類が重なり合い、子供が悪戯するには絶好の場所でありましたから、この鬱陶しくも面白い空間の中で父を観ながら描いたのです。

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2011年10月21日 (金)

御茶ノ水・ニコライ堂界隈 松本竣介 1943年

1943 神田小川町から聖橋に上る手前左にニコライ堂があり、橋を渡れば正面に湯島聖堂。このふたつの聖堂を結ぶという意味で聖橋という名をつけたことを教わったのは、20歳代後半の頃で、それまでは、何と呼ぶのかも分からなかったのです。

無機的なビルの続く御茶ノ水界隈を通り、この道を自転車で駆け上がると突然倒れるように見えてくるニコライ堂の建物は、不気味に感じることもあって、都心からその美しい姿を俯瞰で観るスポットが少なく、残念であります。

松本竣介の絵ではニコライ堂は登場せず、紅梅坂が極端な急勾配で描かれ、極めて暗示的で不安感だけが頭を過ぎります。描かれた昭和18年の時代背景を直感的に捉えた画面は、その後の結果さえ読み取れそうであります。

この辺り、現在はステンレス・ガラスばかりが林立し、一日中、太陽の反射で眩しいところとなっています。

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2011年10月20日 (木)

1946 Paris

1946_paris_3 第二次世界大戦が終わった翌年、平和を取り戻し解放感に満ちたサイクリストが仲間内のレースでもしているのでしょう・・・。パリの街角からスタートしていき、何処に向かうかは分かりませんが、戦時中は走ることも出来ずイライラしていたでしょうからその嬉しい気分が伝わってきます。同好の士がやっと集まり、平和の有り難味を味わいながらスタートしていきますし、様子から観て、寒い時季のようですが、ニッカーポッカーの雰囲気がいかにもパリジャンですね。

1960年頃、学園前の五日市街道などでは、まだ見慣れないベレー帽・ニッカーポッカー姿の日本人のタンデムが疾走していく姿に憧れて以来、私もスポーツ自転車の世界にのめり込んでいったのですが、本場の雰囲気を真似ようにも手本がなく、数年後、東京サイクリングセンターで出会ったスポーツ自転車界の魁の皆さんに自転車のイロハを教わっていくにつれ、日本人サイクリストにはベレー帽・ニッカーポッカーが似合わないと感じ入ったのです。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年10月19日 (水)

光悦の黒楽茶碗 『七里』

Photo_2 剛毅で美しく、おまけに幽玄な姿は、作ろうと思って生まれるものではなく、釜の中の炎に委ねた神頼みの成せる業なのです。

不思議なもので、茶道具の中でも別格扱いな茶碗の評価は千差万別・唯我独尊・・・、夫々が勝手に一人歩きしてしまい、「素晴らしい器」があるということを無視するが如く、枝葉末節からの視点で褒め称えます。

しかし、この本阿弥光悦の『七里』などは、もう何の評価も要らず、存在そのものが奇跡の姿です。炎に委ねる以外、人間が施せる造形美としての高台処理・口縁のゆらぎ・緊張感のある直線性・・・、などは作為の領域ですが、素地のみえる釉薬の掛け外し部分は、炎の戯れとはいえ、みごとな間を演出していますね。

三井の益田鈍翁の旧蔵品で、現在は、五島美術館の所蔵となっています。

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2011年10月18日 (火)

1927 鈴木信太郎 『静物』

1927 不思議なもので、知らず知らずのうち家の中にはモノが溢れ、納戸に仕舞い込んだのはいいけれど、そのまま、数十年もデッドストック化してしまっている御宅も多かろうと存じます。私は3年に一度Stock Taking(棚卸)をして、今後用のなさそうなモノは見切りをつけて、処分しています。当初は躊躇いがちで、取って置くことも多かったのですが、回数を重ねるうち、案外、サッパリして気分のよいことが分かりました。納戸にしまいこむのであれば、なるべく、部屋の中にコージーコーナーを作って自分の好きなモノばかりを集積すると、何となく、博物館展示のようにも観え、空間がキリリと締まります。

さて、鈴木信太郎さんが1927年に描いた画面からは、戦前の東京郊外の中流以上の家庭の薫りが漂い、描かれた品々に見入ってしまいます。手彫りの額縁など、シンプルな表現ながらこの画面に緊張感をもたらしています。

私が通っていた小学校の同級生の御宅が吉祥寺大正通り沿いにあって、そこは、大正時代からの古い木造住宅でしたが、佇まいの立派さからして、周りを圧倒していました。玄関を入りすぐ右手に洋間の応接室があって、南側の窓コーナーにはこの絵のような世界が展開していました。同級生の祖父が日本郵船の重役さんということもあって、イギリスの将校時計をはじめ、海外のクラシックな置物が点在していて、子供にとっては宝の山のように見えたものです。家族の代々の大切な品々を引き継いで飾る風習は、既に無きが如くでありますが、たまにそういう場面に出くわすと、伝承されていくアイコンのもつ強みを感じざるを得ないのであります。

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2011年10月17日 (月)

北斎 駿河台の絶景。

Photo Photo_2 Photo_3 Photo_4 御茶ノ水駅を出て明大通りを駿河台下に下って行くと、右手の、とちのき通りから山の上ホテルにかけての一帯は明治から昭和にかけて、大きな屋敷が点在していたようですが、その理由の第一は、この山一帯から富士山が望め、その眺望は素晴らしかったからです。また、幕末のお台場建設に要する埋め立て土をこの辺りから掘り起こし、神田川をつたわって江戸湾に向かっていたそうですから、昔は今よりも切り立った山の姿であったのです。

此処、駿河台は初春は輝く新緑に覆われ、晩秋はパリの下町を思わせるようなシックな雰囲気に満ち、その中をのんびりと走るのは、私の自転車徘徊の定番ルートとして欠かせないコースで、都心の季節感を享受するにはうってつけなのです。おまけに江戸時代からつづく道筋が程よく残っていて、往時の雰囲気をイメージするのも愉しみのひとつです。

さて、北斎の駿河台から富士山を望む浮世絵には、厳しい坂(明大通りか?)を上り下りしている町人がいきいきと描かれています。一般的に坂のある道の画題にはドラマを生みやすいモチーフがあるものですが、北斎はそんな事関係ない・・・、といわんばかりに、淡々と行きかう人々の姿のみに集中しています。寄道してもっと富士山を観たいと思ったのか・・・、何時の世にもいる輩が微笑ましく描かれているのが幸いして、この浮世絵を風俗画として味わい深いものにしています。

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2011年10月16日 (日)

こんなことをやっていたとは・・・。

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知らなかったですねえ・・・。素朴な絵ばかりと思っていたら、谷内六郎さんには、描かずに貼り込んでいたのも、あったのです。

どこでスイッチが切り替わったのか分かりませんが、筆で描くよりは格段にリアリティーがでていますね。山里のお花畑に降り積もった初雪にびっくりしたような、春の開花を待ち望む花の気持ちを象徴化するように、レース模様を活かしています。土にうっすらと積もった感じはみごとですね・・・。

さらに、遠くの初冠雪のお山もレースで仕立てられていますね・・・。快晴の中、気温は相当低い模様ですが、元気に手まりで遊ぶ子供達の動きは谷内さんの独特なかたちです。

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2011年10月15日 (土)

1900年 10月15日 日本橋 三井呉服店

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昭和3年に東京駅・丸ビルと並び称された日本橋・三越の威容の建物が出来る以前の三井呉服店の姿です。広重の浮世絵でさえ、もう少し大きな印象をもっていたのですが、こうして写真を見る限り、さほどではなかったのです。この11年後には日本橋が大理石の真っ白な姿を現し、全国から観光客の絶えなかったゾーンの中ですし、右奥方面には富士山が末広がりを見せてくれていた場所です。商売繁盛、商いは益々末広がりといった日本一の吉祥場所は、今日もその威厳が衰退していませんね・・・。

1900年(明治33年)10月5日。三井呉服店・日本橋本店は座売りを全廃、全館を陳列場として開場(座売りとは畳敷きの広間で客に番頭が接客して、注文により土蔵から小僧丁稚に取りに行かせて吟味し販売すること)。 店内にはイギリスを中心とした洋服・服飾雑貨なども眩いばかりに展示され、それまで中流以上の守旧派顧客層で占めていた三井呉服店もすっかり様変わりとなりましたが、この撮影された日が正に、そのお披露目の初日というわけです。今と変らない野次馬か、普段は三井呉服店とは縁のない輩か、いっぱい取り巻いてますね。上得意の顧客は前日の招待で御買上げされて、このような雑踏のなかなどは、一切関わりないのでありました。

尚、下の写真に寄切室と書かれていますが、これは半端モノ販売や、セール会場という意味で間違いなさそうです。

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2011年10月14日 (金)

明治後期 横浜グランドホテル

Photo 明治末期の横浜グランドホテル http://www.hotel-label.com/yokohama_grand_hotel.html の姿です。横浜港がパノラマ展開していて、その先には房総半島も広がり、居留外国人もその光景を楽しんでいます。馬車の行列は陸軍の軍人さんが乗っていることから、戦勝パレードの一環かも知れません。時代的には日露戦争に関係しているパレードというのが妥当なところでしょうか。

このホテルのことではありませんが、徳川瓦解による拙速な近代化・西欧化によって、良識ある改革派にさえ、笑いものになった井上馨の建築プロデュースのセンスの悪さは、関東大震災や東京大空襲によってその多くが消えましたが、明治末期の頃は全国にその影響が出ていて、いわゆる日本の俗悪折衷感覚の頂点として、記録資料に残されています。制度・思想的なことよりも、明治維新後の風俗としての変革はまさに、外人に媚を売る「イマイチ」そのものでありました。

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2011年10月13日 (木)

Rugged Country

Kristofferson 華やかな全身ラメだらけのコスチュームをダサイといえる時代がやって来た1970年代前半のカントリーミュージック界は、男臭さを前面に出したアメリカンミュージックのシンガーが登場しましたが、私は、Kris Kristoffersonの渋さにノックアウトされました。彼は、ナッシュビルを中心とした懐メロ歌手ばかりが人気あるカントリーの世界とは違い、テキサス中心のアウトローカントリーと呼ばれたジャンルの旗頭であり、曲のテーマも近隣の話ばかりだった世界に、生き方のテーマをストレートにぶつけました。

今も彼の力強いメッセージとぞくぞくするような歌いっぷりに、若いフアンが増えているそうで、たしかにパワーをいただくという点ではKINGであります。多くの歌手とのコラボも多く、又、作曲家・映画俳優として稀有な才能を十二分に発揮し、名曲はいつもYou YTubeから聴くことができ、とりわけ、冬の時季には身にしみるような男の哀しさが伝わります。http://www.youtube.com/watch?v=W8ZkkKfg_Rw

http://www.youtube.com/watch?v=N_LkezUKS40&feature=fvst http://www.youtube.com/watch?v=_RLiuPRMJy8 http://www.youtube.com/watch?v=0zGGzsiA1dA

クリス・クリストファーソン 1936年6月22日生まれ

空軍将軍の息子。ポモナ・カレッジで作曲を学び、ローズ奨学金を得てオックスフォード大学に学ぶ。卒業後は空軍に入り、西ドイツで四年半をヘリコプター・パイロットとして従軍。除隊後にナッシュビルに移り、下積み生活をしながらカントリー&ウェスタンのシンガー・ソングライターとして活動を始める。70年始めから多くのヒット曲を生み出し、カントリー&ウェスタンの大御所として活躍。映画の方は71年の「ラストムービー」でデビューし、音楽も担当。特にペキンパー作品での渋い演技で高い評価を受けた。最近では「ブレイド」、「ペイバック」と脇役ながら印象的な役を演じている。73年に「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」で共演したリタ・クーリッジと再婚して一児をもうけたが、アルコール依存が原因で80年に離婚。83年に再再婚して現在は5人の父となった。

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2011年10月12日 (水)

役者町・新富町

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新富座は万治三年(1660)木挽町五丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された『森田座』を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保十四年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政五年(1858)に『守田座』と改めました。明治五年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同八年(1875)に『新富座』と改称しました。新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行ないました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で『東京第一の劇場』と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。

 明治二十二年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失しました。

 明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。

現在所在地 東京都中央区新富2-6-1 

大規模商業施設などに併設されるエンターテイメント空間は、時代の流行もあって、お気軽な芸人さんの世界をプレゼンテーションする場ばかりが目立ち、伝統系となると、歌舞伎座にその去就を任せるしかなくなった感があります。1875年(明治8年)、新富座の江戸前の姿を観ると、町芸の昇華したスタイルとしての伝統芸の華やかさが窺えますし、スケールも馬鹿馬鹿しいほどの広さでなさそうですね。跡地近くには今も足袋の大野屋の店が残り、往時の役者町の艶やかさが夕方のアンニュイな時間帯になると現れそうであります。

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2011年10月11日 (火)

1910年(明治43年)桜田門から参謀本部を望む。

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もうそろそろ風も冷たく感じますから、なるべく日中に自転車を愉しみ、午後二時過ぎには引き揚げることを決まりとしています。それでも、紅葉の兆しも始まっている箇所もあったりするとついつい長居をしてしまい、西日は強いものの、風は厳しいというミスマッチな天候の中を帰るのであります。週末は、やはり皇居方面に向かいがちですが、全国ランナーの聖地と化した皇居43_2 の内堀通は華やかで気分も晴れ晴れします。桜田門に入れば、ランナーの脱衣所となってしまった一角を見て見ぬ振りをしながら、一周五キロの周回に専念します。

さて、今から101年前の桜田門から望む、参謀本部の威容は、美しさという視点のみでいうならば残っていて欲しかったものであります。1945年の東京大空襲で消滅して、現在の国会議事堂前庭様式庭園に建っていたものです。イタリア・ルネサンス様式の瀟洒な姿の前には有栖川宮銅像が皇居というよりは、天皇を奪還しようと目論んでいた旧徳川幕臣を制するように、江戸城本丸を見下ろしています。

日本の美しい環境の中にそれなりに溶け込んでいる西欧建築の姿は、遺っていれば、走っていてもそれは気持ちの良い環境であったことでしょう。ついでに、桜田門と御濠の境に飾られた鉄鋳物の柵が洒落てますね。よく見れば真中は菊の十六紋でなく桜の意匠・・・、日本帝国陸軍の象徴でもありますね。今は不細工な石が置かれているだけですから、平和の象徴を施した洒落っ気程度は復活してもらいたいものであります。

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2011年10月10日 (月)

黒織部茶碗 加藤唐九郎 昭和36年  

36 抹茶碗をコレクションする趣味など持ち合わせていませんが、いまだにその人気は衰えることのない、魔界の領域であります。

人間の欲望と権威に弱い性をもろに表した『名物』が出揃う新年の茶会などでは、普段、拝見すら出来ない逸品を手に取り、内側の宇宙を独り占めできるのですから、その贅沢三昧は格別に違いないのであります。

それでも、作り手は「そんなこと関係ない」と言わんばかりに、炎の勢いという神の領域に全てを委ね、作為と無為との狭間で格闘しながら奇跡のような姿を導き出します。加藤唐九郎の黒織部茶碗も正に、その奇跡の逸品といえるのでしょう。青山二郎という稀代の目利きは、茶碗の六相として、三趣(品格・侘び・寂び)・三感(量感・力感・浄感)を挙げていますが、この器はその全てをクリアーしていますね。

そうそう、この三趣・三感はとくにプロダクトデザイン領域の完成された姿の条件として応用できますし、昨今の建築物評価にも使えますね。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年10月 9日 (日)

銀座尾張町・1947

Photo_2 詳細なデータはありませんが、解説によれば1950年代初頭の銀座ということです。中央通りは当然路面電車が走っていて、この線路は1968年頃まで使われてました。

私が自動車免許を取り、銀座を走ったのが1967年でしたが、まだ細身のタイヤで、雨の日などは、線路上を走るとスリップはするし、中央通の真中にあった停車場に人が溢れ、車とギリギリぶつかりそうになったことも何度かありました。

戦後復興が一段落した商店街も、今とは隔世の感がありますし、ナショナルのイルミネーションが自信満々に鎮座していますが、ここは現在、三愛ビルです。空も明るく広く観ることが出来、住商一体となったビルも多かった時代の気配が記録されています。

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2011年10月 8日 (土)

琵琶の匠

Rimg12277 正倉院御物とはいえ、はるか昔の美しい楽器を観ると、完全にノックアウトであります。

琵琶はギターのような多彩な音色が出るわけではないものの、実際に目の前で聴くと、その音の突き刺さるような迫力と叩きつける奏法に圧倒されます。

遠く亜細亜で誕生したこの楽器こそが、その後、シルクロードを通して、西欧にも届き、インスパイアされて、ヨーロッパ弦楽器が生まれていったわけでしょうから、美しいだけではなく、その音色こそが、西欧にはない音階とともに、遥か遠くの世界そのものであったのでしょう。

完璧なプロポーション・各部分における機能を完全に果たす材料の選択・・・、など、渋くて剛毅な姿は、これも、立派な、建築なのかも知れません。

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2011年10月 7日 (金)

トレーラーハウスの経年変化

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1960年代から一生懸命、ご主人のアウトドアー好きに付き合わされ、アメリカ全土は勿論、カナダから南米まで出かけていったこんんのトレーラーハウスも、やっと落ち着いてご主人の御宅の横に鎮座しています。日本は島国ですから、さほどこのタイプで生活をしながら旅行する文化は育たなかったのですが、アメリカでは開拓魂のDNAが根付いていて、今も、カントリーロードでは、見かける光景です。

引退したにも関わらず、このいい味を出したトレーラーハウスは、日本ならば移動図書館あたりに落ち着くのでしょうが、ご主人の生活空間の一つとして継続しています。その昔にご主人の思いつきで塗り手繰ったペンキも時を経て、いい按配の風合を出し、この空間ではご主人の趣味であるバンド演奏などをやっているのかも知れません。所ジョージ好みのPONKOCHIKKU物件の中でも上等な部類であります。

本場アメリカのブルーグラスフェスティバルではこのトレーラーハウスが会場周辺を埋め尽くし、有名プレィヤーを招き入れたジャムセッションが日毎夜毎、続くのです。http://www.youtube.com/watch?v=OfglyqcJj3c

その他、このイメージに合う曲を・・・。http://www.youtube.com/watch?v=1TD_pSeNelU http://www.youtube.com/watch?v=Jk1nw4Uoxig

トレーラーハウスとはまったく関係ないのですが、アメリカ内陸の典型的アメリカンの風俗の分かるフェスティバルです。この層がアメリカを支えているのですから、ちょっと辛いものがありますが・・・。 http://www.youtube.com/watch?v=qKdC0uqjb_Y&feature=fvsr

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2011年10月 6日 (木)

石井伯亭 『並蔵』 1913

1913 大正時代の日本の絵画には海外留学した画家以外、独特の重厚感のあるものが多く、この石井伯亭の描く松江の蔵の風景にも、コンテとグアッシュでのびのびと描かれているものの、重さと暗さが表れています。この暗さが、昭和初期まで日本絵画の一方の旗頭となっていて、今も、この暗さを求める絵画フアンも、少なくないのです。

水墨画に着色したような雰囲気は、アカデミックなモチーフを主題にしていながら、水面に映る表現などはリアリズムに少しモダニズムを感じますし、画面全体の引き締まった画趣には西欧には見られない、風雅ささえ覚えます。

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2011年10月 5日 (水)

Bostonのトラッドな街並。

Boston_harvard_square_2 落ち着いた街並、窓らし窓・・・、ボストンの1980年代の写真ですが、ここに写っている建物は全て現在も変らずに存在しています。1880年代に建設されたBoston Lower Mass,Aveにある趣のある一角のビルは羨ましいような姿です。

リノベーションマンションもそうですが、最近は、若い世代を中心にリノベーションオフィスに人気があり、とくに下町の昭和モダンな物件に集中しているそうですから、職種によって、新しいインフラが整ってさえいれば、人情味豊かな下町に腰を据えたがるのも分かります。

さて、この写真を見ていて1960年代前半の銀座並木通り、みゆき通りにも似た雰囲気のビルがあったことを思い出します。ドイツ料理のケテルス、双葉屋靴店、三ツ輪精肉店、ピルゼン・・・など、落ち着いた店内ときちんとした身なりの店員さんとの相性がみごとでした。銀座・交詢社内 秀山荘でアルバイトをしながらお客さんに納品をして帰る途中、ビルの間を早く通り抜けることを先輩から教わり、ずいぶんと失敗しながらも最短コースを暗記していったものです。そのおかげで今も銀座界隈の小路も覚えていて、たまに抜けようとするのですが、途中で閉鎖になっている箇所も多く見受けます。

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2011年10月 4日 (火)

マルケ・雨の港町

Spark_of_color アルベール・マルケが1930年に描いた『ブーローニュ・シュル・メール港の眺め』は、早朝の雨模様をフィルター効果で彩度を落とし、油彩ながらパステル画のような優しい画趣になっています。マルケは、空気の湿度感を捉えるセンスが抜群で、煙の臭いまでもがカンヴァスを通して、こちらに漂ってきそうです。また、機関車の線路を極端に省略し、雨にぬれた広場を効果的な面積として配分しています。ぽつんと立っている人物の影がシンプルながら絶妙な配色ですね。

渋い画でありますが、日本人好みのしっとり感は、和室にもぴったりの一枚です。

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2011年10月 3日 (月)

スペインの空気

1309

1967年のヨーロッパ旅行の締めは、モンテカルロのカジノで同行者の一人が奇跡的にブラックジャックで大勝し大盤振る舞いとなって、急遽、その勢いでスペイン行きとなりました。

強烈な日差しで地中海の海面が反射し、眩いばかりのコートダジュールをフランスからスペインに入ると、突然、景色が一変し、草の多い土地と土っぽいラスティックな住居が観えてきました。南伊・南仏のようなテラコッタのような明るい色調とは異なり、灰色がかった茶系の世界は、なんとなく古都・奈良の雰囲気に似てなくもなく、その侘び寂び感覚に、独り親しみを覚えるものでした。

この旅行はオートスポーツという自動車雑誌の取材をかねて、自動車レースや工場見学など多岐に亘りましたが、一応、その義務を終えて解放されたこともあって、全員、夢に見たスペインにたどり着いたのですが、私は相変わらず、助手席でナビゲーターの役目から解放されず、ひたすらミシェラン地図とのにらめっこに終始していました。バルセロナの港に到着すると、何と、日本のおでんやと同じタイプの屋台があり、全員ここで、魚貝中心の具を野人のようにむさぼり喰いしたのでした。それまでの食事は殆ど、お決まりのコンチネンタルスタイルでしたから、そのワンパターンに食傷気味ということもあり、しばらくぶりの満腹感を堪能したのです。

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2011年10月 2日 (日)

古久谷モダン。

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色絵松樹文輪花皿 サントリー美術館蔵

久谷焼の三色、イエローオーカー・ウルトラマリン・フタローグリーンで埋め尽くされた古久谷青手の皿は観賞用としてもみごとな出来っぷりですが、ここに旬の食材を大胆に盛るもよし、趣向を凝らした細工の料理を小ぶりに載せるもよし・・・、どんな相手が来ようともびくともしない力があります。

美の世界には「用の美」、「観の美」があるものの、そのどちらも満足させる不思議な感覚を古久谷は併せもっているのです。

1600年代中頃に作られた皿は、その繊細で大胆な構図と文様、そして松の幹に見られる現実無視の色のアバンギャルドさがあるからこそ、古びない永遠のマスターピースとして君臨しているのです。

料理も知らず、稚拙でカワイイ絵柄をただ描いているだけの雑品がはびこっている、昨今の食器とは較べようのない技量と感性の昇華した姿には、食文化としての楽しさを知り尽くした意匠として、「破天荒」が潜んでいます。

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2011年10月 1日 (土)

飛行機が揺れて・・・。

1965116

草原のど真中に吸い込まれるように入っていくと、風に揺れる草のうねりに目が回るようになり、一瞬ですが、タイムトリップして自分がどこかに連れてこられた錯覚に陥ったことがありました。

それは小学校の頃、学園の寮がある箱根・芦ノ湖湖畔の乗風台という広い草原の夏の季節でした。柔らかなかたちをした雲が流れていくと、その影が草原に投影され、動く草と雲とのコンビネーションはさらに不思議な映画のように見え、ジーッとその動静を凝視していたことが、この谷内六郎さんの挿絵を見ていてよみがえりました。

会社に入って間もなく、九州に出張した際、自分の乗っていた飛行機がこのように下界に映し出されたときも、食い入るように見入っていました。飛行機の影が田畑に来るとフラットになって静かで美しいのですが、住居地区になると影はガタガタなかたちになり揺れはじめ、そのコントラストは地上では見ることのない不思議体験でありました。

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