1924年 飯倉より永田町を望む。
戦前の父が絵画修業に通っていた川端画学校は、現在の小石川伝通院のそばにあり、そこまで市電で飯倉片町(現在の麻布狸穴町・植木坂そば)から通っていました。
日本画家・川端玉章が起こしたこの画学校は日本画部と洋画部に分かれ、父が選択した洋画部の指導者は藤島武二でした。厳しいデッサンに明け暮れ、藤島武二から体育会なみの罵声を浴びつつ、修業に明け暮れていたその頃、おそらく初めて使い出した水彩絵具で描いたのが遠くに国会議事堂を望むスケッチです。描いた場所は、兄弟や寡の父と一緒に暮らしていた麻布の家から坂を上った尾根道である、現在の外務省公館辺りです。当時の父はまだ16歳位で、2年前、兄と一緒に絵画修業を始めた頃ですから、自分で自分の人生がどうなっていくかなど・・・、考える余裕など見出せなかった時機です。まだまだ、水彩の筆さばきも初心者そのものです。国会議事堂は1920年の着工で完成が1937年ですから、このお馴染みの屋根は建設中でしょうか。
ところが、間もなくこの時代の趨勢か、村山知義らの新しい芸術運動に感化され、純真素朴な少年は、一気に「マヴォ」http://www.sainet.or.jp/~junkk/mavo.htm になびいていくのです。
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