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2011年11月30日 (水)

池上の夕暮れ

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昭和3年(1928年)に作られた版画としか分かりませんが、実に沈む太陽の寂しさが感じられる一枚です。

作家は分かりませんが、腕の立つ職人肌の人物でしょう。逆光に辛うじて認識できる畑の茶褐色の色彩が上等ですし、作業を急ぐ近在農家の人の位置がみごとな納まりです。農作物が分かりませんから時季もあいまいですが、経験的にこの画のもつ空気感からして晩夏から早秋の頃でしょう。池上のどのあたりか分かりませんが、本門寺に近い気配が何とはなしに感じるのであります。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年11月29日 (火)

木曾海道六拾九次 洗馬

Photo 分かり易い上、広重お得意のデフォルメ・省略化・単純化などの藝術性を混ぜない、叙情性てんこ盛りの作品です。映画のスチール写真を観ているような完璧さがあり、ここに表された全てのモチーフが相互に干渉せず、絶妙な位置を保っています。

水平線・斜線・船人の角度など、構図的には相当計算されつくされた苦心がうかがえるものの、この空気感満載な情景に見入ってしまえば、そんなことどうでもよい・・・のでありますし、空と川に展開する藍色のトーンがたまらないほど豊かなNIPPONを表現してくれます。

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2011年11月28日 (月)

那智の滝

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写真:藤代冥砂

日本の滝は、信仰の聖地と関わることが多く、その中でも熊野信仰と深く関わる那智の滝 http://www.youtube.com/watch?v=nPmWJMcPb8k はその荘厳さと圧倒的美しさで誰もが素晴らしさを認めています。背景となる岩盤・古代からの原始林との対比など、神の成せる偶然性としか云いようのない構成を一度はこの目で観てみたいのですが、まだ実現すらしていません。熊野古道を走破したある方は、「神のご加護を感じざるを得ないできごとがあった」などと仰っていて、今も多くの古道参りをする人々が絶えないのも、納得であります。それにしても、この名瀑の垂直の美しさはみごととしか云い様がありませんね・・・。

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2011年11月27日 (日)

父のデッサン リンゴ

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1923年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1923.html、関東大震災の起こる大正12年のデッサンですから、父は15歳の頃です。前年に全くの未経験状態で入学した川端画学校では、日々のデッサン訓練に必死に食らいついて、おどおどしたデッサンをしていたましたが、一年も経つと光の明暗の捉え方も板に付いてきた様子が分かります。

シンプルな球体の応用編としてこのリンゴのデッサンは画学生やデザインを志望する学生の必ず通らねばならないモチーフの定番でした。私も17歳の夏になると父のアトリエに呼ばれて、このリンゴのデッサンに悪戦苦闘していた頃・・・、今から47年前をふっと思い出します。

おそらく4B程度の濃い鉛筆で画いたと思うのですが、線の濃淡が修整無しで安定しています。15歳でこの出来っぷりですから、周りの画学生にはもっと卓越した腕の持主も多かったに違いありません。画家として後世に名を成す方々と一緒に、デッサンに終始していた父の姿がこのリンゴからも沸々としてきます。

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2011年11月26日 (土)

1881年 銀座・朝野新聞社

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自由民権運動が台頭し、ジャーナリズムの良心の旗頭として、明治中頃まで、都市のリベラリストに人気のあった、朝野(ちょうや)新聞社の1881年(明治11年)の威風堂々な姿です。実は、現在の銀座四丁目交差点・和光のある場所に明治9年から明治27年まで営業していたのが朝野新聞社でした。http://blog.hix05.com/blog/2008/10/post_792.html

錦絵からも、その繁栄振りがうかがえますし、瓦版に慣れ親しんだ大衆素地があったからこそ、平民目線のジャーナリズムは人気を博していったのでしょう。残念にも明治27年、突然、朝野新聞社は解散、その場を服部時計店が買い取ります。姿かたちは変りましたが、その後、連綿と今日の銀座交差点のランドマークとして存在感は格違いであります。

こうしてみると、現在の和光の正面入口も不思議な処にあると思いませんか。銀座名物としての、あの巨大なウィンドーを楽しむことは出来なかったでしょうが、家相的には明治30年代の服部時計店の正面入口がごくごく当たり前の位置ですよね・・・。曰くありげな予感がしてきましたよ・・・。

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2011年11月25日 (金)

中央通り 京橋と日本橋間 1882

1882 1969年まで走っていた中央通の路面電車も、開通した頃は鉄道馬車だったのか、この錦絵にも、人々の移りゆく風俗が詳細に書き込まれています。商家建築の一軒一軒の違いもかなりのリアリティを以って、考現学的な視座から捉えているようでもあります。ここにも、郵便配達人が独特のポーズで走っていて、実際に、ぶつかったりして大喧嘩になったことも多々あったようです。時代の趨勢か、郵便配達人には旧武士階層出身者も少なからず居て、顧客第一などという発想よりも、ついつい過ぎし日の栄華の習慣か、中には「無礼者!!!」などと叫んでしまった配達人も居たのです。

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2011年11月24日 (木)

LAMY Safari

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デスクトップPCで報告・連絡・相談(HOURENSOU)することばかりになっても、どっこい、手書き文の魅力はまだまだ根強いものがあります。最近の万年筆事情は何ともアナクロ(時代錯誤)な高級路線を歩むブランドが多く、何か、仏壇業界と似ていないこともありません。

その点、LAMY Safari http://www.lamy.jp/products/safari.html は、カジュアルないでたちが根強い固定フアンを握っていて、その価格帯の値頃感もあって、人気が再燃しています。

一方、インクの世界も様々なコンセプトに基づいた色展開が企画され、女性を対象に、これまでの古典的色彩に加え、明るい四季折々を愉しむ色彩展開が成され始めました。そうなれば、万年筆も高級な一本というよりは、数本持って色を愉しもうというところに落ち着き、それにはこの、LAMY Safariなどぴったりのものです。

購入する場合、既に入っているRoyal Blueのインクカートリッジと別に、コンバーターを買えば、インクを自由に選べますから好都合です。このコンバーターもきちんとデザインされていて、LAMYブランドのデザインコンセプトの誠実さが分かります。

因みに、私が今最も気に入っているインクは、CARAN dACHEのCarbon(青みの黒)http://www.yodobashi.com/ec/product/100000001000777267/index.html、DE ATRAMENTISのhttp://www.tinten-online.de/Nicholaus CopermicusのBlue(紫系の暗青)です。

というわけですが、ネット社会では,考えられないような激安価格でLAMYが買えるのですね・・・。http://tosnep.net/

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2011年11月23日 (水)

雪晴れの国立第一銀行

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日本橋川の鎧橋から臨む、国立第一銀行の風景は大雪のようです・・・、眩しいですね。記録写真にもこの建物は多く残されてますが、版画の趣きの方がリアリティがあります。日本の城を模した建築の上にそびえる尖塔の様式を何と呼ぶのでしょうか・・・。真っ白な世界に浮かび上がるビリジャン色が、当時は斬新な色彩に映ったでしょうね。

井上安治の師匠である小林清親の作品ですが、井上の作品と比較するのも何ですが、明治という時代感覚の表現は井上に軍配が挙がります。

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2011年11月22日 (火)

江戸橋 明治初期

5 日本橋はこの川を右手に進んだ処ですが、井上安治は幕末から明治初期の目まぐるしい変遷を目の前にしながらも、懐旧の情景を留めようとしながら、記録的要素をも見逃していないのが、職人ばかりの版画界において貴重なのであります。

江戸橋の欄干から僅かに見える三角屋根は三菱倉庫群ですが、この景観に不釣合いな倉庫を皮肉っぽく描いているところなど、なかなかのやり手でもあります。正面の富士山は、実際、このスケールで観えていたのかも知れませんね。陽も富士山に沈み、一気に夕闇となり、ガス燈や料亭の明かりが灯された時間帯の表現が、堪りません。

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2011年11月21日 (月)

アルフレッド・ウォリス 走る帆船

14 封筒と思しき紙の上から、描かれた帆船は、みごとなまでのリアリティがあって、素晴らしいのひとことしかありません。

アルフレッド・ウォリスさんの漁師としての実体験がこの絵を描かせたのでしょうが、波の動き・漆黒の海原ともに、厚く描かれた効果が、良く出ています。

しっかりと張った帆は風を受けてぐんぐんと前進して、そのスピード感も半端ではありません。普通の画家であれば、上の部分に上手く納まるようにこの帆船を描くのでしょうが、美術教育をまったく受けなかったウォリスは、そんなことお構いなしで、はみ出してしまいましたが、却ってアンバランスが生まれ、躍動感を助長させてくれます。

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2011年11月20日 (日)

父の絵画研究。

Rimg34066 父は戦後になって、どういった成り行きか分からないのですが、出版編纂に精を出すことなり、30年近く画家として絵筆を握ることもなかったのです。その間、編纂の間を遣い、古今東西の絵画から芸術全般にいたる思想や技法の分析・解析、さらに時代の趨勢と未来の予兆などに没頭し、大学ノートやスケッチブックにその記録を書き続けたのです。この記録は一人の男の紆余曲折な道程の読物としても面白いのですが、何しろノート、スクラップ帖、スケッチブックを総計すると250冊を超えるため、保管にも苦慮しています。

このスケッチは、1960年代にのめりこんでいたモディリアーニに関する一連の中の一ページですが、独特な人物像に対する観点が添えられています。この頃、私は父を見ていて、「人のことなどより、自分の好きな絵でも描けばよいのに・・・」、と思いたくもなりましたが、ある決意をもって絵筆を離れたのですから、好きな画家の分析などに没頭せざるを得なかった父の気持ちがこの年になって、ようやく分かるような気がしてきました。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

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2011年11月19日 (土)

京橋もこうだった。

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井上安治が明治15年前後に画いた馬車の頃の版画、下は路面電車0011_11 が走り出した頃の写真・・・、何れも中央区・京橋ですが、先日、30代後半の方々と会う機会があり、話が東京の街並に展開した過程で、「京橋って嘗て、川の流れていたなど知らなかった」ということを知り、かなり愕然としてしまいました。その昔流れていた京橋川は掘割で、1959年に暗渠化して、現在に至っているのです。現在はその上を東京高速道路が走っていて、かなりの閉塞感で覆われた一帯であります。それでも、安くて美味しいお店が点在していて、銀座と日本橋に挟まれた渋すぎる一帯とはいえ、それなりの伝統をも併せもっているのです。

さて、京橋界隈のランドマークだった第一生命相互館の巨大なビルがあっという間に失せ、周辺を含めお決まりの再開発となりますが、日頃からビジネス街として、商業地区としてイマイチであったのですから、テナント誘導型の考えに拍手を送るというには、難題が山積みのようであります。

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2011年11月18日 (金)

アルフレッド・ウォリス『スクーナのビアタ号』

7 絵の画法をなまじっか知らなかったことが幸いして、アルフレッド・ウォリスさんの素朴な絵には時空を自由に飛びまわる不思議な引力が働きます。非論理的で稚拙な表現ながらそのリアリズムは抜群といって良いでしょう。自分の暮らしていた所から殆ど出ないで、毎日のように無我夢中で描いていたからこそ、純粋さだけではない、絵の本質のようなものが介在しています。

おそらく海を毎日凝視していたからこそ、このセルリアンブルーの見事な混色を生み出したのでしょうし、対比する黒で表わした陸の表現も秀逸です。それにしてもこの構図も船の進む感覚が視覚的に捉えられ、脱帽以外のなにものでもありません。

周りにある画材を何の衒いも無く、自由奔放に使いまくっていたそうですから、ペンキから油絵具までこの絵の中にも何種類か、混ざり合っているのかも知れません。

絵とはこのように自由闊達に活き活きとしてなければ、なりませんね・・・。

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2011年11月17日 (木)

日本橋 駿河町の夜景

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井上安治の原画の素晴らしさと、指定色の指示とダメ出しが厳しかったからこそ、それに耐え抜いた版を彫る職人、顔料を調合する職人が、このような漆黒の中の色彩を感じさせるみごとな作品などが生まれ育ったのでしょう。

シルエットで浮き上がった『為替バンク三井』のトーンがみごとで、この画面に深いスケール感が表れました。月とガス灯に囲まれ散策する人々に逆光が当たり、静かな中にも馬車の蹄音が乾いた音を奏でているのが聞こえてきます。

広重などから伝承する江戸浮世絵も、明治以後、町の風景も急展開し始め、いつまでも情緒的でなくなり、東京見物の烏合の衆も新・珍・奇を求めて押し寄せたのでしょう。井上の版画には、その新旧の按配がほどよく調合されていて、時の流れの無常観がせつなく表れています。

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2011年11月16日 (水)

鈴木信太郎 1935年 『洋服を着た女』

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鈴木信太郎さんの描く女性の顔は、1950年代に入ると目がはっきりと描かれ、アイシャドゥの書き込み過ぎと思わんばかりです。有名な西荻窪・こけし屋の包装紙の人形を描いて以降、人物さえも人形風の顔になっていったのでしょうか。

この作品は、その影響を受ける以前の人物像として人気の高い作品ですが、この時代の人物像は目元でなく、鼻筋と小鼻が立派なのが特徴です。この画面は昭和10年という暗い影が差し込み出した日本の状況を暗示しているかのような重たい空気に包まれてますが、この絵でも、全体を覆う信太郎さん独特のモーブ色を混ぜたグレートーンが、過ぎ去りし華やかな追憶の時代を記憶しているようにも見えます。

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2011年11月15日 (火)

梅原龍三郎・桜島

8 何だか、日向に出しっぱなしにして、色褪せてしまった印刷物に気付いたときには、「これはこれで、なかなか趣きのあるものだ」などと納得してしまったことが、あります。

綺麗な色よりも、ちょっとくすんだ色調は、この日本の風土・風景から生まれる独自のものでしょうが、その最高峰が、梅原龍三郎の一連の桜島シリーズです。主題の桜島をあるときは真っ黒に、またあるときは、緑青色に、そしてあるときは、茄子紺色にと自由自在・天衣無縫・・・といった調子で描き分けていますし、それぞれの画趣もまったく異なっていて、この梅原龍三郎の強烈なスタミナから生まれるエネルギーの爆発に圧倒されるのです。

死期が近づくのも関係なく、パワフルな食生活から生み出された、生涯肉食男子・梅原さんの作品を観ていると、やはり、アスリートと同じような、日々の繰り返し練習と、エネルギー満開な食生活が根底にあるのあということに、気付くのです。

この櫻島の画風は、重くもあり軽くもあり、明るいながら暗さもあり・・・といったように、全ての視覚感性を総動員してこのキャンバス内に封じ込めてしまいましたから、一年中、飾っておいても飽きないのであります。時代の流れは、このような画趣とは対極の軽く和む方向へと向かっていますが、私はまっさらな空間にこの梅原さんの力溢れた桜島の画が一点置かれている環境に、今も憧れています。

それにしても、桜島から上る噴煙の筆捌きにいたっては、ほとんど、ジャズにおけるアドリブのようなスリリングな趣きがたっぷりです。

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2011年11月14日 (月)

日本橋川 渋沢栄一邸

7 こういう羨ましい環境があったのですね。

実業家として成功し、この日本橋川界隈を好み、事業を重ねていった渋沢栄一の住居が、井上安治の版画によって、粋な仕上がりになっています。渋沢はベニスに見立てたこの場所をたいそう気に入っていたそうです。現在の東京証券取引所の場所辺りですが、井上の下絵に基づく版画は、物流経済の動脈であった日本橋川の夜も忙しい様子を、月夜の静寂さのなかに閉じ込めています。艪を漕ぐ舟の音が静寂な闇の中でひときわ甲高かったでしょうが、渋沢栄一は江戸の風情を残していたこの場所に暮らし、過ぎ去った懐旧の情景に浸っていたのでしょうか・・・。

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2011年11月13日 (日)

切通しの先はどうなっている。

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近代日本洋画の代表作として、必ず登場していたこの絵は今も、高校教科書などに載っているのでしょうか。

岸田劉生の画いた切通しは迫力に満ちてますね。夏の炎天下で干しあがったような土の塊がみごとなリアリティを以って目に入ってきます。この坂道は代々木にある坂道とされてますが、おそらく実際よりもデフォルメされてその斜度も過激なほどです。

青空が観る者を吸い込もうとしてるがごとくで・・・、この吸引力を感じさせる画家としての技量は、やはり尋常ではありません。

坂を上りきった先の光景を画かなかったのは、観る側の気持ちによって、美しい草原か、荒廃した戦場跡か・・・、人生夫々、節目節目の深層心理占いとしても役立ちそうだったからでしょうか。

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2011年11月12日 (土)

父のスケッチ 1923 麻布界隈

2 15歳頃の父は、川端画学校の休みの日、飯倉片町の家の脇を上り、植木坂というさらに急な坂を上っては、絶景ポイントのありがたさを堪能していたようです。現在の『石橋財団・ブリジストン美術館永坂分室』あたりから見た一ノ橋から三田方面です。こんもり茂った先の顔を出している建物は三井倶楽部かも知れません。手前の谷に寄り添った家並は古川沿いの家内工場のある辺りです。

急にデッサン力を付け始め、絵を描く面白さに拍車が掛かってきたのか、私が観ても、腕の上達振りが急なのでびっくりします。指導者の藤島武二をはじめ、先輩の海老原喜之助のデッサン特訓にしごかれ、原精一などと競争しながら精進していた時代です。

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2011年11月11日 (金)

大正3年 帝都東京絵葉書 

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明治中頃から東京見物の記念として大人気だった絵葉書の着色技術も、大正時代に近づくと格段に上がり、絵画もどき並みの絵葉書があふれ出しました。

銀座から望む新橋方面の俯瞰も、活き活きしていますね。左にあるべき新橋ステーションもネタとして既に古いのか、わざと見せず、大正3年に出来た烏森駅のルネサンス式駅舎が世代交代の象徴のように存在しています。また交通の顔として路面電車が主役となっています。さらに、目立つ看板にはビールの名前ばかり・・・、時代の移り変わりによって、人の興味もライフスタイルも刻々変るという意味で、面白いですね・・・。

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2011年11月10日 (木)

明治初期 浅草橋南

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夕闇迫る浅草橋南の粋な光景です。路面電車の走る以前と思われますが、詳細は分かりません。手前を横断しているのが現在の靖国通り、奥の通りが江戸通り、三角屋根は両方とも消防分署で、この時間帯ですから井上安治の得意な夜光の効果を狙った作品には早過ぎでありますが、柳橋や深川という当代きっての花町に繋がる一角の艶っぽい空気感を、淡い薄桃・薄紫の色調から感じとることができます。

この場所は現在も ほぼ変らない稀有な広いゾーンですが、車で浅草方面から神田に抜けるにも、江戸通りを直接右折できず、清杉通りを通ってから靖国通りを左折という、不可解な交通の要所であります。

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2011年11月 9日 (水)

1922年頃 父のスケッチ 六本木

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川端画学校の洋画部で毎日、藤島武二の指導のもと、デッサンやスケッチの特訓を受けた父が遺したものを観ると、ようやくスケッチにも自信がもてるような雰囲気になってきました。

この鉛筆スケッチは2B以上の濃い芯で画かれ、かなり擦れていますが、大正末期の宵闇の雰囲気が伝わってきます。14歳から15歳の頃と思われますから、川端画学校に入学し2、3年経過した頃です。

路面電車の灯り、電柱の灯りが闇夜の中に浮んでいていますが、周辺は現在とは比べものにならない暗さであったのですから、却って、美しい町並みが微妙なコントラストを通して、闇の色を醸しだしています。厳しい藤島武二の指導のお蔭か、闇にうごめく人々の姿も的確に捉えていて、15歳前後の少年の絵とは思えない完成度であります。

この2年後に、父は世界を席捲していた当時の前衛芸術運動の流れに自ら飛び込み、絵画修業も疎かになっていきます。

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2011年11月 8日 (火)

眩しいですね・・・。シスレー

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このような光景はサングラスなしでは見ることができませんね。シスレーの絵は、野外で対象を見ながら画いたものが多く、持ち帰ってアトリエで仕上げることを良しとしなかった性格なのか、その色彩・色調にお天道様のありがたさが込められています。健康的で親しみやすさ・・・、これこそがシスレーの絵であり、他のそっくりさんとは似て非なる独壇場なのであります。

この国ニッポンでは、誰にも分かりやすい絵画というものを軽視する傾向が続き、難解この上ない画面を凝視する傾向がとくに1960年代から70年代初頭まで続いていて、このトレンドはモダンジャズ愛好家や詩の世界にも共通であったのです。それが今では、ローカルチュアとして蔑まされていたアニメーションまでもが美大のカリキュラムの売りの筆頭になるなど、時代の変化に影響されなかった美大の営業戦略も見直される時代となっています。

シスレーの明るく・美しく・健康的な絵画を置くと家の中に「外」が生まれ、空間が一瞬にして、「活き活き」となります

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2011年11月 7日 (月)

広重・品川の日の出

41833 江戸を下る最初の宿場・品川の早朝のようすですが、皆さん朝早くからのご出立のさま、お忙しいのです。前日は品川の遊びも堪能したでしょうに、朝早くからの元気な様子は今のグルメでなかったローカロリー時代のほうがスタミナもあったのです。

遠く川崎方面まで展望しながら歩く多くの旅人がお伊勢詣りだったということですから、崖の下にちょこんと描かれた旅人はお武家さんの連なりを見送りながらの初日の旅立ちといった雰囲気かも知れません。朝焼けの空は広重にしては珍しく具象的な白抜きで表現しています。品川沖では早朝の漁を終えた帆掛舟が戻ってきたのでしょうか。

右手の崖は御殿山でしょう。眺望を望む御仁などは、わざわざ上ってパノラマを堪能しながら、今日の無事を朝日に向かって手を合わせていたに違いなさそうな気配です。

スケールとディテールのバランスといい、宿場の展開を読み取れるほどの濃い画面構成といい、分かりやすい傑作です。

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2011年11月 6日 (日)

父のスケッチ 1922年。

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江戸川乱歩の『少年探偵団』を読むことが大流行だった小学校時代、今から54年前ですが、杉並区久我山に住んでいた私は、文中にしばしば登場する「とある麻布のお屋敷で・・・」というフレーズが妙に頭から離れず、遠く離れた麻布という町はいつも怪人二重面相が出没する事件が起こっている町なのか・・・、などと空想ばかりが膨らんでいました。

さて、画家を目指すよう祖父に勧められ、明治学院から川端画学校に転校した14歳頃の父は、1922年当時住んでいた麻布飯倉片町界隈(現・麻布狸穴町)のスケッチを数点遺しましたが、この画学生なりたての拙い画面からも、江戸川乱歩の云う麻布の不気味な雰囲気が伝わってきます。切通しをコンクリートで固めた先には小高い山があり、景色が明るく広がっていますが此処が何処なのか想像力だけは広がります。

父が写生でよく歩いていたという外苑東通りは、飯倉片町から六本木交差点までが都内でも屈指の尾根道で、まだ高いビルもほとんどなかった時代は四方がよく見渡せたようですから、まったく裏づけはないのですが、直感的には住まいのすぐそばにある植木坂から望む六本木方面、さもなければ、鳥居坂から望む麻布十番方面では・・・、と思うのです。

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2011年11月 5日 (土)

橋 (東京駅裏)

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松本竣介が1941年(昭和16年)12月に画いた油絵です。宣戦布告し、一気に戦いに向っていく正に、そのときに画かれた世界には、またもや、行く末を予感してしまった荒廃感に満ちています。

画かれた橋は八重洲橋といわれてますが、この作品は完全に松本竣介の世界として昇華しています。全体を覆うグレイッシュな色調にも繊細な色味が混ざり、冷たい画趣ながらどこか、優しささえ秘めています。

日本人の画というよりも、生きている画家の絵を目指したその視座には、発想と表現の折り合いがシンクロして、この画家しか表せない人工的都会の空気が流れています。

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2011年11月 4日 (金)

名前のイメージが凄い!。

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写真:『太陽』1996年 No 428

加藤唐九郎が追求した志野茶碗は、一般的に上品で穏やかさばかりがのさばっていた志野の世界に、大胆でダイナミックな世界を割り込ませ、それまでの柔な質感を隅に追いやってしまいました。この茶碗は、土の厚みと釉薬の掛け具合の按配によって釉薬に地肌が溶け、「上等な荒々しさ此処にあり・・・」、といった境地にさせてくれます。

言い伝えでは、唐九郎はこの作品以外、窯から出てきた全てを壊してしまったといわれるほど、剛毅な御本人のイメージどおりの傑作が、ここに誕生したのです。

ものそのものが別格なのですが、この銘を『鬼ケ島』とした感性にも驚かされます。どこが『鬼ケ島』なの・・・、などと聞いてしまいたくなるほど不可解なのですが、いちど、『鬼ケ島』と知ってしまうと、これ以外の銘は考えられないのでありますから、ときには、人間の感性の凄さは時空を超えるのです。

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2011年11月 3日 (木)

1924年 飯倉より永田町を望む。

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戦前の父が絵画修業に通っていた川端画学校は、現在の小石川伝通院のそばにあり、そこまで市電で飯倉片町(現在の麻布狸穴町・植木坂そば)から通っていました。

日本画家・川端玉章が起こしたこの画学校は日本画部と洋画部に分かれ、父が選択した洋画部の指導者は藤島武二でした。厳しいデッサンに明け暮れ、藤島武二から体育会なみの罵声を浴びつつ、修業に明け暮れていたその頃、おそらく初めて使い出した水彩絵具で描いたのが遠くに国会議事堂を望むスケッチです。描いた場所は、兄弟や寡の父と一緒に暮らしていた麻布の家から坂を上った尾根道である、現在の外務省公館辺りです。当時の父はまだ16歳位で、2年前、兄と一緒に絵画修業を始めた頃ですから、自分で自分の人生がどうなっていくかなど・・・、考える余裕など見出せなかった時機です。まだまだ、水彩の筆さばきも初心者そのものです。国会議事堂は1920年の着工で完成が1937年ですから、このお馴染みの屋根は建設中でしょうか。

ところが、間もなくこの時代の趨勢か、村山知義らの新しい芸術運動に感化され、純真素朴な少年は、一気に「マヴォ」http://www.sainet.or.jp/~junkk/mavo.htm になびいていくのです。

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2011年11月 2日 (水)

1950年代 東北陸中海岸

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1950年代前半に父が東北地方に、出版の仕事で取材旅行をした際、撮影したスナップです。

父のメモにはカメラはライカと記されています。このほかにも素晴らしいスナップ、とくに構図のもつ力が訴えてくる写真が残されていて、この一連の写真がどのような資料として有効活用したかは計りかねますが、純粋に、素晴らしい時代の息吹が写し込まれています。

場所の明記もなく、ここが何処なのかわかりませんが、1950年代の別のノートの記録から推察し、陸中海岸地方であることは間違いありません。Googleから空中検索すると大船渡湾という可能性が大なのですが・・・。

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2011年11月 1日 (火)

茶入れなのですが・・・。

Photo

『初花肩衛』

日本に伝来する以前は楊貴妃の油壺であったとも。足利義政から村田珠光の門人の鳥居引拙の所持となり、大文字屋疋田宗観を経て織田信長の所有となった。天正5年(1577年)、信長は嫡男信忠が三位中将に昇進した祝いと家督相続の印として他10種の茶道具とともに初花を贈るが、天正10年(1582年)本能寺の変により流出。具体的な経緯は不明だが松平親宅の所有となる。

その後、徳川家康に献上され、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い戦勝祝いに豊臣秀吉へ贈られる。このことは千宗易が島井宗室へ宛てた書状に書いている。(この時の使者が石川数正であり、これが石川数正出奔事件に繋がる。)初花を手に入れた秀吉は大阪城初の茶会を始め、たびたび大茶会にこれを飾った。秀吉は初花を使用して見せることで、自分が織田政権の後継者だと周囲に示そうとしたのだと考えられる。天正15年(1587年)、九州征伐により楢柴肩衝も秋月種実から秀吉の手に渡り、天下三肩衝が秀吉の元に揃う。

秀吉の臨終により宇喜多秀家へ相続されるが、秀家が関ヶ原の戦いに敗れたため再び家康の手に渡る。大坂の陣で戦功のあった家康の孫・松平忠直(次男・結城秀康の子)に恩賞として与えられたが(褒美に領地を貰えなかった事に不満を持ち初花を打ち砕いたという話もあるが、初花が現存しているので作り話と考えられる。)忠直改易時に将軍家に戻った。(忠直の死亡後に行方不明になり元禄11年(1689年)に元越前家にあった初花を松平備中守が献上したとも。)

現在は国の重要文化財に指定され、東京の徳川記念財団に保管されている。

付加価値とは上記のような所以を云うのでしょうが、止まらない物欲魂の輩がこの茶入れを求めた経緯は凄まじいのひとことです。、時代背景がそうさせたのか、八百万の神をこれに求めたのか計り知れないとはいえ、数奇なものの頂点でしょうね。徳川家に渡った以後、流出しなかったことが奇跡であり、救われます。

この初花肩衛の数奇な流れはひとまずこれで・・・。何を以って、将軍から武将まで躍起になった追い求めたのか・・・。先ずは、釉薬と炎の成せる偶然の景色でしょう。流れと溜めの濃淡の加減は手の平サイズだからこそ凝縮され、この形姿が、唯一無二の美の象徴として君臨したのでしょう。

普通の瓶の大きさであれば、単なる民芸品の類ですよ・・・。

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