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2011年11月 1日 (火)

茶入れなのですが・・・。

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『初花肩衛』

日本に伝来する以前は楊貴妃の油壺であったとも。足利義政から村田珠光の門人の鳥居引拙の所持となり、大文字屋疋田宗観を経て織田信長の所有となった。天正5年(1577年)、信長は嫡男信忠が三位中将に昇進した祝いと家督相続の印として他10種の茶道具とともに初花を贈るが、天正10年(1582年)本能寺の変により流出。具体的な経緯は不明だが松平親宅の所有となる。

その後、徳川家康に献上され、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い戦勝祝いに豊臣秀吉へ贈られる。このことは千宗易が島井宗室へ宛てた書状に書いている。(この時の使者が石川数正であり、これが石川数正出奔事件に繋がる。)初花を手に入れた秀吉は大阪城初の茶会を始め、たびたび大茶会にこれを飾った。秀吉は初花を使用して見せることで、自分が織田政権の後継者だと周囲に示そうとしたのだと考えられる。天正15年(1587年)、九州征伐により楢柴肩衝も秋月種実から秀吉の手に渡り、天下三肩衝が秀吉の元に揃う。

秀吉の臨終により宇喜多秀家へ相続されるが、秀家が関ヶ原の戦いに敗れたため再び家康の手に渡る。大坂の陣で戦功のあった家康の孫・松平忠直(次男・結城秀康の子)に恩賞として与えられたが(褒美に領地を貰えなかった事に不満を持ち初花を打ち砕いたという話もあるが、初花が現存しているので作り話と考えられる。)忠直改易時に将軍家に戻った。(忠直の死亡後に行方不明になり元禄11年(1689年)に元越前家にあった初花を松平備中守が献上したとも。)

現在は国の重要文化財に指定され、東京の徳川記念財団に保管されている。

付加価値とは上記のような所以を云うのでしょうが、止まらない物欲魂の輩がこの茶入れを求めた経緯は凄まじいのひとことです。、時代背景がそうさせたのか、八百万の神をこれに求めたのか計り知れないとはいえ、数奇なものの頂点でしょうね。徳川家に渡った以後、流出しなかったことが奇跡であり、救われます。

この初花肩衛の数奇な流れはひとまずこれで・・・。何を以って、将軍から武将まで躍起になった追い求めたのか・・・。先ずは、釉薬と炎の成せる偶然の景色でしょう。流れと溜めの濃淡の加減は手の平サイズだからこそ凝縮され、この形姿が、唯一無二の美の象徴として君臨したのでしょう。

普通の瓶の大きさであれば、単なる民芸品の類ですよ・・・。

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