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2011年12月12日 (月)

alpshima 最後のブログです。

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突然なのですが、1996年1月より始めたブログも本日の記事を以ってディスク容量が許容量に達したため、アドレスを変更せざるを得なくなりました。

新しいアドレスはhttp://alpensmile.cocolog-nifty.com となります。尚、タイトルはalpshimaからalpshima 2に変ります。デザイン・内容などはこれまでと殆ど変更無しの、相変わらず路線で参りますので、皆様のご愛読をお待ちしています。

これまで2520にも亘る記事を書き続けてこられたのも、皆さんのコメントを含め、特に、昭和30年代の記録・記憶に関わる話にご興味のある方々が多く、その期待に少しでも応えようと、かなり私小説的内容ばかりでありましたが、自分の記録として記憶のある内にやってしまおうという気概が、そうさせたのかも知れません。今後は、これまでの『ほとんど毎日更新』に努めようと思ってますが、徐々にペースダウンとなることををご承知の上、今後も変らぬお付き合いを宜しくお願いいたします。

永い間、alpshima をご贔屓くださり、まことにありがとうございました。

 

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2011年12月11日 (日)

1922年 父の最初の水彩画。

6 父が川端画学校に通い始めた1922年に描いた水彩画は、おそらく生まれて初めて持った絵筆と絵具だったのでしょう・・・。おどおどしながらも、この難しい画材を楽しんでいるかのような雰囲気が伝わります。画学校では毎日、朝から夕方までアカデミックなデッサンに終始していたようで、その緊張感から離れる気分転換のために、教室の隅っこでこっそりと描いていたのかも知れません。まだ、絵具の混色の基礎も知らないようですが、赤土の切通しと三本の電信柱が不思議な画趣になっています。場所は川端画学校のあった小石川・春日町の伝通院界隈というのがアタリかも知れません。

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2011年12月10日 (土)

麗江は行ってみたい。

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3 麗江は雲南省の北西高原にある美しい街で、そこには人々があこがれる“シャングリラ” (チベット語:素晴らしいところ)の世界が広がっています。
  金沙江のほとりにあり、玉龍雪山がそびえ、渓谷は険しく、澄んだ水が流れています。麗江は、雲南、四川、チベットの民族文化が溶け合う三角地域にあり、かつては“茶馬古道”がここを走っていました。
 何代にも渡って住んでいたナシ族は、漢族、チベット族、白族の優秀な文化を受け入れ、 独自の文化を作り出しました。
 世界で唯一現在も使われている東巴象形文字、東巴文化、ナシ族古典音楽、いくつかの宗教が合わせた白沙壁画などが今なお残っています。
 宋の終わりから元の時代初期に形成された麗江はすでに800年余りの歴史を持ち、ナシ族文化の代表的なものと言えるでしょう。

麗江は、中国の他都市とは異なり、漢族、チベット族及び他の周辺民族の文化が取り入れられ、そうした文化がうまく溶け合った町です。また、独特の民族文化に富み、世界的にも長い歴史を持ち、それらが今でも保存されています。
 麗江は、周囲の美しい自然環境や、周辺の山村とうまく調和しています。
 山麓の川のほ とりに位置し、流水は各家を巡り、川のほとりでは柳の枝がそよそよとゆれています。路地にはきれいな小石が敷かれ、人々が行き交う道は晴れの日にほこりが立つことも雨の日に泥にまみれることもありません。

トンパ文字を使うことでも有名なこの町の姿を観て一目ぼれ・・・。いつかは行ってみようと思いつつ、日々の仕事に追われ、ときは過ぎてゆくばかり・・・。標高メートルにあるこの麗江の環境は素晴らしくその美的全体観は土木技術を元に住民の崇高な見識とが相まって花咲いたものでしょうが、今日も連綿として祖先の暮らした環境とほぼ変わりない状態を保っているのに驚きますね。文明がある頂点まで来て行き詰まりを感じる先進国とは対極なコードを以って暮らすこの町の誇りに少しでも接してみようと思いたくなっているのです。

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2011年12月 9日 (金)

OPINEL

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野外活動派の皆さんにはお馴染みのOPINELですが、大雑把なアメリカンではなく繊細なフレンチメィドですから、商品のサイズ・用途も巧みなセンスで展開しています。「ナイフなどは一本あれば十分だ・・・」などと仰らずに、その使い勝手の違いを楽しんでみたらいかがですか。

OPINELのサイト   http://www.opinel.com/ は男臭いアウトドアライフのイメージなど一掃していて、その洒落たBGMからして、ワインなくして会話も進まずといったところでしょうか。

因みに、定番のナイフ・#8は、使い終えたらきちんと油を塗るなりメンテナンスをしておきませんと、錆び付いていたことのある経験をおもちの皆さんも多いかと思います。日本製の商品と違い、「ご自分のことはご自分で・・・」という生活習慣が行き届いているフランスの商品は、必ず、ご自分でメンテナンス・補修・点検の習慣化をお願いいたします。

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2011年12月 8日 (木)

父の挿絵 1928年

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父が20歳の頃、立野信之氏の「少年時代」の挿絵として雑誌『線旗』に掲載されたものです。

国会図書館で調べてコピーしたものですから、オリジナルとは違いあるはずですが、当時の国家管理体制に反旗を翻した青春時代の少ない証です。この翌年、官権に睨まれた父は、密かに敦賀港からウラジオストックを経由し、ベルリンに渡り彼の地でデザイン・建築・医学・舞台に関わる新時代の潮流をいち早く吸収しまくったものの、興味旺盛な外人と異なる日本人の狭い視野に嫌気がさしていたようであります。ドイツに渡る前、鬱積した精神の荒ぶる気持ちがこの些細な挿絵にも的確に表れています。

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2011年12月 7日 (水)

明治初期 三つ又(中洲)永代

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Photo_2隅田川での舟遊びが本格的に行われだしたのは、江戸に幕府が開かれて後のこと。諸大名が船に屋根をつけ、遊女を伴って酒をくみ交わしつつ涼をとったのが始まりだ。3代将軍家光の頃には随分と盛んであったようだ。明暦3年(1657)明暦の大火、いわゆる振紬火事で江戸は全くの焼野原になり、盛んだった舟遊びも一時姿を消した。しかし、その後の江戸の復興、発展ぶりは素晴らしく、17世紀後半(万治・寛文・延宝年間)には、大名、旗本、町人をとわず、しだいに贅沢な生活に走るほどの繁栄ぶりだった。
 なかでも、暑い夏、大名たちの贅沢は隅田川にとどめをさすといわれたほど豪華であった。町人も武士の気風をうけて闊達になり、もうけた金を投げうって大がかりな舟遊びをする者が少なくなかった。舟の借り賃が1日5両したというのに平気で隅田川にのり出し、隅田川が舟で埋まるほどの盛況を呈していたという。

明治10年頃に描かれた井上安治の版画は雪景色でありますから、上記の解説がピンと来ませんが、中央に見られる中州は三つ又という呼び方で、庶民の夏の納涼たまり場として、たいそう賑わっていた場所です。遠くの永代橋は明治30年に日本初の鋼鉄橋梁となったものの、関東大震災で壊れ、大正15年に蘇り、ほぼ現在まで威容を保っています。描かれた頃はそうでもなかったのでしょうが、この地域も徐々に近代ビルが立ち並び、穀物倉庫なども賄い切れないのか、何棟も並びだします。下の写真の撮影データは明治8年に完成した洋式木製橋の様子ですが、鋼鉄の永代橋が出来る明治30年より以前の開放感というか開けっ広げもご機嫌な光景です。

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2011年12月 6日 (火)

1949 神保町

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写真:木村伊兵衛

1965年頃、雑誌MEN'S CLUBに頻繁に登場した、【平和堂靴店】が小川町にあって、バイトで溜めたお金を握り、コインローファーとチェッカーブーツを買うのが当時のトラッド系学生のお約束でありました。すぐ近くの楽器の老舗【カワセ】は、今も昔も入りにくい店ですが、ウインドーにはマーティンのギター、オスカーシュミットのオートハープなど、高価・稀少な楽器がこれでもかといわんばかりに、こちらを見据えていました。小川町交差点をニコライ堂に向かうと、【ハーモニー】というマニアックなレコード屋があって、ここには、Folkwaysの民族音楽やブルーグラス音楽の類が置かれていました。頑固そうな店主は試聴をことごとく嫌い、店内には明治生まれらしい文体の、『断り書』が墨痕鮮やかな縦書きで張られてありました。

神田には、こと左様な拘りの店や店主が点在していて、そこで見聞することも多く、まさに『書を捨て街に出よ』の、ぴったり時代でありました。今や、一時の勢いはないものの、スポーツ業界を中心に店が軒を連なってますが、どこもノウハウ知らずの店員ばかりで団栗の背比べでしょうか。拘りの客は、わざわざ白山通り裏の【サカイヤスポーツ】まで出向いています。此処は安心して相談できる経験豊富なベテランさんが多いからです。

さて、昭和24年の木村伊兵衛さんの神保町の写真には、頑固そうな主の多そうな書店が連なっているように観えます。明治大学の校舎はこう観えたのですか・・・。本を探す都合上、どうしても下から目線ばかりで街を散策しがちですから、俯瞰した神田界隈の写真は新発見をはじめ、珍しいですよね・・・。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年12月 5日 (月)

愛宕山からの絶景

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この開放感には、誇張しすぎでは・・・、などと疑うほど驚きますが、実際も殆ど変らなかったようです。明治初期の愛宕山は東京湾からの風通しのよい絶景スポットだったでしょうから、あの厳しい階段を上って見渡せる360度の絶景は、人気が高かったそうです。

遠くの水平線からは早朝の朝日も気持ちよく拝め、その後光もありがたい輝きを放っていたに違いないのです。

井上安治らしい画趣は、平凡な中にも幕末から明治となり風俗もすっかり変った目まぐるしさが滲みでています。

尚、この版画よりも少し後の1904年に海軍兵学校の気球から撮影した写真を重ねると、いっそう臨場感がありますね。因みにこの写真の左手奥の欝蒼とした山が愛宕山です。

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2011年12月 4日 (日)

北斎の富士

2 天保2年(1831年)の富嶽三六景・三島から望む富士山は、葛飾北斎自ら相当の過剰な表現サービスに終始しています。

かたや、安藤広重のセンスはさっぱりとしながらも焦点を絞ったりとアートディレクターの職能をフル回転してますが、北斎は職人としての絵師に拘ったのか、バランス感覚に当たり外れが多いのです。

この画面の下から湧き上がる雲の表現などは日本人離れして、仏画の絵師のようにぐねぐねと、かき回しています。ついでに調子に乗りすぎたのか、樹齢数百年であろう大木の幹の表現にも描きすぎが乗り移り、サッパリとした景色はどこにもないという状態です。唯一、幹の径を測っているのか、幹の隙間に入ろうとしてるのか、旅人の興味津々が読み取れるのが救いであります・・・。

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2011年12月 3日 (土)

この世界も深いですねえ。

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お茶の世界もいつの頃からか、利休の考えも及ばないほどの広がりと奥行きを追求して、自由気ままにお茶を嗜んでいた数寄者の皆さんも、出る幕などないといってm引っ込み思案になってしまいそうであります。

抹茶を入れる茶器ひとつにしても、簡素美な肌のモノから蒔絵の究極と呼ばれるほどの審美性の高いモノまで、豊富な品物が全国に点在しています。さらに、茶器とおなじ価値を持つものとして珍重される仕覆http://verdure.tyanoyu.net/sihuku.html とよばれる袋の世界も遠くシルクロードのファブリックストーリーをもPhoto_2 包み込んで、ますますこの小宇宙を銀河のように壮大なものに展化していくようです。

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2011年12月 2日 (金)

クロッキー 1957

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クロッキーは即座に対象の動きを脳裏に焼きつけ、一気に躊躇わず線で描く技法ですが、小学生には理解などできず、この絵でも、ひたすらモデルを見ながら本物に近づこうと苦労しています。

学園の正門の右にあった図画・工作アトリエはクラシックなシェーカー教徒の住まいににた建物で、冬になれば、だるまストーブをがんがん焚いてないと寒さの襲ってくる厳しい場所でした。

私は左利きですから、油絵具をつけた筆が描きにくく、筆勢がありません。モデルの北川君は穏やかな性格で、皆を笑わせる話術の主でしたが、皆がなかなか描き終わらないので、とうとう、モデルをやめてしまったという時のものです。

チェックのようなシャツを着ているのは、この頃から男子は制服の下に白いシャツ以外も認められるようになり、寒い時期には柄の入ったネルシャツが人気でしたが、せいぜい格子柄が限度で、お兄さんの派手な柄シャツを着てきたりすると、担任の先生に注意を受けるなど、まだまだ、規制は緩くなかったのです。

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2011年12月 1日 (木)

戦前の一橋界隈 松本竣介 『市内風景』1941年

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昭和16年に描かれた、神田一ツ橋・如水会館の裏側です。この作品の寂寥感には凄みがあります。時代は世界から孤立し、満州事変以来、長く軍部と外務省が対外政策でダブルスタンダード化した結果、戦争に突入した年です。

松本竣介という日本洋画史の宝が、東京の各地を歩いて描いた中の一枚ですが、実際の光景を踏まえたうえで、一気に飛躍し、何処にもない世界に誘う感性は、誰も描いたことのない独自な視線です。

エドワード・ホッパーと同様、都市生活の孤独感・虚無感をみごとに捉えていて、画面に引き込まれてしまい、虜となってしまいます。1950年代まで、東京都心も複雑な町の薫りが其処彼処にあって、私は、鉄の錆臭さだけが今も嗅覚として残っています。

このほかに神田界隈を描いた作品がありますが、松本竣介ならではの技術の確かさと現実から飛躍する光景の構成力は、今も新鮮であります。

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