明治初期 三つ又(中洲)永代
隅田川での舟遊びが本格的に行われだしたのは、江戸に幕府が開かれて後のこと。諸大名が船に屋根をつけ、遊女を伴って酒をくみ交わしつつ涼をとったのが始まりだ。3代将軍家光の頃には随分と盛んであったようだ。明暦3年(1657)明暦の大火、いわゆる振紬火事で江戸は全くの焼野原になり、盛んだった舟遊びも一時姿を消した。しかし、その後の江戸の復興、発展ぶりは素晴らしく、17世紀後半(万治・寛文・延宝年間)には、大名、旗本、町人をとわず、しだいに贅沢な生活に走るほどの繁栄ぶりだった。
なかでも、暑い夏、大名たちの贅沢は隅田川にとどめをさすといわれたほど豪華であった。町人も武士の気風をうけて闊達になり、もうけた金を投げうって大がかりな舟遊びをする者が少なくなかった。舟の借り賃が1日5両したというのに平気で隅田川にのり出し、隅田川が舟で埋まるほどの盛況を呈していたという。
明治10年頃に描かれた井上安治の版画は雪景色でありますから、上記の解説がピンと来ませんが、中央に見られる中州は三つ又という呼び方で、庶民の夏の納涼たまり場として、たいそう賑わっていた場所です。遠くの永代橋は明治30年に日本初の鋼鉄橋梁となったものの、関東大震災で壊れ、大正15年に蘇り、ほぼ現在まで威容を保っています。描かれた頃はそうでもなかったのでしょうが、この地域も徐々に近代ビルが立ち並び、穀物倉庫なども賄い切れないのか、何棟も並びだします。下の写真の撮影データは明治8年に完成した洋式木製橋の様子ですが、鋼鉄の永代橋が出来る明治30年より以前の開放感というか開けっ広げもご機嫌な光景です。
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