2009年1月19日 (月)

藤田嗣治・1947

Photo 戦前から日本の美とヨーロッパの美を融合して独自の世界を開花した藤田嗣治 http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm の1947年(昭和22年)の風貌です。右にいるカメラマンがGHQ専属のディミトリー・ボリアさんですが、この時代でも藤田の装いは時代を超越していたかのごとく、普通の人ならば、おそらくさっと引いてしまっても可笑しくない様な、アバンギャルドな気配です。それにしても誰もが知っている藤田の描く繊細な肌の色・線描が、この大きく、分厚い手から生まれたとは思いませんでした。もっと細い女性のような手ではないかと、思っていましたから・・・。

Photo_2 戦前は、パリにおいて薩摩治郎八氏(下の写真右)の惜しみない経済的、物資的支援を享受し、仕事でも、夜の社交界でも、ひと際日本国の広報・啓蒙に一役買って出ていたのですが、この写真よりもさらに過激な恰好でパリを闊歩していた様ですから、パリジャンは藤田(下の写真・右から四人目)の高感度・破天荒な姿を一般的日本人もしているのかなのかと、驚嘆した・・・などとも言われていたようです。

薩摩治郎八

パリ社交界の寵児
薩摩治郎八はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛が蓄えた財産を使い果たした。薩摩治兵衛は近江の貧農の出であったが、横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれた。治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていた。

治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から1万円(今の約1億円位か?)の仕送りを受けて車と女遊びに熱中した。大学など結局はどうでもよくなり、費用が要ればいくらでも追加の送金があった。当時のサラリーマンの月給は30円ぐらいである。(中略)

やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、底が抜けたように金を使って社交界の名士になった。画家の藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目された

彼は、10年余りで、現在のカネにして600億円ともいわれる巨額を使い切ったというのだから驚く。たとえば、伯爵令嬢の妻・千代に純銀製の自動車を買い与えたとか、それでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し特別大賞を獲得したとか、その蕩尽ぶりを物語るエピソードにはこと欠かない。もちろん、ただ浪費しただけでは展覧会にはならない。彼はそのうちの一部(といっても巨額だが)を文化芸術にもつぎ込む大パトロンでもあったのだ。そのパトロン活動を挙げてみると、
 1. 25年に一時帰国中、フランスからジル・マルシェックスを招いてのピアノ演奏会
 2. 27年、パリでの「修禅寺物語」公演
 3. 27-29年、パリ国際大学都市の日本館建設
 4. 29年、パリとブリュッセルでの「仏蘭西日本美術家協会展」開催
 5. 35-37年、チェコスロバキアへの薩摩コレクション寄贈

20年代には湯水のごとく浪費した治郎八だったが、29年に始まる世界恐慌の嵐は薩摩家をも襲い、35年に薩摩商店は閉業。第2次大戦中はフランスにとどまったものの、51年とうとう無一文で帰国。その後、再婚した妻の里帰りで徳島を訪れた際に脳卒中で倒れ、以後同地で療養生活を送り、76年に死去した。ありあまる財産を好き放題に使いまくった前半生の豪遊ぶりと、経済的にも身体的にも不自由を余儀なくされた後半生の落ちぶれた生活。その落差もまた、ケタ違いというほかない。

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2009年1月 3日 (土)

風貌・吉田秀雄

1953 電通の中興の祖と呼ばれる、第四代社長・吉田秀雄氏http://www.admt.jp/introduction/yoshida/about.html を木村伊兵衛が1953年(昭和28)年に撮影したものです。

父が戦争中、上海に報道班員として、従軍記者兼画家として従事していた頃、名取洋之介をヘッドとする軍のプロパガンダグループから吉田氏を紹介されたことを話していた記憶があり、その鋭い時代の捉え方に感心していたことを、よく話していました。

若干50歳にして、ご覧のような内に秘めた闘争心はさすがなもので、この眼力を観ても時代と戦った男の風貌としておみごとなものです。吉田秀雄氏の創案による有名な電通・鬼の十則は今も電通以外の企業でも心得として活用されてますが、まさかパロディ版・電通の裏十則もあるなどとは、今日まで知りませんでした。

蝶ネクタイに仕立ての良いダブルの麻スーツからして、夏の姿ですが、奥に見える扇風機は当時としてはずいぶんモダンなスタイルをしていますね・・・。

電通・鬼の十則

1)仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2)仕事とは、先手先手と働き掛け、受身でやるべきではない。3)大きい仕事」と取り組め。小さい仕事は己を小さくする。
4)難しい仕事をねらえ。それを成し遂げるところに進歩がある。
5)取り組んだら放すな。殺されても放すな。目的完遂までは
6)周囲を引きずり廻せ。引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に天地の差が出来る。
7)計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と正しい努力と希望が生まれる。
8)自信を持て。自信がないから君の仕事は迫力も粘りも厚みすらもない。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って一分の隙があってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、きみは卑屈未練になる。

パロディ版・電通の裏十則

1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。
2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。
3)大きな仕事と取り組むな。大きな仕事はおのれに責任ばかりふりかかる。
4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。
5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。
6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。
7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。
8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実を語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。


ちなみに、トヨタにも主査10ヶ条というものもあります。

第一条 主査は、常に広い知識、見識を学べ。
第二条 主査は、自分自身の方策を持て。
第三条 主査は、大きく、かつ良い調査の網を張れ。
第四条 主査は、良い結果を得るためには全知全能を傾注せよ。
第五条 主査は、物事を繰り返すことを面倒がってはならぬ。
第六条 主査は、自分に対して自信(信念)を持つべし。
第七条 主査は、物事の責任を他人のせいにしてはならぬ。
第八条 主査と主査付き(補佐役)は、同一人格であらねばならぬ。
第九条 主査は、要領よく立ちまわってはならない。
第十条 主査に必要な資質 - 
     ①知識(点在している)、
      技術力(それを組み立て進展さす力)、
      経験(上限、下限の経験により適正なレベルを設定する能力)、
     ②判断力、決断力、
     ③度量、スケールが大きいこと 
       - 経験、実績(成功と失敗共に)、自信より生まれる、
     ④感情的でないこと、冷静であること、
     ⑤活力、ねばり(トータル・エナジー)、
     ⑥集中力(パワー)、
     ⑦統率力 
     - 相手を自分の方向になびかせ、同じ気持ちで仕事をさせること、
     ⑧表現力、説得力 - 特に部外者、上司に対して、
     ⑨柔軟性 
      -最悪の場合にはメンツにこだわらず転身が必要なこともある。
       そのタイミングが問題、
     ⑩無欲という欲

これは、初代カローラを開発した長谷川龍雄氏のことばですが、電通と比較すればその現場発想が具体的であります。

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2008年8月13日 (水)

藤山一郎さん

103_3 正しいお父さんの在りかたを写真にすれば、このようになるのでしょうか・・・。

ずいぶん時代錯誤なことを言うな、などと思われているご同輩も、ずっと昔にはこのような立派なお父さんに教育を含め、みっちりと叩き込まれたに違いありません。

戦前から1980年代まで活躍した慶應ボーイの大歌手・藤山一郎さんは、NHKのお抱え歌手的存在でもありましたから、番組に登場しても、きちんとした身だしなみときちんとした日本語の発音がお見事で、小さい頃から一風変わった歌手だなー・・・などと思っていましたし、大晦日の最後に歌う『蛍の光』を指揮するその姿が妙に印象的でした。良い意味で日本のスタンダードを表現してくれた、歌手を超えた存在の人でありました。

 まだテレビも無い子供の頃、よくラジオから聴こえていた藤山さんの『丘を越えて』『青い山脈』『東京ラプソディ』などの曲が妙に頭に染み付いていて、今でも何処かで聴きますと、当時住んでいた久我山の懐かしい光景と、自分の姿までが蘇ります。

この写真は昭和30年代の光景ですが、いかにも健全なNHK的なイメージですね。国民のあるべき姿を、政治とは別の世界でリードしていった藤山一郎さんは、戦後の高度成長時代とシンクロしながらも、私世代辺りまで何らかの記憶に鮮明な存在感を残しています。

藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町に生まれる。本名・増永丈夫。慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込む。幼少の頃から、日本の近代音楽の風景を体感した。昭和四年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハー・ペー二ッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。在校中に藤山一郎としてコロムビアからデビュー。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》が大ヒットして、これが音楽学校で問題となり停学処分となる。在校中、日比谷公会堂で外国人歌手と伍して《ロ-エングリーン》を独唱し好評を得る。昭和八年、首席で卒業。ビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴ、外国民謡、歌曲、独唱曲等を吹込む。また、ベートーヴェンの《第九》ヴェルディー・《レクイエム》等を独唱するなど声楽家増永丈夫でも活躍する。後にテイチク、コロムビアに移り、《東京ラプソディー》、《青い山脈》、《長崎の鐘》などのヒットに恵まれる。バリトン本来の美しさを持つテノールの音色をいかした豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手藤山一郎の声価を高め、メッツァヴォーチェからスピントの効いた張りのある美声は、人々に励ましと生きる勇気・希望を与え大衆音楽に格調と「陽」の世界を知らしめた。その功績は大きい。また、歌唱芸術のみならず、指揮、作曲においても活躍した。昭和三十三年放送文化賞、昭和四十八年紫綬褒章、昭和五十七年勲三等瑞宝章、平成四年、国民栄誉賞受賞その功績は近代日本音楽史に燦然と輝く。.

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2007年11月17日 (土)

串田孫一さんの書斎というより工房

05_2 父が生前こまめに作っていたスクラップブックからこぼれ落ちてきた週間誌の切り抜きは、串田孫一さんの書斎の写真でした。

こういう写真をみてしまうと、昨今のデジタル書斎の無機的ながら何か貧相さばかりが目に浮んでしまい、やはり私などは、どちらかといえばアナログ的思考回路ですから、じっくりと隅から隅まで見回してしまいます。

きっと、執筆に行き詰れば、そっと足元あたりからシモンのピッケルなどを出してきて磨いたり、ダンヒルのパイプなどを手入れされていたかも知れません。

串田さんは文筆はもちろん、画業も達者で、その独特の画趣は多くの信奉者を従えています。アルプという雑誌に毎号描かれた絵には不思議なモダンテーストがあって、抽象的なのにも関わらず、心を和ませてくれました。

又、とびっきりの生まれ・育ちの良さから来る、『もったいない精神』は特に着る物に顕著で、素晴らしいハリス・ツイードのジャケットにエルボーパッチを付けて着ていらっしゃるのを、見たことがあります。周りを穏やかな空気でまとめてしまう串田さんの声とその風貌に生前、幾たびか接することが出来たのは、私にとって『時の宝物』であります。

串田孫一さん

1915年、東京都生まれ。東京帝国大学文学科哲学科を卒業。お茶の水幼稚園を出て、東大の哲学科出身。 13歳の時、吾妻山五色へ行き、吹雪の中を歩いてから、スキーを楽しむと同時に山の厳しさを初めて体験。以後、戦前・戦後を通じて、山歩きと思索の旅を続けています。上智大学・國學院大學、東京外語大学教授も務めました。哲学者・詩人という肩書きとは大変お堅い感じですが、写真などで拝見する限り、ご本人はとても優しそうな品格のあるお顔立ち。日常、忙しく働く人間たちが忘れてしまった空や雲など自然の美しい本当の姿を文章にし、詩となり、絵となり、哲学となり…そのそよ風のような文体に自然と心が柔らかになっていきます。その魅力はご存知ペイネ本の解説はもちろんの事、ご本人による落書きのような挿絵を発見。一見幼稚に見える氏の描いた挿絵も、なかなか味わい深く、辻まことさんとの名著『山のABC』を見たときはその色使いや、小鳥や草木など自然のモチーフがシンプルでかわいらしく、また『ギリシャ神話』の挿絵では和製ポール・ランドともいえる切り絵の作品など、グラフィックアート的楽しみかたを知ってからは、親近感を抱いてしまいまして、何でも愛称を付けたがるユトレヒト内では、”クシマゴ”あるいは”マゴ”との愛称で呼ぶようになりました。いつも身の回りの小さなことに興味を抱き、ゆっくり考えていく姿勢から、美しいあの芸術世界を築いているのでしょう。著書はパンセの翻訳書もなども含め、500冊以上に及びます。ご子息は、自由劇場の創立メンバーの一人、演出家で俳優の串田和美(かずよし)さん、グラフィックデザイナーの光弘さん。 2005年7月8日。老衰のため死去。享年89歳でした。

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2007年9月24日 (月)

松永安左エ門・バサラ経済人

Photo_18 撮影:杉山吉良

東邦電力社長として、また戦後の電力公社の分割民営化を政界・官界の反対を押し切り実現させた、日本の電力界のドン・松永安左エ門(1875-1971)は60歳のとき茶事に招かれ、ここから彼の数寄茶人の人生が始まります。後に鈍翁・益田孝(1848-1938)と三渓・原富太郎(1868-1939)と並び称されるほどの茶人となったものの、始めは周囲の冷たい視線を一堂に集めていたようであります。物怖じしないという点では空前絶後の器量の持ち主でしたが、それでも最初の茶会の頃は、逸話になるほどの愉快な失敗談もあるそうです。

1937年(昭和12年)有楽井戸・氏郷茶杓の二点をそれぞれ12万6000円、1万6000円で落札し(現在の価値で、それぞれ7億円、8000万円)、その後暫く昭和の茶界事件といわれていましたが、その後も大名物といわれるものに対する収集意欲に歯止めはなく、昭和18年頃までに今の価値で100億円を茶道具購入に使います。国宝の釈迦金棺出現図を入手した1961年(昭和36年)にそのピークに達しましたが、最後は東京国立博物館にあっさりと寄付してしまします。

天衣無縫の桃山・バサラ大名の茶事を系譜した松永さんの茶の世界こそ、男の茶会であり、松永流の破格の侘道(耳庵流)を独自に進化させるには、世間の価値とは無縁の独自の感性を総動員したのでしょう。茶会とは戦い抜いた戦士のみが許される戯れの場であるという認識がつよかったでしょうから、婦女子中心になりつつあった茶界とは一線を引いていたようですし、どうも大名茶会のような雰囲気は最後までお好きではなかったようです。

この写真は池田勇人首相が、電力事業再編成審議会を巡って松永さんの本心を聞こうと、築地で一席を設けたときの様子でありますが、時代がつくりあげた風貌には穏やかさも感じられます。(参考:芸術新潮)

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2007年2月10日 (土)

中村外二・数奇屋大工

202_3                                             

写真:高橋曻102_4 

数多く居る職人の中でも、この中村外二さん(1906-1997)ほどの磨かれた風貌には、なかなか、お目にかかれません。大正10年に大工職・水田常次郎に弟子入りして木造建築のいろはを叩き込まれますが、ここで止まっていたら普通の大工で終わっていたのでしょうが、昭和28年に裏千家出入りの大工になって以来、家元・千宗室にお茶のいろはから始まり、茶室の設えまでこと細かな作法から家元独特の素材に対する感性に至るまで、直伝で叩き込まれました。業界用語でいえば、ハードとソフトの最高レベルのノウハウとこつを実学で習得したのです。以前、中村外二さんの座談を本で読んだことがありますが、木の話から人の器量の話まで、機微に満ちたその内容には、マーケティングと機械を通して出来上がる量産を前提としたデザインには無い、実学と自然の叡智の裏打ちの深さと強さがありありでした。

私は中村さんを知った30年ほど前から、西欧建築にはない日本建築のもつ意匠の感性的部分と、気候に適した合理性の部分を勉強し始めました。たまたま、私の曽祖父が木曾の御料林を管理していて、小学校の頃、父から「木曾の檜と云う材料は日光と風により南斜面と北斜面では全くその年輪の姿も異なり、南斜面の檜は安定していて年輪もみごとな同心円を描くから、南斜面のものが伊勢神宮や徳川家の普請に使われるのだ」ということを聞かされたことが妙に頭の中に焼きついてましたから、まず始めに日本の木から勉強し始めました。

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2007年1月 6日 (土)

植草甚一さんの洒落っ気!

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写真:高梨豊

植草甚一さん(1908~1979)は私の世代にとっては、ちょっと肩の力を抜いた生き方を自ら提示してくれた、有難いお方でした。高度成長を駆け抜ける1960年代から1970年代までを、映画・JAZZ・雑誌を通しながら、特にNEW YORKの生活全般の雑学をたっぷりと、その洒脱な文体を通して教えてくれましたし、日記・自ら作るコラージュ・街を歩いて買い求めた独特Jj102 の趣きの品々は、誰でもない独特の薫りがあって、まさに何処にもない植草甚一さんの「Wonder Land」でありました。

植草甚一さんのライフスタイルはカウンター・カルチャーそのもので、今で云うストリート系の旬な情報ばかりでしたが、その語りっぷりにどっぷりと浸かってしまったご 同輩Jj202も多く、その影響は未だに残っているように思えます。私はどちらかといえば植草さんの散歩・街・買物に関する世界が大好きで、特に住んでおられた経堂の町を書かれた一文には町の持つ魅力が凝縮していて、今でも時々書棚から出しては読んでいます。人一倍物欲旺盛な方でしたから、「欲しい物のない町は死んだも同然!」といった一刀両断の論法が、日本橋の木綿問屋に生まれた気風のよさを証明しています。

生涯に多くの著作を残され、古本市場でも相変わらず人気のようですし、私も森田和義氏がすべて買い取ったと云われる、マニア垂涎のJAZZのレコードを聴く機会を願っているひとりであります。

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2006年12月 1日 (金)

立原正秋さん!

07立原正秋(1926-1980) 作家小説家。随筆も多くする。早稲田大学専門学校法律学科に入学、戦後小説家を志し文学部国文科の聴講生として学ぶ。鎌倉文士のひとり。食通としても知られている。

「剣ケ崎」「薪能芥川賞候補、「漆の花」で直木賞候補になり、1966年、「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。自ら「純文学と大衆文学両刀使い」を宣言して中間小説流行作家となった。

また編集者としての手腕もあり、同人雑誌「犀」を立ち上げたり「早稲田文学」の編集長を引き受けるなどし、吉田知子?古井由吉ら多くの作家評論家を世に送り出した。

彼はその創作生活で多くの作品を残したが大人の愛を主題にした小説を中心に特に女性に人気があり、主な作品に小説「冬の旅」「夏の光」「きぬた」「春の鐘」「残りの雪」、自伝的小説「冬のかたみに」、日本全国の庭をめぐったおりの随筆・作庭評「日本の庭」、世阿弥の「風姿花伝」への想いあふれた随筆「秘すれば花」、「心のふるさとをゆく」「夢幻のなか」「風景と慰籍」など。

全集は「立原正秋全集」全24巻・別巻1、彼の評伝としては、高井有一?立原正秋』(新潮社。毎日芸術賞受賞)、新潮日本文学アルバム〈55〉『立原正秋』など。長男は料理人で著書も多い立原潮?(たちはら・うしお)、長女に随筆・小説家の立原幹?(たちはら・みき)。

経歴は複雑で、1926年大正15年)1月6日朝鮮慶尚北道(現・大韓民国慶尚北道)安東郡西後面台庄洞に、父・金敬文、母・権音伝の長男として生まれる。名は金胤奎。その後、野村震太郎、金井正秋と名乗り、米本光代と結婚して日本国籍を得て本名・米本正秋、通り名はペンネームの「立原正秋」で、亡くなる2ヶ月前に「立原正秋」への改名が認められこれが本名となった。大酒飲みと美食好みが祟り1980年(昭和55年)8月12日食道癌のため54才の若さで死去。鎌倉瑞泉寺に墓所がある。(はてなダイアリー)

立原正秋さんは文学界にあって今も女性を中心として根強い人気のある作家です。徹底した自分の美学を生活周辺に見出し、揺るがない自分の感性を潔い文体にぶつけられました。風貌は柔和でありますが、心の底から湧き出る感受性には表現する人間としての格闘精神が満々であります。比類なき酒豪・食通でありましたから、残念ながら若くしてお亡くなりとなってしまいました。 日本人ではないがその感性が日本人以上と言われ、川端康成・三島由紀夫と並ぶ美文学の大家でありました。立原さんの蒐集した骨董の類(www.yufuku.net/shin-gallery/exhibition/tachihara_masaaki/index.html)を見ても、ピーンと張り詰めた緊張感があって、今の緩い社会全体の風潮を許すことなく、きっと苦みばしった顔で見ていることでしょう。 (写真・平凡社「太陽」1994年10月号)

尚、ご子息立原潮さんが銀座で[懐石・立原]を営まれています。永く恵比寿にありましたが、今年4月に銀座に移転されました。

立原・中央区銀座8-8-18 銀座8818ビル2階(金春通り沿い) 電話03-5537-5694

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2006年11月15日 (水)

三船久蔵さん!

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写真撮影:笹本恒子 (1956年)

  三船久蔵(みふね きゅうぞう)1883~1965

岩手県久慈市生まれ 近代柔道を完成させた<技>の名人
 三船久蔵は身長160cm、体重40㎏と柔道家にしては小柄でしたが、重量別制度のなかった時代、小よく大を制し得たのは、合理的な考えに基づき、あたかも物理学の実験でも重ねるように、「技」を徹底的に研究したからだと考えられています。

 久慈の小学校から仙台二中に進んだ久蔵は柔道部に入りますが、その上達ぶりは目ざましく、対等に組み合えるものがいなくなったため、旧制二高の柔道部の稽古に参加するようになり、師範で起倒流(きとうりゅう)柔術家の大和田義一の教えを受けます。その後、仙台二中卒業の折、大和田から盛岡の同流柔術家・奥田松五郎を紹介され、稽古試合で対戦する機会が訪れました。その対戦で、払い腰、巴投げなどすべて異なる技で、完膚なきまで投げ飛ばされます。いままで体験したことのない鋭い切れ味のある<技>を身をもって知ったのです。奥田も、久蔵の天性のカンと才を見抜き、精進すれば大成すると励まします。得難い体験をもった久蔵。体格にもハンデがあり、このとき以来、相手を倒すのは<技>以外にないと、さらに技の世界を窮めようと決意したのです。

 当時、日本の柔道界は、嘉納治五郎の創設した講道館柔道が盛名を博しており、久蔵も入門を希望していました。やがて、上京し講道館に入門、1904年初段となり、以後毎年昇段を続けます。1910年、東京帝国大学の柔道師範となったのをはじめ、早大、明大、日大などでも師範として教えることになります。得意とした技は、大車・隅落し・球車などですが、太陽・地球は丸く、人間も丸ければバランスがとれる、という独特のバランス重視の運動力学を考案し、その原理に基づき、究極の<技>ともいえる空気投げを編み出します。1930年、初の全日本柔道選手権大会の特別試合で、神宮外苑2万人の観衆を前にこの技を披露したのです。久蔵47歳でした。1923年、すでに講道館指南役に就いていましたが、1931年八段、1945年最高位の十段に昇ります。

 <技>により、小躯よく巨漢を倒し、<相手が大きいほど技がかかりやすい>ことを実践してきた三船久蔵は、国際柔道の流れである重量別制には、最後まで賛成できなかったようです。

美しい日本」の見直しが当世、流行りのようでありますが、その前に「美しい日本人」についての話があまり見受けられないのが残念であります。私にとっての日本人の代表といえば間髪置かず、三船久蔵さんであります。日本人がやたらとその人の辿ってきた世界を分類するのがお好きなだけに、おそらく三船久蔵さんについても「柔道家」という認識しか持たれないでしょう。格闘技としての柔道家はもちろん間違えではありませんが大事なところはそのイマジネーションに基づく創造力にあり、物理学・運動学・心理学との組合せによってオリジナルを創案したところです。ですから、私にとって三船久蔵さんは日本最高・最強のアーティストなのであります。アーティストとは美術・音楽など芸術分野だけでなく独創力を生涯研鑽し続けた方々の総称であるべきですから、こういう見方で、これまでなんらかのかたちで日本の独創力に貢献してきた各界の方々を違った見方で捉えなおすということも、案外たいせつな気がしてまいりました。それにしても晩年の柔和な風貌には感服いたします。俗世間の誘惑に負けたことのない、崇高な精神の持ち主だけが到達することのできる立ち振る舞いには、一部の隙もございませんね・・・。

参考北関東こだわり百科http://myn.north-tohoku.gr.jp/kodawari/index.php3

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2006年11月 4日 (土)

吉田健一のスタイル!

06 写真:田沼武能

吉田健一

1912年、東京生まれ。暁星中学校卒業後、ケンブリッジ、キングズ・カレッジに入学。帰国後アテネ・フランセ卒業。『文学界』を中心に評論を発表。1939年、伊藤信吉、山本健吉、中村光夫らと『批評』を創刊し、名義上の編集発行人となる。1949年より国学院大学非常勤講師として文学概論を講じ、1958年、大岡昇平らと季刊誌『声』を創刊、「英国の近代文学」「文学概論」などを連載。1963年より1969年まで中央大学文学部教授、英文学を講じる。1970年、『ヨオロツパの世紀末』(新潮社)で野間文芸賞受賞。以後、『瓦礫の中』(中央公論社、1970、読売文学賞・小説賞受賞)『絵空ごと』(河出書房新社、1971)『金沢』(河出書房新社、1973)『東京の昔』(中央公論社、1974)などの小説や、本書にその一端を収めた独自のエッセーで多くの読者を得た。『覚書』(青土社)『時間』(新潮社)絶筆となった『変化』(青土社)などその極致といえよう。『思ひ出すままに』(集英社)を刊行した1977年8月、肺炎のため東京の自宅で逝去。(みすず書房)

 吉田健一さん(1912~1977)は吉田茂を父にもち、その赴任先のイギリスで青春時代を過したおかげで、全身イギリス的な素養を体得しましたが、かといって所謂、表層的な風俗レベルのライフスタイルには全くと云って良い位、無関心であったようです。ヴァレリー・ロレンスなどの翻訳をはじめ、文芸批評・小説に秀作を多く遺しています。

 日本文壇史上、希代の酒呑みであり、食通であった吉田さんの徘徊場所は概ね銀座・神田に限られており、潜る暖簾のお店も余程のことが無い限り決まっていたようです。今でも、酔って文壇仲間と口論が始まると日本語よりも英語でべらんめー調になったことは伝説として伝わっていますし、だいのお気に入りだった神田・神保町のランチョンでは、明治大学の出講前にたっぷりとウィスキーの入った紅茶を飲むのが慣わしだったとも聞いています。

 それでも「私の食物誌」・「舌鼓ところどころ」「酒肴酒」など食にまつわる珠玉の随筆、「東京の昔」・「金沢」「日本について」など日本の品格ある風俗と文化に関わる芳醇な文体を読むと、(なにしろ「人妻」のことを「ジンサイ」と読んでしまうほど日本語には生涯、疎かったようですから・・・)言葉以外に何とか日本を惚れ抜こうとする姿勢が見え、その一方、若い頃から馴染んだブリティッシュ・フレーバーが放つオーラは、長身に見合った仕立ての良いスーツ姿を通して、たっぷりと英吉利の威厳を・・・であります。

 東西の比較文化エッセーなど文体を通して、此れほどまで美しく遺していただいただけでも、私は有り難い気分となりますし、その魅力的な風貌を裏切らない一語一句に敬礼するのであります。

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