2011年8月14日 (日)

牧野富太郎

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小学校時代、昭和29年から35年にかけて、夏休みの宿題といえば植物観察記録が定番で、高学年になると自由研究のひとつとなったものの、低学年では『朝顔』を筆頭に毎日の成長記録を絵と日誌として残すのがノルマでありました。そんなとき、何といっても力強かったのが牧野富太郎博士 http://www.makino.or.jp/dr_makino/frame/f_makino.html の植物図鑑でした。子供でも分かり易い解説と博士自筆の図は、植物そのもの以上に、その性質を捉えているかの如く、一目瞭然でありました。

はじめて博士の写真を見たのは1956年の新聞記事で「天皇陛下からアイスクリームを賜る」という記事が妙に記憶に残っています。亡くなる一年前の写真からは「ものすごいおじいちゃん」の印象しかありませんでした。今こうして、1936年木村伊兵衛氏の撮影による姿のトラッド然とした研究者の風貌は、あまりにみごとな身なりからか、予想外でしたが、学者の魁としての品格に相応しい、身のしまる思いがします。

牧野博士に限らず、明治・大正・昭和の教育・研究に没頭した方々の肖像写真などを見るに付け、昨今のカジュアル指向な学究の徒と対極な「きちんとした」オーラには、一礼せざるをえないのです。

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2011年8月10日 (水)

1952 PICASSO

1952_picassoボーダーストライプの似合う人の頂点といえば、やはりこのお方でしょうね・・・。

生涯一画家として、進化し続けたその源は、当たり前のことですが、絶え間ない好奇心と旺盛な食欲であります。この写真なども、目の前の面白いカタチのパンをとっさに手に見立てたアドリブの一瞬かも知れません。手近のモノを芸術家の観点によって変換させることはよくある話であるものの、ピカソのユーモラスなセンスに追いつく者など皆無なのであります。

南仏の自宅でのスナップですが、そのユーモラスな画面とは裏腹な獲物を狙うような鋭い眼光には、尽きることのない創造力に満ち溢れているオーラがあります。http://www.youtube.com/watch?v=Bo9UDldSDgk

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年7月26日 (火)

1949 Jacques Tati

1949_jacque_tati Jacques Tatiの傑作『のんき大将』http://www.youtube.com/watch?v=IXhRPnh1JSU の扮装で写っているのはご本人ですが、この人は長身ながら映画の中で頻繁に出てくるコミカルな動きが機敏で、しかもアメリカ映画に観られる表情のわざとらしさなどなく、アドリブかと思われる一瞬一瞬の決まりポーズが何ともいえない和みを与えてくれます。

もう一つの傑作『ぼくの伯父さんの休暇』http://www.youtube.com/watch?v=_92Cm8gl7Ls は、観る側のイマジネーション次第で美しい映像の展開を如何ようにも解釈でき、この「無意味の意味センス」が時代を経ても風化しない、ナンセンスな普遍性なのでしょう。

さて、この写真ですが、解体してしまった自転車を元にもどすことも出来ず、途方に暮れているニュアンスのポーズがイカシテいますね。しかも、ずいぶんと各部品のレイアウトに集中したとみえ、散々ダメだしを繰り返した結果なのでしょうか・・・、カメラアングルからは、Jacques Tatiさんの細部への尋常ではないこだわりが垣間見れますね・・・。

些細な話ですが、私も和菓子を小皿に載せて撮影することがあるのですが、皿の真中に和菓子を置いてもレンズを通すとまったく異なる構図となり、その収まりに数ミリ単位で四苦八苦しますから、これだけの部品同士の納まりが完璧であるということは、当然、Jacques Tatiの映画のワンシーンの小道具・小物の位置にも、同様な異常ともいうべきエネルギーが投入されていたということでしょうから、又、見直すべきシーンがたっぷりとありそうです。このあたりの極小細部世界における構図感覚は、日本映画の巨匠、小津安二郎・成瀬巳喜男・黒澤明も同様なのです。

大胆さと微細さを併せもつ映画の醍醐味は、このような目と手の研ぎ澄まされた感覚から生まれ出るものなのですね・・・。

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2011年7月24日 (日)

1954 Fernand Leger

1954_fernand_leger ポップアートの先駆者、レジェhttp://www.youtube.com/watch?v=qYDssbfI-6I の画面には多くの男女が登場していますが、皆、とてもよく似ていることに気付きませんか。私はレジェの作品を見つつ疑問であったのですが、フランスの写真家、ロベール・ドアノーが撮影したレジェの肖像を見て分かりました。描いた本人の顔と一緒ではありませんか・・・。

とくに鼻筋と口にかけての人中部分は、全くのそっくりさんで愉快になりますね。

今もって人気の高いこの画家は、アートの垣根を払拭して自由奔放な画題と構成を存分に描ききっていて、大空間に掛けられても、その存在の強さはひけをとりません。画壇などという狭い私的機関のような存在を超越した、自己実現願望到達の典型であり、あるべき人生の処し方の大家でもあったのです。

フェルナン・レジェ Fernand LEGER

◆20世 紀前半に活動したフランスの画家。1881年ノルマンディー地方のアルジャンタ ンに生まれ、1900年パリに出る。第1次大戦での 戦場経験を元に、都市や機械、工場などを分解して再構築した。ピカソ、ブラックらとともにキュビスム(立体派)の画家と見なされる。キュビズムを代表する画家で、ピカソ、ブラックとともに「キュビズムの3巨匠」 とも称される。

しかし後にはキュビスムの作風から離れ、太い輪郭線と単純な フォルム、明快な色彩を特色とする独自の様式を築いた。絵画以外にも版画、 陶器、舞台装置、映画など幅広い分野において作品を残した。1955年、歿。

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2010年4月17日 (土)

小池三郎さん・読売巨人軍とともに

Rimg27950 素晴らしいフォルムと理想的なラインの一言ですね・・・、多摩川べりで1951年グランド小池商店を創業、来年で60周年という古い歴史をもっているお店の大将・小池三郎さんの横顔です。のり移ったのかどうかは、分かりませんが、あの川上哲治さんに完璧なほどそっくりなのです。大正10年 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1921.html 生まれの89歳ながら毎日、店に出て若い世代の体育会の輩と接しているので、黄金時代の巨人軍の語り部も人生講話の一仕事で、奥に引っ込んでいる暇などなく、ご覧のような眼光の鋭さです。

小池商店 http://sohske.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-04b9.html はジャイアンツファンにとって、店内のお宝写真やサインバット・サインボールの類は感涙ものばかりですし、今も週末ともなれば此処を懐かしがって訪れるお客さんで忙しくなります。

私も、多摩川自転車徘徊の度に一服するお店で、ここの「おでん」を一皿いただくのが殆ど慣わしでもあります。目の前の多摩川堤は目線よりぐっと上にあって、その先、見えるのは往来する車と空だけで、ここにいると店内のお宝からか、懐かしい気分になれます。

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2009年1月19日 (月)

藤田嗣治・1947

Photo 戦前から日本の美とヨーロッパの美を融合して独自の世界を開花した藤田嗣治 http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm の1947年(昭和22年)の風貌です。右にいるカメラマンがGHQ専属のディミトリー・ボリアさんですが、この時代でも藤田の装いは時代を超越していたかのごとく、普通の人ならば、おそらくさっと引いてしまっても可笑しくない様な、アバンギャルドな気配です。それにしても誰もが知っている藤田の描く繊細な肌の色・線描が、この大きく、分厚い手から生まれたとは思いませんでした。もっと細い女性のような手ではないかと、思っていましたから・・・。

Photo_2 戦前は、パリにおいて薩摩治郎八氏(下の写真右)の惜しみない経済的、物資的支援を享受し、仕事でも、夜の社交界でも、ひと際日本国の広報・啓蒙に一役買って出ていたのですが、この写真よりもさらに過激な恰好でパリを闊歩していた様ですから、パリジャンは藤田(下の写真・右から四人目)の高感度・破天荒な姿を一般的日本人もしているのかなのかと、驚嘆した・・・などとも言われていたようです。

薩摩治郎八

パリ社交界の寵児
薩摩治郎八はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛が蓄えた財産を使い果たした。薩摩治兵衛は近江の貧農の出であったが、横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれた。治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていた。

治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から1万円(今の約1億円位か?)の仕送りを受けて車と女遊びに熱中した。大学など結局はどうでもよくなり、費用が要ればいくらでも追加の送金があった。当時のサラリーマンの月給は30円ぐらいである。(中略)

やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、底が抜けたように金を使って社交界の名士になった。画家の藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目された

彼は、10年余りで、現在のカネにして600億円ともいわれる巨額を使い切ったというのだから驚く。たとえば、伯爵令嬢の妻・千代に純銀製の自動車を買い与えたとか、それでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し特別大賞を獲得したとか、その蕩尽ぶりを物語るエピソードにはこと欠かない。もちろん、ただ浪費しただけでは展覧会にはならない。彼はそのうちの一部(といっても巨額だが)を文化芸術にもつぎ込む大パトロンでもあったのだ。そのパトロン活動を挙げてみると、
 1. 25年に一時帰国中、フランスからジル・マルシェックスを招いてのピアノ演奏会
 2. 27年、パリでの「修禅寺物語」公演
 3. 27-29年、パリ国際大学都市の日本館建設
 4. 29年、パリとブリュッセルでの「仏蘭西日本美術家協会展」開催
 5. 35-37年、チェコスロバキアへの薩摩コレクション寄贈

20年代には湯水のごとく浪費した治郎八だったが、29年に始まる世界恐慌の嵐は薩摩家をも襲い、35年に薩摩商店は閉業。第2次大戦中はフランスにとどまったものの、51年とうとう無一文で帰国。その後、再婚した妻の里帰りで徳島を訪れた際に脳卒中で倒れ、以後同地で療養生活を送り、76年に死去した。ありあまる財産を好き放題に使いまくった前半生の豪遊ぶりと、経済的にも身体的にも不自由を余儀なくされた後半生の落ちぶれた生活。その落差もまた、ケタ違いというほかない。

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2009年1月 3日 (土)

風貌・吉田秀雄

1953 電通の中興の祖と呼ばれる、第四代社長・吉田秀雄氏http://www.admt.jp/introduction/yoshida/about.html を木村伊兵衛が1953年(昭和28)年に撮影したものです。

父が戦争中、上海に報道班員として、従軍記者兼画家として従事していた頃、名取洋之介をヘッドとする軍のプロパガンダグループから吉田氏を紹介されたことを話していた記憶があり、その鋭い時代の捉え方に感心していたことを、よく話していました。

若干50歳にして、ご覧のような内に秘めた闘争心はさすがなもので、この眼力を観ても時代と戦った男の風貌としておみごとなものです。吉田秀雄氏の創案による有名な電通・鬼の十則は今も電通以外の企業でも心得として活用されてますが、まさかパロディ版・電通の裏十則もあるなどとは、今日まで知りませんでした。

蝶ネクタイに仕立ての良いダブルの麻スーツからして、夏の姿ですが、奥に見える扇風機は当時としてはずいぶんモダンなスタイルをしていますね・・・。

電通・鬼の十則

1)仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2)仕事とは、先手先手と働き掛け、受身でやるべきではない。3)大きい仕事」と取り組め。小さい仕事は己を小さくする。
4)難しい仕事をねらえ。それを成し遂げるところに進歩がある。
5)取り組んだら放すな。殺されても放すな。目的完遂までは
6)周囲を引きずり廻せ。引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に天地の差が出来る。
7)計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と正しい努力と希望が生まれる。
8)自信を持て。自信がないから君の仕事は迫力も粘りも厚みすらもない。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って一分の隙があってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、きみは卑屈未練になる。

パロディ版・電通の裏十則

1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。
2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。
3)大きな仕事と取り組むな。大きな仕事はおのれに責任ばかりふりかかる。
4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。
5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。
6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。
7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。
8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実を語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。


ちなみに、トヨタにも主査10ヶ条というものもあります。

第一条 主査は、常に広い知識、見識を学べ。
第二条 主査は、自分自身の方策を持て。
第三条 主査は、大きく、かつ良い調査の網を張れ。
第四条 主査は、良い結果を得るためには全知全能を傾注せよ。
第五条 主査は、物事を繰り返すことを面倒がってはならぬ。
第六条 主査は、自分に対して自信(信念)を持つべし。
第七条 主査は、物事の責任を他人のせいにしてはならぬ。
第八条 主査と主査付き(補佐役)は、同一人格であらねばならぬ。
第九条 主査は、要領よく立ちまわってはならない。
第十条 主査に必要な資質 - 
     ①知識(点在している)、
      技術力(それを組み立て進展さす力)、
      経験(上限、下限の経験により適正なレベルを設定する能力)、
     ②判断力、決断力、
     ③度量、スケールが大きいこと 
       - 経験、実績(成功と失敗共に)、自信より生まれる、
     ④感情的でないこと、冷静であること、
     ⑤活力、ねばり(トータル・エナジー)、
     ⑥集中力(パワー)、
     ⑦統率力 
     - 相手を自分の方向になびかせ、同じ気持ちで仕事をさせること、
     ⑧表現力、説得力 - 特に部外者、上司に対して、
     ⑨柔軟性 
      -最悪の場合にはメンツにこだわらず転身が必要なこともある。
       そのタイミングが問題、
     ⑩無欲という欲

これは、初代カローラを開発した長谷川龍雄氏のことばですが、電通と比較すればその現場発想が具体的であります。

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2008年8月13日 (水)

藤山一郎さん

103_3 正しいお父さんの在りかたを写真にすれば、このようになるのでしょうか・・・。

ずいぶん時代錯誤なことを言うな、などと思われているご同輩も、ずっと昔にはこのような立派なお父さんに教育を含め、みっちりと叩き込まれたに違いありません。

戦前から1980年代まで活躍した慶應ボーイの大歌手・藤山一郎さんは、NHKのお抱え歌手的存在でもありましたから、番組に登場しても、きちんとした身だしなみときちんとした日本語の発音がお見事で、小さい頃から一風変わった歌手だなー・・・などと思っていましたし、大晦日の最後に歌う『蛍の光』を指揮するその姿が妙に印象的でした。良い意味で日本のスタンダードを表現してくれた、歌手を超えた存在の人でありました。

 まだテレビも無い子供の頃、よくラジオから聴こえていた藤山さんの『丘を越えて』『青い山脈』『東京ラプソディ』などの曲が妙に頭に染み付いていて、今でも何処かで聴きますと、当時住んでいた久我山の懐かしい光景と、自分の姿までが蘇ります。

この写真は昭和30年代の光景ですが、いかにも健全なNHK的なイメージですね。国民のあるべき姿を、政治とは別の世界でリードしていった藤山一郎さんは、戦後の高度成長時代とシンクロしながらも、私世代辺りまで何らかの記憶に鮮明な存在感を残しています。

藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町に生まれる。本名・増永丈夫。慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込む。幼少の頃から、日本の近代音楽の風景を体感した。昭和四年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハー・ペー二ッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。在校中に藤山一郎としてコロムビアからデビュー。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》が大ヒットして、これが音楽学校で問題となり停学処分となる。在校中、日比谷公会堂で外国人歌手と伍して《ロ-エングリーン》を独唱し好評を得る。昭和八年、首席で卒業。ビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴ、外国民謡、歌曲、独唱曲等を吹込む。また、ベートーヴェンの《第九》ヴェルディー・《レクイエム》等を独唱するなど声楽家増永丈夫でも活躍する。後にテイチク、コロムビアに移り、《東京ラプソディー》、《青い山脈》、《長崎の鐘》などのヒットに恵まれる。バリトン本来の美しさを持つテノールの音色をいかした豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手藤山一郎の声価を高め、メッツァヴォーチェからスピントの効いた張りのある美声は、人々に励ましと生きる勇気・希望を与え大衆音楽に格調と「陽」の世界を知らしめた。その功績は大きい。また、歌唱芸術のみならず、指揮、作曲においても活躍した。昭和三十三年放送文化賞、昭和四十八年紫綬褒章、昭和五十七年勲三等瑞宝章、平成四年、国民栄誉賞受賞その功績は近代日本音楽史に燦然と輝く。.

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2007年11月17日 (土)

串田孫一さんの書斎というより工房

05_2 父が生前こまめに作っていたスクラップブックからこぼれ落ちてきた週間誌の切り抜きは、串田孫一さんの書斎の写真でした。

こういう写真をみてしまうと、昨今のデジタル書斎の無機的ながら何か貧相さばかりが目に浮んでしまい、やはり私などは、どちらかといえばアナログ的思考回路ですから、じっくりと隅から隅まで見回してしまいます。

きっと、執筆に行き詰れば、そっと足元あたりからシモンのピッケルなどを出してきて磨いたり、ダンヒルのパイプなどを手入れされていたかも知れません。

串田さんは文筆はもちろん、画業も達者で、その独特の画趣は多くの信奉者を従えています。アルプという雑誌に毎号描かれた絵には不思議なモダンテーストがあって、抽象的なのにも関わらず、心を和ませてくれました。

又、とびっきりの生まれ・育ちの良さから来る、『もったいない精神』は特に着る物に顕著で、素晴らしいハリス・ツイードのジャケットにエルボーパッチを付けて着ていらっしゃるのを、見たことがあります。周りを穏やかな空気でまとめてしまう串田さんの声とその風貌に生前、幾たびか接することが出来たのは、私にとって『時の宝物』であります。

串田孫一さん

1915年、東京都生まれ。東京帝国大学文学科哲学科を卒業。お茶の水幼稚園を出て、東大の哲学科出身。 13歳の時、吾妻山五色へ行き、吹雪の中を歩いてから、スキーを楽しむと同時に山の厳しさを初めて体験。以後、戦前・戦後を通じて、山歩きと思索の旅を続けています。上智大学・國學院大學、東京外語大学教授も務めました。哲学者・詩人という肩書きとは大変お堅い感じですが、写真などで拝見する限り、ご本人はとても優しそうな品格のあるお顔立ち。日常、忙しく働く人間たちが忘れてしまった空や雲など自然の美しい本当の姿を文章にし、詩となり、絵となり、哲学となり…そのそよ風のような文体に自然と心が柔らかになっていきます。その魅力はご存知ペイネ本の解説はもちろんの事、ご本人による落書きのような挿絵を発見。一見幼稚に見える氏の描いた挿絵も、なかなか味わい深く、辻まことさんとの名著『山のABC』を見たときはその色使いや、小鳥や草木など自然のモチーフがシンプルでかわいらしく、また『ギリシャ神話』の挿絵では和製ポール・ランドともいえる切り絵の作品など、グラフィックアート的楽しみかたを知ってからは、親近感を抱いてしまいまして、何でも愛称を付けたがるユトレヒト内では、”クシマゴ”あるいは”マゴ”との愛称で呼ぶようになりました。いつも身の回りの小さなことに興味を抱き、ゆっくり考えていく姿勢から、美しいあの芸術世界を築いているのでしょう。著書はパンセの翻訳書もなども含め、500冊以上に及びます。ご子息は、自由劇場の創立メンバーの一人、演出家で俳優の串田和美(かずよし)さん、グラフィックデザイナーの光弘さん。 2005年7月8日。老衰のため死去。享年89歳でした。

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2007年9月24日 (月)

松永安左エ門・バサラ経済人

Photo_18 撮影:杉山吉良

東邦電力社長として、また戦後の電力公社の分割民営化を政界・官界の反対を押し切り実現させた、日本の電力界のドン・松永安左エ門(1875-1971)は60歳のとき茶事に招かれ、ここから彼の数寄茶人の人生が始まります。後に鈍翁・益田孝(1848-1938)と三渓・原富太郎(1868-1939)と並び称されるほどの茶人となったものの、始めは周囲の冷たい視線を一堂に集めていたようであります。物怖じしないという点では空前絶後の器量の持ち主でしたが、それでも最初の茶会の頃は、逸話になるほどの愉快な失敗談もあるそうです。

1937年(昭和12年)有楽井戸・氏郷茶杓の二点をそれぞれ12万6000円、1万6000円で落札し(現在の価値で、それぞれ7億円、8000万円)、その後暫く昭和の茶界事件といわれていましたが、その後も大名物といわれるものに対する収集意欲に歯止めはなく、昭和18年頃までに今の価値で100億円を茶道具購入に使います。国宝の釈迦金棺出現図を入手した1961年(昭和36年)にそのピークに達しましたが、最後は東京国立博物館にあっさりと寄付してしまします。

天衣無縫の桃山・バサラ大名の茶事を系譜した松永さんの茶の世界こそ、男の茶会であり、松永流の破格の侘道(耳庵流)を独自に進化させるには、世間の価値とは無縁の独自の感性を総動員したのでしょう。茶会とは戦い抜いた戦士のみが許される戯れの場であるという認識がつよかったでしょうから、婦女子中心になりつつあった茶界とは一線を引いていたようですし、どうも大名茶会のような雰囲気は最後までお好きではなかったようです。

この写真は池田勇人首相が、電力事業再編成審議会を巡って松永さんの本心を聞こうと、築地で一席を設けたときの様子でありますが、時代がつくりあげた風貌には穏やかさも感じられます。(参考:芸術新潮)

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