1897 日本セメント八代工場
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第二次世界大戦が終わった翌年、平和を取り戻し解放感に満ちたサイクリストが仲間内のレースでもしているのでしょう・・・。パリの街角からスタートしていき、何処に向かうかは分かりませんが、戦時中は走ることも出来ずイライラしていたでしょうからその嬉しい気分が伝わってきます。同好の士がやっと集まり、平和の有り難味を味わいながらスタートしていきますし、様子から観て、寒い時季のようですが、ニッカーポッカーの雰囲気がいかにもパリジャンですね。
1960年頃、学園前の五日市街道などでは、まだ見慣れないベレー帽・ニッカーポッカー姿の日本人のタンデムが疾走していく姿に憧れて以来、私もスポーツ自転車の世界にのめり込んでいったのですが、本場の雰囲気を真似ようにも手本がなく、数年後、東京サイクリングセンターで出会ったスポーツ自転車界の魁の皆さんに自転車のイロハを教わっていくにつれ、日本人サイクリストにはベレー帽・ニッカーポッカーが似合わないと感じ入ったのです。
さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima は毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。
タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)
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昭和3年に東京駅・丸ビルと並び称された日本橋・三越の威容の建物が出来る以前の三井呉服店の姿です。広重の浮世絵でさえ、もう少し大きな印象をもっていたのですが、こうして写真を見る限り、さほどではなかったのです。この11年後には日本橋が大理石の真っ白な姿を現し、全国から観光客の絶えなかったゾーンの中ですし、右奥方面には富士山が末広がりを見せてくれていた場所です。商売繁盛、商いは益々末広がりといった日本一の吉祥場所は、今日もその威厳が衰退していませんね・・・。
1900年(明治33年)10月5日。三井呉服店・日本橋本店は座売りを全廃、全館を陳列場として開場(座売りとは畳敷きの広間で客に番頭が接客して、注文により土蔵から小僧丁稚に取りに行かせて吟味し販売すること)。 店内にはイギリスを中心とした洋服・服飾雑貨なども眩いばかりに展示され、それまで中流以上の守旧派顧客層で占めていた三井呉服店もすっかり様変わりとなりましたが、この撮影された日が正に、そのお披露目の初日というわけです。今と変らない野次馬か、普段は三井呉服店とは縁のない輩か、いっぱい取り巻いてますね。上得意の顧客は前日の招待で御買上げされて、このような雑踏のなかなどは、一切関わりないのでありました。
尚、下の写真に寄切室と書かれていますが、これは半端モノ販売や、セール会場という意味で間違いなさそうです。
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詳細なデータはありませんが、解説によれば1950年代初頭の銀座ということです。中央通りは当然路面電車が走っていて、この線路は1968年頃まで使われてました。
私が自動車免許を取り、銀座を走ったのが1967年でしたが、まだ細身のタイヤで、雨の日などは、線路上を走るとスリップはするし、中央通の真中にあった停車場に人が溢れ、車とギリギリぶつかりそうになったことも何度かありました。
戦後復興が一段落した商店街も、今とは隔世の感がありますし、ナショナルのイルミネーションが自信満々に鎮座していますが、ここは現在、三愛ビルです。空も明るく広く観ることが出来、住商一体となったビルも多かった時代の気配が記録されています。
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現在の銀座四丁目交差点、百年ほど前の写真です。服部時計店の擬洋風な姿が日本的でありますし、イギリス直輸入の路面電車が不思議と銀座街の環境と溶け合って、この町の優雅さがいっそう引き立っています。
電信柱も凄まじい様相ですが、この町の商売の景気のよさを現していますね。歩行者ものんびりしていた頃ですから、堂々と中央通を横断しています。
すでに多くの老舗が繁盛し、維新に乗じて京都から出店してきた店も多かったのですが、江戸っ子の店との折り合いも付かず、「東京」とは「京都の東」の意味とはしゃらくせえ・・・とばかり、徳川瓦解を嘆く江戸老舗の旦那の多くが「とうきょう」とは言わず、「とうけい」と言っていた時代です。この「とうけい」という言い方はあくまでローカルルールかと思っていたのですが、一部の外交公文書にもTOKYOではなくTOKEIと記載されていたようで、反維新派の小技な反抗というのも、なかなか腹の据わった手口をみせていました。 ついでに、銀座の大店の旦那衆はいまだにこの交差点を尾張町と呼び、日本の中心地点と誇りにしているのですが、実際は道路元標のある日本橋が日本の中心地点であります。しかし銀座の旦那のすごいところは、銀座尾張町が銀座の中心、銀座の中心は東京の中心、東京の中心は日本の中心という誇りをもっていることであります。
現在揺れ動く銀座の街並も気がかりではありますが、この発想の続く限り、クラシックな町は永遠なのであります。
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東京オリンピックでほぼ姿を消した代々木・ワシントンハイツですが、1949年の写真には、日本とアメリカの国力の差を見せ付けられたと言っていた父の友人の言葉どおり、子供の着ているものにもそれが見てとれます。久我山で生まれ育った私は何故か代々木方面に出かけることもなかったのですが、小学校高学年になってPXに納品していた会社の息子と野球チームで一緒になり、よく彼から大リーグの野球カードやしっかりした綿のT・Shirtsを貰いうけましたが、正に横流しの横流しであったわけです。下の写真を観てのとおり、広大なスケールが米軍家族のために開放され、代々木は米国といわれていたことが嘘ではなかったことを物語っています。
代々木公園・オリンピック競技場などが作られた今の姿からは想像もつかない素晴らしい居住空間であったのです。このまま、遺してくれれば、などと不遜なこともいいたくなるほどの超一等地であったことは、当然ですよね・・・。
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そうだった・・・、道は人のためだった・・・、ということをライブ感覚で記録した写真の撮影場所は、云わずと知れた九段坂です。
時は明治22年。
2月1日:東京・銀座に御木本幸吉が真珠店を開店。
6月:東京・浅草に三光堂が開店。初の蓄音機専門店。
などなど、外国のまねをしながら、日本人も新しいことの目白押しです。かたや九段坂では昔と変らず、しゃも料理を食べてこの急坂を上る前の腹ごしらえでもするのでしょう。左手の看板はたいそう繁盛していた店の気配が記録されています。まもなく此処を自動車が走り始め、無神経にも土埃を舞い上げつつ九段坂上まで一気に上るのを見ていた人力車夫が、いち早く商売替えを考え始めた時代です。
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1911年(明治44年)の馬場先門の北側から日比谷通りを撮影したものです。空の解放感が気持ちよいですし、学校に通う尋常小学校生徒の姿も初々しいですね。この界隈の写真は建物中心にたいへん多いのですが、この写真は時代の空気を感じ、私の知る中では一番の素晴らしい写真です。
丸の内が原と呼ばれた陸軍練兵場を払い下げで購入した三菱社の象徴のビル群が異彩を放っています。明治生命・東京商工会議所など設計したコンドル博士の好き放題、その後どんどんと倫敦化が進み、一丁倫敦と呼ばれる界隈となりました。日露戦争の勝利以降、馬場先門から鍛冶橋までは凱旋道路とも呼ばれ、様々なイベントも開催されて、多くの見物人で賑わったところです。
さて、ちょんまげ時代から44年、西南戦争から34年・・・、凄まじかったでしょうね、この界隈の変貌振りは・・・。維新前は徳川家に従順な家臣の上屋敷ばかりでしたが、そこに暮らした武士の多くは勝海舟のグッドアイディアで静岡でお茶の栽培を始めるなど、徳川瓦解と考える皆さんも、その時代転換に即対応し、柔軟な転向ぶりがみごとでありました。しかし、徳川家に仕えた家臣の家系の皆さんは、今でも東京會舘などを使うことがないそうであります。
一丁倫敦の推移
明治23年に陸軍省練兵場を購入した三菱社はジョサイア・コンドルの設計、曾禰達蔵の現場指揮の元、煉瓦組積造三階建で,明治27年(1894)三菱一号館が竣工、馬場先門前に明治28年(1895)三菱二号館が竣工,一号館の対面に明治29年(1895)三菱三号館が竣工した。
明治32年(1899)妻木 頼黄の設計により馬場先門前に東京商業会議所が竣工。
明治37年(1904)曾禰達蔵の設計により一号館に隣接して三菱四号館、翌年五号館が竣工する。
明治40年代になり保岡勝也の担当により十二号館、44年に十三号館が竣工して馬場先門通りに連なる[一丁倫敦]と言われる煉瓦街が完成した。
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