2009年10月25日 (日)

熱海・大火前の海岸通り

3 1950年(昭和25年)4月に二度に亘る火事によって熱海の町は773戸が焼失して、その後は観光の大衆化、高度成長時代を迎えて、高層ビルのホテル街となりましたが、この写真はその焼失する以前の堂々たる木造三階建ての旅館が海岸通りに向かって林立している様子です。

今や木造建築の凛とした姿を見かけることも少なくなり、ましてや新築の木の香りも清清しい情緒に浸るなどということも、遠い昔の話となってしまいました。

旅館でありながら、何となく艶っぽい遊郭建築の部分的片鱗もちらつかせ、熱海のもつ色っぽさもプレセールしているようであります。家族のどてら姿からしてまだ寒い時期とはやとちりしてしまいますが、旅館の軒下に連なる『熱海温泉桜祭り』の提灯が3月末から4月上旬を証明しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月23日 (金)

1966 駅傍の朝蕎麦・・・。

1966 写真 朝日新聞社

1960年代中頃、私の高校時代はまだまだ世間の眼が厳しく、吉祥寺駅の近くで腹ペコを補填するために、こっそり暖簾をくぐるなどということは・・・、ご法度でありましたが、下校後仲間とつるんでは、ハモニカ横丁にあった餃子の名店・石家荘に直行するのでした。

1966年、大学に入り、それも高尾に出来た大学に通うにはちょっと早めに起きなければならず、それまでの吉祥寺に通うリズムとはまったく変ってしまいました。殆ど、朝飯抜きで家を飛び出すような通学でしたから、その頃プラットホームに出来始めた立ち食い蕎麦屋に駆け込んでは、大好きなかき揚げ蕎麦を注文していました。当時は、良心的な店など少なく、かき揚げなどといってもほとんど天カスばかりで、わずかに見え隠れする桜海老の妖しげな桃色が、妙に青春の男心を善からぬ想像力へと駆り立てるのでありました。

その頃、立川駅の立ち食い蕎麦が絶品だ・・・、などという噂が仲間内から立ちあがり、単純な私はすぐさま行って味わいましたが、確かに、ダシ・蕎麦の風味・真心たっぷりな具のあれこれ・・・、これまでの駅蕎麦とは違うもので、それ以来、立川でほぼ毎日下車、夕食までの空腹を満たすために立ち寄ってしまうのでした。

上野駅で1966年に撮影されたこの写真を観ると、マイホームが通勤先から遠退いていった『ドーナッツ化現象』の風俗が記録されています。朝の二時間で500杯も売れ続けた、この店などは、笑いが止まらなかったでしょうが、やがて4年後にはファーストフーズの雄・マクドナルドが上陸。蕎麦屋しかなかったに等しい駅ナカにも選択肢の幅が徐々に広がっていき、食わせてやるという視線しか放たなかったこの手の業界にも、笑顔と真心さえもマニュアル化された、飲食サービスの黒船時代が到来してきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月26日 (土)

一億一丸!

Photo

写真:日本テレビ

何ごとも一億一丸となって・・・などというご時世はとっくの昔に消え去り、今では一億夫々がお好きなようにといった風潮が、各分野でも浸透してしまった感があります。

電車の中の携帯電話を押し続ける群集を見た友人のフランス人が「キモチワルーイ」と叫んだのにもうなづいてしまいますが、世間はまったくこの個人化していく兆候に意外と無関心のようです。

先日などはヘッドホーンでiPodを聴きながら、さらに何と!、携帯電話を見ながら逆走する自転車が,こちらに向かって来ましたから、さすがにこの時は私も車のウィンドゥを開けて、大声で怒鳴ってしまった次第です。

こと左様な勝手仕放題の状況なのですから、個々個人に対応する商品を作って売る立場の皆さんも、知恵の出し合いよりも知恵が枯渇してしまう段階なのかも知れません。

一つのモノが風俗にまで影響を与える携帯電話・音楽プレーヤーなどは、その英知と技術を個別対応機能に集中しているのですから、ICの果たした個別への技術の進化はまだ止まらないのでしょう。

昭和30年代のテレビの黎明期の街頭写真などを観ると、ただ懐かしさだけでなく、皆が共通の体験をしていることが後を引き、今でも集まれば他愛無いあの頃の話に花が咲くだけなのでしょうが、案外、鮮明な追憶として同時代性のもつ安堵感が、人生の潤滑役を果たしてくれたように思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

東京會舘・1950

Photo_2

Rimg1881 日比谷通りに面した東京會舘http://www.tcvb.or.jp/jp/tokyo_topics/pickup/0508/pickup_0508.htmlは1922年創業の格式の高い宴会場であり、連綿として三菱系企業御用達の頻度が極めて高い社交場でもあります。

1950年に撮影されたこの写真には今では観られない格調の高さが薫り、周辺の建造物にも三菱煉瓦街の余韻が垣間見れます。この車寄せの優雅なスロープも今はもうありませんし、ぐっと趣きの異なる鉄骨製のルーフも近代国家の象徴として創業当時は最先端感覚であったに違いありません。

その後、この界隈もご他聞にもれず、すっかり事務的で無機的な意匠の外観で占拠されてしまいましたが、此処に来て、三菱一号館が復活するなど、「壊さなければ良かったものを・・・」と残念がられた諸氏にも嬉しい話題が出て参りました。

小学校低学年の頃、父と日比谷の三信ビルに寄った帰り、この東京會舘のクッキーを買って貰い、子供ながらにその芳ばしさと触感に新しい世界が開かれたようでありました。今でもその味は変わることなくレシピも連綿として不変であります。又、『會舘フィズ』というミルク入りのジンフィズは、戦後、進駐軍将校のために作った飲物で、なかなかのお味・・・であります。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月 7日 (月)

1953年・丸の内

1953 今や、東京の先進的お洒落エスタブリッシュメントの街として定着した感のある、丸の内・丸ビルの56年前の姿であります。

この界隈は、三菱が国からの懇願で買い上げた結果、ひとつのポリシーで街並みが一定のテーストで守られてましたが、高さ制限は何時の間にやら規制緩和となって、今や空の視界が狭まってしまいました。

この写真を見ると、遠くの方で煙突から煙が出ていますが、此処は何処だったのでしょうか。今でしたら、大クレームにもなりかねないような煙ですが、この時代はまだまだ産業復興・振興の黎明期でもあって、多少の辛抱・我慢を強いられた頃でもありました。

この年・昭和28年、父に連れられ東海道本線で名古屋方面に行きましたが、ツバメ号機関車が、もくもくとした煙を上げて走っている様子が印象的でした。まだまだ町から煙やにおい・埃が流れ立ち込めていたていた時代であります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 2日 (水)

1956 東宝映画 子役オーディション模様

1956_01 1956年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1956.html

日活映画『太陽の季節』が公開された年の東宝砧撮影所、炎天下の様子です。

まだ、映画が娯楽の頂点であるものの、テレビの勢いがぐんぐんと迫り、NHKでは『チロリン村とクルミの木』という伝説的人気番組がスタートした年です。

いつの時代も変わらない母親の真剣な様子から見え隠れするのは、豊かな生活への憧れなのでしょうが、子役以上にめかしこんでいるその姿からは、あわよくば私も・・・などといった短絡的狙いもあったに違いありません。

ついでではありますが、右奥に見られる男子用簡易トイレの妙なモダンさに好感がもてますが、この状況で勇気をもって飛び込む現場スタッフも辛かったでしょうね・・・。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月28日 (金)

軽井沢・1945年

194508 太平洋戦争が終結してhttp://www.youtube.com/watch?v=qR6lstlAVbc&feature=related、その後の日本は良くも悪くもアメリカ中心の指導管理下によって、国のありようから教育まで自国のアイデンティティーを今も縛られているわけですが、終戦直後の8月中頃には、此処軽井沢は平和を謳歌する多国の人々が自転車を走らせて、自由の楽しさを満喫しています。

何しろ、戦時中でさえジャズの音楽がいたるところで流れていたと言われる軽井沢ですから、憲兵の監視体制も半端でなかったのでしょうが、いかんせん、軍人・政財界のお歴々のご家族も疎開していたわけですから、おいそれと軍靴で入る込むことも、出来にくかったのでしょう。そのくらい、コスモポリティックな地域であった軽井沢だからこそ、この楽天的な記録写真が、軽井沢のもつ時代感覚を事実として遺してくれたわけです。

軽井沢周辺は農作物にも恵まれていたことでしょうから、都心のような飢餓状態など考えられるわけなく、いたって、健康的なワンショットであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月31日 (金)

1971年 軽井沢銀座

197108_2 10 1971年の軽井沢銀座の様子ですが、あまり今と変わっていないようにも見えます。1960年代後半から1970年代前半まで、夏になれば、フォークソング・ブルーグラスミュージックのフェスティバルが軽井沢周辺で幾たびも開かれましたが、季節柄、雨・雷に見舞われ散々な目に遭ったことも数限りないのでありました。

この写真を観ると、買物に血眼でない長閑で優雅な避暑の気配が漂っています。この頃、旧軽井沢周辺には明治・大正・昭和の別荘が多く残っていて、その姿はまるでイギリスの田園建築そっくりのものが多く観られましたが、細部の建具などは地元の大工さんが知恵を絞って作ったに違いない純日本式な収まりでありました。今ではその数もすっかり減ってしまいましたが、よほどのメンテナンスが良いのか、まだ健在な山荘もあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月24日 (金)

ジャズシンガーの寛ぎ!

204_2 いまや武井義明という名前を憶えている人は、どれほどいるだろうか。
終戦の数年後、日本は時ならぬジャズ・ブームに沸いた。
 とくに都会人は、すっかりアメリカかぶれして、それに呼応するように進駐軍(のちに
 駐留軍)のキャンプまわりをしていた即席ジャズメンは、日本人向けの桧舞台にも躍り
 出て、人々はスターシンガーやスターバンドに群がった。
それも一段落した昭和三十年代の初め、なみいるジャズ・シンガーのなかで、ひときわ
 光彩を放っていたのが武井義明だ。
 折からジャズ専門誌の《スウィング・ジャーナル》が主宰する歌手ベストテンでは、こ
 の人が2、3年間にわたってトップに推されていた。
やがて各家庭にぼちぼちテレビが入り始めた。あのころはテレビという言い方はあまり
 せず、テレビジョンか、人によってはテレベーションとも言っていたっけ。
 人気番組は、なんといっても力道山が暴れまわるプロレスであり、ジャズの演奏を交え
 た洒落たコメディも台頭していた。

 このジャズ交じりの番組に颯爽と現れたのが、男の歌手では笈田敏夫、柳沢真一、黒田
 美治、旗照夫などのほか、日本に帰化したらしいジェームス繁田、ビンボー・ダナウな
 どであった。
 女ではナンシー梅木、ペギー葉山、マーサ三宅、丸山清子、新倉美子などに、未成年な
 がら江利チエミ、雪村いづみも登場していた。
 大学に入りたてのころのぼくにはよく分からなかったが、これらのジャズ歌手はどこで
 学んだのか、英語の歌詞を器用に唄いこなしていたように思えた。邦訳の歌詞を交える
 ことも多かったけれど。

 とにかく、そんな歌い手がジャズ界に勢揃いしているなかで、ぼくにとっては武井義明が
 断然、光り輝く大スターだった。
 ミュートをかけたような甘く優しい声といい、歌の躍動感といい、加えてソフィスティケー
 トされた容姿……。本人は高知県出身だそうだが。
 アメリカから来日中の女性歌手が「ヨシ、ヨシ」なんぞと呼んで、彼と親しく話していたこ
 ともあり、ちゃんと英語が話せるんだなあと感心もした。

 武井義明が得意なのは、「虹の彼方」や「国境の南」で、聴いていると、行ったこともな
 いアメリカの大地を彷彿とさせるようだった。
 そうだ、そんなジャズやポップスが荒波のように押し寄せてきたことによって、日本人の
 多くは、アメリカへの憧れを醸成していったのではないでしょうか。
 近年のようにアメリカが病める国だなんて思ってもいなかっただけに、かの国に純真な憧
 れを抱いていたのだろう。

 話は武井義明に戻るが、確か昭和も四十年代になってから、その姿や歌声が忽然と消えて
 しまった。
 ジャズ学校を設立したなんて噂を聞いたような気もするが、少なくともテレビではお目見え
 できなくなった。
 いったい、どうしたのだろうか?
 いまや、幻のジャズ・シンガーか。(栗田英二)

昭和30年代のジャズ隆盛期に図抜けた人気のあった武井義明はオールマイティーな歌手でしたが、その控えめな性格が裏目に出て、あっという間にテレビからも消えてしまいました。小学生の頃、武井の口笛を途中ではさんだ『誇り高き男』という映画の主題歌は、今も頭の奥に残っていて、ソフトな歌声に、子供ながら感心したものです。この写真は1950年代後半に赤坂・テキサスハウスという今で言えば億ションのような住いで寛いでいる武井義明です。方や、手前に居る笈田敏男夫妻は、長く現役を続けられましたが、その理由は歌の上手さ以上にお喋りであったといわれてますから、何事も一つだけ秀でていても世渡りは難しいのでしょうね・・・。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月23日 (木)

夏の漁港写真を観て思い出す。夏の学校

1962 1075195803 写真:宮本常一

宮本常一さんが撮影した、対馬鰐湾漁港の写真を観ていると、50年以上前の小学校・夏の学校の頃を思い出します。まるで、カンカン照りで、焼け付いた石畳でも裸足で駆けようものなら、あまりの熱さに飛びあがりそうな雰囲気まで写っていますし、わんわんと鳴り響く蝉の声が聴こえてきそうな写真です。

下の写真は1958年の岩井海岸での様子です。普段の学校生活から解放された明るさもありますが、当時はまだのびのびと生徒一人ひとりの特性を活かした教育をしていた雰囲気が、生徒の顔つきに表れています。

勿論、冷房などあるわけなく、夜ともなれば開けっ放しの宿舎には蛾やこうもりまで飛んでくるといった、スリリングな環境を体験できたことは、今もその鮮烈な記憶残像が残っていることからみて、少年時代のビッグイベントでありましたし、蚊帳の中で、就寝前の大はしゃぎとしての枕投げ戦争なども佳き思い出であります。

あまり水泳の得意でなかった私は、写真に写っている昼ご飯の後に発表される、クラス分けにドキドキしていたのです。というのも、殆どの水泳師範は大学のラグビー部の怖そうなお兄さんたちで、もう泳ぐ前から行きの列車の中で、「今度行く海岸には、鮫なども出るそうだから、そういった時のためにも褌をさっと解いて長く見せないとダメなのだ・・・」、などとひたすら恐怖感をあおるのでした。もし、得意でない私が思いがけず上級クラスなどにでも入ってしまったなら、「一番置いてきぼりにあって、後ろからサメが狙っているのでは・・・」、などと、そちらの想像力だけは達者でありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧