2009年8月 1日 (土)

デュフィの南仏

Dufy3 デュフィーのさらっと描いた軽いタッチのデッサンに近い画趣も、軽快な空気が部屋中に溢れてご機嫌なのですが、かたや、この画趣のような、絶妙な混色によるブルーを基調とした、深みのある一枚も捨てがたいのです。

こってりとした重ね色の効果は、下地の色を吸い上げて、単色では表せない、華麗な雰囲気を生み出します。デュフィは装飾画家としての経験の長さから、アート指向というよりも、グラフィック指向が強く、その、構成とアドリブに近い、コントラストのセンスは、今もって、光彩を放ち続けてくれます。

この画でいえば、右のパームツリーの葉に見られるインディゴ・ブルーのアレンジなどは、さしずめ『アドリブ王』の面目百花とでもいえるのでは・・・。

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2009年5月29日 (金)

Whole Earth Catalog

We_cat_11 Bluegrass401 人間というものはかくも勝手なものなのか・・・、と思いたくなるほっど、あれだけ使い捨て文化に慣れきったと思いきや、今や、一気に「もったいない」がステータスを勝ち取ってしまった昨今であります。

上の写真は秋山東一さんhttp://landship.sub.jp/stocktaking/に拠るものですが、私世代の上下にも生活価値観的に大きな影響力のあったWhole Earth Catalogであります。

これまでの権威・権力から離れた価値の世界を築こうという大義でまとめられたこの一冊には、1960年代後半から1970年代後半までの「自らこの地球上でどこでもいつでもだれでも自由に行動するためのノウハウと道具」が列挙されていて、この分類などはこの後の小売店舗のネタ本ともなったほど、画期的でありました。又、伊勢丹が70年代初期「人間の年」と謳った年間キャンペーンを打ち、「木綿と木」「こんにちは土曜日君」などの70年代を代表する生活主体の広告キャンペーンのコンセプト作りにも一役買ったのが、このWhole Earth Catalogなのでした。

一方、アメリカの東南部を中心とした地域で生まれた保守系の皆さんに愛されるブルーグラス・ミュージックも、1970年代中頃から守旧派の勢力から飛びぬけた過激な演奏者の台頭、サザンロックと称される分野との融合などで、田舎町のフェスティバルにもご覧のような都会の若者が押し寄せ、http://www.youtube.com/watch?v=FfPN1nDsyog 会場周辺は正に、映画・イージーライダーの最後のシーンのような南部魂のオヤジとの一触即発も少なくなかったそうです。(撮影・小森谷信治氏)

さて、今をときめくApple、Googleなどの誕生さえも、このカタログからインスパイアされた創業者があったからこそで、そういう意味ではこのカタログは20世紀を代表するバイブル中のバイブルなのであります。

このカタログはネットでも見られます。http://www.wholeearth.com/index.php

アップルの創業者、スティーブ・ジョブス氏の2005年6月12日、スタンフォード大学における名演説にもこのカタログからインスパイアされたと思われる箇所があります。http://homepage.mac.com/mkiyoshige1/iblog/B927194124/C922213363/E20050802113558/

この演説のYou Tube翻訳画像です。http://jp.youtube.com/watch?v=qQDBaTIjY3s&eurl=http://sago.livedoor.biz/archives/50248740.html

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2008年12月 4日 (木)

軽井沢・1930年

193008 昭和の時代の中でも、結果的には最悪の時代の黎明期であった1930年 http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1930.htmlの軽井沢の夏模様です。世界恐慌は1929年に始まり、巷は不景気の真っ只中でありましたが此処軽井沢はそんなこと関係なく、優雅なひとときを過ごす皆様で大混雑の様相です。何処かの小学生と思しき皆さんは、物珍しそうに街を散策しているようですし、荷物を運ぶ馬の様子はもう殆ど追分馬子歌といった長閑な気分です。

この少し前までは浅間根腰三宿(軽井沢・沓掛・追分)のひとつの宿場であった軽井沢も、明治維新以降すっかり廃れたものの、国道旧18号線の建設・碓氷新鉄道開通などと並行して、超スピードで洋風化の変身をいとも簡単に成し遂げるのであります。そこには勿論、軽井沢を故郷・スコットランドの風光と見立てた、宣教師ショウや建築家ボーリスの影響力もありましたが、それよりも地元村民の西欧の文化を採りいれる柔軟力に因るところが、大きかったようであります。

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2008年7月10日 (木)

1954年・パリ

1954_2 パリのアメリカ人という音楽があったように記憶していますが、これはずばり!パリのアメ車といったところでしょうか。

1950年代のアメ車は、よその国では思いもつかなかった発想・デザインを展開しましたが、その根っこはヨーロッパの車と異なり、その風俗性・通俗性が若い世代の気持ちを掴んだ点に格段の相違があったと思います。いい悪いは別として、車が若い感性の代表とされたのにも、この車のようなわくわくするような刺激が発散していたからでしょう。木目調などという、いい加減なものではなく、しっかりした厚板が貼りついていたこのような車を日比谷辺りで見た記憶がありますが、その巨大なボリュームには子供ながら圧倒されました。写真の奥に並んだ欧州車と比べてもその迫力たるや、圧倒的であります。

そrてにしても、このパリのお姐さんのの姿がたまりませんね。察するに、この年、1954年の映画『麗わしのサブリナ』 (http://www.geocities.co.jp/hollywood/5710/sabrina.html)のオードリー・ヘップバーンによって大流行したサブリナ・パンツがジーンズにも影響を与えた証でもあります。さらに右のお姐さんの頭など、もうヘップバーンそのままであります。

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2007年9月30日 (日)

1954年・パリ-2

1954_1 フランスのヌーヴェルヴァーグ映画が一気に開花する1950年代後半の画面を観ている錯覚におちいりますが、これはれっきとした街角のスナップ写真であります。

フランスの新しい映画の潮流が芽生えていったのには既に1950年代の始め頃から、既成の文化に飽き足りない10代・20代が跋扈していて、この時代・どこの国でも新しい風俗を先取りしていくのは、所謂、良家の子息・子女でしたから、どこか不良性と高雅性が両立していて、長閑な感じさえいたします。

車のことにはさほど詳しくありませんが、どうやら前が2輪、後ろが1輪のタイプのようです。二人縦列のドライブなどは、どんな気分だったのでしょうか、後ろの人がおしゃべりな性格ですと、後ろから喋り捲られ、運転にも集中できなかったことでしょう。カフェのお客も1950年代の雰囲気に溢れていて、街角スナップとしては出来過ぎの感さえあります。

こういうフランス的風俗文化は、日本ではほんの一部の麻布・飯倉あたりに集合離散していた戦前の旧華族の子弟が持ち込んでいましたが、多くの若者は圧倒的に、元気のあるアメリカの風俗・音楽・映画に憧れていました。それでも、この数年後に日本で大ブレークするIVY LOOKにしても、元はアメリカの東部の大学のキャンパス・ライフを参考としていたものの、やがてMr,VanとかEdwardsなどのパリ・ロンドンのポップ・カルチャーの影響を受けたファッションが台頭し始め、今日もその影響が、かたちは異なるもののきちんと受け継がれています。

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2007年8月15日 (水)

軽井沢便り・その五

193208写真:土屋写真店

すっかり日帰り観光客を相手の、物販店舗の道となってしまった、軽井沢銀座も1932年(昭和7年)の頃はご覧のような大人の避暑地でありました。

往来する人も避暑地に相応しい、ゆとりのある外国人ばかりですし、自転車を押している方の姿などはまるで、この30年後に観られるフランス映画のワンシーンのようなスタイリッシュな瞬間です。

この時代は、まだ観光の大衆化など考えられず、庶民はただひたすら汗にまみれ、働くのみでありました。

ところで、天明三年(1783)、浅間山の大噴火によって軽井沢一帯は一部に森を残すのみで、軽石層(溶岩)によってその殆どを覆われてしまい、大半の植物が死滅した原野となってしまいました。この状態は大正時代まで続いたそうですが、明治8年に鳥居義処が官有地の払い下げを受け二十町歩ほどの落葉松の植林を行ったことが現在の軽井沢開拓のスタートのようです。しかしその後、半田善次郎・野沢源次郎・堤康次郎となぜか次郎絡みの開発者らにより、軽井沢の周辺では開発が既に大正期よりじわじわと進行し、戦後それはさらに加速し、軽井沢の別荘地が大衆分譲化するのと並行して道路整備・店舗誘致にとめどなく予算を組んだ結果、今ではそのグレードレベル・規約にも凸凹が起きてしまい、規制も後手後手となり、歯止めの利かない景観破壊も起き、優雅な時代の薫りと訣別してしまったのでしょう・・・。

それでも、夏から秋にかけては巷間、『東京が移動した』と云われるとおり、100年近くある種のクラスにおいては毎日・毎晩、東京ではワイドショー程度の軽薄な話題となってしまった社交の宴が、ワイドショーレベルとは全く異なる世界の連帯と閨閥を保つために、連綿として繋がっているのであります・・・。

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2007年7月31日 (火)

1930年代の優雅さ

193501_1 すっかり見なくなった雑誌などを整理していると、思わぬ写真が出てくることがあって、捨てる前には必ず一度目を通すことにしています。

このメンズファッションの本は、ビニールで覆われていて、買う前に中身を見ることが出来なかったのですが、表紙の素晴らしさに負けて買ってしまったものです。内容は、20世紀の風俗写真が主ですから、時代考証を趣味としている人には、うってつけの一冊でしょう。20年ほど前に購入したもので、その後全然見ることもなく、今日まで、陽の目を見ることもなく来てしまいました。

改めて見ますと、全体が優雅な時代の優雅な人々に焦点を当てていますから、見るほうも羨望の眼差しとなります。

この写真、フランスの高級リゾート地・ドーヴィル( http://www.deauville.org/fr/ )のスナップで、1933年から1935年にかけてのものです。日本は暗黒の時代に突入する前夜の頃ですから、ずいぶんと開きがありますね。遊ぶために一生懸命働くという生活価値観のない日本人からしてみれば、遊び人は不良などと陰口を叩かれ続けられ、今日もその視線は不変ですから、結局、豊かな楽しい国には未だ、ほど遠いのかも知れません。

さて、続々とお洒落な商業施設が立ち上がっている東京ですが、モノの豊富さには脱帽いたすものの、残念ながら優雅な時間の過ごし方に関しては、江戸の昔に忘れてきてしまったようです。何か忙しない状況の中で、優雅な疑似体験だけをバーチャルに味わうのも如何なものかと、気付き始めてきた人が増えてきたように思います。

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2006年9月23日 (土)

サントロペ・1960

196001_1 196002_1 1950年代の終わりから1960年代のはじめにかけて、フランスの避暑地・サントロペは(http://www.geocities.jp/mistral83260/sttropez.html)夏のバカンスの頃ともなると映画・小説・絵画などのアーティストが集まっては、それはそれは今となっては羨ましい毎日が過ごせたという話です。フランソワーズ・サガン、ブリジッド・バルドー、ピカソ、ジョニー・アリデー・ルイデュフェネス・アランドロンなどの各界面々が集まって朝から深夜まで一緒に過ごす様子など、この頃の日本では考えられなかったのでしょうが、それでも戦前の軽井沢には似たような集まりがわずかの間ながら存在したそうですし、私が記憶している1960年代後半の旧軽井沢・水野などの店にはそのような気配が少しあったようです。

この1960年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1960.html)を中心とした時代は世界が大きく転換していくエンジンとなった年のようで芸術を中心とした文化面でも政治・社会面でも新旧交代のうねり現象が各国で見られたようです。とはいっても個人は極めて不安な存在ですからこのように集まっては、今で云う異業種交歓会を毎日開いて、喧々諤々と感性エネルギーの衝突を繰り返していたことでしょう。そういえば日本でも1985年から始まるバブルの頃、恵比寿にあった畳屋を某企画会社が買い取って大手企業から中小メーカー、それに各界の有識者、芸能人までも目ざとい連中が毎晩集まってはビジネス・エンターティメントの潮流を話し合い、おいしい話がないものかと飲み・喰い続けた場所もありましたが、サントロペの宴会はもっと純粋に、次の時代を引っ張っていく気迫と余裕が見てとれ、高い志の熱気が伝わってきます。

今では時代のエンジンたる若い世代が、「熱き思いを語るような集まりには参加すること自体が恥ずかしいことです」などと言って、携帯メール程度で他愛無い思いを打ち明けるのに精一杯のご時勢ですから、それから見れば45年ほど前は、どこも熱かったのですね・・・。

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2006年9月10日 (日)

テレビ黄金期!

写真:大竹省二104_2

今の若い皆さんにはお判りいただけないでしょうが、昭和30年代のテレビのもつエネルギーといったら、凄いものでしたし、まだビデオも発達していない頃でしたから、全てがやり直しの効かない状況で出演する者も観る者もかなり真剣勝負の感がありました。この時代はまだプロデューサーという職業は確立されていませんでしたが、井原忠高・三木トリローのお二人がテレビに与えた影響はたいへんだったようで,良識のあるバラエティー番組作りからちょっと大人の気配を匂わせる番組作りまで尽力された頃のお二人の苦労話は、抱腹絶倒だったそうです。

402250083201_ss500_sclzzzzzzz_v58523181_さて、この写真は大竹省二さんが昭和30年代に撮られた写真を元に永六輔さんとの対談をまとめた朝日新聞社刊「赤坂檜町・テキサスハウス」の中に登場する小島正雄さん(左・1914~1968)・三木鮎郎さん(右・1924~1997)の写真です。赤坂檜町、乃木會館近くにあったテキサスハウスという、今で云う億ションにはその時代の寵児が多く住んでおられ、その一室で寛いでいる様子ですが、このお二人もテレビの一時代を担った代表格です。小島さんは、ビッグバンド・ブルーコーツのバンドマスターとして、又ジャズ評論家のキャリアを音楽番組の司会と制作に注ぎ込み、あの「ダークダックス」「スリー・グレイセス」を世に出された方です。小島さんの江戸前の切れ味のよい解説と品のよい風貌は多くの良識ある家庭に支持されました。一方、三木さんもコマーシャルソングの天才・三木トリローさんの実弟で映画脚本家からスタートし、その後長寿番組「スター千一夜」の司会を務め、そのゲストに対する気配りと質問の按配が今日でもテレビ・インタビューにおける品格の高さの典型として語り継がれているそうです。

この時代は、映画からテレビに娯楽の主役の座が変わり始め、テレビ界に優秀な人材が流れ始めましたが、了見の狭い映画屋のみなさんは自分たちのプライドを捨てきれず、じっと耐えていた時代でもありますが、その後の勢いにはもう逆らうことは出来ませんでした。

若い頃から苦労を重ねながらも、生活を遊ぶ・楽しむ余裕をもち合わせていたご両人の影響があったのかは分かりませんが、その後、各テレビ局に大人の品格にあふれた番組が増えていったのも偶然ではなさそうな気がいたします。。

小島正雄さんについて息子さんのサイトがあります( http://www.ozsons.com/KojimaMasao/ )

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2006年6月 7日 (水)

大佛次郎好みとは!

101_17 写真・大佛次郎記念館蔵

大佛 次郎(おさらぎ じろう)、男性、1897年(明治30年)10月9日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の作家・小説家。『鞍馬天狗』シリーズの作者として有名で、そのほか現代小説や歴史小説などを幅広く手がけた。本名は、野尻清彦。東京帝国大学政治学科を卒業後、鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院高等学校)教師となった。ついで外務省嘱託となり、この時代に小説を書き始め、退職して小説家の道に進んだ。娯楽雑誌『ポケット』に事実上のデビュー作となる小説「隼の源次」を発表するときに「大仏次郎」の筆名を使い、以後この名前で著述活動をおこなった。この筆名の由来は、執筆当時、鎌倉の大仏の裏手に住んでいたことからだという。生地に近い港の見える丘公園に「大佛次郎記念館」がある。1964年文化勲章受賞

この写真、小説・鞍馬天狗をヒットさせ、夫人と横浜・ホテルニューグランドの屋上で午後の紅茶を楽しんでいる大佛次郎、1933年の撮影です。素敵な大人の雰囲気が伝わってきますし、気持ちのよい光と風が二人を取り巻いているようです。大佛次郎はこのホテルがお気に入りで旧館318号室は10年もの間、彼の執筆場所であり、今日でも『天狗の間』と呼ばれ、残されています。

撮影された1933年は、ドイツでヒットラーが政権を掌握し、日本も国際連盟を脱退し、軍部の台頭、治安維持法の強化など、結果として暗い昭和史の中核となる年でもあります。こんな情勢の中でしばしの楽しい時間を楽しんでいる二人の姿は、やって来る暗い出来事の時代が目前なだけに、なにか微笑ましい感さえします。

なお、現在、大佛次郎私邸は『大佛茶廊』として週末だけカフェとして開放されています。

『大佛茶廊』 (http://www.1938.jp/osaragi/

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