2011年9月10日 (土)

1910年 内幸町から新橋方面。

43 以前のブログに載せた絵葉書と逆のアングルから撮影した写真がありました。現在の景色しか頭にありませんでしたが、いやあ、美しい町並みの中を、西欧化の象徴・鉄道が走っています。モノトーンなだけに観る側の想像力が試されるような写真ですね。土橋に向う川は御濠で今は埋め立てられ東京高速道路が塞いでいて、高架下はコリドー街となっています。中央が山下橋で右に行けば帝国ホテルです。

たった百年前の明治43年、団塊世代の生まれ始めた36年前ですよ・・・。

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さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年2月16日 (水)

辻まことが石の湯の主を描く

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桃源郷のようなスキー場だった志賀高原・石の湯スキー場はリフトの設置も遅く、私が初めて訪れた1964年頃は、すべて徒歩でなくては何ごとも始まらず、そのおかげで足腰の鍛錬は人一倍させていただきました。

ゲレンデは自然の丘陵を活かし、丸池のようなきれいなゲレンデではなかったものの、冬以外に、夏も秋も志賀の自然を満喫できる草木の生い茂る山でありました。

このゲレンデを取り仕切っていたのがヤマウラ・タカアキさん。スキー学校で教わった技術をことごとくけなしては、「山のスキーはそんなに甘いもんじゃねえ」と一喝され、翌日の早朝、深雪のパウダースノーの中を自由自在に泳ぐように滑りまくるのを、石の湯ロッジのベランダから見ていました。得意そうにゲレンデから帰ってくると「どんなもんじゃい」と言わんばかりの、やんちゃな小父さんでありました。

辻まことさんがヤマウラ・タカアキさんを描いた一枚には、その深雪を泳ぐように滑る感じがよく捉えられています。やや北斜面な石の湯ゲレンデの立地も影響あるのですが、粉雪は本当に粉のようで、スキーシーズンを通し、よほどの強風悪天候以外、セーター一枚で快適でありました。

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2010年11月 8日 (月)

辻まことのデザインによる、石の湯リフトのスタッフ用ワッペン

Rimg0443_2 18_b01 1960年代から1980年代まで、スキーのいろはから洒落た自由時間の過ごし方までを教わった志賀高原・石の湯スキー場は、奥まった処にあったのが幸いして、うるさい音楽も流れず、不味いのに値段だけはホテル並みといった他所のゲレンデのような食事もなく、石の湯ロッジという小さいながら、洒落っ気と料理だけは飛びっきりという山荘があったからこそ、優雅なひと時を過ごせたのかも知れません。

現在、スキー場はありませんが散策には最高の場所であることには変わりませんし、特に春と秋のシーズンは素晴らしい景観の中に浸り、しばし、俗界の戯言とは無縁の境地になれます。

さて、1960年代後半にようやく石の湯スキー場にリフトが出来、これでボーゲンでの登りの繰り返しでへこたれていた軟弱な都会の若者も、ほっと胸をなでおろしたのであります。そのリフトを管理・運営するリフト会社のスタッフが身につけていたジャンパーに付けられたのが、辻まことさんデザインのワッペンです。グレーのメルトン生地に刺繍されたロゴは辻さん好みのもので、当時、私も何とかして手に入れたかったものでしたが叶うことはできませんでした。ロゴの配色はこのパターン以外もあり、その自由な感覚は正に、辻さんの真骨頂でもありましたし、御茶ノ水・秀山荘のスポンサー名が入ってますから、このワッペンに掛かる経費は無論のこと、リフト会社への出資も、辻さんから秀山荘の社長に直談判したかも知れません。

このワッペンの実物は石の湯ホテル http://www.shigakogen.jp/ishi-h/ に飾ってあります。

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2007年4月 7日 (土)

辻まことが歌う!

02_6 辻まことさんは、山小屋だけでなく、こんな東京のど真ん中、共立講堂でも聴衆を魅了したのであります。43年前、日本の代表的詩壇・歴程のフェスティバルのスナップであります。この写真を撮影された内田耕作氏が自ら紙焼きされたのを、その昔いただくこととなり今も大切にしてあります。

私はこの頃から辻さんのスキーを直伝で教わることとなり、志賀高原を中心に現場実施訓練の日々を過ごしましたから、その技法・滑降法は日本スキー連盟の指導法とはかけ離れたもので、辻さんはエミール・アレ直伝のフレンチ・メソッドでありました。独特の回転技術をまだ17歳頃の若造などが、身につけられるものでは、ありませんでしたが「いつか、突然、きれいにすべれるから、心配しないように・・・」とその優しい笑顔で言われると、頷くほかありませんでした。

ギターをもって歌う歌もシャンソン・カゥボーイソングと幅広かったのですが、この頃私はフォークソング・ブルーグラスミュージックにはまりだした頃でしたから、特に辻さんの歌う「On Top of Old Smoky」「Red River Valley」等、カントリー・カゥボーイソングに聞きほれていました。ウィスキーを横に置いて歌う穏やかなその姿からは、志賀高原のスキー特訓のときの厳しい顔つきなどとは違い、町場を遊ぶ高等遊民のようなコスモポリタンがぴったりであります。

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2007年2月23日 (金)

辻まこと・ムササビ射ちの夜!

201_37 1971年に東京新聞出版局から刊行された、辻まことさん(1914-1975)の『画文集・山の声』は、辻まことさんの魅力が凝縮された一冊で、春夏秋冬の日本の里山を含め見事な景観表現と、人間観察の鋭い文体がみごとで、私の愛読書の頂点であります。

 辻まことさんは「ヒマラヤ」よりむしろ「ウラヤマ」を愛した方で、その独特のエスプリとユーモア・そして厳しい文明批評・社会風刺をソフトに、しかもモダンボーイのスタンスを保ちながら、さらっと表現され、今日も多くの熱狂的なファン( http://www.ricecurry.jp/ が信奉者として増殖しています。

ホルベインの不透明水彩を使って描かれたこの一枚も『画文集・山の声』の中のエッセイ「ムササビ射ちの夜」に登場する絵ですが、思い切ったライト・ブルーとイエロー・オーカーの補色の対比が鮮やかで、外の寒さと炉辺の焔に囲まれた暖かさを象徴的に表現しています。こういう、思い切った表現というものは、実学に基づいた経験がたっぷりと脳内に蓄積されていたからこそ、表せるのでしょう。ところで、この山小屋はどう見ても志賀高原・石の湯山荘をベースに描かれたとしか思えないのですが、未だにはっきりとしたことは、分かっておりません。私がスキーの虜となって以来、さんざん押しかけてご迷惑をお掛けした石の湯ロッジの川下にあったこの山荘は、まさにこのような入口でした。時々遊びに行っては、パラレルスキー学校の平沢校長と与太話などさせて貰っていたことなど、外の吹雪を見ながら、隙間風の入り込む部屋で温かいスープを戴きながらの至福の時を、青春時代に味わえただけでも、私は幸せであります・・・。

『この絵の印象に近い辻まことの一文として』

・・炉辺というのは不思議なものだ。炉を囲んで焔を見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。反対にまた乾いた喉に渋茶がそそがれ、あるいは盆代わりの茶碗が回り、誰かが賑やかにしゃべりはじめても、そう邪魔にならないだろう。相槌を打っても打たなくてもいいのだ。語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を濾してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。
(『山の声』あとがきより)

『辻まこと自身による略歴』

一九一四年東京に生れ、父系は三代以上の江戸ッ子だったが、母系は九州福岡在で、小生で半分熊襲の血が混った感じになる。

 中学に入った頃から画描きになりたくなり、中途退学してヨーロッパに連れていってもらったが、ルーヴル美術館を一カ月拝観するに及んで、すっかり絶望して、画描きをやめるつもりになり、毎日フラフラと暮す。どういうものかドラクロワから受けた打撃をいちばんひどく感じた。日本へ帰る気もなかったが、ある日詩人の竹中郁、小磯良平などの先輩から、モンパルナスのクーポールで一時間も意見されたのがこたえて日本へ帰ったが、これで他人の意見などきくものでないという教訓を得た。

 帰国以来、ペンキ屋、図案屋、化粧品屋、喫茶店など転々として、最後に竹久不二彦(夢二画伯の次男)、福田了三(徳三博士の息子)両君の驥尾に附して金鉱探しに夢中となって東北信越の山山を駆けめぐったが、あまり成績はあがらなかった。結婚したりして少し熱がさめた頃から戦争がひどくなり、配給と隣組がいやで新聞記者になって一家をあげて天津に逃げだした。

 十八年の未に陸軍報道班員を失職して青島へ行き、当時製鉄所の副所長だった赤堀英三博士の食客となって、考古学の澄田氏という人と三人で山東省の発掘でもやろうといって計画をたてているうちに兵隊にとられ、冀東の山中で終戦となり、二十三年なんとか引揚げ、以来なんとなく画描きに近い職業で暮して現在に到った次第である。

 スポーツは山登りとスキーをやる。音楽はなんでも好きだが、楽器としてはフルートとギターがいい。酒もなんでも飲むが、ウィスキーがいちばんうまい。ギャムブルは全く興味がない。

 家庭は妻と一年半の娘との三人碁しである。(1956年・美術批評)

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