2007年4月 7日 (土)

辻まことが歌う!

02_6 辻まことさんは、山小屋だけでなく、こんな東京のど真ん中、共立講堂でも聴衆を魅了したのであります。43年前、日本の代表的詩壇・歴程のフェスティバルのスナップであります。この写真を撮影された内田耕作氏が自ら紙焼きされたのを、その昔いただくこととなり今も大切にしてあります。

私はこの頃から辻さんのスキーを直伝で教わることとなり、志賀高原を中心に現場実施訓練の日々を過ごしましたから、その技法・滑降法は日本スキー連盟の指導法とはかけ離れたもので、辻さんはエミール・アレ直伝のフレンチ・メソッドでありました。独特の回転技術をまだ17歳頃の若造などが、身につけられるものでは、ありませんでしたが「いつか、突然、きれいにすべれるから、心配しないように・・・」とその優しい笑顔で言われると、頷くほかありませんでした。

ギターをもって歌う歌もシャンソン・カゥボーイソングと幅広かったのですが、この頃私はフォークソング・ブルーグラスミュージックにはまりだした頃でしたから、特に辻さんの歌う「On Top of Old Smoky」「Red River Valley」等、カントリー・カゥボーイソングに聞きほれていました。ウィスキーを横に置いて歌う穏やかなその姿からは、志賀高原のスキー特訓のときの厳しい顔つきなどとは違い、町場を遊ぶ高等遊民のようなコスモポリタンがぴったりであります。

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2007年2月23日 (金)

辻まこと・ムササビ射ちの夜!

201_37 1971年に東京新聞出版局から刊行された、辻まことさん(1914-1975)の『画文集・山の声』は、辻まことさんの魅力が凝縮された一冊で、春夏秋冬の日本の里山を含め見事な景観表現と、人間観察の鋭い文体がみごとで、私の愛読書の頂点であります。

 辻まことさんは「ヒマラヤ」よりむしろ「ウラヤマ」を愛した方で、その独特のエスプリとユーモア・そして厳しい文明批評・社会風刺をソフトに、しかもモダンボーイのスタンスを保ちながら、さらっと表現され、今日も多くの熱狂的なファン( http://www.ricecurry.jp/ が信奉者として増殖しています。

ホルベインの不透明水彩を使って描かれたこの一枚も『画文集・山の声』の中のエッセイ「ムササビ射ちの夜」に登場する絵ですが、思い切ったライト・ブルーとイエロー・オーカーの補色の対比が鮮やかで、外の寒さと炉辺の焔に囲まれた暖かさを象徴的に表現しています。こういう、思い切った表現というものは、実学に基づいた経験がたっぷりと脳内に蓄積されていたからこそ、表せるのでしょう。ところで、この山小屋はどう見ても志賀高原・石の湯山荘をベースに描かれたとしか思えないのですが、未だにはっきりとしたことは、分かっておりません。私がスキーの虜となって以来、さんざん押しかけてご迷惑をお掛けした石の湯ロッジの川下にあったこの山荘は、まさにこのような入口でした。時々遊びに行っては、パラレルスキー学校の平沢校長と与太話などさせて貰っていたことなど、外の吹雪を見ながら、隙間風の入り込む部屋で温かいスープを戴きながらの至福の時を、青春時代に味わえただけでも、私は幸せであります・・・。

『この絵の印象に近い辻まことの一文として』

・・炉辺というのは不思議なものだ。炉を囲んで焔を見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。反対にまた乾いた喉に渋茶がそそがれ、あるいは盆代わりの茶碗が回り、誰かが賑やかにしゃべりはじめても、そう邪魔にならないだろう。相槌を打っても打たなくてもいいのだ。語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を濾してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。
(『山の声』あとがきより)

『辻まこと自身による略歴』

一九一四年東京に生れ、父系は三代以上の江戸ッ子だったが、母系は九州福岡在で、小生で半分熊襲の血が混った感じになる。

 中学に入った頃から画描きになりたくなり、中途退学してヨーロッパに連れていってもらったが、ルーヴル美術館を一カ月拝観するに及んで、すっかり絶望して、画描きをやめるつもりになり、毎日フラフラと暮す。どういうものかドラクロワから受けた打撃をいちばんひどく感じた。日本へ帰る気もなかったが、ある日詩人の竹中郁、小磯良平などの先輩から、モンパルナスのクーポールで一時間も意見されたのがこたえて日本へ帰ったが、これで他人の意見などきくものでないという教訓を得た。

 帰国以来、ペンキ屋、図案屋、化粧品屋、喫茶店など転々として、最後に竹久不二彦(夢二画伯の次男)、福田了三(徳三博士の息子)両君の驥尾に附して金鉱探しに夢中となって東北信越の山山を駆けめぐったが、あまり成績はあがらなかった。結婚したりして少し熱がさめた頃から戦争がひどくなり、配給と隣組がいやで新聞記者になって一家をあげて天津に逃げだした。

 十八年の未に陸軍報道班員を失職して青島へ行き、当時製鉄所の副所長だった赤堀英三博士の食客となって、考古学の澄田氏という人と三人で山東省の発掘でもやろうといって計画をたてているうちに兵隊にとられ、冀東の山中で終戦となり、二十三年なんとか引揚げ、以来なんとなく画描きに近い職業で暮して現在に到った次第である。

 スポーツは山登りとスキーをやる。音楽はなんでも好きだが、楽器としてはフルートとギターがいい。酒もなんでも飲むが、ウィスキーがいちばんうまい。ギャムブルは全く興味がない。

 家庭は妻と一年半の娘との三人碁しである。(1956年・美術批評)

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2006年12月28日 (木)

辻まと・石の湯ロッジ、幻のアトリエ

07a01_1 スキー場の夜の過し方は、40年ほど前ですと、酒を飲むか、スキーに関する最新技術の話やら、山の怖いほら話を地元の兵から聞くくらいしかなく、それはそれで毎晩がわくわくした、楽しいものでありました。その頃、入り浸っていた志賀高原・石の湯ロッジでも、食事が終わると同時に暖炉を囲んでのスキー談話が始まりるやいなや、ロッジの親方・山浦さんの強烈な志賀訛りで一人ひとりの滑り方に対する辛らつなコメントが飛びまくり、純情な都会の青年たち201_33は、傷ついて立ち直れない状況に追い込まれたこと、度々でありました。それでも他所には見られないロッジの温かい雰囲気と、なぜか都会的に洗練された先輩が多く、その中には後に加山雄三という名前で活躍する、やんちゃな先輩もおりました。

さて、このスケッチですが、辻まことさんが実現させようとしていた石の湯ロッジのアトリエの完成予想図であります。スキー場の夜の過し方としても、こんなアトリエでスキーを修理したり、ある人は絵を描いたり、又、ある人は楽器を弾いたりなどと、夜な夜な楽しい時の流れもが目に浮かぶ、辻さんらしい細かいところにも手が込んでいるスケッチです。石の湯ホテル( http://www.shigakogen.jp/ishi-h/ )の前原 治さんから以前送られてきたものですが、時々眺めては、いつか家の中にもこのような「男のたまり場」を作りたくなってしまいます。完成した暁には、私の仲間(どうしても家族から邪魔者扱いされがちなブルーグラス・ミュージックのお好きな方々)が、駆け込み寺のように毎週末、酒を持参で集まって来そうであります。

辻まことさんのシンプルな水彩スケッチですが、男なら『グッと来る何か』がこの絵には潜んでいます。

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2006年10月18日 (水)

辻まこと・ご一行の山越え

4_1 40年程前、志賀高原・石の湯ロッジで紹介され、その後スキーはもとより最近ではブルーグラス・ミュージックにも楽しみを見出され、時々ライブなどで同席される清水宏さんから珍しい写真を送っていただきました。

1967年の春頃と思われますが、石の湯ゲレンデから鉢山ツアーに出かけた時のスナップです。右から2番目が辻まことさん・右から3番目が洋画家の笠木實さんです。その他の3名はT.R.C・K.S.Gのスキークラブの皆さんです。

両スキークラブともに石の湯スキー場が本拠地のようなクラブで、とくにK.S.Gは笠木スキークラブの略称でもあり、笠木實さんは画家として後身の指導にあたる傍ら、スキーシーズンともなると若い画家を育てるが如く、厳しいなかにも優しさのあふれたスキー指導で多くの後輩をスキーのみならず、山の楽しみ・人生の奥深さをも教えていただきました。

めったにあることではありませんでしたが、辻さん・笠木さんがご一緒の時ともなると、石の湯ロッジのアフター・スキーは一介の山小屋ながら、至福のひと時ともいえる明るく歌声・笑い声に満ちた宴となるのでした。この貴重な体験を経た多くのご同輩は、その後も人生を楽しむなんらかの示唆を会得したかのように、各分野でのびのびと羽ばたいていったのであります。

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2006年8月13日 (日)

初代・石の湯ロッジの姿

A01 B01 C01 D01 辻まことさんに、はじめて山スキーの楽しさを教えてもらったスキー場の宿であり、その後10年間スキークラブでお世話になった志賀高原・石の湯ロッジが1962年に火事になる以前の写真を、運営する株式会社・スポーツサービスの内田昇次さんよりお送りいただきました。このサイトを見ていただいている、昔のスキー仲間・清水さんのご尽力で実現したものです。永い間、初代・石の湯ロッジの写真は残っていないという噂でしたが、やはり存在していました。もう44年前の写真ですが、当時の世の中は今ほど余暇を楽しむ生活価値観が浸透していない時代ですから、たいへんお洒落だった様子がうかがえます。

私が初代・石の湯ロッジを記憶しているのは、中学時代、初めてのスキー学校で連れて行かれたのが、同じ地域にある石の湯山荘というひなびた所で、そこから見えた石の湯ロッジが真っ赤な外壁でモダンに感じ、たいへん印象深かったからです。猪谷千春さんの父君である、猪谷六合雄さんの指導で初めてのスキー学校体験をしましたが、後に猪谷六合雄さんがスキーを独自に研究して息子の千春さんを1956年、コルチナダンペッツオ・オリンピックで銀メダルに導いた、偉大な方であることを知りましたし、スキー以外にも、生活道具の殆ど(家から毛糸の靴下まで)を自分の独創性を以って作りだす達人であったことも知りました。猪谷六合雄―人間の原型・合理主義自然人

この初めての石の湯スキー体験の翌年には火事が起きてしまいました。そして1965年に辻まことさんに連れられて来たのも、この石の湯スキー場でしたが、当時は火事になったことなども知らず、又、偶然にも此処に来られたことに対し、不思議な因縁と思わざるを得ませんでした。

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2006年8月 3日 (木)

歌う!辻まこと

02_2 03_1 私が青春時代に入り浸っていた、志賀高原・石の湯ロッジから珍しい写真が、送られてきました。1965年前後と思われますが、石の湯ロッジにフランス・スキーのエキスパート、ミシェールが遊びに来て、その夜、歓迎の宴が盛り上がっている場面です。左のギターを抱えているのが、私に山スキーの面白さを伝授してくれた辻まことさんです。子供の頃、父親のダダイスト・辻潤と一緒にフランスに暮らしたこともあって、この場面は賑やかなシャンソンでも歌っている様です。辻さんは、シャンソン以外にもカーボーイソングも見事な歌いっぷりで、周りの仲間を楽しい雰囲気にもっていく達人でした。後ろの女性がいかにも楽しそうに和んでいるのを見ても、この場面が相当な盛り上がりであることが、伝わってきます。

石の湯ロッジは、他のスキー場のような賑やかな所にあるロッジではなく山奥の桃源郷のような所で、夜ともなると食事以外何の楽しみも無い為、自分たちで楽しむ術を身につけていきましたので、毎晩夕食あとの宴会は他所ではみられないほどの解放感・充実感にあふれたものでした。私が所属していたスキークラブの池田雅彦さんがブルーグラス・ミュージックやチェットアトキンスばりのスリーフィンガー・ピッキングを聴かせてくれたのも、佳き思い出です。池田さんは、現在ユニバーサルミュージックにおいて、WaTをプロデュースされています。 http://www.universal-music.co.jp/wat/

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2006年6月13日 (火)

辻まことの洒落っ気!

01_13 写真・笠木實

辻まことさん、1940年(昭和15年)の風貌です。この写真は親友である笠木實氏が、辻さんと一緒に妙高高原で開催された大回転競技に参加したあとに撮影された貴重な一枚です。笠木さんは画家であり画壇・春陽会の会員として永い間、武蔵野美術大学で後身の指導に携われましたが、その一方スキーの達人として、笠木スキースクールを主宰し、多くの子弟を育て上げ、その多くは社会的にも立派な方と成られました。恥ずかしながら、私も10代後半から20代中頃まで、その末席に座る光栄に授かることとなりました。

撮影された1940年は辻まこと27歳で、前年には武林無想庵の娘イヴォンヌと結婚して長女ノブが誕生した時です。この少し前、1937年頃から金鉱探しに夢中となり東北・上信越の山々を歩き廻っていました。辻まことはこのことにより、後に人が体験し得ない財産を身につけることとなります。それはずばり、登山技術でした。人の入らない道・岩場・沢を実施訓練のごとく日々金脈探しに没頭してたようですから、それによって習得した技術の幅広さと応用力の深さは、後に笠木實さんと同様に多くの山仲間・スキー仲間の棟梁的立場として、多くの人を魅了していきます。

それにしても、今から66年も昔に、こんな恰好だったとは・・・、完璧な今風ファッション・スタイルの見本のようです。今の時代は何でもありですが、1940年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1940.html)の日本はと云えば軍靴の足音が響き渡る頃でもあり、国民が日常生活に辛抱を強いられた最中ですから、勇気のあるスタイルですね。何といっても仕立ての良さそうなダブルのブレザーとさりげなく巻いたニットのようなマフラー、それと当時のスキー靴と思われるものの組合せが、辻まこと独特のコスモポリタンな雰囲気を十二分に発揮しています。

話は少し飛躍しますが、1967年頃、辻さんの跡を追いかけて山スキーで鍛えられた時も、山腹で一服した際、辻さんのリュックサックの中から、シェリー酒とワイングラスが登場したのにも驚きました。こういう洒落っ気を生活のなかに上手に差し込むセンスの影響は、その後、私の生活にしっかりと根を生やしてしまいました。

参考文献:『山と渓谷』・1987・12月号(特集=辻まことの世界)

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2006年6月12日 (月)

辻まことのリアリズム!

101_18 石の湯ホテル蔵

辻まことさんの画やちょっとした挿絵に独特のリアリティーがあるとすれば、それは実践と体験に裏打ちされた体感に基づく記憶が、臨場感を増幅させてくれるからでは、ないでしょうか。

この挿絵は1971年、東京新聞出版局から発行された『画文集・山の声』の中、「森で」というエッセーに登場する一枚です。辻さんの好きなセルリアン・ブルーを主色とした洒落た色彩で、ガッシュで一気に描きあげた勢いを感じとることのできる秀作です。辻さん自身は、特別自分の職業というものに固執しない人でしたから、いつでも自由に風のように、流れに逆らわず明るく生きていました。この絵にもその気分がよく表現されていると思います。

この絵が描かれた1971年頃、私は辻さんにスキーをみっちり鍛えられ、志賀高原を中心に山スキー系のスキー技術を習得していました。この絵には視線位置にも遠近感にも大迫力がありますし、山に入った者だけが解る静けさと明るさが同居しています。今でも『画文集・山の声』のページをめくりこの絵を見ると、辻さんに教わりながら汗だくで登った、横手山の山腹の急斜面を思い出します。

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2006年5月 6日 (土)

辻まことの広告画文

101_10 日本の山登り・スキーの店として頂点にあった八重洲・秀山荘は、私が学生の頃アルバイトしていた銀座店の元締めであり、世界最高の品物が極めて狭い店内に所狭しと乱雑に置かれていました。創業者の三浦健二朗さんのカリスマ性を慕い、多くのアルピニスト・大学山岳部部員が店員となっており、その品物を親身になって説明する堅実な態度は実学に基づくため、陰りのない潔癖性に裏打ちされてました。1964年、初めてここに辻まことさんに連れられてこられた私は、それまで見たことの無い世界でしたから、ひとつひとつの曰くありげな靴・ピッケル・スキー・ザック類を見廻すのが精一杯でした。辻まことさんはその頃、この店の奥で居候状態の生活をされてたようで、この画像は辻まことさんの当時の八重洲・秀山荘広告画文です。辻さん自身が山・スキーの達人でしたから、コピーに秘められたスキーヤー・山屋独特の人間洞察の深い意味・皮肉を解読するのも面白く、広告が掲載された雑誌『岳人』を毎号見るのが愉しみでした。

実は、この画像、『辻まこと・山とスキーの広告画文集』という本の中の一ページです。この本は、八重洲・秀山荘創業30周年記念として、1981年に関係者に配られた本で一般に刊行された類では、ありません。この画像以外にも辻まこと独特の風刺とユーモアに溢れた、文体と戯画が満載されています。又、秀山荘に関わられた各界著名人のエッセイも楽しく、どちらかの古書店で奇跡的に発見されたならば、多少の無理を承知でも、お買い上げ下さい。

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2006年4月18日 (火)

石の湯ロッジのお宝!

0401 私が10代半ばから20代後半までスキー・夏山とお世話になった志賀高原・石の湯ロッジは周りの山荘より抜きん出た、都会的洗練さにあふれた所でした。ゲレンデ自体もさほど広くなく、基礎スキーを練習するにはもってこいのゲレンデでした。私が記憶する石の湯ロッジは1962年前後、火事で焼失し、建替えられますが、上の画像は焼失前の姿をとどめる貴重な版画です。焼失前の現存する写真を関係筋に当たっているのですが、現在まだ見つかっていません0101_3ので、この版画が今のところ唯一のものです。モダーンなコルビジェ風の建物だった様子が、この版画からも伺えますし、雪景色に眩しい赤い壁は、今でも鮮烈に記憶しています。実は、この版画、現・石の湯ホテル(www.shigakogen.jp/ishi-h)

のオーナー・前原治さんから送っていただいたもので、ご自身が1962年頃作られた作品です。同じ、前原治さんから送られた下の画像は「辻まことさん」が描いた石の湯ロッジのマッチ・ラベルです。辻さんのイラストと、洒脱なコピーが、石の湯ロッジが只者でなかったことを証明しています。辻さんの傑作とも云われている、山岳雑誌「岳人」に掲載された秀山荘の広告画文と双璧ともいえる出来具合です。

また先日、前原治さんから最近の石の湯ゲレンデの写真が送られてきました。もう30年近く行ってませんが、当時と全く変わらないゲレンデの様子が蘇ってきます。1201緩斜面の真ん中右辺りに、荷物をまとめて置いたり、集合場所としてのランドマーク として重宝した白樺の木がこの写真からも見ることができます。

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