2009年12月25日 (金)

1962 遠泳 大瀬崎

196201 中学3年の大瀬崎・夏の学校のハイライト、遠泳大会は、水泳技術の確かさと度胸の強い者だけに許されたビッグイベントでありました。

私は根っからの水泳嫌いでしたから、当然、遠泳大会参加資格に合格するわけなどなく、ひたすら、彼等の勇姿を一部始終見続けることしか、ありませんでした。

たしか、遠泳距離は一キロだったと記憶してますが、私にとってその距離は到底イメージできるものでなく、全くの別世界でありました。写真を観ても、泳ぎ終えて海岸に戻ってくる諸君には疲労困憊のようすが観えます。手前の師範は点呼による、完泳者の確認であろうかと思いますが、万が一、生徒がいないとなれば、たいへんなことですから、必死の形相なのです。さらに、海岸に設営された焚き火の暖かさに暖を取る生徒の中には、冷え切った体を丸めている小林君の姿もあります。小林君はその後、高校、大学と学園のラガーマンとして活躍され、その剛毅な勇姿にはこのときの哀しげな姿など、微塵もありませんでした。又、左手前に堂々たる腹筋正面姿を見せる中村さんは、この翌年のサイクリング部設立の合宿で、群馬県渋川から山梨県小淵沢まで一緒に走破した仲間です。

こうして、この夏が終るとほんの2ヶ月あまりで身長が10センチほど高くなった生徒もいて、当然変声期もピークとなり、男子は徐々に大人っぽくなっていきました。

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2009年12月19日 (土)

震える寒さの木造校舎

Rimg11407 私は、小学校時代のほとんどを、この写真のような木造校舎で過ごしました。今では、全くと云って良いほど、なくなってしまいましたが、今でも冬の寒さと夏の暑さを記憶しています。

今より樹木も多く、ビルなども少なかったので、夏場は今のようなヒートアイランド現象は起きず、暑さにうだることはありませんでしたが、秩父颪(ちちぶおろし)と呼ばれる北風の吹く冬の寒さだけは相当なものでした。当時は、吉祥寺駅から徒歩で通うしきたりでしたから、走って暖かい教室に飛び込み、だるまストーブの真っ赤に焼けた姿を見ると、冷え切ったからだを皆でお尻から暖めるのでした。危険防止をかねて、各自j持ってきた弁当箱を温めるための金属網でできた棚がストーブの三方を囲んであり、温まってくると弁当のにおいがオーケストラのように、夫々のおかずの違いを伴って教室内に充満してくるのです。

また、名簿順で運悪くストーブの傍になった生徒は、輻射熱で顔を真っ赤にして授業を受けるのですが、その暑さは尋常でなく、苦しみに近い劣悪位置でありました。一時は、ゴム底の上履きをストーブに付け、焦げた臭いを愉しむというマニアックなことが流行りましたが、靴底のゴムの跡が、ストーブの鋳物肌に鮮明について、担任の清水先生から、しっかりとお灸をすえられました。

一学級三組あった教室はこのような木製サッシを通して、覗き見ることができたので、他所のクラスより授業が早めに終ると、木の床を四つんばいになって、となりの教室を探偵気分で探りに行くのですが、そういったときに限り先生と目が合ってしまうのでした。江戸川乱歩の少年探偵団が本やラジオを通して人気があったので、毎日、何かの理由を考えながら、自分たちも探偵ごっこに一喜一憂していました。http://sound.jp/gingerpop/history/hero_30.htm

http://www.youtube.com/watch?v=3Q0jbb8bHO8

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2009年12月 3日 (木)

1963 自転車合宿 地元の子供に囲まれた。

196324 1963 写真上:佐々山厚  写真下:成蹊高校サイクリング部OB会蔵

1963年8月2日、群馬県・渋川からスタートした高校サイクリング部合宿は10日の山梨県・韮崎解散まで毎日休みなくペダルを踏んで、初めての経験も目白押しと、苦しくも楽しいものとなりました。解散後も仲間は夫々の方面に向かい、全員何とか無事に自宅まで自走して終りました。私と佐々山厚さんは韮崎から甲府に向かい浜田旅館で一泊し、翌日、東京の自宅まで120キロを8時間ほど掛け戻りました。頑張り屋の岩田さんは、この後、故郷・名古屋まで一人で黙々と自走で帰るなど、皆さんの根性に学校側も評価せざるを得なく、念願の、ワンダーフォーゲル部からサイクリング部を独立させることとなりました。

上のスナップは写真部でもあった佐々山さんが撮影した中の一枚で、丁度、合宿の真ん中にあたる5日目の朝、私の父の妹が嫁いだ長野県佐久市臼田町の井出邸を出発するときの模様です。国道141号線沿いにあるこの住まいは江戸中期の書院造りで、全員このような伝統様式の建物で寝泊りできるなど思ってもないことで、ぎっしりと敷き詰められた畳の空間の広大さに唖然としていましたが、間もなく、走り回ったり、広い厠にビックリしたりと、子供時代に戻り深夜まで探検ごっこに終始してしまいました。

翌日は、ゆっくりと休養し、午後三時過ぎに井出邸を出発しましたが、ドロップハンドルの自転車など地方では見る機会もなかったこの時代、町の少年たちに取り囲まれ、自転車の説明などして、地域親睦交流に貢献したのであります。とくにタンデムに人気が集中して、何人かの子供を後ろに座らせたり、と・・・、サービス精神も旺盛でありました。

さて、左の自転車に団扇がさしてありますが、これは夏合宿ですから暑いのも理由ですが、それよりも、舗装比率の少ない時代でしたから、自動車の行き交うごとに吹き上がる土埃を被るのを解消するために、必須アイテムだったのです。

ところで、手前右の私の太腿あたりに傷が見えますが、どこかで転倒したのか、枝木に突っ込んで、ついてしまったものなのか・・・、今ではまったく記憶にありませんが、傷跡は、しっかりと今も残っています。

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2009年11月25日 (水)

1970 神田川護岸工事

1970_02_21970_01_2   1947年に杉並区久我山で 生まれてから、のんびりした神田川の景色を観ながら育ったのですが、大学を卒業し就職の決まった1970年に始まったのが、神田川護岸工事でした。

それまで、家の周りはいわゆる武蔵野の雑木林が欝蒼としていて、自宅を出ると視界の広がる北斜面にその林がパノラマ展開していました。春夏秋冬、季節の変化が愉しめ、秋ともなると膨大な量の枯葉を集めて焚き火するのが、週末の日課でもありました。

その自然溢れた一角も、護岸工事に伴う機材・資財の置き場にもなり、草むらは関東ローム層の赤土に埋もれてしまって、その後、草むらが元のような欝蒼とした姿になるまでは10年以上の時を要したのです。

この写真は、家の北側の崖から撮ったもので、大規模な工事であることが分かります。この崖は急斜面で小学校時代は友達の人気スポットで、探検ごっこには絶好のワイルドスペースでしたが、神田川との境には柵ひとつなく全くのデンジャラス・スリリングゾーンでありました。おまけに神田川を渡るにも、丸太二本に麻の綱という乱暴さでありましたから・・・。

この護岸工事で崖も削られセットバックして、崖線の素晴らしい景観は一変してしまいましたし、川そのものも天然の雰囲気が消し飛んで、川岸の散歩の楽しみも無くなり、たんなる用水路と化してしまいました。

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2009年11月23日 (月)

Doc Watsonの超絶ギターを目の前で

Bluegrass1301 1976doc_merlewatson11 写真:小森谷信治

1960年代中頃からブルーグラス音楽にのめり込みだしたものの、自分が率先してバンドを結成するほどの意欲もなく、ただひたすら音楽そのものを聴いて、年毎に変化していく音作りや弾き方、和音の取り方に興味がありました。

その頃知ったドグ・ワトソンさんのギターの超絶技法に魅かれ、入手しにくかったレコードを御茶ノ水辺りのマニア系のショップで購入してました。ドグワトソンさんは盲目でありましたが、温和な性格に慕う人も多く、日本で1976年に開かれたアメリカ建国200年記念コンサートにも学生を中心に大勢のドグワトソンフアンが押しかけました。私も何故か舞台の上に立っているのですが、どうしてと云われても全く記憶にありません。

ドグ・ワトソンさんの渋い歌声を通して、アパラチアンマウンテンミュージックの素朴な世界を知った輩も多いでしょうが、私は、都市で様々なプレィヤーとセッションによる、迫力のある楽器奏者としてのドグワトソンさんに魅かれてしまいます。

Doc Watson http://www.youtube.com/watch?v=XdUrg2Cqxdw

                 http://www.youtube.com/watch?v=cqPZbpqGV2M&feature=related

                 http://www.youtube.com/watch?v=LgL11ITUlcA

               

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2009年11月10日 (火)

1959 国立競技場

1959 この前の年に完成した国立競技場に、小学生総動員で出かけたときのスナップです。何の競技会であったか、記憶がありませんが、ビッグイベントであることは間違いありません。

この時代に大流行した初心者向けの二眼レフ(YASHICA FLEX)を使って撮影したものですが、今も鮮明なのには驚きです。小学校6年生ともなると、体形も千差万別となり、男子よりも背丈が高い女子が目だった頃でもあります。

こちらを見ている体育担当・松田京子先生は、いつも明るく、びきびしていたので、男子にダントツの人気先生でありました。学園創立者・中村春二先生の質素・堅実を旨とする渋い校風の中に、明るく元気なお姉さんのような先生が入って来たわけですから、これも時代の流れであったわけですね。

この年以降日本は元気良くなり、黄金の60年代と呼ばれる時代を迎えます。

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2009年11月 6日 (金)

1960 父のスナップ・神田川周辺

1961 Kugayama 6194701父が自宅の玄関側から北の方角を撮影したスナップが、大学ノートに挟まれて出てきました。挟まれていたページの日記の日付から1958年の晩秋です。

手前の雑木林は井の頭公園からずーっと高井戸方面まで繋がっている崖にあって、北に向かい急な斜面でしたからこどもにとっては絶好の遊び場で、休みともなれば同級生が遊びに来て、戦争ごっこに明け暮れていた場所です。気をつけないと、崖からいきなり神田川にどぼーんでしたから、子供たちの怖さを知らない暴れっぷりにハラハラしていた父は、遊びが終るまで監視の役をしていました。その先には収穫の済んだ田圃が延々と広がり、風にあおられて動く稲穂の波のような姿は毎年の風物詩で、近隣の散歩マニアの隠れスポットでもありました。この崖を降り、富士見が丘方面に向かうとカタクリの群生地があって、春になると、ここも、草花マニアで賑わっていました。写真では分かりにくいのですが、ぼんやりとした直線部分が井の頭線の線路で、車窓からは神田川と崖線の春夏秋冬の移ろいを愉しめました。残念なことに、1970年頃の台風、神田川が氾濫して、この水田が全滅し、井の頭線の操車場となり、現在に至っています。

このような場所で生まれ育ったわけですから、普段から自然環境と直接触れ合うことが出来、その後、華々しくも寿命の短い都市生活に関わる商品企画・販売・宣伝の仕事に没頭しても、家に帰るとこのような長閑な環境があったことは、精神的にもストレスが収まりバランスが取れていたわけで、今となっては贅沢の極みでありました。

1947年の米軍が撮影した航空写真と父が撮影した1958年では環境に変化はありませんが、現在のグーグルと比較すれば神田川流域の変化の激しさがお分かりかと思います。

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2009年10月15日 (木)

1999 四大学対抗競技大会・50周年記念ポスター

1999 1999年という年は、京都に関わる、物産・産業・観光振興のショップ作りに京都市の第三セクターから任命されましたが、こともあろうに赤坂・アークヒルズに出店ということとなり、他府県の自治体ショップのような不特定多数が集客するような商業地ではありませんから、なんでもかんでも、それなりに・・・、というわけにはいかず、焦点を絞るのにたいへんな思いをして、準備室を立ち上げました。

当時、アークヒルズは海外企業の代表格が固まっていましたし、サントリーホールの開演前に散策するお客さんも多く、品揃えもレベルの高さが要求され、売れ筋ばかりのの通り一遍では通用するものではありませんでした。さらに、京都の物産をはじめ諸業界にはやっかいな閨閥のような世界があって、そのコンダクトにはやはり、京都を代表する文化の象徴の家元にお願いする以外、無かったのです。

その年に、依頼されたのが東京四大学対抗競技大会・第50回記念大会のポスターでありました。京都のショップの開店をまじかに控えた大忙しの最中、当時の最先端パソコンを所有するデザイナーとタッグでラフからフィニッシュまで一日で作成したのがこのポスターです。

マチス風の切絵に見立てた選手を四方に飛ばし、FUTURA書体でタイポグラフィー主体の一枚となりましたが、なかなかの力作であると自負しています。これを作成したパソコンの1ギガ容量で驚嘆していたのが、たった10年前であったことを考えれば、このIT世界の進化にはついていけませんね。

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2009年10月12日 (月)

1958 秋の運動会

1215195802_2 私世代の多くがいまだに競争心・闘争心旺盛で、TPO(時・場所・状況)によっては空気読めないアラカン世代と揶揄されるのも、小学校時代の運動会が、まったくの競争心・闘争心の総ざらいであった影響なのかも知れませんね・・・。

一番以外は何の意味もなさない・・・、という家訓を子供時代から育まれた生徒もいれば、私のようなコスモポリティックな父の影響をまともに浴びてしまったノーコンセプト・ノンポリシー生徒まで、この小学校には経済界の重鎮から文化・芸術にかかわる家庭に至るまで、価値観・感性の幅が広くありました。

1958年、小学校5年生の秋の運動会は、徐々に体力もつきはじめ、そのエネルギーを発散する絶好の機会でしたし、女子生徒のブルマース姿にうっとりする色づきはじめた男子もいるという、硬軟入り乱れての、大人社会に片足を入れた気配がむんむんのイベントでありました。綱引き・騎馬戦・棒倒しと上級生になると、出し物も喧嘩寸前メニューが目白押しでしたから、前の日から、ニラレバやステーキでスタミナを付けることが、隠れたお約束でもありました。

この綱引きでもお分かりのように、地面はすっぴんの土ですし、履物は何故か理由が定かでありませんが、ゴム底付きの足袋なのです。力を踏ん張るには案外と役立つ履物なのですが、これで徒競争ともなると、体重の振動をまともに受けて脳天にガンガンくい打ちされるような痺れが走り、歯を食いしばって駆け抜けないと、舌を噛んでしまいそうになるという・・・、今から考えれば、凄い履物でありました。

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2009年10月11日 (日)

1956年・突風にびっくり。

32704 1956年頃は、年間を通してつむじ風や突風といった子供にとっては面白い自然現象が多かったように記憶しています。私の通っていた学園は大学まであり、大きなグラウンドも点在していたので大風が吹くたびにグラウンドの土煙が舞い上がり、その都度、学園内はイエローオーカーのような色一色に染まっていました。

この日記に書いてある突風は台風の前触れなのかどうか分かりませんが、担任の清水先生が早く帰らせてくれたことですから、それなりの規模でますます強くなる状況だったのでしょう。

久我山の自宅裏、北斜面の雑木林には松の大木も何本かあり、神田川方向から吹上げる風を直接浴びることも多く、その揺れ方も想像以上のしなり具合でした。そのゆっくりとした樹木の暴れ方を観ていると、自分が吸い込まれていくような感じがして、浮いているような錯覚に陥ることもあって、危険とは承知ながら、見つめていたのです。

神田川沿いの雑木林もこの頃と比較すれば激減ですが、面影の残っている箇所は僅かながら点在しています。

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