2009年7月10日 (金)

1958年・久我山の家

19581802 生まれてから45歳になるまで過ごした、杉並区久我山の家の内部を描いた水彩画がやっと出てきました。それも、まったく関係ない昭和30年代の新聞スクラップブックの中からです。

1958年と鉛筆で書かれてますから、小学校5年生のときです。この家は戦前からある日本家屋を1953年にリフォームして、建て替えたものですが、古い部屋とリフォームした部屋が入り乱れ、遊ぶには格好の家でしたから、小学校の同級生も頻繁に遊びに来ては探偵ごっこに興ずるのでした。この家を改装中の写真を観ると、父の実家のある信州から大工さんが住み込みしながら建てている様子がわかりますし、この時代特有の新日本様式と呼んでも差し支えなさそうな、モダンな設えが見えます。例えば手前の天井と食卓のある天井は、船底天井とフラットな天井に分けられ、視覚的にも空間の仕切りを作っています。又、正面に鎮座するペチカと呼ばれる暖房装置は、巨大な大きさで、石炭をくべると輻射熱で柔らかい暖かさが家中を覆い、洗濯物などはあっという間に乾いてしまいましたが、暫く経過すると石炭価格が上がり、維持するのにやりくりがたいへんだったのです。煉瓦でできたペチカに背中をつけるとほんわかした暖かさが伝わり、なんともいえない、のほほんとした気分になったものです。又、手前の絨毯は父が中国から引き上げてくるときに、日本陸軍の軍指令部総長から譲られたものと父が喋っていたのを記憶しています。鮮やかなペルシャ製のものでしたが、この空間には似合わないイスラム古典的意匠が子供ながら気になっていました。さらに、ペチカの手前にある照明ペンダントは油紙をちぎってにかわで張り合わせたもので、光が微妙に透過し、その複雑な色と光が今も焼き付いています。

さらに、右手の丸柱と床材は、あろうことか伊勢神宮の式年遷宮に使われる檜から余ったものを払い下げで手に入れた材料で、たしかに節目のひとつさえありませんでしたし、高貴な檜の薫りは1960年代後半まで家中に流れ、じつに気持ちよい環境でありました。

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2009年7月 2日 (木)

すぐ休憩の癖が・・・。

Lrtr 以下は45年も前の話ですから、そこかしこに記憶の落とし穴があって、つじつまの合わないこともありますが、読み流してください。

1964年当時http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1964.html、スポーツタイプの自転車など、全く見かけない時代でしたが、稀に井の頭通りをパールのように輝く綺麗なスポーツ自転車が疾走していて、羨ましい気持ちで眺めていました。何の因果か、久我山の家と吉祥寺の高校を行き来するほぼ中間点に東京サイクリングセンターがあり、その美しい自転車の出所も此処であったことを知りました。雨の日以外は、ほぼ毎日自転車通学でしたから、帰りには必ずといってよいほどこの店に立ち寄りしては傍耳を立てて、出入りする自転車好きな人の一挙手一動を見逃さないようにしていました。井の頭通りに沿って在ったこの店は、当時芝生が一面にありピロティ方式の建物は一階がセットバックしていて、周辺の商店がまだまだ日本瓦ばかりなのに、ずいぶんと進んだモダンな木造建築でした。店内には、見たこともないフランス・イギリス・イタリアの自転車をはじめ、この店のオリジナルブランドであるゼファーや世界中の最高級部品がガラスケースに博物館のように展示されていて、その中でも、彫刻のような姿をしたカンパニョロの部品には単なる部品でなくアートのような感性さえ感じ、ぞっこんでありました。日本の部品はまだまだ情けない状況で、サドルは使い物にならず、変速機にいたっては美しさの微塵も無く、ギアチェンジの度に、ガリガリとぶつかる音が神経を逆撫でし、イライラ感がつのるばかりでありうました。

そしてこの店に入り浸っているうち、創業者・板倉修氏にスポーツ自転車を振興している諸先輩に引き合わせていただき、週末にはお邪魔虫のようにその先輩の後を追って走りながら、走法・姿勢・ペダリングのコツを盗みつつ自転車のもつ魅力にとりつかれていきました。

高校生でしたから、むやみに飲食関係の店に一緒に行く事も出来なかったのですが、先輩たちが楽しそうに、自転車で色々な店に出入りする様子を観つつ、羨ましさだけが先行していきました。皆さん、どうも休憩好きのようで、洒落た店があれば一服、また一寸走って一服と、走りたいだけの私などは皆さん休憩中でも独り周りをきょろきょろしながら徘徊していたのです。

どうやら、この時代の経験が今も無意識にでて、知らない街でも平気でうろうろしながら、町・街・人・店の考現学に熱中してしまいます。

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2009年5月 8日 (金)

1967・スイス ベルンで一人過ごす。

71967_3 1967年のヨーロッパ旅行は最後にモナコでのブラックジャックに大勝したスタッフのおかげで、スペイン旅行というおまけ付きで、途中のてんやわんやの珍道中も、佳き思い出です。

この旅行自体がスポンサー付きのヨーロッパ自動車レースやスポーツ業界の展示会取材も兼ねていましたから、一番の若造だった私は、ほとんどが使い走りの役か、コースを見失う失敗ばかりのナビゲーターとして、元気なスタッフの笑いの種として、役立ってました・・・。

それでも、途中の一週間ばかりをスイスのベルンhttp://www.youtube.com/watch?v=FsepHflSk-A&feature=relatedで一人で過ごすという、絶好の息抜きになることとなり、私は小躍りして、この中世の町を若くして徘徊三昧していました。新品のニコンF3を肩からぶら下げ、手当たり次第に、町の風景・風俗を取りまっくっては、「こんな色見たことない」ほどの美しい出来上がりになるAgfa Colorの写真をDPEに出し、この落ち着いた町の隅から隅まで、記憶に留めようとしていたのです。

日本と違い、消費を喚起させるような町ではありませんし、何しろ全てが落ち着き過ぎるほどの、オーセンティックな環境ですから、男の子にしても、このような、クラシックなジェントルマンなのでした。

この町のスイスフォンデュの店の屋根裏に縁あって泊まることが出来たものの、毎晩の店の賑やかさが天井から伝わってきて、寝不足気味でありました。それでも、毎朝この店のオーナーが気を遣ってくれて、美味しい朝食とたっぷりの牛乳、そしてバスケット一杯のパンが楽しみでした。この店で、初めて、パンについてくる小さな容器に入ったジャムを知ったのでした。

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2009年4月20日 (月)

1956・今日の日記「夕方でたもや」

321_04 この絵を見る限り、天空に浮いている超常現象もどきは、西荻窪あるいは荻窪方面かと思われます。

久我山と西荻窪・荻窪はそれほど遠い距離ではありませんが、自転車ですと途中の上り・下りの坂道を経由して、結構、時間がかかります。小学校時代は無理でしたが、中学2年生頃になると、自転車で西荻窪界隈の同級生の家に遊びに行っては、途中の商店街などを垣間見ていました。

1956年頃ともなると、ナショナルの販売店が街中に登場し出し、その明るい店内はそれまでの、どの商店にも観られない光り輝く世界で、蛍光灯・テレビがウインドーを飾っていました。まだまだ、戦前の木造の店が殆どでしたから、明るさだけが売り物のような電気屋さんには、何か新しい時代の気配を感じていました。

さて、このもやに浮ぶ「でんき」は何かといわれても思い出しませんが、街中が明るくなりだした時代を捉えています。

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2009年4月17日 (金)

勉強三昧?

1115195801 1958年(昭和33年)に父が撮った、珍しい私の自宅での写真です。

小学校5年生となっても、相変わらず勉強よりも軍艦模型作り・野球に励み、成績の方はあまり芳しくなかったのですが、父も自由奔放に生きてきた経歴もあって、そのことをあまり気にもせず、私の好きなようにさせてくれました。

当然、勉強部屋などというものはなく、小学校低学年の頃は父のアトリエの隣の本棚の隅っこでしたし、この頃もごらんのような客間の畳部屋の片隅と言った状態でありました。それでも、当時の私の興味の世界が机上に垣間見れますし、潜水艦の模型はこの時期にのめり込んでいた、太平洋戦争末期・日本海軍のイ号潜水艦と思われます。又、父の好きな煙草・Pieceの缶に筆記具が差し込んでありますが、これなどは、父の書斎のテーブルを見て、物まねしたものです。

日本の軍艦模型作りを通して周辺関連も気になり、徐々に興味の範囲が日本の近代史や戦争にも広がり、この頃の絵は、殆ど軍事物ばかりという有様です。さらに太平洋戦争に始まった興味対象は、様々な書籍や雑誌を通して子供ながら相当詳しいレベルに到達していて、日清・日露さらに明治維新にまで遡るようになりました。

特に太平洋戦争下における日米の陸・海・空夫々の軍略の相違まで、詳細に調べていたと記憶しています。

このように、私世代では、子供時期から大人の世界に何らかの拍子で飛び込んでしまった者が多く、同級生の中には歌舞伎研究・縄文人研究などに一生懸命な仲間もおりました。

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2009年4月13日 (月)

1967ヨーロッパ旅行・アウトバーン

451967 461967 1967年、初めてのヨーロッパ旅行で、最初に度肝を抜かれたのがアウトバーンのスケールの大きさでした。ヒットラーが、何時でも何処でも戦闘機が離着陸できることを想定して作られたと云われるこのハイウェーを、ロンドンBMCでレンタルした車でびゅんびゅん飛ばすのを横目で観ながら、私は専ら、初めての海外にも関わらずミシェランの地図を片手のインスタント・ナビゲーターでした。

まだ、免許を持っておらず、しかも一番下っ端とあって、人遣いの荒っぽいカメラマンから秀山荘のオーナーにいたるまで、同行者の使い走りとして、何でも指示されたことをやってました。挙句の果ては、煙草やガムの買出しにも使われ、初めての旅行というものの、実態は、さほど楽しいものではありませんでした。

ですから、180キロほどで飛ばす車から見えるドイツの美しく重厚な景色だけは食い入るように観て、しっかりと頭の隅々まで記憶しようとしてましたが、突然「そろそろ、別のルートに入るんじゃないのか!」などと言われても、もう頭は真っ白で、叱られてばかりの毎日でした。

この旅行を通して、ベルギー・ドイツ・スイス・イタリアと、国が変わるとその景観から佇まいまで全く変わることの面白さを実感して以来、今も、ツールドフランスの中継を観ながらも、レースより、専ら、アクロバット飛行のようなヘリコプターから俯瞰する、素晴らしい景色を愉しんでいます。

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2009年3月 1日 (日)

1956年・今日の日記「どろんこみち」

32404 1956年2月29日になっているこの年は閏年で、京王井の頭線・久我山駅から吉祥寺の小学校に通っているときの様子です。

舗装されていない、久我山の駅に向かう坂道は雨・雪となると悲惨な状態となり、通勤・通学には難所の道とうって変わります。坂道の勾配は案外厳しく、下るよりは上りが大変で、雨となれば滝のごとく道いっぱいに川のように流れ、泥流を浴びながら、目的地に向かうのです。

久我山には舗装された地域とそうでない地域の格差が激しく、その差は、久我山を二分する大地主さんの区役所へのコネクションがあるかどうかに、かかっていた・・・、などという噂が飛び交っていた頃です。私の家の前の私道が舗装されるのは1972年ですから、ずいぶんと長閑な状態が続いていくのです。

この坂を下り、人見街道に出れば一安心ですが、駅に着く前に泥だらけになるのは、何とも嫌な気分でした。

この頃、久我山駅から井の頭公園駅あたりまでは、田圃が線路脇に広がり、水田の水が光を反射して美しい光景を展開していましたが、1960年代の中頃に起きた神田川の氾濫で田圃は全滅!。あっというまに宅地造成となって、今に至っています。

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2009年2月24日 (火)

1956年・今日の日記「先生のみやげばなし」

32504 小学校3年生になる年の日記です。

担任の清水晴男先生は、実直・熱血・誠実な、一生懸命、生徒と一緒に学び遊ぶ先生で、後に分かった事ですが、本当はご法度であった日記の枠外に描いてしまう挿絵もどきを、愉しみにしてくれていたそうです。

この日の日記は、清水先生が関西方面に旅行したときのことを、授業中に話しはじめたのでしょう。聞いていた私は、そのことを忘れないうちに、日記に書き込んでいます。授業中に先生の話をノートに記録することなど無かったでしょうから、やはりこの頃の記憶力というのは、凄いものであると思わざるを得ないのです。

今では、今日あった出来事でさえ、忘れかけること多々あり・・・、という私ですから、この日記を読み返すと、感慨深いものがあります。

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2009年2月14日 (土)

1957年2月14日の日記『駅まで10分』

32304 小学校4年になる年の今日の日記です。

当時は吉祥寺駅から成蹊学園までは徒歩が義務付けられてましたから、怪我などの例外時を除いて毎日の行き帰りは、子供にとって社会勉強の積み重ねでありました。駅までは今のような外来者を対象とした商店も少なく、地元の日々の生活に関係する商店ばかりが目立ちましたし、すれ違う大人には友達のお母さんも多かったのです。ブロック塀の家などまだ皆無で、生垣と大屋石という正統日本のカタチがきちんとした街並を形成していました。

駅まで10分というタイトルのように、走って帰ることが一時期流行していて、吉祥寺の街中はすばしっこい小学生にさぞ迷惑であったに違いありません。

それでも、少しずつでありますが、今の東急界隈は長閑な郊外町にしては斬新な店などもぼちぼち出来始め、子供なりに、今までと違う町に変わって来たな・・・、などと感ずいてきた頃であります。

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2009年2月 1日 (日)

久我山・自宅前 1955

4321955その昔、 杉並区・久我山は大地主さんがそれぞれの地域を仕切っていて、道路までが私物でしたから、舗装・上下水道からガスの導入にいたるまで、そう簡単には住民の声に耳を貸さなかったのです。

この写真は1955年(昭和30年)に父が撮った、家の前の様子です。周りの地域はとっくに舗装化されて、雨でもさほど苦労しなかったのですが、この一角は、舗装になったのが、1972年ですから、随分と、遅れてしまったのでした。砂利を敷いた道も、数年後には殆ど埋まってしまい、また雨や雪に悩まされ、靴も汚れてしまい、といった惨憺たる状態でありました。右手の垣根と砂利の間に敷石がありますが、この線と垣根の間は地主さんの土地で、何故こうなったのか、今でもわからないことのひとつです。

まだ、テレビもなく、ラジオを聴いては想像力を駆使して、とくに紅孔雀などの昔の話に一喜一憂していた頃です。久我山の町全体が農村のような雰囲気をもっていた頃の一枚ですが、5年後には、宅地化の並が押し寄せて、あっという間に田園牧歌の世界は吹き飛んでしまい、それにつれて、画家の集団・二科会が久我山駅から東郷青児邸まで踊って練り歩く妖しげな祭りも、新興サラリーマン家族としての風俗的見地の影響が強くなったのか、いつの間にやら、無くなってしまいました。

この写真を撮影した頃は、農村の風景と二科会を中心とした芸術家の洒落たアトリエ村的要素が同居していて、それなりの優雅な環境でありましたから、宅地化によってこの町の色がなくなってしまい、平均的な郊外のサラリーマン中心の平均的感性の町に変わっていったのは、当然とはいえ、残念な話であります。

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2009年1月27日 (火)

父のいたずら書き・1955

Rimg16121 Cjj 1952年頃、父は兄家族から譲渡された典型的な和風住宅を改装して、当時の新建築の典型である板張りのワンルームという開放的なモダン空間を愉しんでいました。

天井はリビングスペースとダイニングスペースを船底天井と漆喰天井で仕切り、丸太の柱がその中央に構えていましたから、座敷が生活空間の殆どであった一般の住居から観ると実に快適で合理的な回遊性があって、私もこの空間で育ったことを、有難く思っています。

父は出版編纂に関わる仕事が1943年から1980年代まで続くのですが、日中は北側の仕事部屋に籠もり、夕方以降は大好きな野球中継を見ながら、晩酌中心の夕食を時間を掛けていただくという、規則正しい繰り返しでありました。

時々、食卓に付いていた引き出しからコクヨのメモ用紙を出しては、思いついた事柄をメモしたり、ご覧のようなスケッチをしたりと忙しく、又、小まめな性格からか、その引き出しの中も紙の小箱でモンドリアンの描く格子のように仕切られ、整然と文房具・筆記具・眼鏡・喫煙具・ノート、葉書き・切手・庭バサミ・絆創膏・目薬などなどが整然と美しく分類されていました。

小さい頃は、この引き出しの中が不思議な世界に感じ、父の居ない食卓の引き出しを開け、宝物のように見えた品々を引っ張り出しては、悪戯していました。

このスケッチはおそらく1955年の正月、東北旅行をしたあとに、記憶の薄れないようにメモとして遺したものだと思いますが、多分毎晩欠かさずだったウイスキーも適度にしみていたのでしょう・・・、ほろ酔い加減で描いた様子が、凧を描いた筆勢に表れています。

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2009年1月26日 (月)

まっすぐ帰れない頃!。

322_04 1957年の寒い頃といえども、学校が終れば、良い子のようにまっすぐ帰ることなど頭になく、ほぼ毎日、道草をしながら社会生活の末端を垣間見ていたのです。

小学校3年の好奇心まんまんの頃、時代は活気付き出し、威勢の良い経済振興に関わるような音が何処からともなく聞こえていました。その中でも、日常生活を支える石炭は学校の暖房にも欠かせず、石炭をくべる担当も各クラス、名簿順になっていましたから、子供にも身近な燃料資材でもありました。

この炭屋さんは吉祥寺駅に向かう途中の住宅街にあって、周辺の住まいの皆さんがお得意さんだったのでしょう。毎日毎日、何処から運ばれて来るのか、大量の石炭が搬入されては大きな音とともに、大きなドラム缶のような中にシャベルで放り込まれていました。

週番の生徒に見つかるまでのひととき、このような社会生活の所業を観つつ見聞に励んでいたわけで、その癖は今も変わらず、キョロキョロしてしまう自分にきちんと伝播しています。

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2009年1月13日 (火)

1960・マラソン大会

126619601113 1960年(昭和35年)、1月13日に開催された小学校最後のマラソン大会の様子です(先頭が私です)。

わたしはこのマラソンが大の苦手で毎年、この大会が近づくにつれ重い気分になっていきました。それと、中学に上れるかどうか、平均点が合否すれすれのところにいた私は、そのことも気がかりで走っていました。確かな記憶が無いのですが、学園構内を2周か3周させられたかと思います。この頃私は野球に専念していたので身体も比較的大きい方でしたし、走りこみもしっかりやっていましたから、走ることはさほど苦手ではなかったのですが、マラソンはどうしても瞬発力よりも持久・耐久力の勝負ですから、せっかちな私は(今もそうですが)、前半飛ばして後半ばてるというパターンを何年か繰り返しては反省するのみ・・・という状態でした。

とくに最後のマラソン大会ということで張り切っていましたから、後ろから首にタオルを巻いた俊足ランナー・山本昌彦君がひたひたと近づいてくるのを気にしながらも、何とか振り切って念願の一桁順位の7位となりました。

当時、成蹊学園構内は長閑な武蔵野の雑木林も点在していましたが、今や立派な校舎が林立しています。この桜並木は今も小学校一年生の入学式を高学年の生徒が拍手で出迎えるイベントの場でもありますが、晴れれば最高の花道となるものの、雨の場合はお気の毒な道に変わってしまいます。

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2009年1月12日 (月)

1956年の日記・『ほこり風』

320a_04 1956年の一月、小学校二年から三年生に上る年の日記です。『ほこり風』というネーミングが自分で考えたのか、あるいは53年前は、この呼称が小学生仲間では一般的であったかは、定かでありません。

現在、成蹊学園正門を入ると大講堂が堂々の姿を見せてますが、その裏手、大学の校舎が林立している処には、昔、グラウンドが複数あり、その脇にはタールで塗り手繰られていた大学ラグビー部や野球部の木造の部室がずらっと並びその独特のにおいは子供にはきつかったのであります。それでも、各部室には面倒見の良い大学生が小学生を可愛がってくれ、丁寧にボールや球技の道具の説明などをしてくれたのですから、子供にとってはなかなか学校の正門に辿りつくまで、ワンクッションおいてしまう面白魔界スポットでもありました。この頃は小学校から大学までこじんまりしたスケールの学園でしたから、逆に世代間交流も自然体になされていたのです。

各グラウンドはずっと昔、生徒・先生の手作りのものでスッピンの土のままでしたから、風が吹けば否応なしに、細かい粒子が目に飛び込み、渦巻く風とともに、子供にはスリル半分、怖さ半分といった按配でありました。学園自体が広大な敷地を所有し、原っぱ・林園など自然環境に恵まれてましたから、一旦、風が吹き出すと収まるところを知らず、大荒れ模様となって、あっという間にこの学園の近辺は赤茶色の世界となってしまうのでした。

まだ、色気づく前の年代ですから、鼻をたらしたまんま、あるいは汗をかいても拭かずに友だちと吉祥寺駅まで歩いて来ると、周囲の人が笑っているように見えたので、吉祥寺北口駅の脇にあったトイレの鏡を観ると、確かに、ほこりで汗のあとや鼻のあとがきっちりと薄汚れていて、たしかに笑いたくなるような形相でありました。

さて、1948年・1月18日の米軍による空中写真は、自然に恵まれた成蹊学園の環境を捉えています。上部の大きな400メートルトラックが、このほこり風を生む場所でありましたし、木造部室はその下の並木に沿ってありました。Rimg15958また、学園の周囲も自然環境に恵まれた、素晴らしい世界が広がっています。

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2008年11月 8日 (土)

1973 スイス・スキー旅行

19738 19735 1970年に某百貨店の研究所に就職したものの、春には一週間の休みをしっかりとっては、相変わらず志賀高原を中心にスキーライフを謳歌していました。ところが3年程経過した1973年に、学生時代アルバイトでお世話になった銀座秀山荘が主催するスイス・サンモリッツ・スキーツアーが格安であることを知り、念願の本格的海外スキー旅行を実体験することとなりました。

1967年に、やはり秀山荘のご縁で初めてのヨーロッパ旅行を体験し、このときもほんの僅かながらスイスでのスキーは体験済みでしたが、今回は何といっても『世界のサンモリッツ』でしたから、大興奮でありました。

行ってみれば、国内のスキー場とは圧倒的に違うスケールや、リゾートとしてのスキーエンターティメントがふんだんに街中に散りばめられているところなどは、どちらかといえば温泉を中心として発展してきた国内のそれとはどう見ても比較のグレードが違うのでした。さらに、ちょっと滑ってはまたリフトの繰り返し・・・という国内のスキー場とは違い、一回滑り降りるのに30分以上というゲレンデばかりでしたから、昼過ぎにはへとへととなって、午後は寛ぎタイムとなってしまうのでした。

この旅行で、世界のリゾートの桁違いの威圧感を見せ付けられ、この後はしばらく国内スキーからは遠のいてしまいました。19733 197313

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2008年10月23日 (木)

1958年・運動会

1205195801_1 同じクラスにちょっとおませな兄貴のいる男子がいると、休み時間ともなれば兄貴から聞きかじった小学生らしからぬ話が飛び交って、色気づき始めた小学校5年生にとっては未知への遭遇状態でありました。兄貴を持たない男子、一人っ子の男子にとってこの休憩時間こそが社会勉強の導入口であり早道だったのです。

毎年、秋の運動会が近づいてくると、予行練習が始まり、フォークダンスの練習もすることとなります。事前に「どこの組の誰それさんが・・・誰のことを・・・」などという空情報が飛び交ってましたから練習といえども胸ドキドキなのであります。

なにしろひとクラスの女子はクラス全員の一割程度という共学にしてはそうとうバランスをかいた小学校でしたから、当然女子と手の繋げる確率は低く、男子同士で手を握る情けない時間が圧倒的に占めるのですから、この間、またしても噂のチャンネル状態となって流言飛語が飛び交うのです。

ですから・・・、噂の美少女が目前に現われたと同時にフォークダンスの曲が終わってしまいおあずけ状態となり、ましてや、次の曲が始まるまで目線でも合おうものなら、もうその日から暫くはお得な気分となって、一日中ハッピーなのでありました。

まだまだ、純情な一時代の出来事であります・・・。

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2008年10月20日 (月)

1958年・杉並公会堂

19585 野球漬けになってしまった小学校4年生の年、父は文化系の血筋からか学校に勝手に交渉して、突然私にフルートを習うようにしてしまいました。まだ反抗期ではありませんでしたから、素直にこの理不尽な父の指示通り、その後3年間は野球と音楽の二股生活が始まりました。

何しろフルートは、吹けば音の鳴る類の楽器ではありませんから、一応の音階がきちんと吹くことが出来るまで、それなりの時間が掛かったのです。一番辛かったのは、フルートを練習する場所が廊下の各クラスの真中にあたる処でしたから、私が下手な音しか出せない練習していると、外で生徒が聴いている物音がして、それは恥ずかしかったものです。それと一週間の内3日は放課後フルートの練習でしたから、仲のよい友達とそれまで楽しみだった野球の出来なくなったことは、ショックでしたし、暫くは父とも話をしなくなりました。

そんな状態が一年半ほど経った5年生の時、杉並公会堂でコンサートが開かれました。まだろくに譜面も読めない頃でしたし、フルートは二人だけでしたから、失敗すれば目だってしまうし、水泳大会以上にプレッシャーのかかる一日でした。大きな会場でそれも大勢の聴衆の前で演奏するのは、初めてでしたから、そうとうに上擦ってしまい、自分の音がまったく聴こえず、トホホといった境地で終了・・・、この演奏会がきっかけで、いわゆるクラシックの世界とは、さっさと決別しました。

もうこの時代には、アメリカの新しいリズムとメロディのポップスがテレビ・ラジオから聴こえてきて、子供なりにそちらの方に、新鮮・魅力という誘惑の軸足が傾いていたのも、決別の要因だったかも知れませんが・・・。

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2008年10月12日 (日)

1956 遠足・高幡不動

793195603_2 783195602 春と秋の遠足は小学生のお楽しみでしたから、その行き先しだいで、歓喜を挙げたり、落胆したりと子供ながらの正直な反応がありました。小学校3年生の春は高幡不動がその行先でしたから、正直、其の場所もよく分からない生徒が大多数を占めました。

今ではこの近辺も住宅にあふれた処となりましたが、52年前は多摩川を望む平地の広がる絶景パノラマが全面展開する景色が、春爛漫なポカポカ陽気と共に、長閑な多摩地域の豊かな地勢というものを、脳裏に焼きつかせてしまいました。しかし、この8年後には、5万分の一の地図を頼りにドロップハンドルの自転車で多摩地区を走りまわって、偶然、農家迷い込んでは、若さの特権か、お昼を縁側でご馳走になるのでした。

昼を終えてからの写生大会では、この年あたりから大流行したマジックインキをクレヨンと同様に持参した生徒が多く、マジックインキ独特の強いアンモニアの様なにおいが、自然豊かな環境の中でミスマッチなほど周囲に立ち込めました。Photo

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2008年9月21日 (日)

自転車は磨きながら覚えろ!

196332 1963年の春、合格すれすれ、無事に高校に進学することが出来、何とか父との約束も果たせ、念願の東叡社のツーリング仕様の自転車を購入してもらいました。まだ高校一年生なのに、父もずいぶんと奮発してくれたものです。

中学3年生頃からほぼ毎日ブリジストンのブルーの自転車で学校に通い、帰りには東京サイクリングセンターに立ち寄るのが日課でしたから、物覚えのよい年頃でもあったので、この店でうろうろしているだけで、店主の板倉修さんの客とのやりとりを通し、自転車のイロハを吸収して、買うならばこれだな・・・と、決めていたのです。

この自転車は、当時たいへん目立った出来具合でしたし、何しろパールホワイトという光輝くような塗装には、これまで観たこともなかった世界が展開されていくようでもあり、毎日毎日、ただひたすら玄関脇や庭先で磨き込んでいたのです。それも、板倉修さんの「自転車は磨きながら、構造・部品・機構を自分で覚えていくのだ!」などと説教されましたから、それをそのまま実施していただけなのですが・・・。

1963年の春の長閑な昼時、ひたすら自転車を磨くことに専念している姿からは、この年の夏に、自転車で渋川・長野原・草津・小諸・清里・韮崎・甲府を走りきったことなど、想像すら出来ません。

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2008年9月16日 (火)

西伊豆ツーリング・1964

19642 19644 1963年に実行した渋川・清里間の自転車ツーリングのデモンストレーションが功を奏し、自転車部がワンゲル部から独立することが出来ました。とは云うものの、学内の部活動は限られますから、日々の通学で脚力を維持することが地道な一歩でありました。

この写真は翌年の1964年、伊豆方面をツーリングした時のスナップです。オリンピック東京大会を10月に控え、都心は勿論、関東近隣も大型ダンプがかっ飛ばす状況の中、春まだ寒い2月に決行しました。舗装などまだろくにもされておらず、しょっちゅうパンクはするし、硬いサドルがお尻にぶつかり、という状態でありましたが、脚力自慢のグループでしたから、そんなことをなんとも思わず、ぐいぐいと峠を上って行きました。

今からみればたいしたパワーのある自転車でありませんでしたが、長閑な環境を背景に、のんびりと進んで行きました。パンク修理を得意とする先輩は、頻繁に起きるパンクで大忙しでしたが、その処理の早さが自慢なこともあって、まんざらではなかったのでした・・・。

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2008年9月 3日 (水)

野球三昧・1955

4621955 45歳まで暮らしていた久我山の住いの傍にある大蔵省印刷局・グラウンドは、太平洋戦争末期、久我山にあったレーダーの生産工場・岩崎通信機や武蔵野市にあった中島飛行機武蔵野製作所(現在は都立武蔵野中央公園 http://parkandcats.hp.infoseek.co.jp/toritumusasinotyuoukouen.html を防御するための高射砲陣地があったこともあって、終戦近くになるとB-29の爆撃も激しく、この界隈でも多くの犠牲者が出たそうです。確かに神田川沿いの土手には撃ち落されたB-29と思しき残骸が落ちていたのを記憶しています。ジュラルミンや網入りガラスの不思議な塊は近くの子供たちにとってもたいへんなお宝で、周りのどこの家に遊びに行ってもその破片がサイドボードや茶箪笥などに飾ってあったのです。

この写真は1955年、私が野球に目覚め始めた頃、毎週日曜日に開かれる大蔵省印刷局の対抗試合が何よりの楽しみで、大人に混じって観戦しているスナップです。まだルールもまともに理解できず、ただ試合を観ながら、流れや駆け引きなどを覚えていった頃で、小学校3年生の年です。この翌年から、野球熱が更にヒートアップして、小学校の野球大会ではピッチャー役を授かり、武蔵野少年野球大会にも参加するようになりました。

此処、大蔵省印刷局グラウンドの野球は大人の野球ばかりでしたから、当時は今よりも、もっと下品な野次が飛び交っていて、私はまだ意味も解らないのに耳から入ってしまった覚えたての刷り込みを,家で叫んだりして父のひんしゅくをかったりしました。それと、いつも自転車でベルを鳴らしながらやって来るアイスキャンディー屋さんが楽しみで、今のような食品衛生上、あまり好ましくない製造環境で作られていたアイスキャンディーを買って貰うことも、野球観戦の大きな要素でありました。

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2008年9月 2日 (火)

1967年・モンテカルロ

29b1967 まだ自動車免許証を持っていなかった1967年の春、降って沸いたようなヨーロッパ・スポーツ関連の取材旅行のスタッフに潜り込んだのはよかったのですが、ほぼ毎日300キロ近いドライブの連続でへとへとになりそうな状況でした。

車はロンドンのBMCで借りたMGと、当時スイス・ローザンヌでホテルマンの修業をしていた吉田一政さん(写真・右)の持っていたミニクーパーという小型車の2台でしたから、そこに大人が五人と荷物をぶち込んでの窮屈な、珍道中まがいの毎日でした。ツアーは2月23日から4月6日までというロングな日程でしたが、様々な初見聞を堪能できた私は、若さもあって全く疲れを見せずに、毎日ナビゲーター役に徹したのです。そんなことを言っても、ミシェランのマップだけを見せられてのナビゲーターは相当にしんどいもので、少しでもルートを外れるとお叱りの嵐が後方左右の座席から吹くのでした。

この写真は、モナコでのスナップです。右の吉田さんはホテルマンの修業をしつつ、当時、三船敏郎さんの主演?による『グランプリ』という映画にも出演したほどのドライビングテクニックの上手な方で、モナコに到着する前に越えて来たイタリア・ドロミテ地方の崖をラリードライバーのようにドリフトしながら疾走したスリリングな記憶は、今もって消えないどころか、あれほどの恐ろしさをよく隣で耐えていたものだと、今でも妙に感心してしまうのです。

モナコにはグランプリレースの取材を含め4日ほど滞在し、最後の夜にカジノに正装して出かけ、スタッフの一人がブラックジャックで当時の初任給の二年分という大金を当て、そのおかげで全員旅行を延長してスペインまで足を延ばす事となりました。

この写真はその奇跡の起こる当日のお昼頃です。

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2008年8月16日 (土)

1957年・波佐間 臨海学校

195742 夏の臨海学校が小学校4年生からスタートしたものの、水泳というよりか、水嫌いの私にはこの合宿が、どうしても避けられない恐怖の頂点でありましたし、毎日が辛い訓練の連続でありました。

水泳を教わるのは、同じ学園の大学生で、主にラグビー部の厳つい身体をした怖い大先輩ばかりでしたから、その恐怖がさらに拍車が掛かったようなものでした。初日午前中に基本的な泳ぎ方を習い、午後には即試験で上手・普通・下手という格差丸出しのクラス分けが為されました。私はもちろん下手のクラスでしたから、この学園の伝統である赤い褌に赤い帽子という、いかにも下手そのものといった姿を晒し、海中でしごかれるのでありました。

大学生の中には当時大流行していたウクレレ持参で、水泳訓練が終ったあと子供たちと一緒に合唱に合わせて、覚えたてのコードを披露してくれる優しい先輩もいましたから、そろそろませて来た年頃でもあり、早く大人になって、イカス音楽をやりたいなあ・・・などと思っていました。

毎朝の朝礼も大学生が仕切っていて、今と違い、長所など無視して一人ひとりの問題点・弱点を全員の前で実態よりもオーバー気味に披露されるので、気の弱い生徒の中には半べそをかいている者もいて、ずいぶんきびしかったものです。この写真を観ても、ほぼ全員が憮然とした顔つきをしているのは、そのような理由からであります・・・。

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2008年8月 3日 (日)

1963年・自転車合宿

196310jpg 1963年・8月3日から11日にかけて実施された、サイクリング同好会の部の昇格を賭けた合宿は、全てが初体験のようなもので、見方を変えれば珍道中のような有様でした。

当時はタンデムも、走行地域指定などありませんでしたから、お宝のような東叡社のダークレッドのメタリック塗装の一台こそが王者の貫禄を存分に発揮して、チームのメンバーがバテ気味にでもなろうものなら、後方から檄が飛んできたりと、鈍らな体力の高校一年生を荒ぶる男へと鍛えていったのです。

この写真は、合宿初日の朝9時頃、高校の正門に横付けされた「成城大学自動車部」のトラックにタンデムを積み込んでいる様子です。先輩の嘆願により快諾された、他大学の協力により、この合宿は実現したも同じだったのです。

重そうな荷物もがっちりと括られて、この中には、これからの9日間のダートなツーリングに向けて救急薬品やら、調理器具なども、仕舞い込まれています。このあと、トラックに四人ほど乗り込んで、渋川まで自転車と一緒に揺れる道中をしんどい思いをしながら運ばれていきました。残った私と佐々山さん・中村さんの三人は電車を乗り継いで渋川で合流したのです。初日は渋川を午後4時40分にスタートし、伊香保に向かいましたが、いきなりの急勾配は想像以上!、10キロの道のりを時速5キロという状態でしたから、タンデムを運転した中村隆司さんと佐々山厚さんは、初日から疲労困憊の状態でした。

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2008年7月31日 (木)

久我山の坂道 昭和30年代前半

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写真提供:杉並区高井戸第二小学校

7月6日のブログと同じ本の中に登場する写真です。

生まれてから45年間お世話になった、井の頭線・久我山駅の南口を出て、人見街道を横断すると間もなく、狭く急な蛇行した登り坂道が現れます。

今では左右に多くの商店が立ち並んでいますが、昭和30年代前半はご覧のような田舎風の雰囲気でありました。只でさえ狭いのですから、此処を岩崎通信機のサラリーマン・国学院久我山高校の生徒が上ってくると、久我山駅に向かう下りの人とが混ざり合って、この辺りで渋滞したりしたものです。

この写真では既に簡易舗装化していますが、これは毎年、台風の大雨で右の土手から坂道に滝のように泥水が流れ、足元がすくわれ大変危険な状態になったからです。小学校低学年の頃はこの坂道が土でしたから、雪が降ればスキー場となって、この時代特有の竹スキーに乗ったお兄さんたちが遊んでいたことを思い出します。

電柱に表示されている「カメラの店 リヒト」は当時としてはたいへん洒落た建物の写真屋さんで、店主の林さんの腕も良かったものですから、この界隈には多くの得意先を持っていて大繁盛していました。

右手に見える赤土の土手のさらに右には広大な雑木林が広がっていて、延々と富士見が丘までつながっていました。この雑木林を下ると神田川に降りることが出来ましたが場所によっては雑木の根がからまっていたり、伐採した枝の鋭利な切り口が上を向いていたり・・・などと危険極まりないところもあって、よくこどもが怪我をしていた記憶があります。この雑木林を横断すると家まで早く帰ることが出来ましたし、春となれば自然の草花が咲き誇っていましたから、ほぼ毎日、この自然の宝庫を楽しめる場所を目指して、土手を登っては帰っていました。

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2008年7月29日 (火)

夏の学校 1957・初めての褌だ!

195741 小学校4年生からの夏の学校という避暑を兼ねた勉強と水泳鍛錬が、この学校の連綿たる伝統行事でしたから、水泳を最も苦手とする私には最悪の学校でありました。この年頃ともなれば、早熟な仲間も多く、ずっと年の離れた兄貴からこっそり持ち出したであろう『その類』の雑誌を、夜の消灯時間になるとちらつかせる輩もいたり・・・と、それなりの社会勉強のチャンスでもあったりしたわけでありましたが・・・!。

それでもこの姿をご覧になっておわかりのように、男子は褌姿であります。褌の締め方は教室で何度となく練習していていましたが、実践の場ともなれば思うように締められない男子も多く、先生方もずいぶんと手こずっていたようです。褌のコツは最初の折り方と最後のお尻にまとめるときの絞り方なのですが、案外難しく、身体の硬い私も苦労したものです。しっかり締め付けませんと、『こんにちは』をしたりと思わぬハプニングで女子のひんしゅくをかってしまいますから、お座なりにはいかないのです。柔軟体操をしていても、いつ突然『こんにちは』になるか分からず、ましてや隣が女子という絶対絶命な男子ならば,隣が気がかりで、体操などには全然身が入らないのでありました。

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2008年7月24日 (木)

芦ノ湖はネス湖のようでした。

22 23 1955年の箱根芦ノ湖の光景は、私の通っていた学園の箱根寮から撮影されたものです。

此処は広大な敷地があって、小学校2年生の私にとっては初めて体験するワイルドライフでした。夏の学校と称する避暑を兼ねた合宿は、勉強あり遊びあり遠足あり・・と子供にとってもわくわくする毎日の連続で、それこそ明日が待ち遠しい、と思わせるほどの魅力に溢れた毎日を堪能できました。

寮の北側には乗風台という名の小高い丘があって、其処を上ると視界が開けて、野趣に富んだ草原が360度パノラマのように展開していました。場所によっては背丈ほどある草原でしたから、駆けっこ・ゴジラごっこなど手当たり次第に遊びのネタを活用しまくり、午後の勉強は疲れきっていて、居眠りとの格闘ばかりしていました。

この草原をさらに奥に進むと、子供にはお化け屋敷のように思えた学園創設者の山荘が、朽ちていましたが立派な外観が佇んでいて、勇敢な生徒はどしどしと入って行き、まるで英国のカントリーハウスのような暖炉の周りには、古の優雅な時代が在ったことを示していました。

小学校時代はこのあと臨海学校ばかりとなりますが、私はこの箱根の体験が、ほぼ手付かずの自然環境とじかに触れ合ったという意味では、今も鮮明なできごとでありました。

この環境も、その後、諸般の事情により規模も縮小となったようですし、乗風台近辺には立派な施設も完成したそうですから、近々一度、この写真を持参して、現況を観察しに行こうかと思っています。

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2008年7月 4日 (金)

45年ぶりの鳥居峠

20080628 196306jpg 196301 196302_3 先月末は、二週続けて、小布施行きということになり、慌ただしいこととなりました。後の週は、早めに東京をスタートして、長野自動車道を上田で降り、鳥居峠方面に向かい、45年前にさんざん辛い輪行となったサイクリング合宿のコースを一部ですが辿ってみました。当時の鳥居峠は砂利道で転倒するメンバーも居て、厳しい道でしたが、今や快適な舗装となっていて、ご機嫌なドライブとなりました。しかし、写真に残された峠らしい趣きは全く消え去って、地元の有志による味噌汁・山菜の無料サービスで、関係者だけが盛り上がっていました。当時は、この日とは逆コースで、吾妻川を横に観ながら、渋川方面から上田に向かい、上り坂をひたすら砂利と小石にタイヤを滑らしつつ、この鳥居峠を目指して頑張ったのでした。途中、パン屋で買ったコッペパンが、石のように硬く、水を付けながら、ふやかして食べた昼飯の記憶が今でも鮮明です。鳥居峠まで来れば、あとは快適な下りが待っていると嬉しがっていたのですが、思った以上の急な下り坂の連続で、ブレーキのかけっぱなしとタイヤが滑ったりで、菅平の宿に着いても振動の余韻は抜けず、へとへとな状態となりました。

さて、小布施から戻り、当時、一緒に走った佐々山厚さんhttp://www.geocities.jp/aysasayama/が合宿スケジュールを保管していたことを記憶していたので、電話したところ、早速、メールでこのデータが転送されました。毎日の出来事が簡潔ながら、今でも、あの時の汗と誇りまみれの毎日が鮮明に蘇ってきます。第三日に上州三原をスタートして、鳥居峠を越え菅平に到着する日のデータが出てますが、時速五キロ前後の速度でとろとろと上っていったことが記録され、この日のイメージは今も身体が覚えています。このデータの最後の日に出てくるのですが、甲府からセンター(何故か、東京サイクリングセンターに寄っている!)まで116キロを、佐々山さんと二人で重い荷物を載せ走ったとは・・・、元気な古の頃の記憶が、また、蘇ってしまいます。

こと左様に、些細なことでも、まめに記録に残すことは、面倒くさいことではありますが、あとからこんなにも鮮明に、時をリバースさせてくれますから、人生には、けっこう大切な技術であると確信してしまいます。とくに、手書きだからこそ、時の経過も一緒に戻れるわけですから、やはりここでも、アナログのもつ強さを実感する次第です。

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2008年5月11日 (日)

1963・自転車合宿 鳥居峠

196318_2写真:佐々山 厚さん                             

1963年、高校一年生の夏に決行した、サイクリング同好会の部・昇格条件としての夏合宿は、それまでに体験したことのない、人間関係を含め、多くの実学的経験をすることとなりました。特に、頻繁に起きる転倒のかすり傷の応急処置、自転車の故障の修理などは、この合宿を通して、どうにか見よう見まねで覚えたようなものでした。

今では、全国何処に行こうと舗装は当たり前ですが、この年は東京オリンピックを来年に控え、関東甲信越方面は、まだまだ未舗装地域が圧倒的というものの、突貫工事に殺気立つ舗装工事の箇所にも、度々遭遇しました。

そうなれば、夏の炎天下、ただでさえしんどい状況下、口をちょっとでも開ければ、砂・土埃でジャリジャリとなってしまい、からからになってしまった喉のうがいに精を出すしかないのでした。おまけに、履いている靴は、当時のロードレース用の、底も情けないほど薄いものでしたから、砂利道を歩けば、靴底から砂利石の痛さをじかに感じましたし、足元がふらついて歩きにくいこと、この上ないのでした。 鳥居峠を下っているこの写真にしても、表向きは笑っていますが、実際は頻繁に行き来するダンプカーに僻々しているのです。砂利がばら撒かれた道路は、滑るような危険に満ちていて、すぐ自転車がすくわれて、転倒もひっきりなしといった状態で、夕方にはヘトヘトになって、その日の宿に辿り着くのでした。

おまけにサングラスひとつとっても、ぴったりと顔や耳にフィットするものなど皆無でしたから、砂利道で振動する顔面を逆撫でするように、容赦なく、縦に揺れ動き、それがやたらと気になっていました。

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2008年5月 7日 (水)

遠足は、なにより弁当です。

19552 1955年、小学校2年生の時、春の遠足は石神井公園というかなり至近距離でした。この当時は、静かでじめっとした湿気感覚に溢れた公園であったことを記憶しています。

何故か至る所に横穴があって、これが戦時中の防空壕なのか古代のものなのか定かではありませんでしたが、子供にとっては探検が未知との遭遇的要素もあって、おおいに堪能しました。

穴の中は粘土状態のべたべたな状態でしたし、真っ暗なこともあって滑ったりしましたから、泥だらけとなってしまい帰って親に怒られるのも致し方ないとあきらめてましたが、担任の清水先生はそんな些細なことを気にせず、生徒を率先して遊びまくりました。学校構内の環境よりも勾配の豊富な環境でしたからお腹も減り、当然、お昼のお弁当が愉しみでありました。皆、弁当箱に海苔とおかかの組合せから、当時子供には人気だったオレンジ色したソーセージを敷き詰めたものまで、小ぶりな弁当箱はほんの数分でからとなり、また、遊び続けたのでした。

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2008年4月30日 (水)

1956年・私の日記より

308_04 今は、東京・井の頭沿線の中でも人気のある久我山ですが、52年前はこの日記に出てくるように「駅を降りればそこは村!」と云われてもおかしくないほどの、牧歌的な風景が展開される町でした。この竹やぶは自宅のちょっと前にあった、まるで京都の嵯峨野を思わせるような場所でした。今でも、新緑が出てから秋の落ち葉になる迄、竹やぶを通して拡散する光の感覚を妙に覚えていて、いつもキラキラしている竹やぶの中を、探検家になったような気分で横断して家に帰っていました。

194701_3又、久我山南口を降りると今でも急な狭い坂道になっていますが、この時代は赤土丸出しの切通しで雨が降るものならば、赤土の混ざった泥水が駅に向かって流れて来て、神田川に流れ落ちていたのを、よく覚えています。その切通しを登ると所謂武蔵野の雑木林が現れて、ここでよく遊んで、家に帰っていました。今ほど明るい町ではなく、冬場は夕方ともなれば真っ暗で、おまけに家まで街路灯などなく、ずいぶん子供にしてはスリルのある家路に至る道筋でありました。

1947年に米軍が撮影した久我山駅周辺の画像は、この日記を書いた1956年とさほど変わっておらず、真ん中の交差する辺りが久我山駅周辺ですし、蛇行している川が神田川です。「駅を降れがそこは村!」という意味がお分かりかと存じます・・・。私が寄り道しながら帰っていった道程も手に取るように鮮明であります。

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2008年4月24日 (木)

福澤幸雄さん・1967年

411967 421967   黙っていれば、映画 のワンシーンのような写真ですが、れっきとした私の手によるものです。

1967年の2月26日から4月13日にかけて、ヨーロッパのモータースポーツレース・国際スポーツ見本市に何とか潜り込んでスタッフという形で同行したときのスナップです。

お若い皆さんは、あまりご存知ないでしょうが、当時国内でもダントツのレーシングドライバーであり、トレンドリーダー的存在の福澤幸雄さん(1943~1969)の「お姿」であります。

当時私はプロダクトデザインを専攻する学生で、父に懇願してこの旅行に同行させてもらい、おかげでヨーロッパの生活そのものから商品・建築に至るまで、イギリスをスタートにベルギー・ドイツ・フランス・スイス・イタリア・スペイン・そしてモロッコと、夢のような一ヶ月半の経験をしました。

福澤さんは当時パリにいらして、途中から私たちと合流してくれました。その流暢な英語・仏語のうえ更に、駄洒落も半端でなく、ただでさえ疲れ気味の私たちを楽しませてくれました。さらに海外生活で身につけた体験からのモノに対する洞察力も厳しいものでしたから、一番若い私にもよく基本から教えて下さり、この旅行を通してその後の自分の生活観からモノの選択嗜好性が決定付けられたと思っています。

さて、この写真に写っているトレンチコートこそ、今でもマニアの中で垂涎の幻ブランド・『銀座チロル』でオーダーされた逸品です。高山次郎さんという銀座でもダントツの洒落者が作る服・小物の類は何処にも真似出来ないオリジナルの工夫があって、このコートで言えば、首の部分とポケットの部分に細かい生活の裏打ちから発想された仕掛けが為されていました。とびっきりの高価格でしたが、市川昆さん・高倉健さん・三木のり平さんら黄金時代の映画関係者でひと際狭い店内は週末ともなると大混雑でした。また、支払いも今では考えられませんが、まるで江戸時代のように年末一括払い掛売りでしたから、よけい映画関連の皆さんには都合よかったのかも知れませんが、大辻司郎さんのように支払いをせずに亡くなった方もいらっしゃいました。

話が横滑りしましたが、この福澤幸雄さんも、この写真を撮ってから2年後の1969年2月12日に静岡県袋井市・ヤマハテストコースでトヨタ-7を運転中、不慮の事故に巻き込まれ亡くなります。この事故後のトヨタの対応が余りに機密保持の大義名分の下、情報公開を拒絶したために、その後1980年代まで法廷で争うこととなるのですが、今やトヨタ内部でもこの事件の真相を掌握されている方も居なくなったも同然・・・などと聞いています。

福澤幸雄さんに関して http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E5%B9%B8%E9%9B%84

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2008年3月19日 (水)

1968年・都市住宅

Img_6559 Img_6560 Img_6561 仕事柄、古い雑誌も捨てられない事が多いのですが、周りの皆さんは、スキャナーを通して、PCにデータとして取り込んでいるようです。確かにそうすればスペースもスッキリして気持ちよいことは分かるのですが、自分にとってその時代とシンクロしているような雑誌・資料の類は、そう簡単に潔くはいかないのであります。

この、都市住宅誌も何十年分をストックしてましたが、処分しようと決心したものの、昨今の古本市場の非情さもよく分かっているので、熟慮を重ね、1960年代から1975年あたりを残し、その他を廃棄しました。残した中でも、最も私が気に入っているのがこの写真の二冊であります。いわゆる建築におけるバナキュラー(地域性)を採り上げたものですが、この頃、建築だけでなく音楽・絵画などにもインターナショナルな無国籍感覚とのバランスをとったのか解りかねますが、同じ傾向が芽生えだしました。この頃、私が興味をもってどっぷりと嵌まりこんでいたブルーグラス音楽・サザンロック音楽にも地域の伝統を絶やさないリズムや音色が散りばめられてました。

この雑誌を見て、1965年頃から始まったジーンズ革命のような、カジュアルでありながら普遍性をもった自分が楽しむための道具としての建築に、私世代はたいそう影響を受けたのであります。今や、エコロジー建築が大きなトレンドとなっていますが、この時代はもっと個人の楽しみとしての建築といった要素が強かったように記憶していますし、当然、WHOLE EARTH CATALOGの影響も多大であったこと、間違いないのでした。

Bji この雑誌に登場したシーランチという海辺の建物には特に憧れ、わたしと同じような感覚を持った人が多かったのか、この翌年には郊外・別荘地にもそっくりさんがどんどん建つようになりました。日本ブルーグラス界の名バイオリニスト、佐宗知自彦さんが経営していた苗場・BLUE RIDGEというペンションもこの『アメリカの草の根』の傾向を素直に採り入れた建物で、中にはいると杉の香りもたっぷりでしたから、夜な夜な暖炉の前で繰り広げられるブルーグラスのジャムセッションは、日本でないような感覚をもつほどでありました。

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2008年2月15日 (金)

1969年・八方尾根

19699 学生時代も終盤に近づき、周りの連中は授業と就職情報にそそくさとしていましたが、1969年(昭和44年)の春、私は相も変わらずスキー三昧の春休みでありました。多少のデザインに関係するアルバイトのおかげで、春スキーのために溜め込んだバイト代をこの春の楽しみのために一気に使い切っていました。免許も取って、念願のブルーバードSSSを購入し、はじめて八方尾根まで車で行きましたが、中央高速は甲府手前までしか完成してませんから、その先延々と塩尻峠を越え、9時間近く掛けて八方尾根までのロング・ツーリングを独りで堪能していました。八方尾根に初めて行ったのは1968年からですから、この写真はその翌年ということになります。

デザインに関係するアルバイトの他、銀座のスキーショップのアルバイトなど、遊びのためにはこれでもしっかりと稼いでましたが、銀座のスキーショップに入荷する最先端の道具が買わざるを得ないほど希少なブランドばかりでしたから、誘惑に弱い私はバイト代を前倒ししては、手に入れてました。この靴はROGGが初めて採用したカンティ・レバー方式でしたし、ストックは念願のSCOTT、板にいたっては当時のスキーマニア垂涎のブランド・スイスのSTOCKLI(一般には銅鍋のメーカーとして有名ですが)と、学生の身分ではあまりにも驚愕値段でありましたが、又バイトで何とか出来るだろう・・・などと軽い乗りで購入したものばかりです。

奥に見える東急山荘は、未だ、だるまストーブがぎんぎんに赤く焼け、ワイヤーに吊るされたグローブからは汗の臭いがうっとおしい、トラッド感に満ち溢れたロッジ風の山小屋で、ここでいただく洒落た珈琲やサンドゥイッチが周りの小屋のメニューよりもモダンな感じでしたから、滑り降りてはよく休んでいた場所です。

19691_1 今では、日焼けがダサい時代ですが、当時は黒く焼けていることがある種のスティタス性を含んでいましたから、誰に教わったか定かではありませんが、CocaColaとメンソレータムを混ぜて塗ると速く濃い色に日焼けするなどと云われていた時代ですから、私もご他聞に漏れず、小僧の手習い風に真似をしていました。

細野村の定宿『八平荘』を出て、一日中、春時期の強烈な日差しを受け、東急山荘の目の前に広がる鹿島槍をはじめ北アルプスの雄大な眺めを日焼けしながら、ぼーっとできる至福のひと時を満喫していました。

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2008年2月13日 (水)

1956年・私の日記より

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小学校の教室に早く来る友達はだいたい決まっていて、今から思えば、殆どが元気で遊び好きな仲間ばかりでした。

この時代、授業の始まる前に遊ぶのは当たり前で、ドッジ・ボール、野球、そして缶蹴りが人気御三家でありました。当時の2月は今と違って、まだ寒かったように記憶してますから、体を温めるにも、遊びまくったのであります。

8時前には教室を飛び出して、缶蹴りが始まると、よそのクラスの仲間も入って、結構大人数となりましたから、一度鬼になってしまうと、簡単に鬼の役を離れることができなかったため、妙な公平意識も芽生えて、最後の頃は順番に鬼を決めるようになりました。

当時の運動靴の先のゴムの部分はさほど厚いわけでもなかったので、丈夫そうな缶が主役の時は、うっかり蹴るとやたらつま先が痛かったことを、覚えています。

たっぷりと遊んで授業開始のベルがなる頃には一汗かいていましたから、教室に入ってダルマストーブで暖められた部屋で身体から発した湯気はもちろん、更に汗が吹き出るのでした。

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2008年1月30日 (水)

1956年・私の日記

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1956年の日記から、相変わらず『まっすぐ帰らないシリーズ』であります。

わんぱく盛りの始まりであった頃で、まだ、ローカルでほのぼのとしていた井の頭腺・久我山駅の、駅員さんの眼を盗んでは改札を通らずにホームから飛び降りては、南口に出ていました。今では危険極まりない行動などと、お叱りを受けるのでしょうが、この時代は大人も子供も、結構、こういうことをしていたものです。駅の前を流れる神田川の周辺は一面が水田で、秋ともなると稲作が始まり、駅から南南西の方角に見える久我山稲荷神社からは収穫祈願のお囃子が聴こえてくる、といった東京郊外の村のような所でした。まだ道路は舗装もされず、農家の牛でさえ人見街道をゆっくりと歩いていた、笑えるほどのカントリーだったのです。

南口を岩崎通信に向かう道はこの当時、切通しの赤土(関東ローム層)が露出していた細い急坂道で野趣に富んだ武蔵野風景が続いていました。車など通ることなど稀でしたから、石蹴りをしながら家までたどり着くのが面白かったのでしょう・・・。以前の日記にも出てきた竹薮に入って石を蹴ると竹にぶつかった反響音が軽快に鳴り渡り、その大きな音で、爽快感を味わうことができました。しかし、農家が点在していた環境もあって、家の傍にあった肥溜めだけは苦手で、小さい頃に「あそこを覗くと怖い生き物が中から出てくるぞ」などと近所のお兄さんにたき付けられましたから、低学年までは本当に恐る恐る通っていました。

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2008年1月25日 (金)

1960年1月13日・マラソン大会

1960_1136 今は立派な近代的校舎が林立する吉祥寺にあるこの学園も、1960年当時はまだ長閑なケヤキに囲まれ、野趣に富んだ雑木林やグラウンドもたっぷりあった、素晴らしい環境におかれていました。高度成長期のど真ん中、まわりの景観もどんどんと変化していく中、この学園だけは未だ、創立以来の質実剛健な気風が、その環境にも充分反映されていました。

この写真は小学校卒業の年、1960年1月13日に開催されたマラソン大会のスタートです。平均点がある一定以上であればエスカレーター式に中学の進学が約束されますが、この時期はまだそこがハッキリしていませんから、成績が平均点の上下を行ったり来たりしていた私は、落ち着かない日々でありました。また、都心よりは3度近く温度の低いこの場所で早朝からのマラソンは、子供にとっても厳しい鍛錬以外のなにものでもありませんから、ただひたすら走りながらも、中学進学のことが気がかりでありました。 

さて、濱 徳太郎さん(フランクロイドライト著『建築のために』訳者・日本クラシックカークラブ初代会長)というクラシックカー・コレクターの住いがこの学園の傍にあって、そこにはロールスロイスから、ブガッティ・ベントレーなどが簡素な木造の車庫に横一列に並んでいて、なぜかこの周りだけは、ブリティッシュ・カントリークラブのような趣きがありました。この簡素な車庫と同じような佇まいは、鶴川にある白州次郎・正子の住い、『武相荘』にも遺されています。7

さらにこの写真で、横に走る五日市街道の奥に見えるモダンな外観の建物がアントニン・レーモンド設計による赤星鉄馬邸  http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/001756.html   http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/001768.html の裏門側でありますし・・・、一時代、この学園の周囲は素晴らしいグレードを誇る、田園叙情的な環境であったことだけは間違いありません。

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2008年1月24日 (木)

1956年・私の日記

30104 1956年、私の家にテレビが来ました。

父は観念的左翼派であり、中途半端なリベラリストでしたから、日本経済の推進力の象徴であったテレビを観念的に嫌ってましたが、周りの生活エンジョイ型親族に煽られ購入する次第となりました。ところが、テレビが来てからというもの、野球に相撲にと、嫌っていた本人が誰よりも毎日テレビ漬けとなってしまい、学校から戻ってくると食卓に陣取ってテレビを楽しんでいた父の様子が思い出されます。父が48歳頃の出来事でしたから、もし私が父と同じ状況にあれば、テレビの誘惑に勝てる筈もなく、同じ行動をしていたに違いありません。

ところで、この日の日記の「おち」が傑作で、この頃から父に感化された以外考えられない内容なのですが、こういう結論を強引に引き出す論法は今日まで私を引きずっていて、周りを引きずり回す事、多々ございます。

1956年ですから、千代の山( http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/chiyonoyama.html )・若乃花( http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/wakanohana1.html )の両力士とともに栃錦・鏡里・吉葉山の五横綱が相撲の黄金時代を作り始める頃の記録です。テレビを食い入るように見ていたのか、先生に褒められたカットがリアリティー充分です。

(「団塊の世代」と耐久消費財の普及)
「団塊の世代」前後の世代からは,その前の世代にはなかった消費生活の経験をしている。それは例えば耐久消費財の面で典型的である。「団塊の世代」が小学生となった時には1956年の「もはや戦後ではない」時期になっており,その頃から,テレビ,電気洗濯機,電気冷蔵庫といった当時「三種の神器」といわれた耐久消費財が家庭へ急速に普及していく変化を経験した。さらに,その後はカラーテレビ,クーラー,乗用車の「3C」と言われた耐久消費財の普及を経験している。このように,「団塊の世代」は,初めての本格的なテレビ世代,マイカー世代であったとも言える。「団塊の世代」が小学校の高学年から中学生となっていた61年にはテレビの普及率は6割を超え,その後,63年にはテレビアニメが,さらに65年にはテレビ空想特撮の放送が始まっている。(Dr.黒石の 最近思うこと)より

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2008年1月13日 (日)

1956年・私の日記より

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1956年の日記からです。当時は野球と同じほど子供に人気のあった相撲ですが、最近のテレビ中継を観ても升席が空いていることが多く、一連の不祥事以前から週間文春や週刊現代などで相当昔から追いかけている八百長問題を含め、はっきりしない協会のスタンスなどが白日のもとに晒され、今はどうなんでしょうか・・・。

この頃、私は野球に目覚めだした頃ですが、待ちに待った新品のテレビに釘付けとなっていて、まだ数少ない番組から「日真名氏飛び出す」を筆頭に人気番組が始まると宿題も疎かになり、日記も少しずつ、手抜き状態の比率が上がってきました。

当時の力士のキャラクターも幅広く、今のような海外調達など考えられず、日本の農業と、天皇制を背景に堂々の日本主義を謳っていました。私は信夫山・鳴門海といったそっぷ型の力士が気に入っていましたが、それほど強いわけではなく、むしろ負けっぷりの美しさに魅かれていたような気がします。大多数は千代の山・若乃花といった優勝確立の高い力士を応援していて、それが尋常な精神なのでしょうが、もって生まれた我家の偏屈精神の宿命が、そんなものの見方をしてしまったのかも知れません。

担任の清水晴男先生の応援していた松登は、色黒の突貫小僧で、負けっぷりがお気の毒と言われても仕方がないほど哀しい姿だったのを、テレビを通しても感じていました。

栃若時代がすぐそばまで来ている時代の日記です。

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2008年1月 7日 (月)

1956年・私の日記

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318b_04小学校3年生の一時期、何がそうさせたのかは 、定かではありませんが、突然、模型作りにのめり込んでいきました。

小学校の帰り、普通の良い子はまっすぐお家へ帰るのでしょうが、私は父の血をひく遊牧癖でもあったのでしょう!・・・、吉祥寺の街中をもうこの頃から徘徊しては町のもつ面白さを堪能していました。

とくに北口のマーケットは今もその面影が僅かながら残っておりますが、当時から独特の趣きがあって、子供ながらスリリングな感覚を覚えました。なにしろ、アメリカ軍基地の横流しモノから農家直売の卵売りまでと、その幅と懐の深さが尋常ではなかったのです。

そんな中にぎっしりと模型部品で埋まっていた『歌川模型』を見つけた時の、ドキドキ感は、それまで味わったことのない出来事でした。この戦艦武蔵を始め、一年間ほどで、20以上の戦艦・巡洋艦・駆逐艦、それも日本海軍のものばかりを作りました。歌川の親父さんも面白い人で、今から思えば実に江戸っ子らしい台詞回しのような調子で、模型の奥深い世界を講釈してくれたのです。

この店と、6年後に出会う『東京サイクリング・センター』の板倉修さんという、二つの店と店主の強烈な個性と神通力をまともに浴びてしまったことこそ、その後、私のこだわり癖と職人的感覚が身に浸み込んでしまった最大の要素かも知れません・・・。

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2008年1月 2日 (水)

1963年・自転車合宿

196314 写真:佐々山厚さん www.geocities.jp/aysasayama

1963年の夏に決行されたサイクリング部への昇格を意図した合宿は、思いもよらない場面に遭遇することも多々あって、都会生活の便宜性しか殆ど知らない私たちには驚きの連続でした。今では、全国津々浦々舗装が完備していますが、当時は舗装比率は相当低く、地方の一級国道でも泥道だったりしていました。

この場面は、長野原から菅平方面に向かっているところと思われますが、まもなく日も暮れようとしている状況下、未だにこの最悪の行軍であります(私は前から2番目)。今では、立派な自転車専用の靴なども売られていますが、この時代はロードレース以外のツーリング用の靴がひっくり返るほどの高価格で、高校生がおいそれと手の出せるものでなありませんでした。ですから、あの懐かしいリーガルのコインローファーで合宿に参加した者が殆どでしたが、私は度胸が良かったのか、ロードレース用の底の薄い靴で参加しました。そんな靴を履いて、この泥んこ道を自転車を押して登っていけば当然、足元をすくわれること度々で、この日の宿泊地に着くと、ばたっと倒れこむほどの疲労困憊でありました。

先頭に立つ山田隆男さん(現・サクマ製菓株式会社・社長)は当時からたいへんなスタミナの持ち主で、この合宿が終わった後も何度か関東近辺を一緒に走りましたが、私が持ちあわせてないパワフルながら寡黙な性格は、正にこの頃から親分肌そのものでありました。

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2007年12月30日 (日)

1955年・私の日記

204_1 1955年、小学校2年生の時の日記です。突然このような文体の日記が登場して思わず笑ってしまいます。父の影響などあるわけでもなし、きっと先生が授業で詠った詩かなにかのインパクトが強烈だったのか、家に戻ってその印象が薄れぬ前に書きとめたのではないでしょうか。これに似た視点の文体は後にも先にもこれっきりでありますが、さて、何の因果であったのか今もって不可解な文案ではあります。

担任の清水先生は根っからの先生塊のような方で、多くの素晴らしい卒業生を育てましたが、今時の間抜けな父兄でしたら「あまり子供に干渉しないで下さい!」と思わず叫んでもしょうがないほどの子供の躾には熱心な先生でありました。ある時はたいへん厳しく、又、ある時はたいへん優しく指導されたので、その片鱗は日記に書かれている先生のコメントにも良く表れています。

この頃、毎日学校の帰りに久我山駅傍にあった関口文具店に寄り道しては、大きな硝子鉢(昔の煎餅屋さんにあったタイプのもので、アルマイトの蓋が付いていました)に入った綺麗なプラスチックボディのボンナイフが子供には煌めくお宝のように見えていましたが、2年生では刃物など持てるわけがなく、早く高学年になりたいと思っていました。又、この頃の消しゴムはやたらと香りのする不思議なものが子供の間で流行っていて、友達同士で貸しっこ・交換ごっこなどという他愛無いことを楽しんでいた時代であります。

そして念願のボンナイフを学校に持っていける年齢となると、授業中ボンナイフで当時発売され出したプラスチック製のカラフルな消しゴムを削ったり、細工したりする事もあって段々授業が疎かになり始めました。

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2007年12月23日 (日)

1956年・私の日記

310a_04_1 310b_04  小学校3年生の頃、家には秋田犬とスコッチテリアという全くのミスマッチ状態の二匹を飼っていました。当初は慣れない様子でしたが、半月も経たぬうちに仲もよくなり、毎日庭で遊んでいました。そんな頃の日記です。

突然ドッジボールの上に乗ったスコッチテリアの敏捷さにびっくりはしましたが、そのサーカスもどきの動きがユーモラスで、学校が休みともなれば、朝早くからこの芸当を見たいがために早起きして犬と遊んでいました。秋田犬はただ、ジーッと静観するだけで、スコッチテリアを羨ましく思っているのか、馬鹿にしているのかも分からぬほど、じっとしていました。

この絵には描きかけのまま終わってしまったのでしょうが、母がミシンを踏んでいる様子が見えます。何故これがミシンなのかとお思いでしょうが、これはまさしく戦前のシンガー・足踏みミシンです。母の顔の左に描かれたハンドルのような絵がその証拠であります。この頃、家にもテレビが入り、野球や相撲などの番組が楽しみでしたが、この時代、昼間はさほど番組数もあるわけでもなく、今のように一日中テレビに釘付けではありませんでした。ガラス戸を開け広げた家の中に見える食卓と椅子は父が好きだった松本民芸家具 http://matsumin.com/index0.html で、当時は創業者・池田三四郎氏が直接注文を受けて製作していたように記憶しています。

こんな絵日記でも、案外、その時代の風俗の記録ともなっていますから、自分なりにその時代にすんなりと戻れることが出来て満足しているのであります。

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2007年12月20日 (木)

1956年・私の日記

304_04 今、都心では土があらわな地面も見つけることが難しいほど、きれいに整ってしまった環境があたりまえの普段の生活環境でありますが、51年前は、朝、外に出ると霜柱が地表を持ち上げて、冬の季節のお約束風物となっていました。私の家は北側を神田上水が流れていて、その崖上にありましたし、風除けの塀もなく、冬の北風の強さが身に凍みていました。霜柱が出来る頃は庭の芝生も日陰が盛り上がり、子供にとって遊ぶ事も出来ず、ただひたすら、春を待つのみなのです。

それでも、スコッチテリアのピス・秋田犬のたろう、二匹とも寒さを楽しむDNAが濃いのか、霜柱を掻き出したりと、父のひんしゅくを買うことばかりの悪戯し放題でありました。

霜柱を通して輝く太陽の光が宝石のように輝いていたのを、よく覚えています。

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2007年12月 3日 (月)

1956年の日記より

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今年の暖かさに比べ、51年前のこの日は寒かったのであります。といってもこの日記は12月3日の記録ですから、これまでなら当たり前の話でありますが・・・。

まだこの時代には、朝早く豆腐屋さんが自転車の後ろに檜材で作られた綺麗な箱を載せ、その中には豆腐やがんもどきなどがたっぷりと入って、家々を回り営業していました。独特のラッパの音色も朝らしからぬ哀しさがあって、子供ながらにも朝から切ない気分になったものでした。

この頃の久我山はほんとうに長閑な村のような所でした。父が此処に居を構えたのは昭和19年頃で、全くの外様の上、芸術を糧にしていた者でしたからずいぶんと胡散臭い目で見られたようで、最初はこの土地に馴染めなかったようです。その上、周りの住人はほとんど150年以上昔から代々此処で暮らしていた人ばかりで、ご近所さんとのお付き合いも変わることなく夫々三代・四代に亘り、中には安政時代に生まれたおじいさんが、かくしゃくとして野良作業に勤しんでいましたから、子供心に「ずいぶんと目つきのするどいおじいさんだなあ・・・」と思っていました。

そんなところでしたから、家の周りは優しい感のある武蔵野雑木林というより、荒々しさばかりが目立った原始感覚の野原・雑木林に囲まれた、『探検ごっこ・水雷艦長』などには事欠かない、子供にとってはまさにユートピアでありました。

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2007年11月24日 (土)

1956年・私の日記

305b_04 305a_04 1956年(昭和31年)の日記ですから、私が小学校3年生の時です。何か思いがあったのか定かではありませんが、急に詩人めいたような日記となり、前日の内容からうって変わり、びっくりです。絵も、なかなか、その時代の雰囲気が出ているように感じます。

この垣根のように見えるのは井の頭腺に沿って埋め込まれたコンクリート製のもので、学校の帰りは此処を通って、親に内緒で神田川の丸木橋(何の加工もしていない丸太を二本並べて荒縄でしばったという恐怖物でした)を渡って崖を登り家に帰るという、実に危険この上ないルートを選んでいました。今から思えば冷汗もので、よく一度も川に落ちなかったものだと思います。

久我山の町の照明の数は少なく明かりも暗い上に、このような木製の電柱に裸電球という江戸川乱歩の世界を彷彿させるようでしたし、この町は想像以上にに田舎で、自宅近辺などは電球がひとつも無く本当に真っ暗でした。

それにしても、担任の清水晴男先生が星印のわきに書き込まれた、「かく」とは何の意味だったのか、まったく記憶にありません・・・。

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2007年11月22日 (木)

1956年・私の日記より

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51年前の冬の朝の模様です。小学校3年生の冬ですが、木造校舎で教室のストーブは真っ赤に鋳鉄が焼けてその周りだけはたいへん熱いのですが、ちょっと離れるとたいへん寒かったのを記憶しています。今とは比べようのない寒い日も多く、日記からうかがえる様に、私と佐藤君はクラス当番として、一番早く登校して教室の環境を整えていました。この時代は下校の際もきちんと教室を整理整頓してから帰りましたから、翌朝、わざわざ早く来て、机をきちんと並べたりする必要などなかったのですが、そこは、まだまだ軍隊的鍛錬が幅を利かせていた時代でしたから、今のように父兄からクレームなど起こるわけもなく、粛々と毎日を担任の清水先生の指導通りに過ごしていました。

この清水先生の、微に入り細に入りの徹底した指導こそが、教わった全ての生徒に腑抜けな者が一人も出ていない事で証明済みですし、父兄にも半端でない信奉者が多かったのです。感情的にも厳しさと優しさのバランスに秀でておられ、身体を動かすことと、感性を豊かにする両面の指導が素晴らしかったように記憶しています。

この日の日記では寒い朝の感じをどう鉛筆で表現してよいものやら・・・といった試行錯誤が読み取れて、その当時を手に取るように思い出す事が出来ます。

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2007年11月18日 (日)

1956年・ラグビー

1956802 1956年に世界一のラグビーチーム・オールブラックスが日本で親善試合をしましたが、当時仲の良かった友達のご両親と秩父宮ラグビー場に試合を見に行き、生まれて初めて本場の迫力を味わうこととなりました。

何しろ、体格の違いは歴然としているうえに、走るスピード・タックルの厳しさなど、まだまともにラグビーのルールさえ知らなかった私でさえもその怖くなるような迫力に、当時人気絶頂だったプロレスのような印象を受けたものです。

それでも、機敏な日本チームが相手の隙間を掻い潜って得点を入れた時には場内の大歓声の大きさにしばし唖然としていました。何しろ生まれて初めてのスポーツ観戦でしたから、この年、我家に来たテレビで観るラグビーとは迫力もぶつかりあう音も格段の違いがありました。

このラグビー観戦が導火線となり、父に強請って、週末を野球・プロレス・相撲と、生の迫力を体験したく、出かけるようになりました。

また、この年、私の通っていた小学校の先輩である高校の野球部が、どういう星の巡り会わせか奇跡的に勝ち抜いて、早稲田実業の王貞治率いる当時の高校生最強チームと甲子園出場を賭けた東京地区決勝戦が、神宮球場で行なうこととなりましたが、予想通りとはいえ惜しくも夢は消えたのでした。応援歌など無い学校でしたから、何かにつけ校歌しか歌うものがなく、早稲田実業の軽快な応援歌を羨ましく聴いていました。

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2007年11月 8日 (木)

1967年・バルセロナ

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1967年、初めてのヨーロッパ旅行は、ブランズハッチの自動車レース・ジュネーブのモータースポーツショー・ミラノのMIASというスポーツ用品トレードショーの取材班に紛れ込んだ旅行でしたから、通常の観光旅行とは違い、毎日がスリルと度胸を試されるような出来事の連続で、今から思えば、どんな状況でも腹を決められる根性が養えたのも、この時の経験があったからこそではないかな・・・などと思っています。何しろ、45日間殆ど毎日が車の移動で、走行距離15,000キロという若さで乗り切った旅行でしたから・・・。

そんな中、この取材班で一番年上なのに一番静かなY田さんが、モナコのカジノで賭けた一発逆転の願いがもののみごとに当たって、途方もない大金を手にしました。普通ならば、ここで自分だけのものとするところを、さすが大人だったY田さん、皆でバルセロナまで大名旅行という事となってしまいました。モナコからバルセロナまで、あのコートダジュールを左に見ながら、これから待っているバルセロナのお楽しみを一人ひとり想像を高めつつ、当時はあまりにも遠い国、スペインまでやって来たのでした。

復活祭の時期とも重なっていて、毎晩深夜までバルセロナの町は人で溢れ、花火もあがって、という日本では体験した事のない、享楽好きな国民性にまず、びっくり!。翌日、ホテルのコンシェルジュにチップを渡して手に入れたチケットを手に、闘牛見物となりました。初めて見る闘牛には日本人では目を覆いたくなる場面も多く、あまり馴染めませんでしたが、私は、ニコンFの望遠レンズを通して観客の興奮状態を覗き見るのに精一杯でありました。当時、人気・実力ともに一番の闘牛士(エル・コルドベス)が登場して来ると最高潮となり、ご覧のような盛り上がりでした。

今や、スペインでも動物愛護の追風が吹き、闘牛士になる少年も激減のようですが、この時代は闘牛士がスペイン国内の花形職業の頂点でした。

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2007年11月 7日 (水)

1964年、初めての副業!

1964_1 昨年の暮れも迫った頃、東京サイクリング・センターで鳥山新一氏と40年以上の再会となりました。

この時は、自転車フリークスになったばかりの梶原建二さんがランドナーのオーダーをする為、私がアドバイザーとして同行したのですが、もしやと思い、鳥山氏に電話をかけたところ快諾して頂き、お店で待ち合わせとなり、梶原さんにも素晴らしいアドバイスをいただきました。

なにしろ、高校時代の殆どを自転車三昧の生活でしたから、よくサイクリングセンターの店でお会いした鳥山先生からもずいぶん自転車に関する情報を教えて戴きました。話が面白いものの、その内容などほとんど海外の、それも最先端の話ばかりで、私など分かる筈などなかったのですが、後になって点・線・面と繋がってきて、「そういうことだったのか!」などと理解できたことばかりでした。

鳥山新一氏は理論的な背景を日本の自転車産業に採り入れ、実用車からスポーツ車への転換を推奨し、東叡社に当時最先端のフレーム工作技術指導をされ、また、自ら各種自転車振興のカタログ・パンフレットの写真撮影もされました。

この画像は、1964年(昭和39年)の3月、まだ寒い頃の奥多摩・御岳方面で撮影したものです。私は左におりますが、早朝に吉祥寺を出発して、現場に行き、撮影に相応しいスポットを探しながら、夕方近くまでずいぶんと撮りまくった結果のベスト・ショットです。鳥山氏は、当時珍しかったベンツのワゴンのハッチを全開して、寝転びながらこのショットを撮影したのですが、なかなか思うようにいかず、NGの連続で、走る私も相当疲れましたがモデルの女性などは普段鍛えていませんから、もう半べそ状態で、鳥山氏がなだめながらの撮影でありました。すっかり冷え切った帰りの車中は、全員ただひたすら爆睡だったのであります。

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2007年10月23日 (火)

ドック・ワトソン1976

1976doc_merlewatson11 ブルーグラス音楽界の名カメラマンにして生き字引の小森谷信治さんから、突然いただいた写真です。

1976年、盲目のギタリストにしてアメリカ中東部から南東部にかけての伝統音楽を次代に伝承しようと伝道師のような役目も担っていたドック・ワトソン http://www.youtube.com/watch?v=3q9ea05XGbs が息子マール・ワトソン等を連れて東京・文京公会堂で公演したときの模様です。あえてどことは申し上げませんが私も何故かステージ上に上がっています。うる覚えですが最後の曲が『Will The Circle Be Unbroken』ではなかったかと思いますが、一緒に歌ったのであります。ステージ奥のタイトルなども手作り感たっぷりですし、何方が招聘されてか記憶が定かでありませんが、温かいステージ模様が蘇ってきます。

日本の学生にも大人気だったドックの人柄は穏やかで、守旧派層で固められたアメリカのカントリー・ブルーグラスの枠を超えて時代の中心になりつつあったリベラルな新保守層にも支持され、当時はダントツのインテリジェント・スターでありました。その後もブルーグラスというよりもドック・ワトソンスタイルといいた方が相応しい音楽を提供してくれましたし、その超絶なギター・テクニックを目の前で見られたことが、今でもこの音楽を楽しんでいる要因であります。

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2007年10月12日 (金)

1957年・私の日記

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1957年、小学校3年生から4年生になる年の一月の日記です。もうこの頃は漫画と野球に興味が移りだした頃ですから、挿絵にも漫画の影響が出てきたようです。ふきだしでくくってせりふを書くなどということは、していませんが、以前にはなかったテクニックを身に付けた可能性ありありです。この頃漫画ではロボット三等兵・かんらから兵衛などが人気でランドセルにしまって、学校の往き帰り、電車の中で見るのが楽しみとなっていました。私は吉祥寺から久我山までの5分程度の乗車時間でしたが、それでも友達との漫画を通した物知り較べなど毎日が楽しい日々でした。

さて、この日記のタイトルともなっている『ことろ』とはこの頃大流行していた遊びで「鬼が親の一番後ろにいる子供を捕まえる」、つまり「ことる」鬼ごっこの上級版のような遊びです。すっかり、忘れてしまって、具体的な行動のイメージが沸いてきませんが、絵に添えてあるセリフが妙にリアリティーがあるので、この頃にすっと戻ることができます。

『子とろ』の動きが解るサイト http://www.kochinokita-e.ed.jp/warabe/kotokoto.htm

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2007年9月16日 (日)

1957年・庭の絵

19571502 小学校4年生の頃、マジックインキを使った絵の技法にも試行錯誤しつつ、ずいぶん慣れてきたのですが、強烈な臭いも相変わらずでしたから、部屋の中で描くよりも外の方が臭いが溜まらず少しは楽でしたし、眼も痛くならずに済みました。

家の北側にあった父のアトリエには世界の画家の画集があって、時々観ていましたが、この頃はゴッホの色使いに強烈なインパクトを受けた記憶があり、その雰囲気を真似て家の庭を描いたのがこの絵です。

左の家は1954年に家を建て替えたときの廃材を使った四畳半一間の小屋のような建物で、ここには私の従兄弟が二人、信州から上京、下宿していました。正面の緑色の樹は青桐で、小さい頃からずーっと緑色をしていたこの樹を「奇怪な樹だなあ!」、と思っていましたし、春になると青臭いにおいを発して、他の木にはない独特の雰囲気でした。

この絵を描いた頃は,丹下左膳・赤銅鈴の助の漫画やラジオ放送が人気でしたから、買って貰った木刀でこの樹を相手に剣道のまねごとをしてましたので、青桐の木肌は傷だらけとなっていました。4021955

実際の庭をやたらと濃いオレンジ色・ウルトラマリン色で描いているのはまさしくゴッホ風に仕立てた名残であります。

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2007年8月30日 (木)

浅間山・1957年

19571602 マジックインクが小学生に大ブレークしたのは、何といっても、それまでに無かった発色の鮮やかさと、人気者となった山下清さんがこの画材を使って多くの絵を遺したからともいえます。

父が私のために買って来たマジックインクを初めて使った時、その強烈な匂いに眼も眩むようでしたが、徐々に慣れて、この画材に相応しい技法を手探りで見つけていきました。最初は画面を塗りつぶしていたのですが、出来上がりがいまいちということもあって、線で表現していく方が重くなくて、自分に合っていることを見つけました。

この絵は、父の妹が住んでいた佐久・臼田町に夏休みに訪ねた帰り、小諸から軽井沢に行った時のものです。浅間山の手前の装飾的な田園風景は実際の景色というよりも、この頃、芽生えだした私の想像力を駆使して勝手にアドリブしたものです。何故、こんなことを覚えているかといえば、この時期の絵には殆ど写実的なものが残されてなく、勝手に想像力だけが増幅してしまったものを描いていた記憶が鮮明であるからです。

ク・ (http://www.geocities.jp/hasu58/longseller/magicink.html

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2007年8月23日 (木)

軽井沢・ブルーグラスフェスティバル 1971年

1971karuizawabluegrass11 写真提供:小森谷信治

この画像、私が会社に入社したのは1970年ですから、その翌年の1971年・第一回・軽井沢ブルーグラスフェスティバルの記念写真です。この頃、私は新入社員として修業の身でしたから、音楽で疲れを癒すなどということには程遠く、研修レポート・先輩とのほぼ連日の飲み会などに埋没して、今から思えば滅茶苦茶な生活でありました。

私がこの写真に写っている佐々木仁さん・小森谷信治さんに出会うのは翌年の1972年・軽井沢フェスの会場でした。というのも、立山での夏スキー合宿を終え、八方尾根方面で一泊したペンションに置いてあった信濃毎日新聞の夕刊を偶然めくると、そこに軽井沢ブルーグラス・フェスティバルの紹介記事が小さく掲載され、タイミングもピッタリでしたので、そのまま軽井沢に向かったのでした。レークニュータウンで開催された1972年のフェスは、その後数回開催され、何年か後には北軽井沢の森の中で雷と雨にまみれながらの感動的なフェスもありました。

その後、夫々の人生を背負って分離・収斂しながらも、ここに写っている多くの皆さん(還暦を越した人も間もなくの人も)は、すっかり体形も見違えるような貫禄となり、今も人生の大切な潤滑剤としてブルーグラスミュージックを楽しんでいます。

今週・金曜日から日曜日まで開かれる箱根・ブルーグラス・フェスティバルにも皆さんが顔を揃え、音楽以外の酒盛り・お喋り・健康病気・孫などの話題などで盛り上がるのです。

あと数年も経ちますと、この音楽と出合って50年という輩がいっぱい生まれ、そうなると薀蓄のバトルロイヤルのようなフェスティバルとなって、明け方まで元気な親爺の雄たけびがこだましていること、間違いありません・・・。

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2007年8月18日 (土)

東郷青児邸・1957年

19571902 今から50年前、杉並区久我山でも、ひと際異彩を放っていた、画家・東郷青児 http://www.sompo-japan.co.jp/museum/togo/index.html邸を描いた一枚です。

小学校4年生の夏休みの宿題として、『自分の住んでいる周辺の絵』が出され、私は即座にこの家をモチーフとして採り上げました。まだこの時代は長閑な畑だらけの町で、駅から自宅まで雑木林を抜けて帰って来られた時代でしたが、この家だけは周囲の家の趣と全然違っていて、子供の眼には不思議な人の住まいという印象が強かったのです。

グレーとライトブルーで描かれた外壁の二階部分がアトリエと記憶しています。このアングルは実際よりも相当子供ならではのデフォルメを施していまして、もっと開放的な大きなスペースで東郷さんが、キャンバスを前にデッサンをしているところなども、垣根越しに見えたものです。

お嬢さんの東郷たまみさんは、ジャズ歌手として朝丘雪路さんらと一緒に芸能界デビューをされ、テレビの黎明期に活躍していました。子供の眼にもそのお嬢さんがこの町では異常なほど輝いていたのを、よく記憶しています。

この絵には描いてありませんが、広い芝生があってよく東郷さんが芝刈りをしていたのを、覚えています。今はすっかり周辺は住宅地として建物が密集していますが、周りは畑だらけのこの時代は、時代の先端を行く人と守旧の人が長閑な環境で同居していたのです。

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2007年8月10日 (金)

ドンキホーテに風格が!

Img_6119_1                                                                      

毎日毎日、過酷な日程での自動車の旅を続けた、1967年のヨーロッパ旅行のサプライズは、予想外にもモナコのカジノで勝負を賭けたブラックジャックで大勝利したY田氏のおかげで、スペイン迄、地中海のパノラマ・ツーリングを楽しめたことでした。

なにしろ45日間で15,000kmという空恐ろしいほどの、過酷なスケジュールでしたが、その間、本場の自動車レースを見たり、ストックリーという銅の鍋を作っている工場が兼業している、当時最高級の手作りスキーを買付けしたり、挙句は、道に迷ってイタリアのドロミテ村の祭りの最中に、ど真ん中の会場に飛び込んでしまったなど、十二分に、貴重で面白い体験をさせてもらいました。

そして、最後に辿り着いたスペインのバルセロナで買い求めたのが、この、『ドンキホーテ』様であります。丁度、今年で40年となりましたが、当初は真っ白な生地で、いかにもお土産といった感は歪めませんでしたが、年を経る毎に、良い風合となって、今では立派な彫刻作品となってしまいました。Img_6117途中、棚から落としたり、子供が悪戯したりして、槍も剣も消失してしまったからこそ、ジャコメッティー風ともいえる風格が出たのかも知れません。

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2007年8月 9日 (木)

1955年・モダンリビング誌

Img_6353 Img_6354 Img_6352 父の古い資料の中から、1955年のモダン・リビング誌が出てきました。

1955年の頃といえば、一般にもそれまでの和式一辺倒の生活から、洋式を採り入れた生活に転換し始め、その時代背景の影響が日本にも新しい住宅デザインの流れが興き、この雑誌に登場する坂倉準三・清家清・アントニンレイモンド・広瀬鎌二など、大御所と呼ばれる建築家の皆さんも、若々しい気持ちで新しい流れを表現している時代です。

雑誌はもうぼろぼろでありますが、いつも食卓に置いてあり、私も小学校3年生でしたが、よく見ていました。『和風住宅80選』というタイトルですが、決してそのようなニュアンスの住宅でなく、むしろ新住宅傾向と呼んだほうが良さそうな作品ばかりであります。

最近の住宅では使われない素材の組合せが見られますし、当時の先端素材であったブロックなども新鮮に映ります。時代のせいでしょうが、平屋が多く、狭いながらも快適で開放感のある住まいが多く掲載されています。

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2007年7月16日 (月)

1958年・運動会

1205195801 小学校5年生ともなると、ませた兄貴のいる生徒が兄から聞き込んだよからぬ話を休み時間に教えてくれて、男兄弟のいない男子生徒や一人っ子には別の意味で社会勉強ともなりました。

もうこの年ともなれば、いわゆる色気の話は定番中の定番でしたから、これ関する話を聞きつけると、もう其処は人だかりと化してしまうのです。運動会が近づくともなれば、話題はフォーク・ダンス一辺倒で、当然「何組の誰が・・・」などと女子の話に展開、ちょっとおませな男子がその場を仕切るのです。運動会の予行練習でもフォークダンスが始まると、そわそわする自意識過剰の男子が多かったので、男子と比較して数の少ない女子と手を繋ぐ番が回ってくると後ろの男子もそわそわし始め、咳払いなども始まるのです。何しろひとクラスの女子は人数に対して一割程度でしたから、女子と手を繋げる確率も低いわけで、ようやく女子が回ってきたかと思えば、曲が終了し目前の女子と目でも会おうものなら次の曲が始まるまでの長い時間、視線をどこへやったらよいのか当惑するばかりでありました。

まだまだ純情な時代の出来事・・・であります。

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2007年7月 4日 (水)

箱根・夏の学校 1955年!

532195502 日本国内にも、美しい景観は此処彼処にあるのですが、残念なことにパノラマ的な広がりを堪能できるところは限られていて、大多数はその美しさが途中で分断されてしまいがちです。

東京から至近距離にある箱根は、芦ノ湖とその周辺の小高い山が絶妙なバランスを保っていて、優雅な滞在型のリゾート地でありましたが、82e5dba71 獅子文六著・『箱根山』で描かれた観光振興をめぐっての電鉄系会社同士の覇権争いの結果、観光施設の乱立となり、今のようなバス団体旅行中心の、忙しい日帰りコースに成り下がってしまいました。

 、さて、下の画像はイギリスの湖水地方・グラスミア湖ですが、50年ほど前の箱根芦ノ湖周辺はこれとそっくりな雰囲気が至る所に見られ、子供ながらに、そのパノラマ景色に惹かれたものでした。現・山のホテルから樹木園に至る小道は、その当時泥道でしたが、なかなか野趣に富んだ原始的光景も垣間見る事ができて、私にとって明るい印象の一方、暗く怖い道を歩いた印象もあります。

又、学園寮のあった北側の丘は『浴風台』と呼ばれ、壮大な草の生い茂る丘となっていて、草の香りも清清しく、毎年の夏の学校で思いっきり走り遊ぶことができたことも、良き思い出であります。

この丘の奥には、仲間内で『幽霊屋敷』と呼んでいた、旧い立派な別荘が朽ちた状態で残っていて、先生から「あそこに行ってはいけない」と言われていたにも関わらず、怖いもの見たさの何人かでそっとでかけました。当時、人気だった少年探偵団の小林少年を気取ってみたりしましたが、小説の世界とは異なり、現物を目の前にすると、勇気百倍というわけにもいかず、恐る恐る引き返すだけでした。

509さて、私などはこのイギリス・湖水地方辺りの美しすぎる景観画像を見ているだけでも、「生きてて良かった!」などと思いたくなりますから、景色が人間に及ぼす作用には、計り知れない効能があるのでしょうね・・・。

グラスミア湖の写真撮影:辻丸純一

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2007年7月 1日 (日)

1964年・西伊豆ツーリング

196402 1964年、東京オリンピックの年の春休みを利用したサイクリング・クラブの西伊豆・箱根ツーリングのスナップです。今では到底お付き合い出来ない強行軍で、天候も安定せず、最悪のツーリングでありました。

この時代、スポーツ系のクラブは根性をしっかりと鍛錬することも前提になっていましたから、傍から見て軟弱と思われていたサイクリング・クラブも例外でなく、厳しい鍛錬の毎日でありました。3泊4日ほどの日程でありましたが、毎日朝から夕方まで、鬼軍曹と称された二人の先輩(右から一人目・三人目)の指揮の下、あの伊豆半島を縦横無尽に走りまくりました。健脚を誇っていた山田隆男君(左から二人目、現在はサクマ製菓・社長)や私(右から二人目)もさすがに毎日の強行軍に疲労困憊し、今のように靴もまともな物がなく相当参ったものでした。

196401 写真を見てもお分かりの通り伊豆の海岸道は当時このような砂利道で、自動車が通れば窒息しそうな砂煙状態でしたが、オリンピックを迎えるために、関東近辺の観光地は舗装化に血道を挙げてましたから、ダンプの往来も激しく、見通しが透明になることなど少なく、砂埃が収まるまでしばしの休憩もあり、目的地までなかなか進まず、ただ一途に黙々とペダルを踏んでいたのであります。

この写真は西伊豆・松崎に向かう途中、みごとな夕日を背景にした佐々山厚さん ( http://www.geocities.jp/aysasayama/ )のスナップでありますが、一同、相当にお疲れの様子がうかがえます。そして西伊豆ツーリングのあと箱根ツーリングを楽しむ予定だったのですが、突然の春雪に遭遇。温泉に浸かって疲れを癒すこととなりましたが、帰路の箱根の坂も当然雪が至る所に残っていましたから、これも相当な恐怖を以って下っていきました。まだまだ寒い頃でしたが、今となっては厳しき中にも良き思い出のワンシーンであります。

それにしても3月の寒い時期、若かったとはいえ、ショーツ姿がお元気な颯爽とした一団であります。

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2007年6月18日 (月)

1956年・私の日記

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1956年の日記からです。この年の文化祭の模様ですが、この時代、私の通っていた学園では小学校から大学まで一緒に文化祭をしていましたから、この時期だけは普段の構内と一転して華やかな雰囲気に囲まれていました。正門を入ると正面に構える立派な講堂では、毎朝、朝礼と立礼式の座禅があって、小学生にはなかなか厳しい朝が続きましたから、同じ場所で演奏会という華やかな催しがあると嬉しくて始まる前からわくわくしていました。

特別招待の国立音楽大学によるコンサートが始まると、生まれて初めて聴くオーケストラの演奏の音の大きさと圧力にびっくりしたのと、バイオリンの奏でる繊細で豊かな音色に、子供ながら聴き入っていました。途中には、演奏家による楽器の解説なども入り、拍手が大きかった楽器はアンコールもしてくれたので、皆、各楽器の演奏が終わる度に、一生懸命、拍手をしました。

きっと、この頃ブームとなった漫画の真似でもしてみたくなったのでしょうか、絵にはト音記号のようなものが空中を飛び交っています・・・。

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2007年6月16日 (土)

1956年・私の日記

306_04 51年前は、まだバナナが高級な果物の時代でしたから、家にバナナがあると、たいへんありがたい感じを子供なりにもったものでした。この頃、父も自分の人生の中で最も充実した時代を迎え、仕事に没頭していた頃で、それなりの収入もあったのでしょう。渋谷の何処かで買ったバナナのようですから、きっと駅前の林フルーツかも知れません。当時作り変えたキッチンの脇に林フルーツの包装紙が重なっていたのを妙に覚えているのです。父は酒飲みでしたが、果物には目がなく、嫌いなものはなかったようです。今のような豊富な種類もなく、パイナップルが主役の座をバナナに明け渡した頃でもありました。

この日記にも欄外にバナナのカットを描いています。この画材は父の引出しから拝借したコンテのデッサン用のチョークを使って描いたようです。扱いの難しい画材ですから、うっかりすると真っ黒な画面となってしまいますから、この絵にもいつ描くのをやめようかとたじろいでいる気配が、ありありです・・・。

清水晴男先生のコメントが直球勝負で気持ちよい〆となっています。

バナナに関して』  戦時中に台湾のバナナ生産はコメの生産を優先するために減少し、日本の八百屋からも姿を消したことがあるが、1950(昭和25)年に、日本・台湾間で通商協定が結ばれ、バナナはふたたび輸入されるようになる。ただし、平均月収が約1万円の当時、バナナは卸値で1キロ約1000円という超高級品であり今のように誰にでも食べれるものではなかった。その後、1961(昭和36)年~62年(昭和37)年に輸入船の船員からコレラ菌が検出され、台湾バナナは一時的に輸入禁止となることなどもあったが、日本の高度経済成長の流れのなか、翌1963(昭和38)年に日本政府がバナナの輸入を自由化したことでバナナはブームとなる。そして、このときに新興勢力としてバナナ市場に南米のエクアドル産が登場したが、台湾バナナの甘みに慣れた日本人には、あまり受け入れられれず、1960年代後半までは台湾からのバナナの輸入量が急激に増加し、1967(昭和42)年のピーク時には40万トン近くに達していたという。日本のバナナ輸入先は1960年代まで台湾(1963年のみエクアドル)、1970年代前半にはエクアドルがトップになった。しかし、1963年に輸入が自由化されたのと前後して、日本のバナナ市場に目を付けていたユナイテッド・フルーツ社、キャッスル&クック社(Castle&Cooke)、デルモンテ社(Del Monte)の3社が、相次いでフィリピン、ミンダナオ島に進出。それらはそれぞれチキータ(Chiquita)、ドール(Dole)、デルモンテというブランドで知られるようになる。そののち住友商事(旧Banambo、現Gracioブランド)もフィリピンに進出し、1960年代末にはこれらアメリカ系3企業と日系1企業の4社がそれぞれ独自の栽培体制を確立する。そのため、日本のバナナ輸入先は1960年代まで台湾(1963年のみエクアドル)、1970年代前半にはエクアドルがトップであったが、それ以降は4大多国籍企業によりフィリピンが高いシェアを維持しているという。 これが日本をはじめ先進国の人々の食卓に見られる「ドル・バナナ」といわれるもの。日本に輸入されているバナナには必ずといっていいほどシールが付いている。このシールにはさまざまな横文字のブランド名が付いているが、その80%は、先ほど述べたアメリカの「ビッグ3」と呼ばれる、ドール、チキータ、デルモンテが世界各地に置いた農園から輸出したもの。(日本企業では住友ブランドのBanamboがその1割ほどのシェアを持っているだけ)

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2007年6月15日 (金)

これが東叡社のランドナー!

1964 東京オリンピックが開催された1964年、私の自転車に明け暮れていた高校生の7月の夏姿であります。

この前年、ワンダーフォーゲル部の同好会であったサイクリング同好会も、一週間に及ぶ合宿のパフォーマンスの結果、なんとか監督の尽力で部に昇格したので、その後は週末ともなると東京郊外のサイクリングが定例化しました。この写真は五日市・奥多摩方面でのツーリングをしているときの様子で、秋川渓谷付近で一休みしているところです。

高校時代は、ほぼ毎日、雨の日以外は久我山から吉祥寺の高校まで自転車通学をしていて、帰りは水道道路沿いの東京サイクリングセンターに寄り道するといったお楽しみ付きの自転車三昧でしたから、自然と自転車に関する知識と技術が身についていきました。

1964219641 19643 19645 19644  3ヶ月あとに始まったオリンピックでは、当然、自転車ロードレース会場である高尾会場に朝早く先輩と出かけました。一般的にはまだ知られていない競技でしたから、せいぜい地元の人が駆りだされて応援する程度でしたが、初めて目にするフランス・イタリアチームの華やかなユニフォームと、コックピットの国際色豊かな雰囲気に圧倒されました。そして選手の通過したと同時に受ける、風の物凄い圧力にも感激したものです。

東京サイクリングセンターには、先輩も含め一家言をお持ちの方ばかりが日々集まってましたから、情報密度・精度ともに極めて高いものがあって、そこに創業者・板倉修さん、日本にフランス・イギリスの自転車とその楽しみ方を根付かせ、自転車のもつ人体への効能を医学・科学の両面から立証した鳥山新一先生が同席しているものなら、其処はもう店から学校へと急転直下、変貌してしまうのです。手取り足取り、基礎から実学を通して教えてもらった数々のノウハウは今も健在でありますし、「毎日、自転車を完璧に磨きながら、構造と部品同士の関係と、プロポーションをひたすら見つめることが大事なのだ!」などということも、この頃、鳥山新一氏に叩き込まれたコツであり、哲学でありました。

偶然出てきたこの写真をみても、サドルはBROOKSですし、フロント・バッグは厚手の幌布製で、たいへんタフなつくりのものでした。BROOKSのサドルにいたっては、日本人のお尻の形状に合わないので木槌で後ろの鉄製アームを叩き、曲面を更に曲げるという裏技も教わりました。こういう優れたものを備えるように薦められたのも板倉修氏のお陰でしたが、当時はたいそう高価でしたから父を説得するのが大難関でした。結局、このサドルはその後20年以上私に付き合ってくれました。

この写真を撮ってくれた、当時写真部の佐々山厚さんは、現在高崎を中心に半端ではない自転車三昧の生活をされ、最近ではネパールのMTBレース参加・アメリカ大陸横断など、海外の自転車ツーリングを楽しまれています。( http://www.geocities.jp/aysasayama/ )

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2007年6月 1日 (金)

1956年・私の日記より

319a_04319b_04久我山の家は一般の住居よりかなり急斜面の瓦屋根でしたから、秋ともなれば枯葉が屋根のとよにあふれんばかりに詰まり、雨になれば、その枯葉のせいで、とよの機能をはたせず滝のように雨が地面にたたき落ちるのでした。

毎年、大晦日になると恒例の、とよのごみ取りが朝から始まります。思ったよりも重労働というか、神経を遣うというか、予想以上にとよからでてくる枯葉をはじめ枝、空中から飛んできた諸々のごみの多さにびっくりしたものです。

この家の北側は神田川の崖地ともなっていて、南側のとよ掃除は陽が当たって暖かく楽しみ半分でしたが、北側は陽も当たらず、更に、神田川から吹き上げる風も冷たく、厳しい寒さの中のごみ掃除でした。

それでも、早く大きくなって瓦屋根によじ登って周りの景色がどう見えるのかが、楽しみだった頃でもありました。

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2007年5月26日 (土)

1956年の日記より

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315b_04_1久我山の家の周りには旧家然とした農家が多く点在しており、この1956年(昭和31年)の頃は畑から匂ってくる堆肥の匂いが部屋中を席捲して、子供ながら「まいったなー」と思っていました。

そんな時代でしたから農家の生活スタイルは江戸・明治時代となんら変わらず、子供ながら好奇心を持たざるを得ない出来事が目白押しでありました。

この屋根の葺き替えは、その中でも印象的な思い出でした。後にも先にもこの時以降、一度も葺き替えをこの目で見ることなど、ありませんでしたから・・・。この農家にはよく遊びに行っては、炉辺で一日中自在鍵のもとで大きな鍋から湯気のでているのが不思議で、じーっと見ていました。農家はいつも開けっ放しで家には誰もいないし、庭には鶏・犬・猫が適当に動いているし、といった按配で自分の家とあまりにかけ離れた世界に興味を持てないわけがありませんでした。

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2007年5月17日 (木)

平凡パンチがバイブル!

01_30 平凡パンチが発売された1964年頃、同世代の輩は大橋歩さんが描くクレパスのイラストレーションに新しい風を感じ、VAN Jacketの掲載商品にアイビーを感じ、音楽・エッセィにも健康的なヤング・ジェネレーションの新しい風が吹き始めたことを察知していました。

といってもひとクラス45人というすし詰め状態のクラスでも、新しい風に眼を向ける者はせいぜい3人から4人程度でして、大多数は守旧派の正統派でありました。それでも徐々に平凡パンチの影響は男子でいえば普通のカッターシャツに代わって、ボタンダゥンシャツにと少しずつ浸透していきました。

1964年、東京オリンピックの年にはぱっと咲いてぱっと散ったあのみゆき族のような風俗もありましたが、フォークソング・モータースポーツの大ブームが、又さらに平凡パンチの追い風となりました。今はたまに本屋で最近のメンズマガジンをめくって見ますが、とりたてて読むものもなく立ち読みで充分であります。一時代ではありましたが、一冊の週刊誌が全国のある世代を虜にして、その生活全般の感性を取り仕切ってしまった平凡パンチは、今でも親父の集まりとなると何処からともなく話題が浮き上が来るほどの、神通力が際立っています。

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2007年5月 7日 (月)

1956年・私の日記

304_04_1 今では土がむき出しになっているような場所さえ、見つけることも困難なほど、日常の生活環境の整備の普及には感心いたします。

51年ほど前は、どこも土だらけで一歩外に出れば、この季節ですと日陰は霜柱ばかりで、やたら地表が盛り上がっていました。私の家は北側の崖下を神田川が流れていましたから、冬場ともなると北風がまともにぶつかり、おまけに家の北側には塀もありませんでしたから、その冷たさといったら、並大抵のものでは、ありませんでした。

父のアトリエは、北側にありましたから、だるまストーブに石炭と木っ端をひっきりなしにやっている音が家中に聞こえていました。アトリエは採光のためにガラス張りでしたから一層よく冷えたのでしょう。

スコッチテリアのピス・秋田犬のたろう、二匹とも冬を楽しめるDNAが濃いのか、冬の庭遊びが大好きで、霜柱で盛り上がってしまった芝生を掘り出したりと悪戯三昧でしたが、私は庭で野球もすることが出来ずに、ひたすら、春を待つのみでありました。それでも、霜柱を通して見える光の輝きが宝石のようで、そのブルーを含んだ独特の色味は今でも鮮明に覚えています。

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2007年4月19日 (木)

1956年・私の日記より

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小学校の帰りは寄り道をしてはいけないと、言われてましたが、久我山駅を下車すると、もうそこは、私の天下のようなものでした。

家の傍の竹薮は、ほんの25年前まで在りましたが、農家のマンション建設ブームの煽りを受けて、あっという間に消えてしまいました。この竹薮は、たいそう立派な敷地面積があって、中にはきっとその昔、川でもながれていたのでしょうか・・・、その名残のような地形も遺っていましたから、休みの日などは、近所の友達と、戦争ごっこなどをして、遊んでいました。長い間に堆積した竹や他の樹木の葉を踏むと、その独特のクッション感が絶妙なリズムを奏でるようで、子供ながらにも、この自然環境の楽しさを謳歌していました。

春ともなれば、筍が顔を出し、あっという間に自分の背丈を越えていくそのスピードの速さにも、びっくりしたものです。筍刈りなどする人もいなく、人のものに触れてはいけないという美しい文化は、この時代には残されていました。0102_3 最近は宅急便で京都の筍でさえ、いとも簡単に手に入る時代ですが、春の竹薮から薫ってくる筍の甘い香りは、其処に居る者でなければ、感じることの出来ない、季節の贈り物なのです。

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2007年3月22日 (木)

初めてのお泊り!

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生まれてから40歳台半ばまで住んでいた、杉並区の久我山には二科会という芸術家の集団が多く住んでいたり、中国近代化に尽力のあった、ある日本人の影響なのか、その方を慕って台湾系の方も多く住んでいて、昭和30年代は独特のコスモポリタンの雰囲気が、ありました。その後、久我山の大地主さんが農地を宅地開発した為、サラリーマン世帯がどっと増え、その独特の雰囲気はあっさりと消え失せてしまいました。

この日記は、久我山の町がまだ独特の雰囲気をもっていた頃のもので、これまでのブログに登場したのと同様、1956年頃、私が小学校3年生の時の記録です。両親とはよくお付き合いのあった台湾のYさんの家にどういう成り行きなのか、泊まることとなり、私は久我山で一番早くテレビを買ったこのお宅に泊まれることは、テレビが見放題だ!などと勝手に思い喜んで行きました。一応、春休みのおさらい帳なども持っていったようですが、それはあくまでも、ポーズだったと思います。三人姉妹の中に入って一日を楽しんだのですが、女の子のパジャマを着せられた時は、正直、照れくさく、この話題は三姉妹が日本を離れる1980年代まで何かにつけ、登場する始末でありました。

さて、ますます、日記に登場する挿絵の腕が上がってきたようですが、この右手にある暖炉の上の時計こそ、この時代の裕福な家の象徴、キンツレー社製のものです。このそっくりさんを、国産各社が挙って真似し、デパートの時計売り場の一時代を席捲していました。

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2007年2月13日 (火)

1956年の日記より

201_42 小学校3年生になる年の春に書いた日記です。観察の視点が自分で言うのも何ですが、面白い捉え方をしています。

この小学校では、今も毎年一年生の入学式には桜並木を高学年生が拍手で迎える中を行進します。私の時は桜吹雪もみごとな中での入学式とはいかず、寒い雨の中でしたから、翌年の一年生の時の日本晴れの中での入学式には、ちょっぴり羨ましい気持ちになりました。

しかし、又、文章だけでよいものを、枠外にカットを書いています。どうやらこの小学校の一年からの絵日記の癖が,

抜け切れなかったようです。

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2007年2月 7日 (水)

1956年の日記より

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3年前の引越しの際、行方不明になっていた小学校時代の日記が全く予期せぬ場所から出てきましたので、ようやく一安心です。何しろ、小学校二年生から四年生までのほぼ毎日、日記をつけることが義務でしたから、それは子供にとってなかなかたいへんなプレッシャーでありました。それだからこそ、毎日、日記をつけるためのネタ探しにも苦労しましたし、この頃近くの家にテレビを買った方が居て、食事を終えて見に行くことが重要なことでしたから、さっさと日記を書かねばなりませんでした。無理せずに平凡な日々の状景を記録し続けているだけでも、後から読み返せば楽しい思い出の詰まった個人史となっているのですから、むりやりネタを作って創作も入り込んでいる日記は出てきてくれただけでも、ありがたい訳です。

この日記、51年前の1956年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1956.html )の東京の初雪の様子です。この前の年の春、父がどういうわけか秋田犬とスコッチテリアという全く相性の悪そうな犬種を買い求め、初めのうちはなかなかお互いに馴れるわけも無く、しょっちゅう喧嘩ばかりしていましたが、夏頃にはすっかり仲良しとなっていました。そんな頃の様子ですが、犬の感じを良く捉えているように思います。元々、日記だけを書けば良いものを、画家であった父の影響なのか、絵にも気合を入れていたその頃の様子が浮かばれます。舗装など全くなかった杉並区・久我山の町は、雪が降ると樹木の茂った所が多いので、陽の当たらない箇所が大半を占め、一月経っても雪の消えることは無く、ぐちゃぐちゃの道を通うのは、たいへん、しんどかったのです。  

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2007年2月 2日 (金)

1967年・ニース

30a1967  1967年の初めてのヨーロッパ旅行はブランズハッチ・自動車レース・トリノ自動車ショー・ミラノ・スポーツフェアーなど雑誌の取材が主で、私はそのスタッフに潜り込んでのお邪魔虫・旅行でした。すべての取材が終わり、あとはお楽しみの自由旅行となり、モナコのカジノで大勝した同行者のおかげで、バルセロナまで足を延ばすこととなりました。この写真は、バルセロナに出発する前日、あのネグレスコ・ホテルをバックに撮影した一枚です。2月の半ばでしたからまだ海風も冷たかったのですが、日本では見たこともない大人の女性の日光浴にしばし、男の愉しみを見出しているところです。この頃、高校時代の仲間とよく湘南にヨットなどに乗っては遊んでいましたが、このニースをはじめとするコートダジュールの太陽の光が、湘南とは比べ物にならないほどの明るさでしたから、先ず、それにびっくりしました。

 この撮影の日、カジノで勝った同行者の大盤振る舞いで、海岸に面した小奇麗なホテルで一泊しましたが、翌朝、差し込んでくる朝陽の、強烈な閃光のようなパワーには目眩がしましたし、やはりこういう光と一緒に生活してるからこそ、人の暮らしも明るく快活で、笑いが絶えないのに違いない・・・などと、勝手に解釈していました。

このあと、ニースからバルセロナまで、夢のような絶景を眺めながらのドライブが続くのです・・・。

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2007年1月30日 (火)

1957年・夏の学校

1024195704jpg まだ寒いこの時期にいきなり夏姿の写真など・・・お許しくだされば幸いであります。

これは今から51年前、小学校4年生の夏の学校で波佐間海岸に行った時の写真です。私はこの頃、もう野球一筋の腕白小僧でしたが、水泳だけは大の苦手でこの写真の一番奥で左手で箸を持っている私の顔にも、何となく不安の影が忍び寄っています。野球では早い球を投げていましたから、「他のスポーツもさぞ得意なんだろう」と思われてはいないかと、他のクラスメートの視線が気になってしようがありませんでした。又、毎朝の食卓にでる生卵を食べるのがたいへん苦手でしたから、まわりの生徒がご飯の上に手馴れた手つきで醤油を混ぜた生卵をかけてさっさと食べるのを羨ましく見ていたものです。勇気をだして、涙が出そうなほど辛い覚悟を以って私も同じ作法で食べましたが、その目眩を起こしそうなほどの辛さは、此れまでの人生でも筆頭格の出来事でありました。

朝食が済むと間もなく水泳訓練が始まりましたが、私は一番水泳の苦手な班でしたから、懇切丁寧に指導してくれる水泳師範の大学生には、たいそう手こずらせた生徒に違いなかったのでは・・・と今でも思っています。

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2007年1月 8日 (月)

1967年・モナコのすご悪じいさん!

251967 1967年、初めてのヨーロッパ自動車レース取材旅行では、様々な国に行きましたが、どこの国よりも豊かさと楽しさいう意味で、群を抜いていたのがモナコ王国でした。カジノ・切手・グランプリレースが売りの国ですが、当時はグレースケリーというハリウッド女優が王妃になった国として有名でした。261967 カジノの周りにはそれこそ楽しそうな施設がクラシックな佇まいの建物のなかにひしめき合っていました。この昼間から気持ちよさそうに居眠りをしているお爺さんの後ろには手動でピンを並べるボーリング場があって、この頃、日本で大流行していたアメリカンスタイルの大掛かりなボーリング場とは全くかけ離れた長閑な施設でありました。外からも丸見えでしたが、ピンを倒す時のスカッとした快音もなく、此処で見たボーリングの印象は高齢者向きのそれであった気がします。このお爺さん以外にもリタイアした裕福な人たちが多く住んでいて、その独特の優雅な光景は今でも忘れません。湾には数多くのヨットが並んで、観光客も、自由に覗き込

この時代に豊かなヨーロッパの一面を見てしまったが故に、その後まもなく、日本の余暇産業やリゾート産業が華々しくなってきた時も、却って底の浅さが目立ち、自分だけは醒めた眼で、浮かれた日本の余暇時代到来の動向を観ていました。

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2007年1月 5日 (金)

修学旅行・1959年

1316195903 小学校の修学旅行は東北地方巡りでした。当時の東京の子供たちにとって、東北地方は遥か彼方のところにある別世界のような地域でしたから、毎日見聞するものが新鮮な驚きばかりでした。日立鉱山・常磐炭鉱・会津若松・新潟を巡る四泊五日の旅行でしたが、私にとってなによりの楽しみは温泉でした。東北の温泉独特の成分が子供の身体にはすぐ滲みこんで、この写真を見ても、皆いっぱしのおやじ気分に成りきっています。

初めての修学旅行は、普段の学校生活では分からなかった学友の性格や、違う面を発見したりなど、名所・旧跡以外にも新鮮な出合いと発見の毎日でありました。

この写真、いわき湯本温泉・山形屋で撮影したものですが、皆、ごきげんに和んでいます。担任の谷川澄夫先生の、子供一人ひとりの特性を引き伸ばす才が優れていたおかげで、このクラスの生徒は勉学に向いた人・スポーツに向いた人・文化芸術に向いた人、それぞれが自分の好きなことを十二分に発揮した素晴らしい仲間でありました。この顔つきをみていてもまさに、夫々が夫々らしくとしか云いようの無い集合写真となっています。

修学旅行から戻りクラスでまとめた文集に載った私の文は[山形屋]というタイトルで次のような内容を書いています。げんかんでくつをぬぎ、女中さんに「よろしくおねがいします」と言って、部屋に入った。ぼく達は、二階の二十二号室でとても広くて気持ちがいい。夜ごはんがすんでから、山形屋のウィンドーで、三春ごまを買った。栄田君も、顔をほころばせて三春駒を・・・。いよいよ、おふろの番だ。ぼくは、てぬぐいを頭に乗っけたので、小原庄助さんの様だった。

Tu はじめの頃は比較的おとなしかった男子生徒も、少しずつ元気が戻って、最後の会津若松市では白虎隊の焼印を押した刀をわれ先と買って、意気揚々と東京に戻ったのです。

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2006年12月30日 (土)

戦争ものにどっぷり!

19571402 小学校3年生の頃までは、父のトリエに入って、絵を描いていましたし、その絵もいわゆる子供らしいモチーフのものばかりでしが、4年生になりますと、突然、このような軍事をモチーフにしたものや、軍艦ばかりを描きまくっていました。何故、このように変化し始めたのか、記憶が定かではないのですが、ひとつには漫画「ロボット三等兵」が日本中の子供に大人気であり、私も勉強よりもそちらに興味が移っていましたから、この影響がなかった筈がありません。

当時の担任だった谷川澄夫先生がこの勢いを止めることなく逆に私たちに「漫画研究部」のようなものを作ってくれました。今とちがって、まだまだ漫画の市民権などあるわけが無く、まして、小学生に漫画の研究とは何ぞや・・・などという声もあがったそうですが、人一倍子供の声を吸い上げる名人だった谷川先生の尽力で、発表会なども開かれました。残念ながらこの頃の資料が手元に残っていませんが、今一番見たいものといえば、何といってもこの「漫画研究部」に関したものであります。

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2006年11月16日 (木)

棒倒しには興奮しました!

1956602_1 私の小学校時代から中学生の頃までの絵を、父はどういうわけだか、自分の箱にごそっととっておいたり日記のページに挟んだりしていてくれたお陰で、今も懐かしい思い出を蘇えさせることが出来ます。

小学校低学年の頃はクレヨン・クレパスで描いたものばかりでしたが3年生になると全国的に広まったマジックインキを使った絵ばかりとなって、それまでの画材と違って大胆に描ける気持ちよさも手伝ったのでしょうが、たいそう多くの絵が残っていました。その殆どが学校生活の出来事か、家の周りで起きた事柄ばかりでありますが、私にとってはその絵を通してタイム・トリップできるわけですから、何よりの宝物といえるでしょう。父もきっとそんなことを感じてわざわざ保管していてくれたのに違いありません。

この絵は小学校3年生の秋の運動会の模様を描いた一枚です。棒倒しで戦っている6年生のお兄さんたちですが、私も早く上級生になって棒倒しをしたいと思っていました。6年生ともなると変声期途中の生徒も多くその声もほとんど野獣の感さえしましたし、体格も大きく別世界の人のように思え、私たち低学年の生徒とは比べ物にならないほどのオジサンたちでした。おまけに当時は土のグラウンドでしたから、少々の荒っぽさに担任の先生も見て見ぬ振りのようで、今ではPTAなどに訴えられそうな気迫と恐怖感がグラウンドいっぱいにありました。私世代、所謂、団塊の世代は先輩の格闘する姿を見ながら、この3年後にはまさに喧嘩そのもの、顔中血まみれの棒倒し・騎馬戦を繰り広げるのです。

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2006年11月 9日 (木)

川上哲治の頃!

1956702 私の世代は小学校時代にテレビ放映が始まりましたから、其れにつれて次々と新しいスポーツ番組が編成され、、人気のスポーツは毎年といってよいほどころころと変わっていったように覚えています。そうは云うものの相撲・プロレス・野球が揺るぎなき人気の御三家でありましたが、小学校3年頃ともなると完全に野球に人気が傾き始めました。読売巨人軍・阪神タイガース・国鉄スワローズ南海ホークス・東映フライヤーズ・西鉄ライオンズ・・・などの他、今は名前もすっかりかわってしまったチームもありますが、そのころ東京の小学生においては、巨人・阪神が人気を二分していました。私は、阪神の吉田義男フアンでしたが周囲の仲間は巨人フアンばかりで、野球の話ともなると大勢にはかなわず、寡黙にならざるを得ませんでした。

この絵はマジックインクで描いた、嫌いだった巨人軍の川上哲治選手の姿です。小学校3年生の時の絵ですが、妙に余白を意識した構成で大人じみた、まとまりになっています。父は、絵の手ほどきを私に全くしませんでしたから、この構成は何か画集の手本でもあったのでしょうか。もしかすると、この時期は発明されたマジックインクの虜となって、毎日のように父のアトリエで絵を描いていましたから、手本なしで直感的にこの余白を活かした構成を考えたのかも知れません。父の遺したスクラップ・ブックからこぼれ落ちてきたこの頃の絵は、ひたすら、純粋に描いているため、今見ても自分なりに心を洗われる心境でありますし、父もこの絵のどこかに何らかの創作上のヒントを得たからこそ、スクラップブックに差し込んであったのかも知れません。

打撃の神様と呼ばれた川上選手のバットスウィングはブンブン振り回すエンディー宮本のような鋭いパワー・スピードに溢れたものでなく、しなやかで柔らかいものでしたが、その特徴・雰囲気が、背中からすこし覗いている左手・打球の軌跡を描いた曲線をとおしてよく表れている絵になっています。

それにしても、あれほど嫌いだった巨人軍の、それも象徴的な川上哲治選手を描いた意図はどこにあったのかが、不可解であります。

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2006年10月31日 (火)

何の絵だか、覚えていませんが!

1956402 1956年、私が小学校3年生のときに描いた色鉛筆とクレヨンの絵なのですが、何の絵を元に写したものなのか、まったく記憶にございません。

きっと、父の大事にしていた色鉛筆を借りて、「裸の王様」かなにかの絵本を写したのでしょうか。それにしても、9歳の子供にしてはずいぶんと色の配色も大人びていますから、多分、横で付きっ切りの父が私にあれやこれやと、色の配色・混色を指導しながら描き上げた一枚のような気配を感じます。左上には野球にのめり込んでいた証のように、少年用軟式ボールの跡が付いていますから、自分にとっては、さほど、大事な絵ではなかったようです。むしろ、この絵が父の日記の中から出てきたこと自体、父が生涯書き続けていた創作ノート兼日記の記録として、何らかの絵のアイディアのヒントとしてその中に差し込んであったのかも知れません。残念なことに、この絵に関する記述が日記のなかには見出すことがなく、がっかりではありますが、間違いなく、父の指導によって描いたことは、同時期の私が描いた他の絵を比較すれば明らかなことです。

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2006年10月30日 (月)

団塊パワー炸裂!!!

 

Img_4798_1Img_4740 5年に一度開かれる高校卒業生・同窓会の卒業40周年記念の集まりが10月28日に母校内で開かれました。卒業生約390名のうち半数に近い185名ほどの皆さんが集結して、改めてその団結とエネルギーのパワーに感激した一日となりました。午後四時開会・七時半お開きというロングランでありましたが、担任の最長老・寺尾豊太郎先生においては、今年92歳にもかかわらず終始かくしゃくとしたお姿でありました。アトラクションとして、この日のためにスタジオを借り切って特訓を重ねたカレッジ・フォークバンド「フォー・セインツ」がオリジナル・メンバーで37年ぶりのステージに上がり、1967年のヒット曲「小さな日記」を歌いましたし、当時全盛だったカレッジポップス・アメリカン・フォークソングを有志で歌い、たいそうの盛り上がりとなりました。又、ジャズ・ギタリストとしても活躍する鶴見康男さん率いる「メジャーシックス」も洗練されたスタンダード・ジャズの演奏を披露をされ、この世代独特の「趣味の多様性・人生いろいろ」が会場いっぱいに拡がりました。

 やはりここでも女性パワー炸裂で、少しでも「人生後ろ向きの発言」などするものなら、まるで昔の先生のように諭される男性諸君の場面が、少なからず見られました。この世代、数が多いだけその人生もいろいろあり・・・で、年を重ねるごとに蓄積された魅力と経験に裏打ちされた含蓄のある話が、たっぷりとこの場を覆いつくすのでありました。

 お開き以降の宴はどうやら延々深夜まで及び、吉祥寺の街をはしごしては団塊パワーが明け方まで続いたところも、おありのようでした。

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2006年10月 3日 (火)

初めて親父を描く!

1956302 父の遺したスクラップブックの中から飛び出してきた絵は、小学校3年の年の秋に描いた父の肖像画でした。一緒に差し込んであった当時大流行のマジックインキで描いた絵の間に挟まれていたので、何十年かの間にマジックインキの色が紙に染み移っていましたけれど、それがかえって時の流れを表してくれて、作為でない偶然の成せる技を見せてくれています。

この時期は、野球に目覚めるほんの数ヶ月前で、父のアトリエに入り浸っては悪戯半分で絵を描いていました。父が48歳の頃ですが、ずいぶん立派に描いていますから反抗もせずに父のいうことをよく聞いていた「よい子」の最後の頃なのでしょう。この翌年の正月早々、突然野球に目覚め、毎日学校から帰ってくるとアトリエではなく、外でキャッチボールとノックの相手をさせられ、アトリエにはほとんど入ってこなくなった私の変化をみて、父は愉しみであったに違いない息子の絵の指導が無くなって、ずいぶん日々の予定が狂ったに違いありませんし、自分が子供に望んでいた将来のイメージがこんなに早くも狂ってしまったとは思いもよらなかったようです。

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2006年9月20日 (水)

1956・マジックインキ大流行!

1956102 1956902 1956年に大流行したマジックインキは、その強烈なアンモニア臭のようなにおいに酔いそうになりながらも、これまでの水彩・クレヨン・クレパスとは違った表現が出来たので、ずいぶんと描きまくりました。この頃、国民的人気を博していた山下清さんがマジックインキで描いた花火シリーズが登場してから、全国的に人気が加速度的に上昇していったそうです。今ではチラシや文化祭の発表会などで活躍する地味な文具の代表であるものの、50年ほど前には画材としても大人気であったことを、最近父の資料の中から出てきた私のマジックインク絵を見て、思い出させてくれました。

1956年といえばまだ小学校3年生で、「よい子」でしたから、父に薦められたこの画材を使っては日々の記憶を描き留めようと、ほぼ毎日、家に帰ると父のアトリエの大きなテーブルの上で描きまくりました。なにしろ、これまで見たこともない原色が嬉しく、しかも速乾性のため、完成まで待つ必要もなく、自分の性格にこれほど向いたものはないと感じていたのでしょう。

この翌年から、私は急激に体育指向の生徒となり、野球が生きがいの少年となっていきました。それと並行して絵として描く内容も、学校・日常生活に関わるものから、戦争もの・軍艦ものばかりへと変わって行きました。

( www.geocities.jp/hasu58/longseller/magicink.html )

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2006年8月31日 (木)

1963・夏合宿トレーニング

196309 1963年の夏にサイクリング同好会を部に昇格させるため、群馬県・渋川から山梨県・小淵沢までの一週間に亘る合宿をしました。たいへんな強行軍で3日目あたりには、全員疲労困ぱい気味となり、監督の先輩も初めての体験であり、戸惑うこと多岐にわたったようですが、それでも何とか全員、事故・怪我もなく無事終了しました。

この写真は、本番合宿の一月ほど前に、三浦半島で実際とほぼ同じ荷物を載せて模擬走行したときの様子です。この年は翌年の東京オリンピックを控え、東京は無論のこと、横浜・湘南エリアも道路拡張・舗装工事で、てんてこ舞いの年でありました。ですから、この道路のように自転車のタイヤなどお構いなしといった状況が延々と続き、参加した全員が転んだり、路肩に乗り上げたり、と、実地訓練そのものといった練習が3日続きました。この体験があったものですから、本番の合宿では思い荷物を載せたにも拘らず、全員みごとな乗りっぷりを披露することとなりました。

この写真、今見てもそうとうひどい路面状態です。にも拘らずショーツを穿いているのは、生意気な年頃の粋がりの雰囲気をよく表しています。自分で云うのもおかしいのですが、この頃私は自他共に認める健脚自慢でしたから、こんな坂道でもたかだか前後10段変速を使いこなして、登り切っていました。無礼な自動車がもくもくと埃を立てて走り去ると、暫く立ち止まらざるを得ない状況が頻繁で、走っては止まりの連続で、なかなか予定の地に到着できず、毎日くたびれっ放しでした。・・・懐かしい43年前の、埃まみれの思い出です。

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2006年8月21日 (月)

臨海学校の解放感!

1014195703 1034195705jpg私の小学校時代 (1954~1959) は今の子供たちよりも、毎日が楽しく新鮮な驚きに満ちた時代だったように思われます。この時代は文武両道の精神が徹底され勉強と体育をしっかりと叩き込まれました。それとなにより、今もつきあいのある友人に恵まれ、たまに飲み会でもしようものなら、皆、昔の頃を鮮明に覚えているものですから、迂闊な発言をしますと個人攻撃を集中的に浴びることも稀でなく、記憶力の確かさには感心いたします。

この写真、1957年、小学校4年の時に行われた波佐間海岸での臨海学校の模様です。朝の朝礼・午前の水泳訓練・昼食・午後の昼寝・午後の水泳訓練・夕食・そして夜の学芸会と、毎日が親元から離れた解放感もあって新鮮な経験の毎日でした。上の写真の真中で快活に笑っているのが私ですが、実は、それほど水泳が得意なわけでなく、間もなく始まる遠泳大会の恐怖を打ち消そうと、大笑いしているようです。白黒写真ですから判りにくいのですが、赤い水泳帽に白線が一本も入っていませんから、このグループは一番水泳の苦手な仲間だったと記憶しています。

下の写真は毎晩行われた、演芸会の様子ですが、この時は何の出し物であったかは、記憶にございませんが、皆の顔つきを見るとそうとう受けているようですから、何か面白かった出し物のようです。こうして毎日が楽しく充実した日の繰り返しを経験しながら、やがて、受験競争・高度成長時代・バブル崩壊など振幅の激しい数多くの難関を楽観的に乗り切り、私の世代は今日に辿りついたわけです。ですから、いつまで経っても比較的若い感性を持ち続けているご同輩の多いことに納得です。

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2006年8月12日 (土)

初めての海・続編

512195505 初めての海を楽しんだ茨城県・五浦海岸では毎日、朝から夕方まで地元の子供達と一緒に遊んでいましたが、地元の子供達の泳ぎの上手なことにびっくりしました。この辺りは遠浅ではなく太平洋の荒波がストレートにやってくる迫力満点の海岸でしたから、父も私から眼を離すことも出来ず、父なりにたいへんだったようです。そんなある日、何を思ったのか、私を五浦の床屋に連れて行き、みごとなまでの親爺カットにされてしまいました。五浦は漁師町ですから子供は皆、坊主刈りでしたので私もすっかり坊主頭にされるのかと思いなかば諦めていましたが、父も多少は私のことを考えてくれたのか、丸坊主にはせず、典型的な親爺カットにしましたが、私はかえってこの頭にされたことが一層恥ずかしく、床屋の帰り、憮然とした様子で灼熱の砂浜を歩いています。この日はその後、父と一言も会話もせず、旅館に着くや、いきなり布団を被って寝てしまいました。

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2006年8月 6日 (日)

初めての海!

482195502 私が、父と一緒に生まれて初めての海水浴を楽しんだのは、小学校2年の夏休みでしたから、普通の家庭から比較すれば、ずいぶんと遅かったですよね。父はどちらかと云えば山育ちでしたから、海が苦手だったのかも知れません。今から51年も前の写真ですが、何となく怖がってこちらを向いている真中の子供が私です。場所は茨城県の五浦海岸です。地元の子供たちは普段から遊んでいる海ですから、どんどん沖の方に向かって行きますが、私はなにしろ初めての海ですから全く要領が掴めず、おまけに遠浅でないため、大きな波が来ればただひたすら逃げるのみの繰り返しでした。この海岸に来たのは、父が尊敬していた岡倉天心と関係の深い場所であったからと、後に父より聞きました。

この海岸には4日ほど滞在してましたので、写真に写っている皆さんとはすぐ友だちになって、楽しい毎日を過ごしました。夜になって映画があるということで、出かけていくとまるで江戸時代のように、竹で作られた構造体にムシロをかけただけの簡易映画上映場所でした。この時代の地方の興業場はどこもこんなものだったのでしょうか、それは定かではありませんが、ムシムシする中でたべる氷小豆の味とともに、初めて観る印象深い場でした。上映されていたのは、高田浩吉主演のチャンバラものでしたが、まだその内容にも興味を示さず、ひたすら周りを見渡しては東京で暮らしている雰囲気と異なるところを発見しようと、映画そっちのけで周りの地元の人の様子を窺っていました。

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2006年6月27日 (火)

日比谷三信ビルにアメリカあり!

Img_3184 Img_3186 Img_3187 Img_3188 子供の頃のものを殆どとってあった為、ダンボールを開いても、ひとつひとつにその時代の記憶が蘇ります。この不思議な形のモノは、THREE DIMENSHON STEREO SCOPEと云うカテゴリーのモノで商品名を『VIEW MASTER』と呼びます。今から53年前の1953年に日比谷・三信ビルの一階にあったステートサイド・ストアーで父が買い求めたMADE IN U.S.Aモノで、ベークライト材で作られた、立体映像を楽しむモノです。

日比谷・三信ビルはG.H.Q本部のあった第一生命ビルから目と鼻の先と云う立地のため、噂ではありましたがアメリカ軍の物資を調達する商社が入居し、その一部は全国の闇市に物資を横流ししていたということです。(この時代の話は、きっと百瀬博教さんに語らせたら面白そうです)ですから、その後もアメリカの新しい商品が一番早く入荷する所でもあったようです。父が私のために購入したのか、自分が愉しむのに購入したかは定かではありませんが、今となっては、この時代の一番進んだ娯楽用の商品であったことを証明するモノであります。

回転リール式となっている映像スライドは、「スイス・アルプスの風景」「アラジンのランプの話」「ジャックと豆の木の話」「インドの動物」「パリの風景」「アラスカ・エスキモー」「オランダ・チュウリップ」などの微笑ましい人形を使ったものや、風景写真などが20枚ほど残っていますが、今でもその映像が鮮明なのに驚きます。又、よくぞ残っていたと感心するパンフレットもこの時代の薫りに溢れていますし、箱にいたっては、平仮名を駆使した私の手書きの跡が残っています。何でもとっておくことには功罪がありますが、こういう類のものは、時代をタイム・トリップ出来、嬉しいモノです。

惜しむ事に、この三信ビルの取り壊しも決まり、どのような形で残されるかは20050812gaikan11 20050812hall11定かではありませんが、ある時代の記憶を留めるためにも、願わくば、そのまま外も中も残してもらいたいものです。

写真提供:三信ビル保存プロジェクト

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2006年6月25日 (日)

1963年のジャンプ!

1963年(http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1963.html、)、この年、中学時代に別れを告げ、待ちに待った憧れの高校生活に希望を託している頃の写真です。この写真は、196203中学のクラス卒業アルバム委員長を任された私が、早春の寒い昼休み、クラスの全員に屋上に上がってもらい、グループ別にスナップした内のベスト・ショットです。皆のアイディアでジャンプして胡坐を組むことが決まりましたが、 偶然とはいえ、全員のバランスとコントラストが見事すぎて、今見ても自分ながら感心してしまいます。美術界にお詳しい方ならお判りと思いますが、一番右が美術評論家として、精力的に活躍されている谷川渥さんです。お菓子屋さんの社長さん・日本をf代表する会社の役員の方など、他のみなさんもそれぞれ一家を成し、現在も多方面で活躍されています。この1963年は、ケネディー暗殺が最も衝撃的な事件で、11月22日の朝早く、アメリカと初めてのテレビ中継を楽しみにしていたところに飛び込んできたスクープを、呆然としてテレビに噛り付いて見ていました。又、翌年の1964年は東京オリンピック開催の年で、首都高速の工事をはじめ、東京中をダンプカー・トラックの類が飛び回っていた威勢の良い時代でした。

高度成長の、ど真ん中・・・明と暗の出来事が入り交じる、ほんの何ヶ月か前の写真ですから、皆、屈託のない明るい気持ちにあふれたエネルギーが伝わってきます。「やらせ」の写真でしたが、偶然の納まりの見事さが、今でも私の少年時代を代表する一枚です。

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2006年6月19日 (月)

1967・スイス・ベルン

111967 919671967年に自動車雑誌の取材という名目で、ドイツ・イギリスの自動車レースの取材に同行、それが初めてのヨーロッパ旅行でした。観るもの、聞くもの、その全てがあまりにも当時の日本とかけ離れていたのでそれは毎日が新鮮で「今日は何が待っているのだろう!」、などと期待を膨らませながら旅行を続けました。

そんな中、途中に立ち寄ったスイスの首都・ベルンは中世都市の面影をしっかりと残している街で、その落ち着きと美しさにひと目惚れとなり、同行の仲間にお願いして独りで(1967年3月7日から10日間)、この街で生活することになりました。宿は駅前のスイス・フォンデューを得意とするレストランが入っているホテル(HOTEL HIRSCHEN)の、最上階の屋根裏部屋となりました。いきさつは、ベルン駅で宿を探している最中に偶然、スイス航空の方が親切に相談にのってくれ、又、更に偶然、その方の馴染みのこのレストラン・ホテルのオーナーご夫妻が通りかかり、「よかったら、私どものホテルの屋根裏部屋に来ませんか。」ということになったからなのです。

上の写真はホテルに到着してすぐ散歩に出かけたときに、下の写真、ベルン大聖堂(1421年着工・1893年完成)の尖塔の窓から撮影 した一枚です。当時、日本では一般的ではなかったドイツ製AGFA COLORのフィルムで撮影しましたが、出来上がった写真を見て、そのあまりにもナチュラルな色調に感動しました。当時、使っていた国産カラーフィルムやKODAKのフィルムには、何故かわざとらしい人為的な色調が感じられ、あまり納得していませんでしたから、AGFA COLORの35m/mカラーフィルムの底力を見せつけられました。もう、あれから40年近くアルバムに貼りっぱなしのものをスキャンしたものですが、多少の退色はあるものの、当時の雰囲気を損なっているとはいえない堅牢さで、ドイツ製品の凄さは、こんな末端の世界にも一貫していると改めて驚いています。

このベルンの街では多くのスイス人の方に親切にして戴き、又、じっくりと街の隅々を考察することも出来ました。公共建築・施設・空間から公共の什器・備品・パンフレットに至るまで、そのハード面の一貫した簡潔なデザイン・ポリシーの中に身を置きながら、たいへん居心地のよい一週間を過ごしました。又、中世の城壁を活かしながら新しい商業空間を生み出していることなども、当時の私には、たいへん刺激のある街でした。

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2006年5月 5日 (金)

へとへとの峠越え!

196306jpg 高校生になった1963年、ワンダーフォーゲル部に入部。サイクリング部門を独立した部に昇格させるために、夏休みを使い、渋川から・新鹿沢・上田・佐久・美しの森までの合宿を、行いました。全員生まれて初めての自転車によるグランド・ツーリングでしたから、、毎日いろいろな出来事に遭遇しながら、苦しくも充実した日々を過ごしました。

この写真は、群馬県と長野県の県境近くにある鳥居峠を下った時の記念写真です。今は立派な舗装道路ですが当時はご覧のような「トホホ状態の砂利道」で、仲間のほとんTorii2c1どの自転車がツーリング用の太いタイヤを装着してましたから、登り・下りともに頻繁に足元を掬われ、痛い思いを何度もいたしました。又、自動車が追い越すと、もうもうたる砂埃で、前も見えない状態となり、顔中、汗と埃にまみれました。この合宿は、毎日60キロ以上の行軍でしたので、さすがに後半は疲れも溜まり、ペースダウンしましたが何とか全員、事故・怪我もなく我家にたどり着きました。私(左から2番目)と佐々山さん(一番右側)は仲間と美しの森で解散した後、そのまま甲府で一泊して、杉並の家まで10時間近くかけて帰りました。東京までもうひと頑張りという時、高尾山の大垂水峠の石を敷き詰めた道路の振動で、歯ががたがたと鳴り、その余韻が暫く頭に残っていたのを、記憶してます。今から思えば、怖いもの知らずの元気盛んな頃です。

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2006年4月24日 (月)

久我山・神田川周辺

74b3195603 1956年、小学校3年生になる春休みの写真です。この頃は、杉並区・久我山に住んでいましたが、家のすぐ裏を神田川が流れ、細い丸太を二本,荒縄で縛ったシンプルそのまんまの橋が架かっていました。この橋を渡る時、振動でしなう様に揺れ、たいへん怖く四つん這いになってやっとのことで渡りきると、湿地帯になっていて子供にとっては、生き物が生息している興味深々な場所でした。稲の田植えが始まりますと、遊べなくなるので、この時期は犬のタローと一緒に夕方まで遊んでいました。以前にご紹介した中沢新一194701_1氏の著書「アース・ダイバー」16・17ページの地図にでている久我山と富士見ヶ丘の間の沖積層の色分けされた場所がまさに、此処です。一番上の写真を1947年の米軍高空写真で照合したのが真ん中の写真で、赤丸で囲った辺りと思います。

一番上の写真は沖積層が良く分かる写真で、今となっては貴重な一枚なのかも知れません。この写真の奥で何人かが摘み草でもしている辺りに、神田川から分かれた支流があって、ここはザリガニをはじめ、水生昆虫の宝庫でしたが、乱獲されて、私が中学生になる頃には、殆ど生息していなかったように記憶しています。

その後、1960年代後半の台風で神田川は、氾濫して、この写真の一帯はすべて、京王井の頭線の操車場となり、現在に至っています。又、神74c3195604田川もあの悪評高い護岸工事によって、すっかり排水溝なみに成り下がってしまいました。下の写真では神田川の畦道に俵を埋めて、水田の堤防の機能を果たしている様子が分かります。

今から50年前とはいえ、のどかな光景です。

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2006年4月 1日 (土)

1967・ヨーロッパ旅行

4a1967 初めてのヨーロッパ旅行のチャンスが巡ってきたのは、銀座「秀山荘」のオーナーが自動車レースの取材を雑誌社から委託され、私も便乗することになった1967年の年明け早々の時です。出発まで、あまり日にちも無く、慌しく準備に追われ、羽田をルフトハンザ航空で飛び立ちました。当時の私はインダストリアル・デザインを勉強しだした頃でしたから、デザインの本場をこの眼で見聞できるだけで、嬉しい気分でした。「秀山荘」のオーナーは、この私にヨーロッパの豊かな暮らしを見るようにと、いろいろな場所に連れてってもらいました。

この写真はスイス・ビラビェスキー場のカフェテリアで、撮っていただいた1枚で、手前の方で靴紐を直しているのが私です。この頃、私も国内の志賀高原・八方尾根のスキー場には頻繁にでかけてましたが、こういうスケールの大きいスキー場には、お目にかかれませんでした。また、日本のスキー場にある貧相な飲食メニューと違い、きちんとした様相のボーイさんが、豊富なメニューを見せてくれ、それだけで豊かさ・エンターティメントの違いを見せ付けられました。

この旅で、ヨーロッパの豊かさを身にしみて感じ、若いなりに「デザインとは形を作ることでなく、生活を豊かにすることだ。」と悟り、今日もその考えを、直そうとする気はございませんし、以前にもまして一層、その感を強くしています。

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2006年3月27日 (月)

生きがいは運動会!

613195602 この年齢(昭和22年生まれの58歳)になっても、自転車ロードレサーに乗って、年間3500km程を走ってますから、ちょっとおかしい位のスポーツ大好き親爺で、春が日に日に近づくのを楽しみにしている毎日です。

さて、上の写真は今から50年前、1956年小学校3年生の春の運動会の様子です。徒競走で一番手前を走るのが私です。この頃、野球にのめり込んで、西組のピッチャーでマウンドに立ち始めた頃です。それまでは、自分で言うのも何ですが、静かな子供で、引っ込み思案な性格でしたが、野球に目覚めて以来、極端に9241957 自分の性格、行動が積極的になって行きました。私は、今の小学校の運動会の状況が正しく把握できていませんが、この頃は勝ち負けに拘っていた時代で、小学校教育における体育の占める時間的、精神的比重は相当高いものでした。この次の年1957年、野球大会において、私は小学校創立以来初の完全試合を達成し、上級生との練習試合でも連戦連勝しました。おかしな話ですが、この頃の自信が今でも生きている上で、後ろ盾になっているように思えます。子供時代は環境が許されるのであれば、多少の無理を承知でも、知育より体育を重視していた方が、後半の人生が楽しくなるような気がいたします。

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2006年3月10日 (金)

身近にあった古代

562195502最近はどこの公園もきれいに整備され、管理も行き届いていますから、余程のことが無い限り老若男女誰でも安心して遊んだり、くつろいだりできますね。とくに子供たちの遊ぶ場所には、日本各地での事件の影響を受け、いつも父兄が付き添っている光景を近くの駒沢公園で見ていると、今の子供は安全に守られている代わりに、冒険心はもてないのも、やむを得ないと考えたりします。

この写真、今から50年前の写真で、私が小学校2年の時です。春の遠足で石神井公園に出かけた時の模様です。石神井公園は旧石器遺跡・縄文遺跡も多く発掘されてますが、この写真もおそらくその時代からずっとここにあった横穴式住居、あるいは墓の跡だったのかも知れません。舗装・敷石・芝生などで埋め尽くされている今の公園とは異なり、野性味・原始感にあふれた土がむき出しになっていて、男子生徒は小躍りして遊んだものです。この写真を見ても、なんとなくじめっとした土が、石神井が沖積低地であることを表していますね。

それにしても、腕白小僧ばかりの顔つきがこの時代を表しています。この腕白時代を経てきたからこそ、いわゆる団塊の世代は子供時代の思い出に尽きることが無いですし、今も驚くほど好奇心が強く、元気なのかも知れません。

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2006年2月15日 (水)

アメリカが憧れだった頃!

School_day102_1 私のような戦後まもない生まれの人にとって、アメリカに憧れを持ったのは、何時からなのでしょう。私は生まれてから40年以上、京王井の頭線・久我山に住んでいましたから、子供の頃は吉祥寺が一番の街で、北口マーケットに両親に連れていかれて、ここで初めてリーバイス社ジーンズ・MJB缶入コーヒー等を見ました。この頃の印象はいまだに記憶に残っていて、PX流れの商品が山積みにされていた印象が深く焼きついています。輸入品の店独特の甘い薫りも忘れられません。

小学校時代の男友達にPX関係の両親がいる同級生がいて、時々ベースボールカードハリウッド映画のブロマイドを持ってきては、自慢そうに見せてくれました。やたら光沢のある厚紙で出来ていて、本当に「欲しいなー!」と思ったものです。今ではインターネットで簡単に何でも手に入りますが、今から50年程前は、余程のことが無いと手に入らなかったものです。彼がたまに私に持ってきてくれたのが、この写真にあるようなカラフルな鉛筆でした。どんなデザインだったかは記憶に無いのですが、アメリカの空気を感じて使わずに引き出しにしまいこんで、たまに出してはじっと見ていました。今は鉛筆にもバーコードが印刷され美しさからは程遠く、おまけに各社同じようなシャーペンが席巻して、筆記具の世界も様変わりです。思い出に残る昔のものは出来る事なら捨てずにしまっておいて、懐かしさを愉しむのも良い趣味かもしれません。

アメリカ東部名門私立大学のライフスタイル・ファッションを、日本独自の解釈で一世風靡したIVY LOOKが、全国に拡がる10年以上も前。カレッジ・フォークの雄・キングストントリオの白いコットンパンツにスニーカーの恰好にしびれた10年以上前の話です。 The Kingston Trio:TOM DOOLEY

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2006年1月21日 (土)

懐かしの風景・深大寺門前

    813195602     今から50年前、小学校3年の時、東京郊外にある深大寺に遠足に行ったときの風景です。深大寺山門の石段から撮影されたものですが今はまったくこの面影はありません。この時代のあと、おそろしいほど風景が変わってしまった日本ですが、たまにこのような写真をひっぱりだしては、その時代の空気感を記憶に留めておくことは、悪くないと思っています。私の好きなブルーグラスミュージックの世界でも、今新しいセンスのミュージシャンが台頭してますが、たまに懐かしいCDを聴いたりすると気持ちが和みます。今、このプログを書きながらバックに聴こえているのはCurly Secklerの70年代の名盤のひとつと、BOMサービス(www.bomserv.com)の渡辺三郎さんが褒めたたえる「THAT OLD BOOK OF MINE」というタイトルのCDです。それにしても今日の雪は積もりそうです。

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