1922年 父の最初の水彩画。
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クロッキーは即座に対象の動きを脳裏に焼きつけ、一気に躊躇わず線で描く技法ですが、小学生には理解などできず、この絵でも、ひたすらモデルを見ながら本物に近づこうと苦労しています。
学園の正門の右にあった図画・工作アトリエはクラシックなシェーカー教徒の住まいににた建物で、冬になれば、だるまストーブをがんがん焚いてないと寒さの襲ってくる厳しい場所でした。
私は左利きですから、油絵具をつけた筆が描きにくく、筆勢がありません。モデルの北川君は穏やかな性格で、皆を笑わせる話術の主でしたが、皆がなかなか描き終わらないので、とうとう、モデルをやめてしまったという時のものです。
チェックのようなシャツを着ているのは、この頃から男子は制服の下に白いシャツ以外も認められるようになり、寒い時期には柄の入ったネルシャツが人気でしたが、せいぜい格子柄が限度で、お兄さんの派手な柄シャツを着てきたりすると、担任の先生に注意を受けるなど、まだまだ、規制は緩くなかったのです。
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1923年http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1923.html、関東大震災の起こる大正12年のデッサンですから、父は15歳の頃です。前年に全くの未経験状態で入学した川端画学校では、日々のデッサン訓練に必死に食らいついて、おどおどしたデッサンをしていたましたが、一年も経つと光の明暗の捉え方も板に付いてきた様子が分かります。
シンプルな球体の応用編としてこのリンゴのデッサンは画学生やデザインを志望する学生の必ず通らねばならないモチーフの定番でした。私も17歳の夏になると父のアトリエに呼ばれて、このリンゴのデッサンに悪戦苦闘していた頃・・・、今から47年前をふっと思い出します。
おそらく4B程度の濃い鉛筆で画いたと思うのですが、線の濃淡が修整無しで安定しています。15歳でこの出来っぷりですから、周りの画学生にはもっと卓越した腕の持主も多かったに違いありません。画家として後世に名を成す方々と一緒に、デッサンに終始していた父の姿がこのリンゴからも沸々としてきます。
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父は戦後になって、どういった成り行きか分からないのですが、出版編纂に精を出すことなり、30年近く画家として絵筆を握ることもなかったのです。その間、編纂の間を遣い、古今東西の絵画から芸術全般にいたる思想や技法の分析・解析、さらに時代の趨勢と未来の予兆などに没頭し、大学ノートやスケッチブックにその記録を書き続けたのです。この記録は一人の男の紆余曲折な道程の読物としても面白いのですが、何しろノート、スクラップ帖、スケッチブックを総計すると250冊を超えるため、保管にも苦慮しています。
このスケッチは、1960年代にのめりこんでいたモディリアーニに関する一連の中の一ページですが、独特な人物像に対する観点が添えられています。この頃、私は父を見ていて、「人のことなどより、自分の好きな絵でも描けばよいのに・・・」、と思いたくもなりましたが、ある決意をもって絵筆を離れたのですから、好きな画家の分析などに没頭せざるを得なかった父の気持ちがこの年になって、ようやく分かるような気がしてきました。
さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima は毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。
タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)
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川端画学校の洋画部で毎日、藤島武二の指導のもと、デッサンやスケッチの特訓を受けた父が遺したものを観ると、ようやくスケッチにも自信がもてるような雰囲気になってきました。
この鉛筆スケッチは2B以上の濃い芯で画かれ、かなり擦れていますが、大正末期の宵闇の雰囲気が伝わってきます。14歳から15歳の頃と思われますから、川端画学校に入学し2、3年経過した頃です。
路面電車の灯り、電柱の灯りが闇夜の中に浮んでいていますが、周辺は現在とは比べものにならない暗さであったのですから、却って、美しい町並みが微妙なコントラストを通して、闇の色を醸しだしています。厳しい藤島武二の指導のお蔭か、闇にうごめく人々の姿も的確に捉えていて、15歳前後の少年の絵とは思えない完成度であります。
この2年後に、父は世界を席捲していた当時の前衛芸術運動の流れに自ら飛び込み、絵画修業も疎かになっていきます。
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江戸川乱歩の『少年探偵団』を読むことが大流行だった小学校時代、今から54年前ですが、杉並区久我山に住んでいた私は、文中にしばしば登場する「とある麻布のお屋敷で・・・」というフレーズが妙に頭から離れず、遠く離れた麻布という町はいつも怪人二重面相が出没する事件が起こっている町なのか・・・、などと空想ばかりが膨らんでいました。
さて、画家を目指すよう祖父に勧められ、明治学院から川端画学校に転校した14歳頃の父は、1922年当時住んでいた麻布飯倉片町界隈(現・麻布狸穴町)のスケッチを数点遺しましたが、この画学生なりたての拙い画面からも、江戸川乱歩の云う麻布の不気味な雰囲気が伝わってきます。切通しをコンクリートで固めた先には小高い山があり、景色が明るく広がっていますが此処が何処なのか想像力だけは広がります。
父が写生でよく歩いていたという外苑東通りは、飯倉片町から六本木交差点までが都内でも屈指の尾根道で、まだ高いビルもほとんどなかった時代は四方がよく見渡せたようですから、まったく裏づけはないのですが、直感的には住まいのすぐそばにある植木坂から望む六本木方面、さもなければ、鳥居坂から望む麻布十番方面では・・・、と思うのです。
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戦前の父が絵画修業に通っていた川端画学校は、現在の小石川伝通院のそばにあり、そこまで市電で飯倉片町(現在の麻布狸穴町・植木坂そば)から通っていました。
日本画家・川端玉章が起こしたこの画学校は日本画部と洋画部に分かれ、父が選択した洋画部の指導者は藤島武二でした。厳しいデッサンに明け暮れ、藤島武二から体育会なみの罵声を浴びつつ、修業に明け暮れていたその頃、おそらく初めて使い出した水彩絵具で描いたのが遠くに国会議事堂を望むスケッチです。描いた場所は、兄弟や寡の父と一緒に暮らしていた麻布の家から坂を上った尾根道である、現在の外務省公館辺りです。当時の父はまだ16歳位で、2年前、兄と一緒に絵画修業を始めた頃ですから、自分で自分の人生がどうなっていくかなど・・・、考える余裕など見出せなかった時機です。まだまだ、水彩の筆さばきも初心者そのものです。国会議事堂は1920年の着工で完成が1937年ですから、このお馴染みの屋根は建設中でしょうか。
ところが、間もなくこの時代の趨勢か、村山知義らの新しい芸術運動に感化され、純真素朴な少年は、一気に「マヴォ」http://www.sainet.or.jp/~junkk/mavo.htm になびいていくのです。
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父を描いたA3サイズのクロッキーがスクラップ帖から出てきたのですが、これを描いた頃の記憶がうっすらと残っています。スクラップの前後から推測して1957年(昭和32年)だと思います。
まだ十歳でしたが、筆に墨汁をつけて描いたのは父の「お前もやってみろ・・・」という画策に便乗したのかも知れません。眉間に大仏のような●が見えますが、これは墨を垂らしてしまった結果でありますが偶然とはいえナイスな場所に垂れてしまったものですね・・・。
この頃の父は出版編纂に日々没頭していたので、顔つきにも、それなりの厳しさがあって、その雰囲気がよく出ています。爽というサインを左下に記してますが、左利きでしたから筆勢をコントロールできず、まったく、かたちになっていません。
神田川に面した北向きの広いアトリエは、出版編纂の仕事に追われていたため古書店のような山積みの本や、送られてくる資料の類が重なり合い、子供が悪戯するには絶好の場所でありましたから、この鬱陶しくも面白い空間の中で父を観ながら描いたのです。
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1957年、小学校4年生の夏に父が木炭で描いたクロッキーが、手付かずの荷物から出て来ました。
板張りのリビングにあったソファーは、戦後の混沌としていた時代に荻窪の旧家が家財道具を売るということとなり、その話を聞きつけた久我山の地主さん父も出向いて購入したというものです。構造は楢材の木組のためたいへんな重さで、知り合いの材木屋に頼んでトラックで運んで貰ったとのことでした。この場所に鎮座して以来、ほぼ40以上、一度も移動しなかったつわものです。
紆余曲折していた戦前と違い、戦後間もなく出版編纂の仕事が始まり、徐々に多忙となり、自分で本業と考えていた絵を描くことが覚束なくなり、手の運動を鈍らせまいと、頻繁に手じかのもののスケッチの類を書き溜めていたのです。それでも、生涯に私を描いたのはたったの一枚、それも、簡単なクロッキーだけというのも、妙なはなしではあります。
出版編纂から解放され、父が本格的に絵を描くようになるのは1970年頃ですから、その間はひたすらスケッチと雑誌のスクラップ、そして自分の芸術探求模索の手立てとして、芸術・哲学・世相などを日記に付けていたのです。
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