2011年12月12日 (月)

alpshima 最後のブログです。

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突然なのですが、1996年1月より始めたブログも本日の記事を以ってディスク容量が許容量に達したため、アドレスを変更せざるを得なくなりました。

新しいアドレスはhttp://alpensmile.cocolog-nifty.com となります。尚、タイトルはalpshimaからalpshima 2に変ります。デザイン・内容などはこれまでと殆ど変更無しの、相変わらず路線で参りますので、皆様のご愛読をお待ちしています。

これまで2520にも亘る記事を書き続けてこられたのも、皆さんのコメントを含め、特に、昭和30年代の記録・記憶に関わる話にご興味のある方々が多く、その期待に少しでも応えようと、かなり私小説的内容ばかりでありましたが、自分の記録として記憶のある内にやってしまおうという気概が、そうさせたのかも知れません。今後は、これまでの『ほとんど毎日更新』に努めようと思ってますが、徐々にペースダウンとなることををご承知の上、今後も変らぬお付き合いを宜しくお願いいたします。

永い間、alpshima をご贔屓くださり、まことにありがとうございました。

 

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2011年12月 8日 (木)

父の挿絵 1928年

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父が20歳の頃、立野信之氏の「少年時代」の挿絵として雑誌『線旗』に掲載されたものです。

国会図書館で調べてコピーしたものですから、オリジナルとは違いあるはずですが、当時の国家管理体制に反旗を翻した青春時代の少ない証です。この翌年、官権に睨まれた父は、密かに敦賀港からウラジオストックを経由し、ベルリンに渡り彼の地でデザイン・建築・医学・舞台に関わる新時代の潮流をいち早く吸収しまくったものの、興味旺盛な外人と異なる日本人の狭い視野に嫌気がさしていたようであります。ドイツに渡る前、鬱積した精神の荒ぶる気持ちがこの些細な挿絵にも的確に表れています。

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2011年12月 6日 (火)

1949 神保町

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写真:木村伊兵衛

1965年頃、雑誌MEN'S CLUBに頻繁に登場した、【平和堂靴店】が小川町にあって、バイトで溜めたお金を握り、コインローファーとチェッカーブーツを買うのが当時のトラッド系学生のお約束でありました。すぐ近くの楽器の老舗【カワセ】は、今も昔も入りにくい店ですが、ウインドーにはマーティンのギター、オスカーシュミットのオートハープなど、高価・稀少な楽器がこれでもかといわんばかりに、こちらを見据えていました。小川町交差点をニコライ堂に向かうと、【ハーモニー】というマニアックなレコード屋があって、ここには、Folkwaysの民族音楽やブルーグラス音楽の類が置かれていました。頑固そうな店主は試聴をことごとく嫌い、店内には明治生まれらしい文体の、『断り書』が墨痕鮮やかな縦書きで張られてありました。

神田には、こと左様な拘りの店や店主が点在していて、そこで見聞することも多く、まさに『書を捨て街に出よ』の、ぴったり時代でありました。今や、一時の勢いはないものの、スポーツ業界を中心に店が軒を連なってますが、どこもノウハウ知らずの店員ばかりで団栗の背比べでしょうか。拘りの客は、わざわざ白山通り裏の【サカイヤスポーツ】まで出向いています。此処は安心して相談できる経験豊富なベテランさんが多いからです。

さて、昭和24年の木村伊兵衛さんの神保町の写真には、頑固そうな主の多そうな書店が連なっているように観えます。明治大学の校舎はこう観えたのですか・・・。本を探す都合上、どうしても下から目線ばかりで街を散策しがちですから、俯瞰した神田界隈の写真は新発見をはじめ、珍しいですよね・・・。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年11月30日 (水)

池上の夕暮れ

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昭和3年(1928年)に作られた版画としか分かりませんが、実に沈む太陽の寂しさが感じられる一枚です。

作家は分かりませんが、腕の立つ職人肌の人物でしょう。逆光に辛うじて認識できる畑の茶褐色の色彩が上等ですし、作業を急ぐ近在農家の人の位置がみごとな納まりです。農作物が分かりませんから時季もあいまいですが、経験的にこの画のもつ空気感からして晩夏から早秋の頃でしょう。池上のどのあたりか分かりませんが、本門寺に近い気配が何とはなしに感じるのであります。

さて、お知らせですが、このブログのディスク容量がオーバーとなる、本年12月12日をもって、alpshima毎日連載の記事が完了いたします。現在、記事のストックがいっぱいとなり、 alpshima にタイムリーな記事を書き込みできなくなりましたので、今からでも新らしいアドレス http://alpensmile.cocolog-nifty.com/ のブログを、併読ください。

タイトルも alpshima 2 といたしました。タイムリーなできごと・散策日記などを書き込みますので、時々クリックしてみてください。何とか、ほぼ毎日の書き込みをしたいと思います。12月12日までの alpshima と併読していただけますよう、宜しくお願いいたします。(このお知らせは、今後のブログで随時記載いたします。)

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2011年11月 2日 (水)

1950年代 東北陸中海岸

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1950年代前半に父が東北地方に、出版の仕事で取材旅行をした際、撮影したスナップです。

父のメモにはカメラはライカと記されています。このほかにも素晴らしいスナップ、とくに構図のもつ力が訴えてくる写真が残されていて、この一連の写真がどのような資料として有効活用したかは計りかねますが、純粋に、素晴らしい時代の息吹が写し込まれています。

場所の明記もなく、ここが何処なのかわかりませんが、1950年代の別のノートの記録から推察し、陸中海岸地方であることは間違いありません。Googleから空中検索すると大船渡湾という可能性が大なのですが・・・。

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2011年11月 1日 (火)

茶入れなのですが・・・。

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『初花肩衛』

日本に伝来する以前は楊貴妃の油壺であったとも。足利義政から村田珠光の門人の鳥居引拙の所持となり、大文字屋疋田宗観を経て織田信長の所有となった。天正5年(1577年)、信長は嫡男信忠が三位中将に昇進した祝いと家督相続の印として他10種の茶道具とともに初花を贈るが、天正10年(1582年)本能寺の変により流出。具体的な経緯は不明だが松平親宅の所有となる。

その後、徳川家康に献上され、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い戦勝祝いに豊臣秀吉へ贈られる。このことは千宗易が島井宗室へ宛てた書状に書いている。(この時の使者が石川数正であり、これが石川数正出奔事件に繋がる。)初花を手に入れた秀吉は大阪城初の茶会を始め、たびたび大茶会にこれを飾った。秀吉は初花を使用して見せることで、自分が織田政権の後継者だと周囲に示そうとしたのだと考えられる。天正15年(1587年)、九州征伐により楢柴肩衝も秋月種実から秀吉の手に渡り、天下三肩衝が秀吉の元に揃う。

秀吉の臨終により宇喜多秀家へ相続されるが、秀家が関ヶ原の戦いに敗れたため再び家康の手に渡る。大坂の陣で戦功のあった家康の孫・松平忠直(次男・結城秀康の子)に恩賞として与えられたが(褒美に領地を貰えなかった事に不満を持ち初花を打ち砕いたという話もあるが、初花が現存しているので作り話と考えられる。)忠直改易時に将軍家に戻った。(忠直の死亡後に行方不明になり元禄11年(1689年)に元越前家にあった初花を松平備中守が献上したとも。)

現在は国の重要文化財に指定され、東京の徳川記念財団に保管されている。

付加価値とは上記のような所以を云うのでしょうが、止まらない物欲魂の輩がこの茶入れを求めた経緯は凄まじいのひとことです。、時代背景がそうさせたのか、八百万の神をこれに求めたのか計り知れないとはいえ、数奇なものの頂点でしょうね。徳川家に渡った以後、流出しなかったことが奇跡であり、救われます。

この初花肩衛の数奇な流れはひとまずこれで・・・。何を以って、将軍から武将まで躍起になった追い求めたのか・・・。先ずは、釉薬と炎の成せる偶然の景色でしょう。流れと溜めの濃淡の加減は手の平サイズだからこそ凝縮され、この形姿が、唯一無二の美の象徴として君臨したのでしょう。

普通の瓶の大きさであれば、単なる民芸品の類ですよ・・・。

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2011年10月31日 (月)

石塀の目地から。

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玉川通りと用賀中町通りが交差する用賀一丁目信号をボルボのショールームに沿って上ると綺麗寂びの世界が突如、現われます。

何の変哲もない石塀の目地から途切れることなく水分が湧き出ているのでしょうか。経年変化物件でも、かなり美形であります。この裏は立正佼成会で東條英機邸跡でもあり、何か因縁めいたことでもなければよいのですが・・・。

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2011年10月26日 (水)

鳳凰雲・火炎雲

1189597091_photo1 このような夕日に輝く雲を何と呼べばよいのでしょう!。

あえて鳳凰雲、あるいは火炎雲とでも呼んでしまいたくなるような、奇跡的な夕日と雲とのアンサンブルの瞬間を写したショットです。

日本では先ずお目にかかることないのでしょうが、この素晴らしい光景が撮影されたハワイでは、よくこの様な光景を見ることが出来るのであれば、羨ましいとしか言いようがありません。

写真でさえこの迫力ですから、実際の光り輝くゴールドの部分など、それは神懸りといっても過言でないシーンであったでしょう。

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2011年10月 7日 (金)

トレーラーハウスの経年変化

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1960年代から一生懸命、ご主人のアウトドアー好きに付き合わされ、アメリカ全土は勿論、カナダから南米まで出かけていったこんんのトレーラーハウスも、やっと落ち着いてご主人の御宅の横に鎮座しています。日本は島国ですから、さほどこのタイプで生活をしながら旅行する文化は育たなかったのですが、アメリカでは開拓魂のDNAが根付いていて、今も、カントリーロードでは、見かける光景です。

引退したにも関わらず、このいい味を出したトレーラーハウスは、日本ならば移動図書館あたりに落ち着くのでしょうが、ご主人の生活空間の一つとして継続しています。その昔にご主人の思いつきで塗り手繰ったペンキも時を経て、いい按配の風合を出し、この空間ではご主人の趣味であるバンド演奏などをやっているのかも知れません。所ジョージ好みのPONKOCHIKKU物件の中でも上等な部類であります。

本場アメリカのブルーグラスフェスティバルではこのトレーラーハウスが会場周辺を埋め尽くし、有名プレィヤーを招き入れたジャムセッションが日毎夜毎、続くのです。http://www.youtube.com/watch?v=OfglyqcJj3c

その他、このイメージに合う曲を・・・。http://www.youtube.com/watch?v=1TD_pSeNelU http://www.youtube.com/watch?v=Jk1nw4Uoxig

トレーラーハウスとはまったく関係ないのですが、アメリカ内陸の典型的アメリカンの風俗の分かるフェスティバルです。この層がアメリカを支えているのですから、ちょっと辛いものがありますが・・・。 http://www.youtube.com/watch?v=qKdC0uqjb_Y&feature=fvsr

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2011年9月12日 (月)

里山の魅力。

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水彩画:安野光雅

ヒマラヤほど厳しくなく、ウラヤマほど寂しくなく、その中間とでも申しましょうか・・・、サトヤマ(里山)の魅力は、1960年代中頃までは多摩丘陵など都心から近場でも存分に楽しむことが出来、自転車の魅力にはまりだした頃は、週末になるとこの界隈を走るのが病みつきとなってしまいました。多摩地区の四季折々の風景の違いを、この水彩画のような道を走りながら享受していた時代は、今となっては稀少で貴重な体験でありました。

鶴川街道を矢野口から黒川方面、或い高石方面に抜ける途中は、まだ時代劇のロケに相応しい環境が存在していて、実際、出くわした事もありました。今はその面影が皆無ですが、自転車の愉しみである寄り道・回り道を謳歌できるロケーションに恵まれていた地域であり、この道の先はどう展開していくのかスリル半分で走っていたので、磁石と五万分の一白地図が必須アイテムでありました。とくに秋たけなわの頃は、冷たい風を受けながら走っていると至るところから落葉の焚き火が柔らかな白煙を上げ、秋の薫りが顔面を抜けていきました。さらに、少し足を延ばして王禅寺界隈に来ると、その先はまだ見知らぬ現在の青葉区となり、迷い込みそうな雰囲気があって、そそくさと久我山に引き返していました。

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