2011年12月 7日 (水)

明治初期 三つ又(中洲)永代

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Photo_2隅田川での舟遊びが本格的に行われだしたのは、江戸に幕府が開かれて後のこと。諸大名が船に屋根をつけ、遊女を伴って酒をくみ交わしつつ涼をとったのが始まりだ。3代将軍家光の頃には随分と盛んであったようだ。明暦3年(1657)明暦の大火、いわゆる振紬火事で江戸は全くの焼野原になり、盛んだった舟遊びも一時姿を消した。しかし、その後の江戸の復興、発展ぶりは素晴らしく、17世紀後半(万治・寛文・延宝年間)には、大名、旗本、町人をとわず、しだいに贅沢な生活に走るほどの繁栄ぶりだった。
 なかでも、暑い夏、大名たちの贅沢は隅田川にとどめをさすといわれたほど豪華であった。町人も武士の気風をうけて闊達になり、もうけた金を投げうって大がかりな舟遊びをする者が少なくなかった。舟の借り賃が1日5両したというのに平気で隅田川にのり出し、隅田川が舟で埋まるほどの盛況を呈していたという。

明治10年頃に描かれた井上安治の版画は雪景色でありますから、上記の解説がピンと来ませんが、中央に見られる中州は三つ又という呼び方で、庶民の夏の納涼たまり場として、たいそう賑わっていた場所です。遠くの永代橋は明治30年に日本初の鋼鉄橋梁となったものの、関東大震災で壊れ、大正15年に蘇り、ほぼ現在まで威容を保っています。描かれた頃はそうでもなかったのでしょうが、この地域も徐々に近代ビルが立ち並び、穀物倉庫なども賄い切れないのか、何棟も並びだします。下の写真の撮影データは明治8年に完成した洋式木製橋の様子ですが、鋼鉄の永代橋が出来る明治30年より以前の開放感というか開けっ広げもご機嫌な光景です。

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2011年12月 5日 (月)

愛宕山からの絶景

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この開放感には、誇張しすぎでは・・・、などと疑うほど驚きますが、実際も殆ど変らなかったようです。明治初期の愛宕山は東京湾からの風通しのよい絶景スポットだったでしょうから、あの厳しい階段を上って見渡せる360度の絶景は、人気が高かったそうです。

遠くの水平線からは早朝の朝日も気持ちよく拝め、その後光もありがたい輝きを放っていたに違いないのです。

井上安治らしい画趣は、平凡な中にも幕末から明治となり風俗もすっかり変った目まぐるしさが滲みでています。

尚、この版画よりも少し後の1904年に海軍兵学校の気球から撮影した写真を重ねると、いっそう臨場感がありますね。因みにこの写真の左手奥の欝蒼とした山が愛宕山です。

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2011年12月 4日 (日)

北斎の富士

2 天保2年(1831年)の富嶽三六景・三島から望む富士山は、葛飾北斎自ら相当の過剰な表現サービスに終始しています。

かたや、安藤広重のセンスはさっぱりとしながらも焦点を絞ったりとアートディレクターの職能をフル回転してますが、北斎は職人としての絵師に拘ったのか、バランス感覚に当たり外れが多いのです。

この画面の下から湧き上がる雲の表現などは日本人離れして、仏画の絵師のようにぐねぐねと、かき回しています。ついでに調子に乗りすぎたのか、樹齢数百年であろう大木の幹の表現にも描きすぎが乗り移り、サッパリとした景色はどこにもないという状態です。唯一、幹の径を測っているのか、幹の隙間に入ろうとしてるのか、旅人の興味津々が読み取れるのが救いであります・・・。

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2011年12月 3日 (土)

この世界も深いですねえ。

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お茶の世界もいつの頃からか、利休の考えも及ばないほどの広がりと奥行きを追求して、自由気ままにお茶を嗜んでいた数寄者の皆さんも、出る幕などないといってm引っ込み思案になってしまいそうであります。

抹茶を入れる茶器ひとつにしても、簡素美な肌のモノから蒔絵の究極と呼ばれるほどの審美性の高いモノまで、豊富な品物が全国に点在しています。さらに、茶器とおなじ価値を持つものとして珍重される仕覆http://verdure.tyanoyu.net/sihuku.html とよばれる袋の世界も遠くシルクロードのファブリックストーリーをもPhoto_2 包み込んで、ますますこの小宇宙を銀河のように壮大なものに展化していくようです。

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2011年12月 1日 (木)

戦前の一橋界隈 松本竣介 『市内風景』1941年

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昭和16年に描かれた、神田一ツ橋・如水会館の裏側です。この作品の寂寥感には凄みがあります。時代は世界から孤立し、満州事変以来、長く軍部と外務省が対外政策でダブルスタンダード化した結果、戦争に突入した年です。

松本竣介という日本洋画史の宝が、東京の各地を歩いて描いた中の一枚ですが、実際の光景を踏まえたうえで、一気に飛躍し、何処にもない世界に誘う感性は、誰も描いたことのない独自な視線です。

エドワード・ホッパーと同様、都市生活の孤独感・虚無感をみごとに捉えていて、画面に引き込まれてしまい、虜となってしまいます。1950年代まで、東京都心も複雑な町の薫りが其処彼処にあって、私は、鉄の錆臭さだけが今も嗅覚として残っています。

このほかに神田界隈を描いた作品がありますが、松本竣介ならではの技術の確かさと現実から飛躍する光景の構成力は、今も新鮮であります。

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2011年11月29日 (火)

木曾海道六拾九次 洗馬

Photo 分かり易い上、広重お得意のデフォルメ・省略化・単純化などの藝術性を混ぜない、叙情性てんこ盛りの作品です。映画のスチール写真を観ているような完璧さがあり、ここに表された全てのモチーフが相互に干渉せず、絶妙な位置を保っています。

水平線・斜線・船人の角度など、構図的には相当計算されつくされた苦心がうかがえるものの、この空気感満載な情景に見入ってしまえば、そんなことどうでもよい・・・のでありますし、空と川に展開する藍色のトーンがたまらないほど豊かなNIPPONを表現してくれます。

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2011年11月28日 (月)

那智の滝

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写真:藤代冥砂

日本の滝は、信仰の聖地と関わることが多く、その中でも熊野信仰と深く関わる那智の滝 http://www.youtube.com/watch?v=nPmWJMcPb8k はその荘厳さと圧倒的美しさで誰もが素晴らしさを認めています。背景となる岩盤・古代からの原始林との対比など、神の成せる偶然性としか云いようのない構成を一度はこの目で観てみたいのですが、まだ実現すらしていません。熊野古道を走破したある方は、「神のご加護を感じざるを得ないできごとがあった」などと仰っていて、今も多くの古道参りをする人々が絶えないのも、納得であります。それにしても、この名瀑の垂直の美しさはみごととしか云い様がありませんね・・・。

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2011年11月25日 (金)

中央通り 京橋と日本橋間 1882

1882 1969年まで走っていた中央通の路面電車も、開通した頃は鉄道馬車だったのか、この錦絵にも、人々の移りゆく風俗が詳細に書き込まれています。商家建築の一軒一軒の違いもかなりのリアリティを以って、考現学的な視座から捉えているようでもあります。ここにも、郵便配達人が独特のポーズで走っていて、実際に、ぶつかったりして大喧嘩になったことも多々あったようです。時代の趨勢か、郵便配達人には旧武士階層出身者も少なからず居て、顧客第一などという発想よりも、ついつい過ぎし日の栄華の習慣か、中には「無礼者!!!」などと叫んでしまった配達人も居たのです。

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2011年11月23日 (水)

雪晴れの国立第一銀行

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日本橋川の鎧橋から臨む、国立第一銀行の風景は大雪のようです・・・、眩しいですね。記録写真にもこの建物は多く残されてますが、版画の趣きの方がリアリティがあります。日本の城を模した建築の上にそびえる尖塔の様式を何と呼ぶのでしょうか・・・。真っ白な世界に浮かび上がるビリジャン色が、当時は斬新な色彩に映ったでしょうね。

井上安治の師匠である小林清親の作品ですが、井上の作品と比較するのも何ですが、明治という時代感覚の表現は井上に軍配が挙がります。

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2011年11月22日 (火)

江戸橋 明治初期

5 日本橋はこの川を右手に進んだ処ですが、井上安治は幕末から明治初期の目まぐるしい変遷を目の前にしながらも、懐旧の情景を留めようとしながら、記録的要素をも見逃していないのが、職人ばかりの版画界において貴重なのであります。

江戸橋の欄干から僅かに見える三角屋根は三菱倉庫群ですが、この景観に不釣合いな倉庫を皮肉っぽく描いているところなど、なかなかのやり手でもあります。正面の富士山は、実際、このスケールで観えていたのかも知れませんね。陽も富士山に沈み、一気に夕闇となり、ガス燈や料亭の明かりが灯された時間帯の表現が、堪りません。

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